放課後等マキャベリズム
1.勢力均衡の崩壊
放課後の生徒会室。
役員たちは既に帰宅し、広い会議用テーブルの端で、私はいつものように文庫本を開いていた。
静寂。
しかし、それは平和な静けさではなく、嵐の前の不気味な凪に似ていた。
「……読書中ごめんね、マコト。隣、いいかな?」
声をかけてきたのは、同じクラスのセナだった。
返事をする間もなく、セナは私の正面――ではなく、あえて直角に位置する「隣」の席に椅子を引き、座り込んだ。
この距離感。パーソナルスペースをわずかに侵食しつつ、逃げ場を塞ぐ位置取り。
さすがは学年トップの成績を争う秀才であり、次期生徒会長の有力候補だ。
「どうぞ。ここは公共の場ですから」
私は栞を挟み、眼鏡の位置を直した。
「でも珍しいですね。あなたが図書室ではなく、ここにいるなんて」
「図書室は今、空気が甘ったるすぎて窒息しそうだから」
セナは頬杖をつき、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「ケイと、あの図書委員の子。見てられないわ。まるで『露仏同盟』ね。異質なもの同士が手を組んで、周囲を牽制してる」
「……うまい例えですね」
私は苦笑する。
「19世紀末、共和制フランスと帝政ロシアが結んだ同盟ですか。確かにケイ(理性)とミサキさん(感性)は体制が違いますが、だからこそ補完し合えるんですよ」
「補完? ふん、ただの『外交革命』でしょ」
セナは私の目をじっと覗き込んだ。その瞳は、獲物を狙う鷹のように鋭く、そして美しい。
「ずっとケイの隣にいたのはマコト、あんただった。プロイセンとオーストリアみたいに、同じドイツ語圏(哲学好き)の盟友だったはずよ。なのにケイはあんたを置いて、新しい同盟国を選んだ」
セナの指先が、テーブルの上を滑り、私の手の甲に触れるか触れないかの位置で止まった。
「今のあんたは、同盟国を失って孤立した『栄光ある孤立』のイギリス……いや、もっと危うい『分割前のポーランド』かしら? 周囲を強国に囲まれて、守ってくれる相手もいない」
「……随分と挑発的ですね」
私は手を引っ込めず、冷静に切り返す。
「私は孤立を恐れてはいませんよ。カントも言いました。『独りあること(ゾリテート)』こそが、思索を深める最良の友だと」
「出た、哲学」
セナは呆れたように笑った。
「あんたの悪い癖よ。すぐに観念的な世界に逃げ込む。でもね、マコト。歴史が教えてくれる真実は一つしかないの」
セナは顔を近づけ、囁くように言った。
「『力の空白は、必ず誰かが埋める』。ケイがいなくなったその席、空いたままにしておくのは地政学的にもったいないと思わない?」
2.マキャベリの誘惑
セナの言いたいことは痛いほどわかっている。
彼女は賢い。そして強かだ。
ケイが私から離れた(ように見える)このタイミングを、彼女はずっと待っていたのだ。
「外交」という名の、アプローチのために。
「……セナ。あなたはリアリストですね」
私はため息をついた。
「マキャベリの『君主論』さながらだ。チャンスがあれば、道徳や遠慮を捨ててでも勢力を拡大しようとする」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
セナは不敵に微笑む。
「歴史を作るのはいつだって、理想を語る哲学者じゃなくて、現実を動かす政治家よ。ビスマルクを見なさい。『鉄と血』によってのみ問題は解決される。あんたがケイとの思い出(哲学)に浸ってメソメソしてる間に、私は実力行使であんたを手に入れるつもりだから」
「手に入れる、とは?」
「私の『宰相』になりなさいってこと」
セナは私のネクタイの先を、人差し指でくるくると弄んだ。
「あんたの頭脳は使えるわ。論理的で、冷静で、私の感情的な決断をうまく正当化してくれる。ケイはあんたを『ブレーキ役』に使ってたみたいだけど、私なら『参謀』としてもっとうまく使いこなせる」
