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終着駅のない切符

作者: 羽月楓
掲載日:2026/10/11

長編小説 ステンドグラスの彼方に 制作中です



 列車は、いつも同じ時刻に通る。


 虹色Caféの裏手を走る古い線路には、駅名も行き先も記されていない一両の列車が、日に一度だけ姿を見せる。煤けた車体に窓は三つ。乗客の顔が見えたことはなく、どこから来て、どこへ向かうのかを知る者もいなかった。


 少なくとも、ライトはそう聞かされていた。


「本当に誰も乗ってないのか?」


 店の裏口で、ライトは線路を見つめながら尋ねた。


「さあね。乗っているかもしれないし、乗っていないかもしれない」


 ルクルは手すりに腰掛け、足をぶらぶらさせていた。赤と白のフリルが風に揺れるたび、銀白色の髪に飾られた小さな花も、かすかに震えた。


「見たことないのかよ」

「あるよ」

「じゃあ、どっちなんだ」

「どっちだろね~」


 ライトは顔をしかめた。

 この店の連中は、どうしてこうも素直に答えないのだろう。


 店内から、食器の触れ合う音が聞こえてきた。ルファが朝の支度をしているのだろう。アディは市場へ買い出しに出かけている。


 ライトは線路の先を見た。


 錆びた二本の鉄が、草の間を縫って遠くへ伸びている。その向こうは低い丘に遮られ、何も見えない。


「……あの列車に乗ったら、どこへ行けるんだろうな」

「行きたいところがあるの?」


 ルクルが尋ねた。

 ライトは答えなかった。

 行きたいところがあるわけではない。


 ただ、父親がどこかで生きているのなら、その場所へ続く道が一本くらいあってもいいはずだと思った。


 ルクルはそんなライトを横目で見ていたが、やがて手すりから飛び降りた。


「今日は、お客さんが来るよ」

「いつものことだろ」

「うん。でも、ちょっと面白いお客さん」


 そう言って、ルクルは店の中へ戻っていった。


 ライトはもう一度、線路の向こうを見た。


 風が草を倒し、二本の鉄の間を駆け抜けていった。


 *


 昼を少し過ぎた頃、虹色Caféの扉が勢いよく開いた。


「すみません!」


 飛び込んできたのは、まだ若い女性だった。


 肩まで伸びた赤茶色の髪を乱雑に束ね、厚手の上着には乾いた泥がついている。片方の手袋は破れ、額には小さな擦り傷があった。


 彼女は店内を見回し、カウンターに立つルファを見つけると、まっすぐ歩み寄った。


「ここに、魔女がいるって聞きました」

「そう呼ばれることはありますね」


 ルファは穏やかに答えた。


「まずは、お掛けになりませんか。お怪我もされているようですし」

「怪我はいいんです。それより、列車を止める方法を知りませんか?」


 ルファの手が止まった。

 窓辺にいたルクルが、ゆっくりと顔を上げる。


「……列車?」

「裏の線路を走っている、あの一両です」


 女性は息を整えようとしたが、焦りが先に立つのか、言葉が途切れがちだった。


「私はセラといいます。北の街で、駅の保線をしていました。三日前、あの列車を見つけたんです。廃線になったはずの線路を、何事もなかったみたいに走っていて……」

「座って話そう」


 アディが奥から椅子を運んできた。

 大きな体を屈め、セラの前に置く。


「まず水だ。話は逃げねえ」


 セラは一瞬ためらったが、ようやく腰を下ろした。

 水を飲み干すと、上着の内側から古い切符を取り出した。


 厚い紙に、色褪せた金文字が押されている。

 行き先の欄には、何も書かれていなかった。


「父のものです」


 セラは切符をテーブルに置いた。


「父は、昔、鉄道の運転士でした。あの路線が廃止される最後の日まで、列車を走らせていたんです」


 彼女は切符の端を指で押さえた。


「でも、最後の運行の日、父は帰ってきませんでした」


 ライトは顔を上げた。


「事故だったのか?」

「分かりません。列車そのものが、途中の駅から先で消えたんです」


 店内が静かになった。

 セラは続けた。


「事故の記録も、遺体も見つからなかった。線路はその後すぐに閉鎖されて、誰も調べようとしなかったんです」

「それで、あの列車を追ってきたのね」


 ルファが言った。


「はい」


 セラは強く頷いた。


「父が乗っているかもしれない。そう思ったら、じっとしていられなくて」


 ライトは切符を見つめた。

 

