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放課後倫理学  作者: 紅茶
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プラトニック・ラブ


1.観測対象Mとの遭遇

放課後の図書室は、インクと古い紙の匂いが沈殿していた。

窓から差し込む斜陽が、整然と並ぶ書架を黄金色に染め上げている。

俺――ケイは、書架の陰から、閲覧席に座る一人の女子生徒を凝視していた。

ミサキだ。

彼女は文庫本を広げ、時折、窓の外――つまり俺たちの教室がある方角――を儚げに見上げている。

「……報告します。対象Mは、極めて静的かつ内省的な個体です」

俺が小声で呟くと、背後で本を整理していたマコト――「私」が、脚立の上から呆れたように見下ろしてきた。

「ケイ。それは『観察』ではなく『ストーキング』と言います。デカルトも草葉の陰で泣いていますよ」

「失敬な。俺は『方法的懐疑』に基づき、彼女が俺のパートナーとして適切か検証しているだけだ」

俺は腕組みをして、書架に背中を預けた。

「あの子、俺が女子だってこと、わかってて手紙をくれたんだよな? 文面には『僕』って書いてあったが」

「ええ。彼女はあなたのその『男性的な理性ロゴス』と『女性的な身体』の矛盾アンビバレンスに惹かれたんでしょう」

マコトは脚立を降り、埃を払った。

「ボーヴォワールは言いました。『人は女に生まれるのではない、女になるのだ』と。あなたは生物学的には女性ですが、実存としては……何でしょうね。カテゴリーに収まらない『ケイ』という固有の存在です」

「めんどくさい言い方だな」

俺はミサキの方をもう一度見た。

「で、どう思う? 彼女、俺と合うか?」

マコトは一瞬、手を止めた。

その表情が、本の陰で読み取れない。

「……合うと思いますよ。彼女は静かで、あなたは騒がしい。彼女は感性パトスの人で、あなたは理性ロゴスの人。凹凸が噛み合うように、パズルのピースは埋まるかもしれません」

マコトの声は、いつもより少し低く、事務的だった。

2.失われた片割れを求めて

俺たちは図書室を出て、渡り廊下を歩いた。

夕風が冷たい。

「なぁ、マコト」

俺は前を歩くマコトの背中に声をかけた。

「お前、プラトンの『饗宴シュンポシオン』って読んだことあるか?」

マコトが立ち止まり、振り返る。

「ええ、もちろん。エロスについての対話篇ですね。その中のアリストファネスの演説が有名です」

「ああ。『人間はもともと、男と女、男と男、女と女がくっついた球体だった』ってやつな」

俺は手すりに寄りかかり、夕日を見つめた。

「人間は昔、手足が4本ずつある球体で、完全だった。でも神々の怒りに触れて二つに引き裂かれた。それ以来、人間は失われた半身(片割れ)を求めて彷徨っている。それが『愛』の正体だ、とな」

「……ええ。だから、異性を求める者もいれば、同性を求める者もいる。それは元々の『球体』がどうだったかによる、魂の記憶なのだと」

マコトは静かに解説する。

「それがどうかしましたか?」

俺はマコトの目を真っ直ぐに見た。

「ミサキは、俺を『失われた片割れ』だと思ったのかもしれない。俺が『俺』という一人称を使い、スカートを履きながらニーチェを語るこの歪な魂に、自分の半身を見たのかもしれない」

