ヘーゲルとマルクス
文化祭実行委員会の会議室は、煮詰まった空気と、安っぽいパイプ椅子の冷たさに支配されていた。
ホワイトボードには『今年のテーマ:革命』と大きく書かれているが、その文字の下には無情な赤字で『予算不足につき、アーチ設置不可』と書き足されていた。
「……ふざけんなよ。アーチなしの文化祭なんて、炭酸の抜けたコーラだろ」
俺――ケイは、予算案のプリントを机に叩きつけた。
「『革命』だぞ? 生徒の魂を揺さぶるようなシンボルが必要なんだよ。金がないなら知恵を絞れ、カンパを募れ。最初から『無理』と決めつけるその根性が気に入らねぇ」
向かいの席で、電卓を叩いていたマコト――「私」が、顔を上げずに答えた。
「精神論で材料費は賄えませんよ、ケイ。ベニヤ板一枚、ペンキ一缶買うのにも『通貨』が必要です。あなたの言う『魂』などという曖昧なものでは、釘一本打てないのが現実です」
マコトは眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、冷ややかな視線を俺に向けた。
「ヘーゲルとマルクスの対立ですね。あなたはヘーゲル的だ。『精神』が歴史を作り、世界を動かすと信じている」
「おうよ」
俺は腕組みをしてふんぞり返る。
「ヘーゲル大先生は言ったぜ。『世界史とは、自由の意識の進歩の過程である』ってな。歴史を動かすのは、いつだって『こうありたい』と願う人間の意志であり、時代精神だ。ナポレオンを見ろ。あいつは馬上の世界精神だ。あいつの意志が、ヨーロッパの歴史を塗り替えたんだよ」
俺はホワイトボードの『革命』の文字を指差した。
「いいかマコト。文化祭を成功させるのは、予算表の数字じゃねぇ。『俺たちはすごいことをやるんだ』っていう全校生徒の熱狂だ。その精神が、現実の物質――ベニヤ板や装飾――を呼び寄せるんだよ。順番を間違えんな。精神が先、物質は後だ」
「……相変わらず、頭が逆立ちしていますね」
マコトはため息をつき、電卓を置いた。
「マルクスは言いました。『意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する』と。逆なんですよ、ケイ。あなたが『革命』などという勇ましいテーマを掲げたくなったのは、あなたの魂が高潔だからではない。今の生徒会費がカツカツで、学校側の締め付けが厳しいという『物質的な窮屈さ』が、あなたに『革命』という幻想を抱かせたに過ぎないんです」
「あ?」
「これを『土台(下部構造)』と『上部構造』と言います」
マコトはプリントの裏に図を描き始めた。
「経済や生産関係という土台があって初めて、その上に法律や芸術、宗教、そして『文化祭のテーマ』といった上部構造が乗っかるのです。『手挽きの製粉機は封建領主の社会を生み、蒸気製粉機は産業資本家の社会を生む』。生産手段が変われば、人間の考え方なんてコロッと変わるんですよ」
マコトは俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「つまり、予算(経済)が増えれば、あなたの精神なんて『革命』から『平和』や『繁栄』にあっさり変わるでしょうね。歴史を作るのは英雄の意志じゃない。生産力と生産関係の矛盾――つまり、経済のシステムです」
「てめぇ……人間を金の奴隷みたいに言いやがって」
俺はギリリと奥歯を噛んだ。
「じゃあ何か? 俺たちの情熱も、友情も、全部『経済状態』が生み出した副産物にすぎないって言うのか? 冗談じゃねぇ。俺は俺の意志でここにいる。誰に命令されたわけでも、金をもらってるわけでもねぇ!」
「それが『虚偽意識』だと言うんですよ」
マコトは憐れむように言った。
「資本主義社会というシステムの中にいる限り、私たちは『自由な意志』で選んでいるつもりで、実はシステムに踊らされているだけかもしれない。あなたがアーチを欲しがるのも、消費社会的なスペクタクルへの渇望に過ぎないのでは?」
「理屈ばっかりこねやがって!」
俺は立ち上がり、机をドンと叩いた。
「システムがどうした! 矛盾がどうした! ヘーゲルは『弁証法』を説いたぞ。対立があるからこそ、それを統合して、より高い次元へ進めるんだ! 予算がない(テーゼ)? じゃあ諦める(アンチテーゼ)? 違うだろ! 知恵と情熱で『予算がなくてもすごいアーチを作る』というジンテーゼ(統合)を生み出すのが人間の精神だろうが!」
俺の剣幕に、マコトは少しだけ目を丸くし、それからふっと笑った。
「……やれやれ。弁証法を持ち出されるとは。マルクスもヘーゲルの弁証法は評価していましたからね。ただし、『逆立ちしているからひっくり返して足で立たせた』と言っていましたが」
マコトは立ち上がり、ホワイトボードの前に歩み寄った。
そして、赤字で書かれた『予算不足』の文字の横に、黒いペンで何かを書き足した。
『廃材利用により、コストゼロ』
「……は?」
「近所の工務店と交渉してきました」
マコトは涼しい顔で言った。
「廃棄予定の木材を譲ってもらえる手はずを整えました。運搬はラグビー部にプロテインの差し入れ――これも部費の余剰分で賄えます――を条件に手伝ってもらいます。ペンキは美術部の在庫を『共同制作』という名目で供出させればいい」
マコトは俺の方を振り向き、眼鏡を光らせた。
「これが唯物論的解決です。あなたの言う『情熱』だけでは木材は動かない。ですが、適切な『交渉』と『資源の再分配』を行えば、現実は動く。アーチは作れますよ」
俺はポカンと口を開け、それから吹き出した。
「ぶっ……ははは! お前、結局やる気満々じゃねぇか!」
「勘違いしないでください。私は、あなたが『精神論』だけで暴走して、生徒会を破綻させるのを防ぐために、物質的な基盤を整えただけです」
マコトはすました顔で席に戻る。
「マルクスは『哲学者は世界を解釈してきただけだ。重要なのはそれを変革することだ』と言いました。私は机上の空論よりも、変革(アーチ建設)の実践を選んだのです」
「へっ、言うねぇ」
俺はマコトの肩をバシッと叩いた。
「だがな、マコト。お前がその工務店に頭を下げに行けたのは、なんでだ? ただの計算か? 違うだろ。お前の中に『この文化祭を成功させたい』っていう、計算外の『熱』があったからじゃねぇのか?」
「……」
マコトの手が一瞬止まる。
「それが『精神』だよ。お前は唯物論者の顔をしてるが、その原動力はヘーゲル的な『情熱』だ。認めろよ」
マコトはふいと顔を背けた。耳が少し赤い。
「……ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ、と言いますからね。物事が終わった後でなければ、本当の理由はわかりませんよ」
「はぐらかすなよ」
「さあ、会議は終わりです。ケイ、あなたは『精神』担当として、全校集会で生徒を煽ってきなさい。私は『物質』担当として、廃材の搬入スケジュールを組みます」
「おう、任せとけ!」
俺――ケイは、拳を突き上げて教室を飛び出す。
私――マコトは、その後ろ姿を見送りながら、小さく苦笑する。
精神が先か、物質が先か。
ヘーゲルとマルクスは歴史の上で殴り合ったが、教室の片隅では、この二つは案外うまく共犯関係を結べるのかもしれない。
頭でっかちな理想と、泥臭い現実。
その両輪が回って初めて、俺たちの「歴史」は前に進むのだ。
(了)




