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放課後倫理学  作者: 紅茶
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我思う故に我在り

放課後の教室は、幾何学的な静寂に包まれていた。

机の列は整然と並び、窓枠が切り取る空は、デカルト座標のように縦横の線で区切られている。


俺――ケイは、自分の机の上に置かれた「それ」を、まるで不発弾でも見るような目で見下ろしていた。


「……マコト。お前の見解を聞こう。これは何だ?」


俺が顎でしゃくると、前の席に座っていたマコト――「私」が、優雅に振り返った。手にはいつもの文庫本ではなく、今日は数式の書かれたノートが握られている。


「見解も何も、客観的事実ファクトとしてそれは『手紙』ですね。ピンク色の封筒、ハートのシール、そして甘い香り。演繹的に推論すれば、いわゆるラブレターというやつでしょう」


「その推論が気に食わねぇ」


俺は腕組みをして、眉間に皺を寄せた。


「差出人の名前がない。宛名も『ケイさんへ』としか書いてない。中身は……『あなたの見ている世界を、僕も隣で見たいです』の一行だけ。意味不明だ。これは本当に俺宛か? 悪戯か? それとも何かの暗号か?」


「ふふ、モテる人は悩みが多くて大変ですね」


マコトは他人事のように微笑む。


「素直に喜べばいいじゃないですか。誰かがあなたに好意を抱いている。それは直感的に素晴らしいことですよ」


「直感? 笑わせるな」


俺は椅子に深く座り直し、指を組んだ。


「俺はデカルト派だ。曖昧な直感や感覚なんてものは一番信用できねぇ。デカルトは言ったぞ。『方法的懐疑』だ。疑わしいものはすべて偽として退ける。まずはこの手紙が存在するという事実すら疑ってかかるべきだ」


俺は封筒を指先で弾いた。


「そもそも、これは俺が見ている幻覚かもしれない。あるいは、悪魔が俺を欺くために見せている偽りの映像かもしれない。感覚器官はすぐに俺たちを騙すからな。水に入れた棒が曲がって見えるようにな」


マコトは呆れたように眼鏡を直した。


「また始まりましたね。デカルトの『省察』ですか。世界すべてを疑って、最後に何が残るんです?」


「『疑っている俺自身』だ」


俺はニヤリと笑う。


「『コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)』。この手紙が偽物でも、それを疑って考えている俺の意識だけは確実に存在する。そこを起点(アルキメデスの点)にして、論理的に犯人を特定する。それが理性の勝利ってもんだ」


「犯人呼ばわりですか……」


マコトは溜息をつき、ノートを閉じた。


「ケイ、あなたのその『幾何学の精神レスプリ・ド・ジェオメトリ』には敬服しますが、人間の心は数式のように割り切れませんよ。パスカルならこう言うでしょう。『デカルト、役立たずで不確実』と」


「あ? パスカルだと?」


「ええ。デカルトと同じ時代を生きた天才数学者にして、敬虔な信仰者ブレーズ・パスカルです」


マコトは封筒を優しく手に取った。


「彼は言いました。『心には理性の知らない、心独自の理屈がある(クレド)』と。この手紙の主の気持ちを知るには、あなたの冷徹な論理ではなく、『繊細の精神レスプリ・ド・フィネス』が必要なんですよ」


「繊細の精神だぁ?」


俺は鼻で笑った。


「そんなフワフワしたもんで真理に辿り着けるかよ。いいか、人間ってのは所詮、精巧にできた自動機械オートマトンだ。心臓はポンプ、神経は管、筋肉はバネ。この手紙を書いた奴の行動も、脳内の神経伝達物質と電気信号の因果関係で説明がつくはずだ」


「デカルト的な心身二元論ですね」


マコトは静かに反論する。


精神コギトと物体(延長)を完全に切り離し、身体をただの機械と見なす。だからあなたは、動物が悲鳴を上げても『機械が軋む音』だと言って平気でいられる。でも、本当にそうですか?」