それは、あからさまな誘惑だった。
生徒会選挙のパートナーとしての勧誘であり、同時に、それ以上の関係への招待状。
「……光栄な申し出ですが」
私はネクタイを彼女の指からそっと外した。
「私は、誰かの所有物(領土)になるつもりはありません。ヘーゲルの『精神現象学』にあるように、人間は互いに独立した自意識として認め合うべきです。主従関係は、いずれ破綻しますよ」
「歴史を知らないのね」
セナは引かない。むしろ、拒絶されることを楽しんでいるようだった。
「永遠の同盟なんてないの。あるのは『永遠の国益』だけ。私と組めば、あんたにメリットはあるわ。静かな読書場所、生徒会での権限、それに……」
セナは一瞬、視線を私の唇に落とし、すぐに戻した。
「……退屈させない毎日、とかね」
ドキリとした。
ケイの無自覚な暴力性とは違う、計算し尽くされた官能的な暴力性。
歴史の教科書に出てくる、国を傾けた傾国の美女たちも、きっとこういう手管を使ったのだろう。
「……セナ。あなたはクレオパトラか何かですか?」
「あら、私はどちらかと言えば、エカチェリーナ2世を目指してるんだけど」
セナはケラケラと笑った。
「啓蒙専制君主よ。愛人も哲学も、全部コレクションして帝国を大きくするの」
3.歴史の彼方と、現在の選択
私は本を閉じた。
このままでは、彼女のペース(帝国主義)に飲み込まれる。
「セナ。歴史に詳しいあなたなら、ナポレオンの末路もご存知でしょう?」
私は静かに反撃に出る。
「急激な版図の拡大は、補給線を伸ばしきって自滅を招きます。……私の心という『冬将軍』は、あなたが思っているより手強いですよ」
「あら、そう?」
セナは立ち上がり、私の椅子の背もたれに手をかけた。
「でも、ナポレオンが負けたのは、深追いしすぎたからじゃなくて、引き際を間違えたからよ。私は間違えない。……今は、まだ『種まき』の時期だってわかってるから」
セナは私の耳元に顔を寄せた。
甘い香りがした。それは古い図書館の匂いではなく、洗練されたシトラスの香りだった。
「ケイはね、あんたの『優しさ』に甘えてただけ。でも私は、あんたの『賢さ』を愛してあげる。……どっちが歴史的に正しい選択か、よく考えておいてね、マコト」
彼女はそのまま、私の頬に触れるか触れないかの距離で囁き、身を翻した。
「じゃあね。今日はこれくらいにしておくわ。――『会議は踊る、されど進まず』なんてことにはしないから」
コツ、コツ、コツ。
軽快な足音が遠ざかっていく。
私はその背中を見送った。
長い黒髪が揺れている。
少し短めに詰めたスカートのプリーツが、彼女の歩調に合わせて翻る。
その姿は、確かにエカチェリーナ2世のような風格と、女子高生特有の無敵感を纏っていた。
「……やれやれ」
私は椅子に深く沈み込み、眼鏡を外して目頭を押さえた。
「歴史家というのは、哲学者よりもタチが悪いですね。事実を武器に攻めてくるんですから」
ケイという「嵐」が去ったと思ったら、今度はセナという「帝国」が侵攻してきた。
私の平穏な高校生活(鎖国)は、黒船の来航によって強制的に開国させられそうだ。
「……でも」
私はテーブルに残る、彼女のシトラスの香りを吸い込んだ。
「退屈しない、か」
ニーチェなら「運命を愛せ」と言うだろうか。
それともヘーゲルなら「これも歴史の必然だ」と言うだろうか。
私は閉じた文庫本を再び開いた。
文字を目で追いながらも、頭の中では、世界地図が鮮やかに書き換わっていく予感がしていた。
新たな勢力の台頭。
私の心という領土を巡る、長い「戦後処理」と、新しい「冷戦(恋戦)」の幕開け。
「お手柔らかにお願いしますよ、女帝陛下」
私――マコトは、誰もいない生徒会室で独りごちた。
その声は、自分でも驚くほど、満更でもない響きを含んでいた。
(了)




