終着駅のない切符
長編小説 ステンドグラスの彼方に 制作中です
列車は、いつも同じ時刻に通る。
虹色Caféの裏手を走る古い線路には、駅名も行き先も記されていない一両の列車が、日に一度だけ姿を見せる。煤けた車体に窓は三つ。乗客の顔が見えたことはなく、どこから来て、どこへ向かうのかを知る者もいなかった。
少なくとも、ライトはそう聞かされていた。
「本当に誰も乗ってないのか?」
店の裏口で、ライトは線路を見つめながら尋ねた。
「さあね。乗っているかもしれないし、乗っていないかもしれない」
ルクルは手すりに腰掛け、足をぶらぶらさせていた。赤と白のフリルが風に揺れるたび、銀白色の髪に飾られた小さな花も、かすかに震えた。
「見たことないのかよ」
「あるよ」
「じゃあ、どっちなんだ」
「どっちだろね~」
ライトは顔をしかめた。
この店の連中は、どうしてこうも素直に答えないのだろう。
店内から、食器の触れ合う音が聞こえてきた。ルファが朝の支度をしているのだろう。アディは市場へ買い出しに出かけている。
ライトは線路の先を見た。
錆びた二本の鉄が、草の間を縫って遠くへ伸びている。その向こうは低い丘に遮られ、何も見えない。
「……あの列車に乗ったら、どこへ行けるんだろうな」
「行きたいところがあるの?」
ルクルが尋ねた。
ライトは答えなかった。
行きたいところがあるわけではない。
ただ、父親がどこかで生きているのなら、その場所へ続く道が一本くらいあってもいいはずだと思った。
ルクルはそんなライトを横目で見ていたが、やがて手すりから飛び降りた。
「今日は、お客さんが来るよ」
「いつものことだろ」
「うん。でも、ちょっと面白いお客さん」
そう言って、ルクルは店の中へ戻っていった。
ライトはもう一度、線路の向こうを見た。
風が草を倒し、二本の鉄の間を駆け抜けていった。
*
昼を少し過ぎた頃、虹色Caféの扉が勢いよく開いた。
「すみません!」
飛び込んできたのは、まだ若い女性だった。
肩まで伸びた赤茶色の髪を乱雑に束ね、厚手の上着には乾いた泥がついている。片方の手袋は破れ、額には小さな擦り傷があった。
彼女は店内を見回し、カウンターに立つルファを見つけると、まっすぐ歩み寄った。
「ここに、魔女がいるって聞きました」
「そう呼ばれることはありますね」
ルファは穏やかに答えた。
「まずは、お掛けになりませんか。お怪我もされているようですし」
「怪我はいいんです。それより、列車を止める方法を知りませんか?」
ルファの手が止まった。
窓辺にいたルクルが、ゆっくりと顔を上げる。
「……列車?」
「裏の線路を走っている、あの一両です」
女性は息を整えようとしたが、焦りが先に立つのか、言葉が途切れがちだった。
「私はセラといいます。北の街で、駅の保線をしていました。三日前、あの列車を見つけたんです。廃線になったはずの線路を、何事もなかったみたいに走っていて……」
「座って話そう」
アディが奥から椅子を運んできた。
大きな体を屈め、セラの前に置く。
「まず水だ。話は逃げねえ」
セラは一瞬ためらったが、ようやく腰を下ろした。
水を飲み干すと、上着の内側から古い切符を取り出した。
厚い紙に、色褪せた金文字が押されている。
行き先の欄には、何も書かれていなかった。
「父のものです」
セラは切符をテーブルに置いた。
「父は、昔、鉄道の運転士でした。あの路線が廃止される最後の日まで、列車を走らせていたんです」
彼女は切符の端を指で押さえた。
「でも、最後の運行の日、父は帰ってきませんでした」
ライトは顔を上げた。
「事故だったのか?」
「分かりません。列車そのものが、途中の駅から先で消えたんです」
店内が静かになった。
セラは続けた。
「事故の記録も、遺体も見つからなかった。線路はその後すぐに閉鎖されて、誰も調べようとしなかったんです」
「それで、あの列車を追ってきたのね」
ルファが言った。
「はい」