マコトは封筒の端を撫でた。


「見てください、この文字の揺れを。インクの滲みを。これは機械的な信号じゃありません。迷い、恐れ、期待……そういった矛盾する感情が渦巻いている証拠です。パスカルは人間を『考えるあし』だと言いました」


「葦? あの川辺に生えてる弱っちい草か?」


「ええ。人間は自然の中で最も弱い、一本の葦に過ぎない。一滴の水、一吹きの蒸気でも人間を殺すことができる。……でも、人間は考える。自分が死ぬこと、宇宙が自分より巨大であることを知っている。だから人間は、宇宙よりも尊厳があるんです」


マコトの声が、夕暮れの教室に染み入るように響く。


「この手紙の主も同じです。あなたに拒絶されれば傷つく弱い存在だと知りながら、それでも思いを伝えようとした。その『悲惨』と『偉大』の同居こそが人間なんです。それを『脳の電気信号』の一言で片付けるのは、あまりに寂しい分析ではありませんか?」


「……相変わらずポエマーだな、お前は」


俺は少し毒気を抜かれたが、すぐに体勢を立て直した。


「だがな、その『偉大さ』とやらも、結局は理性が支えてるんだろ? 考えるから偉大なんであって、感情に流されてメソメソしてるだけなら、ただの弱い草だ」


俺は黒板に向かって歩き出した。


「よし、分析を開始する。デカルトの『方法序説』にある四つの規則に従うぞ。

第一に、明証性の規則。明らかに真であると認められるもの以外は受け入れない。

第二に、分合の規則。問題を可能な限り細分化する」


俺はチョークを手に取り、黒板に書きなぐった。


『容疑者リスト』


『1.文芸部のサトウ(詩的な表現を使う)』

『2.隣のクラスのタナカ(昨日、俺をジロジロ見ていた)』

『3.マコト(字が似ている可能性)』


「ちょっと、私を容疑者にしないでください」


マコトが苦笑する。


「可能性はゼロじゃない。疑うことが出発点だからな」


俺は続ける。


「第三に、順序の規則。単純なものから複雑なものへと思考を進める。

第四に、枚挙の規則。見落としがないか全体を見渡す。

……この手順で消去法を行えば、必ず正解(真理)に辿り着く。これが理性の力だ」


「やれやれ」


マコトは首を振った。


「あなたは世界を分解すれば理解できると思っている。でも、パスカルは言いました。『全体を知らずに部分を知ることはできず、部分を知らずに全体を知ることもできない』と。人間の感情は、分解すれば死んでしまうんです。その手紙の『全体』が醸し出す雰囲気を直感フィネスで感じ取らなければ、核心には触れられませんよ」


「直感でわかるなら苦労しねぇよ。じゃあお前にはわかるのか? この『僕も隣で見たいです』の意味が」


「ええ、なんとなく」


マコトは窓の外、茜色に染まる空を見上げた。


「これは物理的な『席の隣』という意味ではないでしょう。あなたが世界をどう認識し、どう切り取っているのか。その孤独な理性の営みに、寄り添いたいという魂の叫び……かもしれませんね」


「……はっ、キザな解釈だ」


俺はチョークを置いた。


「だが、お前のその『直感』も、検証しなきゃただの妄想だ。俺はこのリストの上から順に、直接尋問して事実確認を行う」


「待ってください、ケイ」


マコトが慌てて立ち上がった。


「ラブレターの送り主に『お前か?』と尋問するなんて、デリカシーがなさすぎます。それこそ『幾何学の精神』の暴走です。人の心はもっと複雑で、繊細で……」


「複雑な問題こそ、単純な要素に分解しろとデカルトは言ったんだよ」


俺は教室の扉に手をかけた。


「行ってくる。真理の探究に、デリカシーなんて不純物は不要だ」




数十分後。


俺は教室に戻ってきた。肩を落とし、足取りは重い。


マコトは変わらず席に座り、窓の外を見ていた。世界が夜の闇に沈んでいくのを、ただ静かに眺めている。


「……全滅だったよ」


俺は自分の席にドカッと座り込んだ。


「サトウは『文体が美しくない』と否定し、タナカは『俺が見てたのはお前じゃなくて、後ろの黒板だ』と言い張り、他の候補者も全員シロだった。……クソッ、俺の論理のどこが間違っていた? 『明証性』が足りなかったのか?」


