葉隠
1.武士道とハイデガー
放課後の図書室。
西日が差し込むいつもの席で、ミサキが文庫本を閉じ、ふぅと深いため息をついた。
手元にあるのは『葉隠(現代語訳)』だ。
「……ねぇ、ケイちゃん。江戸時代の武士って、すごく大変だったんだね」
向かいでドイツ語の原書を読んでいたケイが、顔を上げた。
「唐突だな。山本常朝の『葉隠』か。……何がそんなに大変なんだ?」
「だって、毎朝起きるたびに『死ぬこと』をシミュレーションするんでしょ?
弓矢で射られたり、刀で斬られたり、波にのまれたり……。そんな風に、毎朝自分が死ぬ想像をしてから一日を始めるなんて、私なら鬱になっちゃうよ」
ミサキが眉を下げて言うと、ケイは読みかけのページに指を挟み、薄く笑った。
「有名な一節だな。『毎朝毎夕、改めては死に、改めては死に』……。
だがミサキ、それは悲観主義とは違う。むしろ逆だ。それはハイデガーの言う『死への先駆』の実践だよ」
「死への……せんく?」
「ああ。人間は、いつか死ぬという事実から目を背けて、日常の瑣末なことに逃げ込む。それを『頽落』と言うんだが……武士は違う。
毎朝、死という絶対的な限界を直視し、受け入れることで、逆説的に『今、生きているこの瞬間』の純度を高めているんだ。
『いつ死んでも後悔しないように、今この瞬間に全力を尽くす』。これは究極の実存主義だよ」
ケイの熱弁に、ミサキは少し考え込み、また本を開いた。
「うーん……。理屈はわかるけど、やっぱり切ないなぁ。
主君のために死ぬことが『武士の本懐』だなんて。自分の人生なのに、誰かのために使い捨てにされちゃうみたいで」
2.ロジックと死に狂い
「そこが『葉隠』の過激で面白いところだ」
ケイは身を乗り出した。
「実はな、『葉隠』は理屈を嫌っているんだ。
『分別ふんべつ風情(知識や常識)』は、いざという時に迷いを生む。人間、賢くなると『死にたくない』とか『損をしたくない』と計算してしまうからな。
だから常朝は言う。『死に狂い』になれ、と」
「死に狂い……?」
「そう。理性を捨てて、狂気的なまでの情熱で突き進むことだ。
『重大なことは、軽い気持ちでサラッと行え』とも言っている。
論理的に考えたら『死ぬのは損』だ。でも、その損得勘定を超えたところにしか、本当の『義』や『美』はないと説いているんだ」
ミサキはぽつりと呟いた。
「……それって、ちょっと『恋』に似てるかも」
「恋?」
「うん。計算高い恋なんて、本当の恋じゃないもん。
『振られたら損だ』とか『この人に尽くしてもメリットがない』なんて考えてたら、誰も好きになれないよ。
周りから見たら『バカだなぁ』って思われるくらい、夢中になって突っ走るのって……ある意味『死に狂い』だよね」
ケイは虚を突かれたように瞬きをした。
そして、苦笑交じりに頷いた。
「……なるほど。お前の文学的翻訳能力には恐れ入る。
確かに、常朝自身も『葉隠』の中で、忠義を『恋』に例えている箇所があるからな」
3.忍ぶ恋
ミサキがページを捲り、ある箇所を指差した。
「ここだよね。私、この言葉が一番好きかも」
ミサキは静かな声で朗読した。
『恋の至極は、忍ぶ恋と見立て候。逢ひてからは、恋のたけが低く成る事也。一生忍びて思ひ死にする事こそ、恋の本意なれ』
(最高の恋とは、誰にも打ち明けずに心に秘め続ける恋のことだ。両思いになってしまっては、恋の純度が下がってしまう。一生想いを隠したまま、相手を想って死ぬことこそ、恋の本質である)
読み終えて、ミサキはうっとりとした顔をした。
「……すごい美学だよね。見返りを求めない、一方的な献身。
主君に『忠義を認めてほしい』なんて思うのは二流。ただひたすら尽くして、知られずに死ぬのがかっこいい……。
これって、究極の片思い論だよ」
ケイは腕組みをして、天井を仰いだ。
「……ああ。承認欲求の否定だ。
現代人はすぐ『いいね!』を欲しがるが、武士道は『誰にも知られなくていい』と言う。
自我を完全に消滅させ、対象と一体化する。
……確かに、これは美しいな。俺の目指す『純粋な愛』の形に近いかもしれん」
「ふふ、ケイちゃんも『忍ぶ恋』派?」
「……さあな。だが、『逢ひてからは恋のたけが低く成る』というのは否定したい。
俺とお前は両思い(という定義でいいはずだ)だが、俺の熱量は下がるどころか、エントロピー増大の法則に従って拡散・増幅し続けているからな」
ケイが早口で照れ隠しを言うと、ミサキはコロコロと笑った。
「あはは! ケイちゃんの『武士道』は、ちょっと現代風だね」
「うるさい。これは修正版・葉隠だ」
4.現代の侍たち
「でもさ、ケイちゃん」
ミサキは本を閉じ、ケイを見つめた。
「『葉隠』を読むと、毎日を大切にしなきゃって思うよ。
明日、事故に遭うかもしれないし、世界が終わるかもしれない。
そう思ったら、今こうしてケイちゃんと図書室にいる時間が、すごく奇跡みたいに思える」
「……その通りだ」
ケイは真剣な眼差しで返した。
「ハイデガー的に言えば、我々は『時間』という有限な枠組みの中に投げ出されている。
だからこそ、後悔しないように生きる。
……言いたいことは言う。やりたいことはやる。
それが現代における『死に狂い』の実践だ」
「うん。……じゃあ、言いたいこと言うね」
ミサキは身を乗り出し、机の上に置かれたケイの手の上に、自分の手をそっと重ねた。
「……ん?」
「ケイちゃん。ここに寝癖、ついてるよ。……なんか、小動物みたいで可愛い」
ミサキは空いたもう片方の手で、ケイの頭のてっぺんにある跳ねた髪(アホ毛)をちょん、と触った。
「……ッ!?」
ケイは顔を真っ赤にして、バッと手で頭を押さえた。
「そ、そこかよ! もっと高尚な実存的告白かと思っただろうが!」
「えへへ。これも『重大なことは軽く行え』の実践だよ?」
「……クッ、一本取られたな」
ケイは本で顔を半分隠したが、その耳まで赤いのは隠せなかった。
夕暮れの図書室。
死を説く書物は、二人の少女の手によって、生を肯定する愛の書へと読み替えられた。
「忍ぶ恋」も美しいが、こうして手を取り合い、互いの体温や寝癖を笑い合う「現在の恋」もまた、武士たちが命懸けで守ろうとした「平和な日常」の姿なのかもしれない。
「帰ろうか、ミサキ。……明日死ぬとしても後悔しないように、今日は一番美味いラーメンを食うぞ」
「うん! 大盛りでね、お侍様!」
(了)




