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旦那様、もう手遅れです。 わたしの心はずっと昔に壊れています。  作者: 渚月(なづき)


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第10話 新しい人生

人が人を名前で呼ぶとき、そこには必ず感情がある。


敬意であれ、愛情であれ、あるいは軽蔑であれ。名前を呼ぶという行為には、相手を認識し、存在を承認するという意味が含まれている。


だから、名前を呼ばれないということは、存在を認められていないということだ。


わたしはそう思って五年を生きた。


審問から一ヶ月が経っていた。


ロドルフ侯は王宮の地下牢に収監された。裁判はこれからだが、証拠が揃っている以上、結果は明白だろう。


ダリウスは公爵位を返上し、旧領の一角で蟄居となった。最後に会ったとき、彼はわたしに言った。


「すまなかった」


五年間で初めて聞いた、夫の謝罪だった。


わたしは何も答えなかった。赦すとも、赦さないとも言わなかった。ただ、頷いた。それが今のわたしにできる精一杯だった。五年間の結婚生活が、書類の上では「なかったこと」になろうとしている。けれど、わたしの中では「なかったこと」にはならない。五年間で失ったもの。壊れたもの。そして最後に見つけたもの。それらはすべて、わたしの一部になっている。記録は消せても、生きた時間は消えない。リヒトがわたしに教えてくれたことだ。


マリアンヌは実家に戻された。社交界からの追放。彼女にとっては死刑宣告に等しいだろう。けれど、命があるだけましだ。アーデルには、それすら許されなかったのだから。


フェリクスは、国境近くの町で拘束された。逃亡の途中だった。彼の裁判も、これから始まる。


すべてが動き出していた。わたしの手の中にあった小さな歯車が、やがて大きな機構を動かし、王宮全体を揺るがした。


けれど、わたし自身は――静かだった。


窓辺に座り、庭を見下ろした。冬の庭は枯れ色だが、それでも美しい。この景色をもう見ることはないだろう。不思議と寂しさはなかった。この庭を美しいと感じられるようになったのは、ここを離れることが決まってからだ。手放すものの価値は、手放す瞬間にようやくわかる。


嵐が過ぎた後の、凪の中にいた。


アーデルの部屋を最後に訪ねた。もう空っぽの部屋だ。けれど、壁にはまだ、わたしが三年前の誕生日に贈った押し花の額が掛かっていた。わたしはそれを外し、自分の荷物に入れた。これだけは持っていく。あなたがわたしを支えてくれた証を、わたしはこれからも手元に置いておく。


押し花はすみれだった。わたしが好きだと言ったのを覚えていてくれたのだ。花言葉は「誠実」。アーデルそのものだった。小さな額の裏に、彼女の文字で日付が書かれていた。わたしがこの邸に嫁いできた日の日付。あの日から、アーデルはずっとわたしを見守ってくれていた。



王太子殿下が、わたしを呼んだ。


離宮の書斎。以前と同じ場所だった。


「ネリッサ殿。新しい宰相の人選について、意見を聞きたい」


殿下がわたしを名前で呼んだ。公爵夫人でもなく、ヴェーデルの名でもなく。


「わたしに、ですか」


「あなたは証拠と手続きで戦った。感情ではなく、記録で。それは、宰相に最も必要な資質だ」


「まさか、わたしに宰相をと……」


「いいえ。あなたにはもっとふさわしい場所がある」


殿下が提示したのは、新設の役職だった。「文書監察官」。王宮に保管されるすべての公文書の正当性を監視し、権力者による改竄や隠蔽がないかを検証する。今回の事件を受けて創設されるものだと殿下は語った。


「文書監察官……」


「リヒト殿には、引き続き文書管理の実務を担ってもらう。あなたには、記録が権力に屈しない仕組みを、制度として作ってほしい」


わたしは考えた。


子爵家の娘。公爵に嫁いだだけの女。五年間、黙って微笑むことだけを求められた人間。


そのわたしが、王宮の記録を守る仕事をする。


(アーデル。あなたが聞いたら、何と言うかしら)