「おかえりなさい、ケイ」


マコトは優しく迎えた。


「間違っていたのは論理ではなく、アプローチそのものです。あなたは人の心を『解くべきパズル』として扱った。でも、他者の心とは『無限の深淵』なんです」


マコトは立ち上がり、黒板の電気を消した。教室は完全な闇に包まれる。窓から差し込む月明かりだけが、マコトのシルエットを浮かび上がらせた。


「パスカルは、夜空を見上げて戦慄しました。『この無限の空間の永遠の静寂が、私を恐怖させる』と」


マコトの声が、闇の中で低く響く。


「宇宙は無限に広く、人間はあまりにちっぽけだ。デカルトのように理性で宇宙の法則を解明した気になっても、ふと夜になれば、自分が『無』と『無限』の間に吊り下げられた不安定な存在であることに気づいてしまう。その不安、その空虚さは、数式では埋められないんです」


俺は闇の中で目を凝らした。


「……だから何だ。不安だから神にすがるのか? 思考停止じゃないか」


「思考停止ではありません。『賭け』です」


マコトは俺の机に近づき、あの手紙を指差した。


「パスカルの賭け、という有名な話があります。神がいるかいないか、理性では証明できない。だとしたら、どちらに賭けるべきか?

もし『神がいる』に賭けて、実際にいたら、無限の幸福(天国)が手に入る。いなくても、失うのは現世の僅かな快楽だけ。

逆に『神はいない』に賭けて、もしいたら、無限の不幸(地獄)が待っている。

ならば、理性的にも『信じる』方に賭けるのが得策だ、と」


「……打算的な信仰だな」


「ええ、始まりは打算でもいい。習慣になれば、やがて本当の信仰になる。……この手紙も同じですよ、ケイ」


マコトは俺の顔を覗き込んだ。


「この手紙が『本物の愛』か『悪戯』か、理性では証明できなかった。ならば、あなたはどちらに賭けますか?

『悪戯だ』と疑って無視すれば、あなたは傷つかないかもしれないが、誰かの真心を踏みにじるリスクがある。

『本物だ』と信じて受け入れれば、裏切られて傷つくかもしれないが、かけがえのない他者と出会える可能性がある」


マコトの瞳が、月光を受けて濡れたように光っていた。


「デカルト的な懐疑で心を閉ざして『安全な要塞』に引きこもるか。パスカル的な繊細さで、傷つくリスクを負ってでも『他者という深淵』に飛び込むか。……あなたの理性は、どちらが『得』だと判断しますか?」


俺は言葉に詰まった。


損得勘定? 違う。俺が求めているのは真実だ。でも、真実が確定しない状況で、俺はどう動けばいい?


コギト(考える私)だけでは、独りぼっちだ。自己完結した閉じた世界だ。


手紙の主は、その壁の向こうからノックしている。


「……俺は」


俺は手紙を握りしめた。


「俺は、非合理なことは嫌いだ。だが、可能性がゼロでないなら、それを『無』と見なすのは早計だ。デカルトも、情念パッション自体を否定したわけじゃない。情念を理性のコントロール下に置くことで、人生を豊かにできると言った」