「……ロマンチックな解釈ですね」

マコトは少し自嘲気味に笑った。

「論理の鬼であるあなたが、そんな神話的な運命論を持ち出すなんて」

「可能性の検証だと言ったろ」

俺は一歩、マコトに近づく。

「でもな、マコト。もし『失われた半身』ってのが本当にあるとしたら……それは必ずしも『恋愛対象』とは限らないんじゃないか?」

「どういう意味です?」

「例えば、議論の相手。思考の壁打ち相手。自分が暴走しそうな時に止めてくれるブレーキ役。……そういう『魂の相棒』みたいなのも、一種の半身だろ」

俺の言葉に、マコトの目がわずかに見開かれた。

風が強く吹き、マコトの前髪を乱す。

「……プラトン的なプラトニック・ラブの本来の意味は、肉体を越えて、真理やイデアを共に目指す同志愛のことですからね」

マコトは視線を逸らし、遠くのグラウンドを見た。

「ケイ。あなたは、ミサキさんの申し出を受けるつもりですか?」

「受けてみようと思う」

俺の答えに、マコトの肩がピクリと震えた。

「俺は食わず嫌いはしない主義だ。それに、あの子の『繊細の精神』は、俺のガサツな世界に新しい視点をくれるかもしれない。……実験してみる価値はある」

「そうですか」

マコトの声は、平坦だった。

「それは……良いことだと思います。あなたの世界が広がりますね」

「おう。だからマコト、お前には感謝してるぜ」

俺はニカッと笑って、マコトの背中をバシッと叩いた。

「お前がパスカルの話をしてくれなきゃ、俺は手紙を破り捨ててたかもしれないからな」

「……痛いですよ、ケイ」

マコトは苦笑いしながら、背中をさすった。

「私はただ、あなたの可能性ポテンシャルを最大化させるための助言をしただけです。友人の役割としてね」

3.イデアへの階梯

下駄箱で靴を履き替える。

俺は自分のローファーを履きながら、隣のマコトに問いかけた。

「で、お前はどうなんだよ」

「何がです?」

「お前の『片割れ』だよ。あんなに博識で、顔も良くて(悔しいが)、性格も……まあ、悪くない。お前なら選び放題だろ。誰かいないのか?」

マコトは靴紐を丁寧に結び終え、立ち上がった。

そして、俺を見下ろして、困ったような、でもどこか愛おしげな笑みを浮かべた。

「私は、ソクラテスのように『無知の知』を自覚していますから。自分に欠けているものをよく知っています」

マコトは俺の乱れたネクタイに手を伸ばし、キュッと直した。

「私が求めているのは、私の静寂な世界に土足で踏み込んで、家具をひっくり返して、『ほら、こっちの方が面白いだろ!』と笑ってくれるような、嵐のような半身です」

「うわ、迷惑な奴だな」

俺はネクタイの感触に少しドキリとしながら、軽口を叩いた。

「そんな奴、そうそういないぜ」

「ええ。絶滅危惧種でしょうね」

マコトは意味深に俺を見た。

「だから私は、まだしばらくは『観察者』でいますよ。あなたの恋の行方を見守る特等席でね」

「趣味が悪いぞ、傍観者」

「哲学者と言ってください」

俺たちは並んで校門を出た。

夕日は沈み、一番星が光っている。

俺はこれから、ミサキと向き合うことになるだろう。

それは未知の体験だ。デカルト的な座標軸では測れない、感情の海に漕ぎ出すことになる。

正直、怖い。

けれど、隣を見ればマコトがいる。

俺がもし恋愛で溺れかけたら、こいつはきっと『それは脳内物質の過剰分泌ですよ』なんて冷めた顔で浮き輪を投げてくれるはずだ。

「なぁマコト」

「なんです?」

「俺がもしミサキと付き合って、骨抜きにされて、ニーチェなんてどうでもいいって言い出したら……その時は、俺を殴ってでも引き戻せよ」

「お安い御用です」

マコトは即答した。

「その時は、分厚い『純粋理性批判』のハードカバーで、後頭部を殴打して差し上げます」

「カントで殴るな、痛そうだ」

俺たちは笑い合った。

恋人ができても、世界が変わっても、この会話のリズムだけは変わらない。

そう確信できることが、今の俺にとっての「真理」だった。

俺の心がミサキに向くのが「エロス」だとしたら。

俺の魂がマコトという鏡を必要としているのは、「友愛フィリア」なのか、それとももっと根源的な「同一性」の確認なのか。

答えはまだ、保留エポケーにしておこう。

急いで結論を出すには、俺たちはまだ若すぎるし、放課後はまだ続いていくのだから。

(了)


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