セラは強く頷いた。
「父が乗っているかもしれない。そう思ったら、じっとしていられなくて」
ライトは切符を見つめた。
行き先のない切符。
帰ってこなかった父親。
その二つの言葉が、胸の奥で妙に重なった。
「……列車を止めて、どうするつもりなんだ?」
ライトが尋ねた。
セラは少し驚いたように彼を見た。
「乗ります」
「どこへ行くか分からないのに?」
「分からないから、乗るんです」
即答だった。
その声には迷いがなかった。
けれどライトには、彼女が切符を押さえる指先が、わずかに震えているのが見えた。
ルファはしばらく考え込んでいた。
やがて、セラに尋ねた。
「お父様が最後に運転された列車について、何か覚えていることはありますか?」
「私はまだ子供でしたから、詳しくは……」
セラは目を伏せた。
「ただ、父は出発する前に、私に言ったんです。『終点まで行ったら、必ず帰る』って」
彼女は唇を噛んだ。
「私はずっと、その言葉を信じていました」
ルファは静かに頷いた。
「それなら、確かめに行きましょうか」
セラが顔を上げた。
「え?」
「列車が来るまで、まだ少し時間があります」
ルファは立ち上がった。
「ただし、危険なことはしないと約束してください。走っている列車に飛び乗るようなことは、絶対に」
セラは勢いよく頷いた。
その横で、ルクルが小さく息を吐いた。
「……やっぱり、そうなるんだ」
誰にも聞こえないほどの声だった。
*
線路は、近くで見ると想像以上に傷んでいた。
枕木はところどころ腐り、犬釘の抜けた箇所もある。雑草に埋もれた分岐器は錆びつき、長い間動かされた形跡がなかった。
セラは線路脇にしゃがみ込み、慣れた手つきで鉄の表面を調べた。
「……おかしい」
「何が?」
ライトが尋ねる。
「この線路、列車が通れる状態じゃない」
セラはレールの継ぎ目を指した。
「ここなんて、隙間が広がりすぎてる。普通なら脱線してもおかしくないのに」
アディが腕を組んだ。
「だが、毎日通ってるぞ」
「だから、おかしいんです」
セラは立ち上がり、線路の先を見た。
「……あの列車は、本当にここを走っているんでしょうか」
風が吹いた。
草の葉が擦れ合い、乾いた音を立てた。
ルファは線路の上に手をかざした。指先から淡い光がこぼれ、空気の中に細い輪を描く。
輪はゆっくりと広がり、線路の上を滑るように進んだ。
やがて、数歩先でふっと消えた。
「……なるほど」
ルファが呟いた。
「何か分かったのか?」
ライトが尋ねる。
「この線路には、古い魔法の名残があるみたい」
「魔法?」
「ええ。今ある場所と、別の場所を一時的につなぐためのもの。昔は、長い距離を移動するために使われていたと聞いたことがあるわ」
セラが息を呑んだ。
「それじゃあ、あの列車は……」
「どこか別の場所を走っているのかもしれないわ」
ルファは慎重に答えた。
「ただ、どこにつながっているのかまでは分かりません」
セラは切符を握り締めた。
「それでも、父に会える可能性はあるんですよね」
「可能性がないとは言えません。でも、あるとも言い切れません」
ルファは彼女を見た。
「それでも、確かめたいですか?」
「……はい」
セラは答えた。
その声は、店で聞いたときよりも小さかった。
けれど、今度は震えていなかった。
ルクルは少し離れた場所で、線路の先を眺めていた。
ライトが近づくと、ルクルは振り返らずに言った。
「ねえ、ライト」
「何だよ」
「もし、あの列車に乗ったら、お父さんに会えるって言われたら、どうする?」
ライトは答えに詰まった。
目の前の線路が、急に遠くまで続いているように見えた。
「……乗ると思う」
「怖くない?」
「怖いけど」
ライトは少し考えた。
「会えるかもしれないなら、行ってみたい」
ルクルは小さく笑った。
「そっか」
その声には、どこか寂しさが混じっていた。
*
夕方が近づくと、空の色が変わり始めた。
西の雲が薄く染まり、線路の上に長い影が伸びている。