俺は顔を上げた。


「マコト。お前の言う『直感』ってやつを、一時的に仮説として採用してやる。お前なら、この手紙の主をどう探す?」


マコトは嬉しそうに微笑んだ。


「やっと『心』の話を聞く気になりましたね。では、幾何学の精神と繊細の精神を統合しましょう」


マコトは俺の手から手紙を受け取り、月明かりに透かした。


「まず、観察(直感)です。この封筒、端が少し擦り切れています。そして微かにチョークの粉がついている。香りは市販の香水ではなく、キンモクセイのポプリに近い」


「……チョークの粉?」


俺は目を細めた。


「日直か、あるいは先生か?」


「そして筆跡。一見乱れていますが、『は』の払い方に特徴がある。これは書道経験者の癖です。さらに文面。『あなたの見ている世界を、僕も隣で見たい』。これは、普段あなたが『世界をどう見ているか』を知っている人物の言葉です」


マコトは俺を見た。


「ケイ。あなたはいつも、放課後まで残って、この席から校庭を眺めながら、デカルトだのニーチェだのと理屈をこねていますよね」


「……ああ」


「その姿を、同じように放課後まで残って、遠くから見ていた人物がいるとしたら?」


俺の脳内で、論理の回路が繋がった。

チョークの粉。書道の癖。放課後の教室。


「……まさか、隣のクラスの図書委員、ミサキか?」


ミサキは書道部だ。そして放課後、いつも図書室の黒板(連絡用)を消してから帰るのを見かける。図書室の窓からは、この教室が見える。


「ビンゴ、かもしれませんね」


マコトは手紙を俺に返した。


「彼女は以前、図書室であなたが借りた『方法序説』を、興味深そうに見ていましたよ。きっと、あなたのその小難しくて不器用な『理性の世界』に、興味を持ったんでしょう」

俺は呆然とした。


「見ていたのか、お前……」


「ええ。『繊細の精神』は、些細な日常の機微を見逃しませんから。でも、それを論理的に繋ぎ合わせたのは、あなたの『推論』のおかげですよ」


謎は解けた(蓋然性は極めて高い)。

俺は手紙を制服のポケットにしまった。


「……で、どうするんです? 返事は」


マコトがニヤニヤしながら聞いてくる。


「保留だ」


俺はぶっきらぼうに答えた。


「デカルトは言った。『決断を下すのに必要な情報が揃うまでは、判断を留保せよ』と。まずは彼女を観察し、本当に俺の『世界』に耐えられる精神力があるか見極める」


「やれやれ。どこまでも理屈っぽいですね」


マコトは肩をすくめた。


「でも、それがあなたらしい。きっと彼女も、そんな面倒くさいあなただからこそ、惹かれたんでしょう」


俺は立ち上がり、鞄を持った。


「マコト。今日は引き分けにしてやる」


「おや、勝ち負けなんてありましたっけ?」


「あるさ。俺の理性だけじゃ解けなかったし、お前の直感だけでも証拠が足りなかった。デカルトとパスカル、どっちが欠けてもダメだったってことだ」


俺は教室の出口で振り返った。


「パスカルはデカルトを『役立たず』と言ったそうだが、デカルトだってパスカルの『賭け』を見たら『確率論としては面白いが、前提が非論理的だ』と笑っただろうな」 


「ふふ、きっとあの世で仲良く喧嘩しているでしょうね」


マコトも鞄を持って歩き出した。


「人間は、機械のように正確に思考したいと願いながら、葦のように風に揺れて生きたいとも願う。その矛盾こそが、私たちが生きている証拠コギトなのかもしれません」


「うまくまとめたつもりか? ま、悪くねぇ結論だ」


俺――ケイは、夜の廊下をカツカツと歩く。

頭の中では、明日のミサキへの挨拶の言葉を、論理的にシミュレーションしながら。

私――マコトは、その隣を静かに歩く。

胸の中では、この不器用な友人に春が訪れたことへの、言葉にならない喜びを噛み締めながら。


「我思う、ゆえに我あり」。


しかし、「我感じる、ゆえに君あり」もまた、真なり。


廊下の窓から見える月は、円でも球でもなく、ただ美しく輝いていた。


それを「光の反射」と呼ぶか、「夜の希望」と呼ぶか。


俺たちは明日もまた、その定義を巡って議論を戦わせるのだろう。

(了)


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