 行き先のない切符。

 帰ってこなかった父親。


 その二つの言葉が、胸の奥で妙に重なった。


「……列車を止めて、どうするつもりなんだ?」


 ライトが尋ねた。

 セラは少し驚いたように彼を見た。


「乗ります」

「どこへ行くか分からないのに?」

「分からないから、乗るんです」


 即答だった。

 その声には迷いがなかった。


 けれどライトには、彼女が切符を押さえる指先が、わずかに震えているのが見えた。


 ルファはしばらく考え込んでいた。

 やがて、セラに尋ねた。


「お父様が最後に運転された列車について、何か覚えていることはありますか?」


「私はまだ子供でしたから、詳しくは……」


 セラは目を伏せた。


「ただ、父は出発する前に、私に言ったんです。『終点まで行ったら、必ず帰る』って」


 彼女は唇を噛んだ。


「私はずっと、その言葉を信じていました」


 ルファは静かに頷いた。


「それなら、確かめに行きましょうか」


 セラが顔を上げた。


「え?」

「列車が来るまで、まだ少し時間があります」


 ルファは立ち上がった。


「ただし、危険なことはしないと約束してください。走っている列車に飛び乗るようなことは、絶対に」


 セラは勢いよく頷いた。

 その横で、ルクルが小さく息を吐いた。


「……やっぱり、そうなるんだ」


 誰にも聞こえないほどの声だった。


 *


 線路は、近くで見ると想像以上に傷んでいた。


 枕木はところどころ腐り、犬釘の抜けた箇所もある。雑草に埋もれた分岐器は錆びつき、長い間動かされた形跡がなかった。


 セラは線路脇にしゃがみ込み、慣れた手つきで鉄の表面を調べた。


「……おかしい」

「何が?」


 ライトが尋ねる。


「この線路、列車が通れる状態じゃない」


 セラはレールの継ぎ目を指した。


「ここなんて、隙間が広がりすぎてる。普通なら脱線してもおかしくないのに」


 アディが腕を組んだ。


「だが、毎日通ってるぞ」

「だから、おかしいんです」


 セラは立ち上がり、線路の先を見た。


「……あの列車は、本当にここを走っているんでしょうか」


 風が吹いた。


 草の葉が擦れ合い、乾いた音を立てた。


 ルファは線路の上に手をかざした。指先から淡い光がこぼれ、空気の中に細い輪を描く。

 輪はゆっくりと広がり、線路の上を滑るように進んだ。


 やがて、数歩先でふっと消えた。


「……なるほど」


 ルファが呟いた。


「何か分かったのか?」


 ライトが尋ねる。


「この線路には、古い魔法の名残があるみたい」

「魔法?」

「ええ。今ある場所と、別の場所を一時的につなぐためのもの。昔は、長い距離を移動するために使われていたと聞いたことがあるわ」


 セラが息を呑んだ。


「それじゃあ、あの列車は……」

「どこか別の場所を走っているのかもしれないわ」


 ルファは慎重に答えた。


「ただ、どこにつながっているのかまでは分かりません」


 セラは切符を握り締めた。


「それでも、父に会える可能性はあるんですよね」

「可能性がないとは言えません。でも、あるとも言い切れません」


 ルファは彼女を見た。


「それでも、確かめたいですか?」

「……はい」


 セラは答えた。

 その声は、店で聞いたときよりも小さかった。

 けれど、今度は震えていなかった。


 ルクルは少し離れた場所で、線路の先を眺めていた。

 ライトが近づくと、ルクルは振り返らずに言った。


「ねえ、ライト」

「何だよ」

「もし、あの列車に乗ったら、お父さんに会えるって言われたら、どうする?」


 ライトは答えに詰まった。


 目の前の線路が、急に遠くまで続いているように見えた。


「……乗ると思う」

「怖くない?」

「怖いけど」


 ライトは少し考えた。


「会えるかもしれないなら、行ってみたい」


 ルクルは小さく笑った。


「そっか」


 その声には、どこか寂しさが混じっていた。


 *


 夕方が近づくと、空の色が変わり始めた。

