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教室主義茜色派1

 俺がこの慧嶺けいれい高校に進学してから、およそが二週間が経過した。

 何やら大層な雰囲気を醸し出す名前の学校だが、生憎とその由来を俺は知らない。もっとも母校命名の来歴を知らないという事実が、今後俺の人生においてなんらかの伏線として機能するわけもないと思うので、今後も知らないままで生き続けると思われる。

 一応、地元ではそれなりのレベルとして認知されている、私立の進学校ではあるのだが。情報としては、それくらいを知っておけば充分だろう。


 その日。四月二十七日、水曜日。

 一日で最後のコマとなる数学Ⅰの授業を終え、クラスの中はすでに放課後モードだ。開放的な雰囲気が、溢れんばかりに充満している。

 進学校ということで多少身構えてはいたのだが、さすがに入学早々授業について行けなくなるということもないようで。そのことにとりあえずの安心を覚えつつ、俺は教科書類やノートなどを学校指定のブルーのバッグへ仕舞っていく。

 そこで、声を掛けられた。


「おーい、末吉ぃ」

「ん、中藤か。どうした?」

 身支度の手は止めないまま、教室の前方から俺を呼んだクラスメイトに声を投げ返す。

 中藤なかふじ一騎いっきは、こちらへ向かってひらひら手を振ると、

「いやね。実は放課後、クラスのみんなでカラオケに行かないかって話になって」

 と、そんなことを言った。

 中藤は割に斜に構え、厭世的な発言をすることが多い奴だった。とはいえ妙にすれているというわけでもなく、案外これで人当たりのいい男だ。

 クラス全体がそろそろ打ち解けてきた頃を見計らい、中藤自身が計画したのかもしれない。

 彼はのっそりとしたようで、しかし鈍いわけでは決してない奇妙な動きで首を傾げてこちらへ訊いた。

「予定が何もなければ、一緒に末吉も来ねえ?」

 二秒だけ迷い、しかし俺は答えた。

「悪い。今日はもう、予定が入ってるんだ」

「そっか。まあ急だったから仕方ねえか」

 中藤は割にあっさりと引いた。

 付け加えるように、

「近い内に、クラス全体で集まろう、みたいな企画もあるから。そっちには出てくれよ?」

「ああ。まあ、早めに予定を教えてくれると助かるが」

「そうなー。じゃ、また明日ー」

 ひらひらと手を振ると中藤は、男女問わない何人かのグループで連れ立って教室を出て行った。今回は、少人数で集まろうというイベントだったらしい。

 それに誘われるレベルなら、まあ、高校生活の滑り出しとしては悪くないだろう。そんな思考を漫然と回しながら、俺は帰り支度を整えた。

 まだ疎らに人影のある教室から、滑り出るように立ち去った。


 けれどまだ帰路には就かない。

 放課を迎え、俺はまず向かったのは図書室だった。

 この学校の図書室は、お世辞にも蔵書が豊富とは言えない。校舎の隅に位置することも相まってか、入学以来いつ行っても来客はまばらである。

 影と埃が重なるだけの陰鬱なその空間だが、しかし俺は、そんなところが案外嫌いではなかった。とはいえ、本を借りたことはなかったけれど。

 

 こと俺は、《放課後の教室》という空間を好いていた。

 だから、俺にとってこの図書室に訪れることは、教室からクラスメイトがいなくなるまでの時間潰しという面が大きい。

 部活動があまり盛んではない学校だが、放課後、特段の理由もなく教室に居残って駄弁っているという連中は少なくなかった。

 しかし俺は、他人の姿がある場所を《放課後の教室》とは呼ばない。


 放課後の教室という空間は、ある種の異界であると俺は思う。

 人気ひとけが絶え、茜色の静寂に包まれた教室は、人波と喧騒に占められていたそれまでの時間とはまったく別の様相を呈している。

 まるで世界から切り離されてしまったかのような。

 世界の中に、自分独りが取り残されたかのような。

 けれどどこか、柔らかな靄に包まれているような。

 ……なんて、そんな表現を選んではチープに響くけれど、実際この場所に立ってみれば強く感じてしまうことだった。

 別段、特別な感傷があるわけではないのだけれど。

 ただなんとなく、そんな放課後の教室という空間を好ましく思うという、それだけの話。

 心地のいい停滞と孤立。その独特の雰囲気こそを俺は愛していた。


 けれど――。

 それはあくまで、自分が独りである場合に限られている。

 たとえば他のクラスメイトや、あるいは教師、あるいは見回りの警備員でも同じだが、この脆い異界は他者の介在によって呆気なく崩れ去ってしまうものでもあった。

 群れて戯れるなど言語道断。

 ――放課後の教室という場所は、誰にも邪魔されず自由で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ。独りで、静かで、豊かで……。

 とか、なんとか。まあ、某グルメ漫画の名言風に言えば、そんな感じである。

 同世代に通じるネタかどうか、若干疑問ではあるが。


 さておき。

 およそ一時間を図書室で潰したのち、俺は自分の教室へと戻ることにする。

 慧嶺はあまり部活動が活発な学校ではない。時刻も午後四時を過ぎると、校内の人口密度は途端に低くなっていく。無論、数少ない部活動所属者や、補習授業の受講者、あるいは放課後の時間を自主勉強に充てる生徒など、残っている者は残っているのだが。それも二年や三年が主なようだ。

 昼間とは打って変わって静かな廊下に、自分の足音だけがかつこつと反響する。そんな些細が、楽しかった。

 C棟二階の図書室から、A棟一階の自教室まではゆっくり歩いて三分の道のりだ。直線距離ではそう離れていないにもかかわらず、構造上どうしてもB棟の階段を経由しなければ辿り着けない造りのため、移動には些か時間を食われる。

