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放課後倫理学  作者: 紅茶
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サルトルとカミュ

放課後の屋上。


錆びついたフェンスの向こうに、工業地帯の煙突と、血のような夕陽が沈んでいく。


俺――ケイは、フェンスを背にして座り込み、コンビニで買った紙パックのコーヒーを握りしめていた。


「……なぁ、マコト。人間ってのは、なんでこうも『自由』なんだろうな」


俺がぼやくと、隣で空を見上げていたマコト――「私」が、視線を下ろして微笑んだ。


「珍しいですね、ケイが弱音を吐くなんて。サルトルの言う『自由の刑』に処されている気分ですか?」


「ああ、まさにそれだ」


俺はストローを噛む。


「生徒会長に立候補したはいいが、公約を決めなきゃならん。校則を変えるか、行事を変えるか。俺が何かを選ぶってことは、全校生徒の未来を巻き込むってことだ。その責任の重さに、吐き気がするぜ」


俺は自分の胸を叩いた。


「『実存は本質に先立つ』。俺たちは誰かの駒じゃねぇ。自分で自分を作らなきゃならねぇ。だからこそ、行動アンガージュマンして、社会を変革する責任がある。……でもよ、時々怖くなるんだ。俺の選んだ道が、誰かを不幸にするんじゃねぇかってな」


サルトルは言った。人間は自由という名の呪いにかかっていると。


何もしないこともまた「選択」であり、俺たちは自分の行動すべてに無限の責任を負わなければならない。


「考えすぎですよ、ケイ」


マコトは、まるで他人事のように穏やかな声を出した。


「あなたは歴史を重く捉えすぎている。カミュならこう言いますよ。『世界はそもそも不条理だ』と」


マコトはフェンス越しに手を伸ばし、夕陽を掴むような仕草をした。


「生徒会が何をしようと、教師たちは理不尽で、校則は意味不明で、いずれ私たちは卒業して死んでいく。世界は沈黙しています。そんな意味のない世界に、無理やり『革命』だの『正義』だのという意味を押し付けようとするから、苦しくなるんです」


「……出たな、カミュ派」


俺はジロリとマコトを睨む。


「お前はいつもそうだ。世界を『不条理』だと決めつけて、斜に構えてやがる。カミュはサルトルと喧嘩別れしたよな。サルトルが『汚い手を使っても、共産主義革命で世界を良くすべきだ』と主張したのに対し、カミュは『正義のためでも、人を殺す革命は認めない』と言って反対した」


「ええ。私は断然、カミュを支持します」


マコトはきっぱりと言った。


「ケイ、あなたの公約案を見ましたよ。『部活動の強制加入制度の撤廃』。それ自体は良い。でも、そのために『反対派の教師を吊し上げる署名運動』をするというのは、いささか過激ではありませんか?」


「戦わなきゃ変わらねぇだろ!」


俺は立ち上がった。


「権力と戦うには、こっちも団結して圧力をかけるしかねぇんだよ。多少の摩擦や犠牲があっても、より良い未来(歴史)を作るためには必要なことだ。それが『責任ある行動』ってもんだろ」


「それが危険だと言うのです」


マコトも静かに立ち上がり、俺と対峙した。

「『歴史』という大きな正義のために、今の個人の平穏を犠牲にする。それは全体主義への入り口です。カミュは言いました。『私は正義よりも、私の母親を選ぶ』と。遠くの理想郷よりも、今ここにいる人間の命や、太陽の暖かさの方が大切だと」


風が吹き抜け、マコトの髪を揺らす。


「ケイ。あなたは世界を変えたいと言うけれど、そのために誰かを傷つけるなら、私はその革命には加担しません。私はただ、この夕陽の下で、あなたと笑っていたいだけです。それが私の『反抗レヴォルテ』です」


「……甘っちょろいんだよ」


俺はコーヒーのパックをゴミ箱に投げ入れた。


「お前みたいに『今のままでいい』って現状肯定してたら、いつまで経っても世界はクソなままだ。サルトルはカミュに言ったぜ。『君は道徳の先生みたいだ』ってな。綺麗な場所から説教するだけなら簡単だ。でも、泥の中に飛び込んで泥まみれにならなきゃ、現実は動かねぇんだよ」


俺たちは睨み合った。


サルトルとカミュ。かつてはパリのカフェで語り合った二人が、冷戦下の政治対立で決裂し、二度と口を利かなくなったように。俺たちの間にも、決定的な亀裂が走った気がした。


「……でも」


マコトがふと、表情を緩めた。


「でも、ケイ。サルトルはカミュが事故死した時、誰よりも悲しんで、最高の追悼文を書いたそうですね」


「……ああ。『彼は我々の中で、人間であることをあくまでも守り抜こうとした』ってな」


マコトは一歩近づいてきた。


「思想は違います。あなたは未来を見て、私は現在いまを見ている。あなたは社会を変えようとし、私は個人の幸福を守ろうとする。……でも、だからこそ、私たちは一緒にいるべきなんじゃないですか?」


「は?」


「あなたが暴走して『目的のために手段を選ばない』独裁者になりそうになったら、私が『それは違う』と止める。私が現状に満足して思考停止しそうになったら、あなたが『目を覚ませ』と尻を叩く。……サルトルとカミュには出来なかったことが、私たちになら出来るかもしれません」


マコトの手が、俺の強張った拳の上に重ねられた。


「私の反抗は、あなたを孤独にさせないことです。たとえあなたが世界中を敵に回すような革命を起こしたとしても、私だけは『そのやり方は間違ってる』と文句を言いながら、隣にいてあげますよ」


「……なんだそれ」


俺は力が抜けて、ため息をついた。


「『地獄とは他人のことだ』ってサルトルは言ったが……お前みたいな他人がいるなら、地獄も悪くねぇかもな」


「ええ。カミュも言っています。『真冬の最中に、私は自分の中に、決して屈しない夏があることを知った』と。私にとっての夏は、きっとあなたとのこういう時間のことです」


「キザな野郎だ」


チャイムが鳴る。下校時刻の合図だ。


沈みかけた太陽が、最後の輝きを放っている。

「行くぞ、マコト。署名運動の文面、少し直すから手伝え。『吊し上げ』じゃなくて『対話集会』くらいにしてやるよ」


「賢明な判断です。修正ペンを持って追いかけますよ」


俺――ケイは、重たい責任を背負い直して歩き出す。

私――マコトは、軽やかな足取りでその隣を行く。


実存と不条理。革命と幸福。


決して交わらないはずの二つの平行線は、放課後の屋上というキャンバスの上でだけ、鮮やかに交差していた。

(了)



解説

サルトルとカミュの対立の核心を描きました。


ケイ(サルトル):

「歴史」と「責任」の人。

「人間は自由だからこそ、社会を変える義務がある」と考えます。そのためには政治的な闘争や、多少の汚れ仕事も辞さない(アンガージュマン)。悩み多きリーダータイプ。


マコト(カミュ):

「自然(太陽)」と「個人」の人。

「世界はどうせ不条理(死ぬし意味はない)だ」という前提の上で、だからこそ「今この瞬間の生の輝き」を大切にします。イデオロギーのために人が死ぬことを嫌います。



史実では二人は絶縁してしまいましたが、この二人ケイとマコトは「相互補完」の関係に落とし込みました。

「行き過ぎた正義(サルトル的暴走)」を「個人の倫理(カミュ的ブレーキ)」が止める、という形は、現代においても非常に重要なバランス感覚だと言われています。


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