 西の雲が薄く染まり、線路の上に長い影が伸びている。


 遠くから、金属の擦れるような音が聞こえた。

 最初は風の音に紛れるほど小さかったが、やがて規則正しい響きへと変わっていく。


 カタン、カタン。

 カタン、カタン。


 セラが顔を上げた。


「……来る」


 線路の向こうに、黒い影が現れた。

 煤けた一両の列車。


 窓は三つ。行き先表示はなく、前照灯だけが薄暗い空気の中で白く光っている。


 列車は音もなく近づいてきた。


 セラが一歩、線路へ踏み出した。


「おい!」


 アディが声を上げた。

 セラは止まらなかった。


「父さん!」


 彼女は叫んだ。


「父さん、いるんでしょう!」


 列車は速度を落とさない。

 ライトは反射的に走り出した。

 セラの腕を掴もうとしたが、距離が足りない。

 

 その瞬間、指先が熱くなった。


 あの日、金色のカップを包んだ光が、胸の奥から一気に溢れ出す。

 細い糸のような光が、ライトの手から伸びた。


 一本、二本。

 幾筋もの光が空気を裂き、セラの体を包み込む。


「うわっ!」


 ライトは思わず声を上げた。

 光の糸はセラを引き戻し、線路の外へ投げ出した。


 同時に、列車が目の前を通り過ぎていく。風が巻き起こり、草が一斉になびいた。


 ライトは身体を地に打ち付け、顔をしかめた。

 心臓が激しく打っている。


「……今の」


 セラが呆然と呟いた。

 アディが駆け寄り、彼女の肩を掴んだ。


「馬鹿野郎! 死ぬ気か!」


 セラは何も言えなかった。

 

 ライトは自分の手を見つめた。

 光はすでに消えていた。

 だが、指先にはまだ、熱が残っている。


 ルファが近づいてきた。


「ライト……」


 彼女の表情には、驚きと、何かを確かめるような色が浮かんでいた。


 そのとき、列車が止まった。


 誰も声を上げなかった。

 列車は、数十歩先の線路の上で、静かに停車していた。

 

 車体の側面に、細い扉がある。

 その扉が、ゆっくりと開いた。


 中は暗かった。


 セラが立ち上がった。


「……父さん?」


 返事はない。


 代わりに、車内の奥から小さな音が聞こえた。


 カチリ。


 何かの金具が触れ合うような音。

 セラは息を呑んだ。


「……あの音」


 彼女は震える声で言った。


「父が、いつも持っていた時計の音です」


 アディが彼女の腕を掴んだ。


「待て。何があるか分からん」


 セラは振り返った。

 その顔には、恐怖と期待が入り混じっていた。


「……分かっています」


 彼女は言った。


「でも、私はずっと、ここまで来たかったんです」


 ルファは列車を見つめた。

 そして、静かに首を振った。


「今は、乗らない方がいいと思います」


 セラの表情が曇った。


「どうしてですか?」

「この列車が、あなたのお父様のいた場所につながっているとは限りません。それに、一度乗ったら戻ってこられる保証もない」


 ルファは続けた。


「確かめたい気持ちは分かります。でも、何も分からないまま飛び込むことだけが、前へ進む方法ではありません」


 セラは唇を噛んだ。

 開いた扉の向こうを見つめる。


 暗闇の奥から、再び音がした。


 カチリ。

 カチリ。


 その音は、彼女を呼んでいるようにも聞こえた。

 セラは一歩、前へ出た。


 だが、そこで足を止めた。


 握り締めた切符が、手の中で折れ曲がる。


「……私は」


 声が震えた。


「父さんに、会いたい」


 誰も答えなかった。


「でも……」


 セラはゆっくりと目を閉じた。


「会えるかもしれないっていうだけで、何も考えずに飛び込んだら、父さんは怒ると思います」


 アディの手が、少し緩んだ。

 セラは目を開けた。

 列車の扉を見つめたまま、深く息を吸う。


「……今日は、乗りません」


 その言葉が終わると同時に、列車の扉が静かに閉まった。


 車体がわずかに揺れる。

 やがて、列車はゆっくりと動き出した。

 