 設備が多いと言えば聞こえはいいが、私立高校の悪い面が出ていると生徒からは不評らしい。

 個人的には、そんな遠回りも好むところなのだが。

 案外、この学校は俺向きなのだろうか。


 そんなことを徒然考えている内に、一組の教室へと到着した。

 教室前側の扉の窓から、ちらとだけ中を覗いた。

 たぶん、誰もいない。

 予想通りで、かつ期待通りの状況だった。誰もいない教室は、俺にとっての正義である。

 思わずテンションが上がってしまったとしても、それは無理からぬことだと思う。

 俺は完全に油断したまま、スライド式の扉を引いた。

 同時に、

「ジャスティース!」

 なんて、そんな妄言を吐き散らしながら。


 ――中には一人の女子生徒がいた。


「…………」瞬間、俺は完全に硬直してしまった。

 それ以外のリアクションなど、取れるはずもなかった。

 中には誰もいないと、始めからそう思い込んでいたためだろう。壁際後方で、ロッカーを整理していたその姿に、俺はまったく気がつかなかったのだ。

 動揺は、けれどその女子生徒も同様らしい。

 などと下らない韻を踏んでしまうくらいには俺もどうかしていたが、その女子生徒の方もまた、目を丸くしていたのは事実だった。

 まあ、無理からぬ話ではあろう。

 いきなり入ってきたクラスメイトが、謎の言葉を吐き叫べば、そりゃ驚くくらいはする。俺だってするだろうから、たぶん彼女だってしたに違いない。

 泣いてしまいたい気分だった。


「お……おっす!」

 俺は言った。何事もなかったというように。

 強引に誤魔化しきるつもりだった。

 ぱちくりと目をしばたたく、栗色の髪をした少女。まだクラスメイト全員の顔と名前を一致させてはいなかったが、幸い、彼女の名前は覚えていた。

「こんな時間まで居残りか――森瀬?」

「……ッス」

 名を呼ばれ、彼女は再起動を果たした。

 森瀬双里。

 先日の席替えにおいて、俺の隣席になった女子だった。その繋がりで、何回か会話を交わしたことがある。

 俺の言葉に、森瀬は苦笑交じりに肩を竦めると、

「末吉こそ、こんな時間に現れるとは思ってなかったッスよ。部活見学か何かッスか?」

「いや、単に図書室で時間潰してただけ」

「そうなんスか?」きょとん、とばかりに森瀬は首を傾げる。「その割には、なにやらテンション高かったみたいッスけど」

 全然誤魔化せていなかった。

「……すまん、それは忘れてくれ」

「じゃあそうするッス」

 森瀬は悪戯げに笑んで言った。どうやらからかわれたらしい。

 俺は無言で、責めるように森瀬をめた。

 森瀬は「悪かったッスよ」と心にもないだろう謝罪をすると、今度は本当に疑問だという顔をして俺に向き直る。

「でも、だったら何をしてたんスか?」

「別に、何ってこともないけど」

 なんとなく、言いよどんでしまう。

 放課後の教室の空気が好きだなんて嗜好は、あまり理解されるものではないだろうから。

 ましてそのために時間を潰していたなど。

 俺は答えずに訊ね返す。

「森瀬こそ、結局何してたんだよ」

「別に」と森瀬。「何ってこともないッスよ」

 同じ言葉を返されてしまう。

 平行線だ。これ以上先には進まない。

 俺は「わかったよ」と降参を示すように諸手を挙げた。


「俺はまあ……なんつーか、好きなんだよ」

「あたしのことがッスか? はあ、まあ、それは光栄ッスけど」

「違えよ!」

 反射的に叫ぶ俺。

「でもごめんなさいッス」

「告白もしてないのに振られた!」

「まずはお友達からで」

「そりゃどうも……」

 他にどう言えというのか。俺は疲れに溜息をつく。

 森瀬はさも面白そうに腹を抱え、

「いや、末吉って意外と面白い突っ込みするッスね。ボケ甲斐があるッスよ」

 そう言って親指を立ててきた。

 褒めているつもりなのだろうか、この女は。


「で、結局何が好きなんスか」

 問う森瀬に、俺は正直に告げてやる。

「放課後の教室が」

「は?」

「人気のない茜色の教室って、なんだか落ち着くと思わないか?」

「あたしはむしろ逆って気がするッスけどねえ……急き立てられるような」

「なんだ、気が合わないな」

「嬉しそうに言わないでもらえるッスか」

 噛み合っているのか、いないのか、なんだかわからない会話だった。

 どうにも掴みどころない奴だと思わされる。

「で、お前はどうしてここにいるんだ?」

「だから、なんとなくッスよ」

「……おい」

 俺は答えたぞ、と視線で不平を訴える。

 だが森瀬は困ったように頬を掻き、

「そんな目で見られてもッスねえ……事実そうなんだから、仕方ないじゃないッスか」

「そうか。……つまらん」

「そう言われましても」

「同好の士が見つかったのかと、少しだけ期待してたのに」

「放課後の教室フェチなんて、たぶん世界にも末吉くらいのものッスよ……」

「なんと、絶望的だな」

「あたしはむしろ、日本の未来に希望が湧いたッス」

「ははは」てめえ。

 目を細めて睨んでやったが、森瀬は一向に堪えなかった。

 まあ、話しやすい奴ではある。


 ――ともあれ。

 それが俺と森瀬のファーストコンタクト。

 およそ八か月に渡って続く、奇妙にして微妙な密会の。


 その、最初の一回である。

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