第37話 静寂の審判
【東京・有楽町駅前 選挙戦最終日】
衆議院解散総選挙の投票日を翌日に控えた、金曜日の夕暮れ。
有楽町駅前の広場には、信じられないほどの数の群衆が詰めかけていた。しかし、そこを覆っていたのは、かつての選挙戦のような熱狂的なシュプレヒコールでも、候補者の名前を連呼する耳障りなスピーカーの音でもなかった。
異様なほどの「静寂」だった。
「……信じられない。何万人もいるのに、誰一人として叫んでいない」
取材に訪れていた海外メディアの特派員が、カメラマンに向かって呆然と呟いた。
街宣車の上に立っているのは、救国暫定内閣から出馬した実務家の一人だった。彼は声を張り上げることも、大げさな身振りをすることもなく、手元の資料を見ながら淡々と事実を述べていた。
「新たな国家防衛隊の基幹システムには、民間インフラとの完全な互換性を持たせます。これにより、有事の際の補給線の切り替えにかかるタイムラグを、従来の72時間から4時間へと短縮します。防衛とは気合や理念ではなく、ロジスティクス(兵坦)と法整備の合算に過ぎません。我々は、その数値をひたすらに最適化します」
地味で、極めて専門的で、退屈ですらある演説。
しかし、群衆は一人残らず、その言葉を一言半句漏らさぬよう、水を打ったように静まり返って聞き入っていた。スマートフォンでメモを取る若者、深く頷きながら腕を組む初老の男性、真剣な眼差しで候補者を睨みつける女性たち。
彼らはもう、美辞麗句や「耳障りの良い平和論」に騙されることはない。
自分たちの命運を預けるシステム管理者として、目の前の人間が「実務的に有能か否か」だけを、冷徹な目で品定めしているのだ。
「日本人は怒っていないわけじゃない」
特派員はマイクを握り直し、カメラに向かってレポートを再開した。
「彼らは最も恐ろしい形で怒りを表現しようとしている。熱狂ではなく、極めて冷酷な『審査』として」
【全国各地・投票所】
翌日の日曜日。日本列島は静かな朝を迎えた。
全国の小学校の体育館や公民館に設けられた投票所には、開場の午前7時前から長蛇の列ができていた。
列に並ぶ人々の間に、私語はほとんどない。
誰もが身分証明書と入場券を手に、ただ粛々と自分の順番を待っている。
かつて「政治は誰がやっても同じだ」と嘯き、投票に行かなかった世代の姿が、そこには数多くあった。
国が一度機能を停止し、他国の軍靴がすぐそこまで迫ったあの数日間。
自分たちの日常を守ったのは、見えないところで法を盾にして戦った名もなき公務員たちであり、重機で壁を築いた民間人たちだった。そして、その現場の力を根底で縛り、あるいは解き放つのが「政治」なのだということを、彼らは骨の髄まで理解した。
投票箱に、薄い紙が次々と吸い込まれていく。
それは一枚一枚が、二度と国を売り渡させないための「無音の弾丸」だった。
【東京・開票センター & 首相官邸】
午後8時。投票が締め切られた瞬間のテレビ画面は、かつてないほど一方的で、ある意味で残酷な光景を映し出した。
『……開票率ゼロパーセントですが、当確が出ました。救国暫定内閣を構成する実務派・保守派の有志連合が、単独で絶対安定多数となる議席を獲得する見通しです』
画面上の日本地図が、次々と彼らのシンボルカラーに塗りつぶされていく。
一方で、かつて「自衛隊解体」を推進し、非武装を叫んでいた旧政権の議員たち、そして彼らに同調していた野党の重鎮たちは、文字通り「壊滅」していた。
「比例復活の望みすらありません。主要な親中派議員は、全員が自身の選挙区で得票率10パーセントを下回るという、歴史的な大惨敗です」
アナウンサーの声すら、その異様さに微かに震えていた。
落選した大物政治家たちの選挙事務所は、お通夜のような静けさに包まれていた。
彼らには、暴動で石を投げられることも、デモ隊に囲まれることもなかった。ただ、日本国民全員から完全に「無視」され、合法的かつ事務的に政治の舞台から消去されたのである。
同じ頃、首相官邸の閣議室。
圧勝の報を受けても、暫定内閣の代表や実務家たちの間に、万歳三唱やシャンパンの乾杯はなかった。
彼らはネクタイを緩めることもなく、すでに次々と運び込まれる法案の束と向き合っていた。
「これで、国民からの『委任状』は正式に発行されました」
代表が、積み上げられた書類の山にサイン用の万年筆を置きながら言った。
「お祭り騒ぎをしている暇はない。明日から臨時国会を召集し、国家防衛隊の予算執行と、アメリカ、台湾との新安全保障条約の批准を最速で通す。我々の仕事は、この国が二度と『奇跡』や『現場のサボタージュ』などに頼らなくても済むよう、完璧な防衛システムを構築することだ」
「承知しました。各省の事務次官には、すでに徹夜の準備をさせてあります」
元官僚の閣僚が、不敵に笑って分厚いファイルを開いた。
時計の針が深夜を回り、新しい月曜日が始まろうとしていた。
世界が刮目した「静かなる防衛国家」は、国民の冷徹な審判を経て、いよいよその真の力を世界に示すための、膨大で緻密な実務作業へと静かに突入していった。




