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放課後倫理学  作者: 紅茶
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くたばっていしめえ

休日の公園は、家族連れとカップルで溢れかえっていた。

ベンチに並んで座る俺たちの周りにも、穏やかな秋の陽光が降り注いでいる。


俺――ケイは、読みかけの『論理哲学論考』を膝に置き、隣で文庫本に没頭している彼女を盗み見た。


ミサキだ。


長い睫毛まつげが伏せられ、ページをめくる指先は白く、華奢だ。図書室で見かける制服姿もいいが、今日のニットの私服も、悔しいがよく似合っている。


「……なぁ、ミサキ。その本、面白いか?」


俺が声をかけると、ミサキはパッと顔を上げ、花が咲くように微笑んだ。


「あ、ケイちゃん。ごめんね、夢中になっちゃって。うん、すごく面白いよ。夏目漱石の『こころ』なんだけど」


「漱石か。教科書に載ってるやつだな」


「うん。でもね、改めて読むと深いの。『先生』の孤独とか、明治の精神とか……。あ、そうだ。ケイちゃん、漱石の有名な逸話知ってる?」


ミサキは本を閉じ、少し悪戯っぽく俺を覗き込んだ。


「英語教師だった漱石が、『I love you』をどう訳したか、っていう話」


「……知ってるさ」


俺は腕組みをして、ベンチの背もたれに寄りかかった。


「『我君を愛す』じゃなくて、『月が綺麗ですね』とでも訳しておけ……だろ? 日本人は奥ゆかしいから、直接的な愛の言葉は口にしない。だから月を褒めることで愛を伝えろ、っていう文学的なレトリックだ」


「正解!」


ミサキは嬉しそうに手を叩いた。


「素敵だよねぇ。直接言わないのに、気持ちが伝わるなんて。これこそ文学の力だと思うな」


「そうか?」


俺は眉をひそめた。


「俺には非論理的に思える。哲学者ウィトゲンシュタインは言ったぞ。『語りえぬものについては、沈黙しなければならない』ってな。愛してるなら『愛してる』と定義すべきだ。月が綺麗かどうかは天文学的な事実であって、俺の感情とは因果関係がない」


俺の言葉に、ミサキはきょとんとして、それから困ったように笑った。


「ケイちゃんは、やっぱり『哲学100%』だね。情緒がないなぁ」


「情緒で飯は食えん。言葉ってのは情報を伝達するためのツールだ。『月が綺麗』と言われて『そうですか、今夜は満月ですね』と返されたらどうする? ディスコミュニケーションだろ」


「もう、そういうことじゃないの」


ミサキは少しむくれて、ベンチの上で俺の方に向き直った。


「言葉にしない『余白』があるからこそ、そこに想像力が入り込んで、より深く心が通じ合うの。全部説明しちゃったら、味気ないじゃない」


「余白、か」


俺は膝の上のウィトゲンシュタインを指先で叩いた。


「お前の言うことは、後期ウィトゲンシュタインの『言語ゲーム』に近いな。言葉の意味は辞書的な定義じゃなく、それが使われる『文脈』や『ルール』によって決まる。つまり、『月が綺麗ですね』という発言は、恋人同士という文脈の中でのみ『愛してる』という意味を持つ特殊なゲームってわけだ」


「えっと……よくわからないけど、多分そう?」


ミサキは首を傾げる。彼女の哲学知識は「則天去私(自分を捨てて自然に委ねる)」という言葉を知っている程度だ。俺の理屈にはついてきていない。


「でもね、ケイちゃん」


ミサキは俺の手の上に、自分の手をそっと重ねた。

温かい。その感触に、俺の心臓が不規則に跳ねる。


「理屈はどうでもいいの。私が言いたいのは、言葉じゃ伝えきれない気持ちがあるってこと。……例えば、今のこの気持ちとか」


彼女の手が、俺の指をぎゅっと握る。

秋風が吹き抜け、枯れ葉が足元を転がっていく。


その瞬間、俺の脳内で組み立てていた論理の塔が、音を立てて崩れ去った。


言葉にできない。


この掌の温もりを、「体温36.5度の熱伝導」と言い換えても、何かがこぼれ落ちる。


「好きだ」と言っても、何かが足りない。

俺の胸にある、この締め付けられるような、むず痒くて愛おしい感覚は、既存のどの言葉を使っても正確に写し取ることができない。


「……なるほどな」


俺は観念して、小さく息を吐いた。


「ウィトゲンシュタインは正しかったよ。『私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する』。俺の持っている語彙ボキャブラリーじゃ、今感じているこの幸福を、完全に記述することは不可能だ」