遠くから、金属の擦れるような音が聞こえた。
最初は風の音に紛れるほど小さかったが、やがて規則正しい響きへと変わっていく。
カタン、カタン。
カタン、カタン。
セラが顔を上げた。
「……来る」
線路の向こうに、黒い影が現れた。
煤けた一両の列車。
窓は三つ。行き先表示はなく、前照灯だけが薄暗い空気の中で白く光っている。
列車は音もなく近づいてきた。
セラが一歩、線路へ踏み出した。
「おい!」
アディが声を上げた。
セラは止まらなかった。
「父さん!」
彼女は叫んだ。
「父さん、いるんでしょう!」
列車は速度を落とさない。
ライトは反射的に走り出した。
セラの腕を掴もうとしたが、距離が足りない。
その瞬間、指先が熱くなった。
あの日、金色のカップを包んだ光が、胸の奥から一気に溢れ出す。
細い糸のような光が、ライトの手から伸びた。
一本、二本。
幾筋もの光が空気を裂き、セラの体を包み込む。
「うわっ!」
ライトは思わず声を上げた。
光の糸はセラを引き戻し、線路の外へ投げ出した。
同時に、列車が目の前を通り過ぎていく。風が巻き起こり、草が一斉になびいた。
ライトは身体を地に打ち付け、顔をしかめた。
心臓が激しく打っている。
「……今の」
セラが呆然と呟いた。
アディが駆け寄り、彼女の肩を掴んだ。
「馬鹿野郎! 死ぬ気か!」
セラは何も言えなかった。
ライトは自分の手を見つめた。
光はすでに消えていた。
だが、指先にはまだ、熱が残っている。
ルファが近づいてきた。
「ライト……」
彼女の表情には、驚きと、何かを確かめるような色が浮かんでいた。
そのとき、列車が止まった。
誰も声を上げなかった。
列車は、数十歩先の線路の上で、静かに停車していた。
車体の側面に、細い扉がある。
その扉が、ゆっくりと開いた。
中は暗かった。
セラが立ち上がった。
「……父さん?」
返事はない。
代わりに、車内の奥から小さな音が聞こえた。
カチリ。
何かの金具が触れ合うような音。
セラは息を呑んだ。
「……あの音」
彼女は震える声で言った。
「父が、いつも持っていた時計の音です」
アディが彼女の腕を掴んだ。
「待て。何があるか分からん」
セラは振り返った。
その顔には、恐怖と期待が入り混じっていた。
「……分かっています」
彼女は言った。
「でも、私はずっと、ここまで来たかったんです」
ルファは列車を見つめた。
そして、静かに首を振った。
「今は、乗らない方がいいと思います」
セラの表情が曇った。
「どうしてですか?」
「この列車が、あなたのお父様のいた場所につながっているとは限りません。それに、一度乗ったら戻ってこられる保証もない」
ルファは続けた。
「確かめたい気持ちは分かります。でも、何も分からないまま飛び込むことだけが、前へ進む方法ではありません」
セラは唇を噛んだ。
開いた扉の向こうを見つめる。
暗闇の奥から、再び音がした。
カチリ。
カチリ。
その音は、彼女を呼んでいるようにも聞こえた。
セラは一歩、前へ出た。
だが、そこで足を止めた。
握り締めた切符が、手の中で折れ曲がる。
「……私は」
声が震えた。
「父さんに、会いたい」
誰も答えなかった。
「でも……」
セラはゆっくりと目を閉じた。
「会えるかもしれないっていうだけで、何も考えずに飛び込んだら、父さんは怒ると思います」
アディの手が、少し緩んだ。
セラは目を開けた。
列車の扉を見つめたまま、深く息を吸う。
「……今日は、乗りません」
その言葉が終わると同時に、列車の扉が静かに閉まった。
車体がわずかに揺れる。
やがて、列車はゆっくりと動き出した。
誰も追いかけなかった。
黒い車体は夕暮れの中へ遠ざかり、丘の向こうへ消えていった。
残された線路には、風だけが吹いていた。
*
虹色Caféへ戻る頃には、空に最初の星が見え始めていた。
セラは窓辺の席に座り、温かいお茶を両手で包んでいた。
「……情けないですね」
彼女は小さく笑った。