 誰も追いかけなかった。

 黒い車体は夕暮れの中へ遠ざかり、丘の向こうへ消えていった。


 残された線路には、風だけが吹いていた。


 *


 虹色Caféへ戻る頃には、空に最初の星が見え始めていた。


 セラは窓辺の席に座り、温かいお茶を両手で包んでいた。


「……情けないですね」


 彼女は小さく笑った。


「父に会いたくて、ここまで来たのに。結局、何もできませんでした」

「そんなことはないですよ」


 ルファは向かいの椅子に座った。


「あなたは、今日、自分で決めたんです」

「……乗らないことを?」

「ええ」


 ルファは頷いた。


「進むことは、いつも前へ走ることとは限りません。立ち止まることも、引き返すことも、自分で選んだなら、そこから道が始まることもあります」


 セラは切符を見つめた。

 古い紙には、父がつけたのか、小さな折り目が残っていた。


「……私、ずっと思っていたんです」


 彼女は静かに話し始めた。


「父が帰ってこなかったのは、私が待っていなかったからじゃないかって」


 ルファは黙って聞いていた。


「最後の日、私は父を見送りに行かなかったんです。友達と遊ぶ約束があって。父は『帰ったら話を聞かせてくれ』って笑っていたのに、私はろくに返事もしなかった」


 セラの声が震えた。


「それが最後になりました」


 彼女は切符を握り締めた。


「だから、今度こそ、私が迎えに行かなきゃいけないって……ずっと、そう思っていたんです」


 ルファは少し間を置いて、尋ねた。


「お父様は、あなたが迎えに来なかったことを、責める方でしたか?」


 セラは首を横に振った。


「……いいえ」


 涙が一粒、切符の上に落ちた。


「そんな人じゃ、ありませんでした」


 ルファは頷いた。


「なら、きっと、あなたが無事でいることを願っていると思います」


 セラは顔を覆った。

 しばらくの間、店内には彼女の小さな泣き声だけが響いていた。


 ライトは少し離れた席で、その様子を見つめていた。


 父親に会いたいという気持ちは、分かる。

 けれど、会えないことを自分のせいにしてしまう気持ちは、まだよく分からなかった。


 自分は、父親の顔さえ知らない。


 もし会えたら、何を言うだろう。


 どうして今まで来なかったのかと責めるだろうか。

 それとも、何も言えなくなるのだろうか。


 考えているうちに、ルクルが隣へ座った。


「ねえ、ライト」

「……何だよ」

「さっきの、すごかったね」


 ライトは自分の手を見た。


「……俺にも、何が起きたのか分からない」

「でも、助けたいって思ったんでしょ」

「そりゃ、あんなの見たら……」

「うん」


 ルクルは微笑んだ。


「それで、動いたんだね」


 ライトは何も言わなかった。


 窓の外では、古い線路が夜の闇に沈み始めていた。

 どこへ続くのか分からない道。

 それでも、確かにどこかへつながっている道。


 ライトは、もう一度、自分の指先を見つめた。


 *


 翌朝、セラは北の街へ帰ることにした。

 出発の前、彼女はルファに深く頭を下げた。


「ありがとうございました。私、もう一度、父のことを調べてみます」

「無理はしないでくださいね」

「はい」


 セラは少し笑った。


「今度は、ちゃんと準備をしてから来ます」


 彼女は古い切符を胸元にしまい、店を出ていった。

 その背中には、昨日までの焦りとは違う、静かな強さがあった。


 ライトは入口の前で、彼女を見送った。


「……また来るかな」

「来るんじゃない?」


 ルクルが隣で答えた。


「行き先が分からないなら、調べればいい。線路が壊れているなら、直せばいい。列車が止まらないなら、止める方法を考えればいい」


 ライトはルクルを見た。


「……お前、今日はまともなこと言うな」

「失礼だなあ」


 ルクルは笑った。


 そのとき、遠くで列車の汽笛が鳴った。

 ライトは線路の向こうを見た。

 昨日と同じ、古い鉄の道。

 けれど、そこに見える景色は、少しだけ違っていた。


 進むことは、ただ走ることじゃない。

 どこへ行きたいのかを、自分で決めること。

 ライトはそう思った。


 そして、いつか自分も、父親のいる場所へ辿り着くのだと、心の中で静かに決めた。


 その隣で、ルクルは誰にも気づかれないように、ほんの少しだけ目を伏せた。


「……イレギュラー、か」


 小さな呟きは、朝の風に消えた。


 

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