「ふふ、やっとわかってくれた?」


ミサキは満足そうに微笑んだ。


「文学はね、その『限界』の外側にあるものを、雰囲気とか比喩で掬い取ろうとするの。だから、遠回りに見えても、一番近道だったりするんだよ」


文学80、哲学20。

彼女の感性は、俺の硬直した理性を軽々と飛び越えていく。


論理で世界を解明しようとする俺と、物語で世界を感じようとするミサキ。


アプローチは正反対だが、目指している場所――「この名状しがたい感情の正体」――は同じなのかもしれない。


「……わかったよ、ミサキ」


俺は握られた手を、握り返した。


「俺の負けだ。論理だけじゃ、お前の『行間』には勝てない」


「勝ち負けじゃないよぉ」


ミサキはコロコロと笑う。


「で? ケイちゃんは、今のこの状況を哲学的にどう表現するの?」


意地悪な質問だ。

俺は少し考え、空を見上げた。

昼間の月が、青空に薄く透けて浮かんでいる。


「……『語りえぬものについては、沈黙しなければならない』」


俺はウィトゲンシュタインの言葉をもう一度引用した。


「だから、俺は何も言わない。ただ、こうする」


俺は繋いだ手を引き寄せ、彼女の肩に自分の頭を預けた。

髪から、甘いシャンプーの匂いがした。


「えっ……!?」


ミサキの身体がピクンと跳ねる。


「ケ、ケイちゃん? 公園だよ? 人が見てるよ?」


「関係ない。これが俺なりの、言語的限界を超越した『表現』だ。……文句あるか?」


俺がぶっきらぼうに言うと、ミサキは一瞬黙り込み、それから力が抜けたようにふにゃりと笑った。


そして、俺の頭に自分の頭をこつんと乗せてきた。


「……ううん。文句ない。最高に哲学的で、文学的だよ」


静寂。

言葉はない。

けれど、そこには辞書一冊分よりも雄弁な「何か」が流れていた。


空には白い月。

俺たちの間には、解釈不要の温もり。


「ねぇ、ケイちゃん」


「ん?」


「月、綺麗だね」


ミサキが昼間の月を指差して言った。

それは天文学的な事実の指摘なのか、それとも文学的な告白なのか。


今の俺には、そのどちらとしても受け取ることができた。


「……ああ。死んでもいいくらいにな」


俺が二葉亭四迷の訳(I love you = 死んでもいいわ)で返すと、ミサキは顔を真っ赤にして、それから嬉しそうに俺の腕にしがみついた。


「もう! ケイちゃん文学もいけるんじゃない!」


「一般教養だ。……うるさい、くっつくな、暑苦しい」


「えへへ、離さないもーん」


俺――ケイは、論理の武装を解除され、ただの幸福な「俺」として秋空を見上げる。


哲学も文学も、結局のところ、この愛おしい日常を彩るための注釈(脚注)に過ぎないのかもしれない。


そう思えるほどには、俺も少しは大人になったということだろうか。

(了)


解説

哲学者のケイと、文学少女のミサキのデートを描きました。


対立軸:

ケイ(哲学): ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」や「言語ゲーム」。言葉で明確に定義したい。直接的表現を好む。


ミサキ(文学): 夏目漱石や二葉亭四迷の逸話。言葉にできない余白や行間を大切にする。間接的表現(月が綺麗ですね)を好む。


関係性:

ケイは論理で武装していますが、ミサキの直感的な「温もり(スキンシップ)」には弱いです。


ミサキは哲学には詳しくありませんが、「感覚」として本質を突いてくるため、ケイを論破(あるいは懐柔)できてしまいます。



ケイが「死んでもいい(二葉亭四迷)」という文学的な返しをすることで、二人の歩み寄りを表現しました。


哲学と文学は、どちらも「人間とは何か」「世界とは何か」を描く営みですが、アプローチが違います。その違いをカップルの会話として楽しんでいただければ幸いです。


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