きっと、何も言わずに温かい茶を淹れてくれるだろう。


「お引き受けします」


殿下は頷いた。微かに、笑っていた。


書斎を出ると、回廊にリヒトがいた。


驚かなかった。彼がここにいることを、どこかで知っていた。


「聞いていた?」


「壁が薄いので」


嘘だ。この離宮の壁は厚い。彼は殿下に呼ばれていたか、自分で来たかのどちらかだ。


「新しい上司になるわけだけど」


「制度上はそうなりますね」


「嫌?」


「……嫌ではないです」


リヒトの声がわずかに上ずった。初めて聞く音だった。


わたしは笑った。声を出して笑ったのは、何年ぶりだろう。


「リヒト。一つ聞いてもいい?」


「何を」


「あなたはいつから、わたしの名前を知っていたの?」


彼は少し黙った。万年筆を指先で回す。考えているときの癖。


「閲覧申請書に署名したときです」


「それは最初の日ね」


「はい」


「でも、一度もわたしの名前を呼んでくれなかった」


リヒトの指が止まった。


長い沈黙。回廊に風が通り抜けた。石壁に反射した光が、彼の横顔を柔らかく照らしている。


「……呼んでもいいですか」


「もちろん」


「ネリッサ」


それだけだった。名前を呼んだだけだった。


けれどその声は、五年間の沈黙を埋めるのに十分だった。


わたしの目から、涙がこぼれた。壊れたはずの心から、まだ涙が出ることに驚いた。


「泣いていますよ」


「知ってる」


「ハンカチは持っていません」


「知ってる。あなたはそういう人だもの」


リヒトは少し困った顔をした。それから、ぎこちなく手を伸ばし、わたしの頬に触れた。


インクの染みが残る、冷たい指先。けれど、その触れ方は確かだった。


わたしは泣いた。声を殺さず、ただ静かに。


リヒトは何も言わず、ただそこに立っていた。わたしの涙が止まるまで、ずっと。


やがて涙が引いたとき、わたしは顔を上げた。


「ありがとう」


「礼は不要です」


「また、それを言う」


「事実ですから」


わたしたちは並んで歩き出した。王宮の回廊を、書庫局に向かって。


回廊の窓から冬の澄んだ光が差し込んでいた。二人の影が石畳の上に長く伸びている。隣を歩くリヒトの歩幅は少し大きくて、わたしは半歩遅れる。けれど、彼がほんのわずか速度を落としてくれていることに、わたしは気づいていた。


「リヒト」


「はい」


「……ありがとうね」


彼は答えなかった。けれど、歩幅がさらに少しだけ小さくなった。


途中で、ティルダが駆けてきた。


「奥様! あ、いえ……何とお呼びすれば……」


「ネリッサでいいわ、ティルダ」


ティルダの目が丸くなった。それから、満面の笑みを浮かべた。


「ネリッサ様! お茶をご用意しますね。アーデルさんに教わった淹れ方で」


ティルダが先に駆けていく。相変わらず、走ると少しつまずく。けれど、転んでも走り続ける。アーデルが育てた子だ。


書庫局の扉を開けると、馴染みのある匂いが迎えてくれた。インクと紙と、かすかな埃の気配。


わたしの新しい居場所。わたしが自分で選んだ場所。


机の上には、リヒトが用意してくれた新しい手帳が置かれていた。革表紙に、わたしの名前が刻印されている。「ネリッサ」と。彼の几帳面な文字で。


(いつの間に準備していたのだろう)


手帳を開くと、一ページ目に一行だけ書かれていた。


「記録は真実を守る。真実は人を守る」


リヒトの文字だった。この人は、言葉で伝えることが苦手なくせに、文字にすると驚くほど真っ直ぐだ。


リヒトが自分の机に向かい、万年筆を手に取った。日常に戻る。証拠を整理し、記録を守り、真実を記す。その繰り返しの中に、わたしたちの日々がある。


窓から差し込む光の中で、古い紙の匂いが微かに揺れた。


「リヒト」


「……」


「今日の茶は、ティルダが淹れるから」


「わかりました」


何でもない会話。けれど、わたしにはわかる。


わたしの心は、もう壊れてはいない。


ひびは残っている。消えはしない。けれど、ひびの間から差し込む光がある。


それは、名前を呼ぶ声に似ている。


静かで、確かで、温かい。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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こんな小説を待ってました!
>壁にはまだ、わたしが三年前の誕生日に贈った押し花の額が掛かっていた。わたしはそれを外し、自分の荷物に入れた。これだけは持っていく。あなたがわたしを支えてくれた証を、わたしはこれからも手元に置いておく…
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