プロローグ
「――じゃあ、放課後、いつもの場所で」
彼女の言葉に俺は頷き、それで会話は終わりだった。
十二月十日。
期末考査を終え、冬休みとクリスマスを目前に控えた日のことだった。
俺たちにとって《いつもの場所》とは、即ち放課後の教室を指す言葉だ。
別段、特別な場所ではない。特別な意味があるわけでもない。単に放課後、居残っていることが多かったというだけの話だ。
俺と、彼女の、ふたりだけで。
それだけで、通じるものがあった。
この日。
俺は午前中に交わした約束の通り、放課後になってから教室へ向かうことにする。
以前からそうではあったのだが、特に高校へ進学して以降、放課後の教室という空間は俺にとってのベストプレイスとなっていた。
それには人気のないのがいい。
六限の授業を終えたあと、俺は一度教室から出て、クラスメイトたちが三々五々それぞれの活動へと向かっていくのを別の場所で待っている。ほとんど日課の行動だ。
今日は、なんとなく図書室へ向かった。
そこで時間を潰す。
やがて、冬空がその色合いを変え始めるくらいの時間になった。俺は図書室を出て、自らの所属する一年一組の教室へと戻った。
がらり、と僅かな音を立てて、スライド式の扉を開く。
この頃は、陽が落ちるのも早くなってきていた。朱色がその濃さを増して、放課後の教室は半ば茜の中に落ちている。
そんな場所で、彼女は俺を待っていた。
窓際最後列の指定席で。何をするでもなく、椅子に腰かけ、ただ窓から景色を眺めている彼女。
それは、いつかも見た光景だった。
「ちょっと遅かったかな、森瀬」
ごめん、と俺は謝意を籠めてそう告げる。
その声で、彼女――森瀬双里はゆっくりとこちらに向き直った。
果たしてどのような感情からか、彼女はにわかに相好を崩すと、
「んにゃ、別に時間の指定はしてないッスからね」
森瀬独特の、その喋り方。
空気へすっと融けるようなそれを、俺は初めから気に入っていた。
「それに、あたしと末吉の放課後は、いつだってこんなもんだったじゃないッスか」
苦笑交じりの森瀬の言葉に、俺もまた笑みを零しながら答える。
「確かにな。違いない」
「待ち合わせるって、なんか妙な気分になるッスよね」
「慣れないよな」
俺と森瀬の放課後は、いつだってこんな風に始まっていた。
茜の落ちる静かな教室で。示し合わせるでもなく自然に。申し合わせるでもなく普通に。
――たとえそれが、今日を最後に終わってしまうのだとしても。
俺たちが、今さら何かを変える理由なんてなかった。
がらり、と森瀬は左手を伸ばし、ふと静かに窓を開いた。
途端、冬の寒気が強い勢いで教室の中へ吹き込んでくる。俺は思わず身体を震わせるが、森瀬には堪えた様子もない。
ただ彼女のふわりとした栗色の髪が、風に襲われて乱れるようになびいていた。
何も言わず、ただ窓の外を眺めている彼女。
教室前側の扉から入った俺には、それでも彼女の横顔が見える。
見透かすような丸い瞳と、すっきり通った目鼻立ち。決して目立つタイプではないにもかかわらず、森瀬双里はクラスの男子生徒から一定の人気を獲得していた。
「……風邪ひくぞ」と俺は言う。
森瀬は振り返り、どこか悲しげに目を細めると、
「そうッスね」
と言った。
言葉はそこで終わらず、彼女は続けて俺へ静かに告げる。
「――だから、本題に入るッスよ」
「……聞くよ」
と、俺もまた騒がずに受ける。
元より俺は、そのために来たのだから。
話があるから――。
そう言われて、俺はここへ、この場所へと呼び出されていた。
思い返してみれば。
といって、本当は忘れたことなんてないのだけれど、俺と彼女が初めて会話をした場所はこの教室だった。四月のことだ。
以来、俺と森瀬はたびたびこの教室で過ごすことになる。本当に、なんとなくのままで。今まで一度だって、教室で待ち合わせたことなんてなかった。
やがて俺たちは、ひとつの約束をこの場所で交わす。
あるいは密約とも言うべき、ひとつの契りを。
だからこそ。
それを破棄するための場所もまた、この教室が相応しいのだろう。
そして。
意を決したように、森瀬は言った。
「――別れようッス」
決別の文句を。
彼女はその舌に乗せた。
「あたしはもう、末吉に付き合えない。……いや、違うッスね。あたしはもうこれ以上、末吉を付き合わせるわけにはいかないんスよ」
「……そうか」
俺は頷く。
食い下がるとか、拒否するとか、そんな考えは一切浮かばなかった。
予想していた通りの言葉を、予定していた通りに受け入れる。
――それだけで、俺と森瀬はもう《恋人》関係ではなくなるのだ。
「そうか、って――」森瀬は憮然とした表情を作る。「切り出したあたしが言うのもあれッスけど、冷たいッスね、末吉。もっとこう、なんかないんスか? 言うこととか、やることとか」
「なんかって?」
「悪口とか、罵倒とか。もっと言えば暴力とか」
「俺が、お前にか」
「そうッスよ。罵られても殴られても……殺されたって、あたしにゃ文句は言えません」
その言葉に、俺はただ小さくかぶりを振った。
「するわけないだろう、そんなこと」
「腹いせに抱いてくれてもいいッスけど」
「それこそしねえ」
「そうッスね」と、森瀬は。「末吉なら、そう言うと思ってたッス」
ただ、小さく苦笑した。
そして会話が止まる。
一分か、いや十分か、あるいは一時間が経っただろうか。
実際はともかく、体感としてはそれくらいの空白を経て、不意に森瀬は目を細めた。
何かを思い出すような、何かを慈しむような。そんな表情で、彼女は零すように、か細い動きで口を開くと、
「あたしが言うことじゃないとは思うんスけど……」
「なんだよ」
「――どうして、こうなっちゃったんスかね」
「……さあな。わからん」
と言いつつも、俺はきっと、森瀬と同じ回想をしているのだろう。
思い出すのは、いつだって放課後の教室だった。
――四月。
俺と森瀬が、初めて関わったあの日のことを。
俺は今だって、はっきりと覚えているのだから――。