「父に会いたくて、ここまで来たのに。結局、何もできませんでした」
「そんなことはないですよ」
ルファは向かいの椅子に座った。
「あなたは、今日、自分で決めたんです」
「……乗らないことを?」
「ええ」
ルファは頷いた。
「進むことは、いつも前へ走ることとは限りません。立ち止まることも、引き返すことも、自分で選んだなら、そこから道が始まることもあります」
セラは切符を見つめた。
古い紙には、父がつけたのか、小さな折り目が残っていた。
「……私、ずっと思っていたんです」
彼女は静かに話し始めた。
「父が帰ってこなかったのは、私が待っていなかったからじゃないかって」
ルファは黙って聞いていた。
「最後の日、私は父を見送りに行かなかったんです。友達と遊ぶ約束があって。父は『帰ったら話を聞かせてくれ』って笑っていたのに、私はろくに返事もしなかった」
セラの声が震えた。
「それが最後になりました」
彼女は切符を握り締めた。
「だから、今度こそ、私が迎えに行かなきゃいけないって……ずっと、そう思っていたんです」
ルファは少し間を置いて、尋ねた。
「お父様は、あなたが迎えに来なかったことを、責める方でしたか?」
セラは首を横に振った。
「……いいえ」
涙が一粒、切符の上に落ちた。
「そんな人じゃ、ありませんでした」
ルファは頷いた。
「なら、きっと、あなたが無事でいることを願っていると思います」
セラは顔を覆った。
しばらくの間、店内には彼女の小さな泣き声だけが響いていた。
ライトは少し離れた席で、その様子を見つめていた。
父親に会いたいという気持ちは、分かる。
けれど、会えないことを自分のせいにしてしまう気持ちは、まだよく分からなかった。
自分は、父親の顔さえ知らない。
もし会えたら、何を言うだろう。
どうして今まで来なかったのかと責めるだろうか。
それとも、何も言えなくなるのだろうか。
考えているうちに、ルクルが隣へ座った。
「ねえ、ライト」
「……何だよ」
「さっきの、すごかったね」
ライトは自分の手を見た。
「……俺にも、何が起きたのか分からない」
「でも、助けたいって思ったんでしょ」
「そりゃ、あんなの見たら……」
「うん」
ルクルは微笑んだ。
「それで、動いたんだね」
ライトは何も言わなかった。
窓の外では、古い線路が夜の闇に沈み始めていた。
どこへ続くのか分からない道。
それでも、確かにどこかへつながっている道。
ライトは、もう一度、自分の指先を見つめた。
*
翌朝、セラは北の街へ帰ることにした。
出発の前、彼女はルファに深く頭を下げた。
「ありがとうございました。私、もう一度、父のことを調べてみます」
「無理はしないでくださいね」
「はい」
セラは少し笑った。
「今度は、ちゃんと準備をしてから来ます」
彼女は古い切符を胸元にしまい、店を出ていった。
その背中には、昨日までの焦りとは違う、静かな強さがあった。
ライトは入口の前で、彼女を見送った。
「……また来るかな」
「来るんじゃない?」
ルクルが隣で答えた。
「行き先が分からないなら、調べればいい。線路が壊れているなら、直せばいい。列車が止まらないなら、止める方法を考えればいい」
ライトはルクルを見た。
「……お前、今日はまともなこと言うな」
「失礼だなあ」
ルクルは笑った。
そのとき、遠くで列車の汽笛が鳴った。
ライトは線路の向こうを見た。
昨日と同じ、古い鉄の道。
けれど、そこに見える景色は、少しだけ違っていた。
進むことは、ただ走ることじゃない。
どこへ行きたいのかを、自分で決めること。
ライトはそう思った。
そして、いつか自分も、父親のいる場所へ辿り着くのだと、心の中で静かに決めた。
その隣で、ルクルは誰にも気づかれないように、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……イレギュラー、か」
小さな呟きは、朝の風に消えた。




