表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
放課後倫理学  作者: 紅茶
37/37

葉隠

1.武士道とハイデガー

放課後の図書室。

西日が差し込むいつもの席で、ミサキが文庫本を閉じ、ふぅと深いため息をついた。

手元にあるのは『葉隠(現代語訳)』だ。

「……ねぇ、ケイちゃん。江戸時代の武士って、すごく大変だったんだね」

向かいでドイツ語の原書を読んでいたケイが、顔を上げた。

「唐突だな。山本常朝の『葉隠』か。……何がそんなに大変なんだ?」

「だって、毎朝起きるたびに『死ぬこと』をシミュレーションするんでしょ?

弓矢で射られたり、刀で斬られたり、波にのまれたり……。そんな風に、毎朝自分が死ぬ想像をしてから一日を始めるなんて、私なら鬱になっちゃうよ」

ミサキが眉を下げて言うと、ケイは読みかけのページに指を挟み、薄く笑った。

「有名な一節だな。『毎朝毎夕、改めては死に、改めては死に』……。

だがミサキ、それは悲観主義ペシミズムとは違う。むしろ逆だ。それはハイデガーの言う『死への先駆』の実践だよ」

「死への……せんく?」

「ああ。人間は、いつか死ぬという事実から目を背けて、日常の瑣末なことに逃げ込む。それを『頽落たいらく』と言うんだが……武士は違う。

毎朝、死という絶対的な限界を直視し、受け入れることで、逆説的に『今、生きているこの瞬間』の純度を高めているんだ。

『いつ死んでも後悔しないように、今この瞬間に全力を尽くす』。これは究極の実存主義だよ」

ケイの熱弁に、ミサキは少し考え込み、また本を開いた。

「うーん……。理屈はわかるけど、やっぱり切ないなぁ。

主君のために死ぬことが『武士の本懐』だなんて。自分の人生なのに、誰かのために使い捨てにされちゃうみたいで」

2.ロジックと死に狂い

「そこが『葉隠』の過激で面白いところだ」

ケイは身を乗り出した。

「実はな、『葉隠』は理屈ロジックを嫌っているんだ。

『分別ふんべつ風情(知識や常識)』は、いざという時に迷いを生む。人間、賢くなると『死にたくない』とか『損をしたくない』と計算してしまうからな。

だから常朝は言う。『死に狂い』になれ、と」

「死に狂い……?」

「そう。理性を捨てて、狂気的なまでの情熱で突き進むことだ。

『重大なことは、軽い気持ちでサラッと行え』とも言っている。

論理的に考えたら『死ぬのは損』だ。でも、その損得勘定を超えたところにしか、本当の『義』や『美』はないと説いているんだ」

ミサキはぽつりと呟いた。

「……それって、ちょっと『恋』に似てるかも」

「恋?」

「うん。計算高い恋なんて、本当の恋じゃないもん。

『振られたら損だ』とか『この人に尽くしてもメリットがない』なんて考えてたら、誰も好きになれないよ。

周りから見たら『バカだなぁ』って思われるくらい、夢中になって突っ走るのって……ある意味『死に狂い』だよね」

ケイは虚を突かれたように瞬きをした。

そして、苦笑交じりに頷いた。

「……なるほど。お前の文学的翻訳能力には恐れ入る。

確かに、常朝自身も『葉隠』の中で、忠義を『恋』に例えている箇所があるからな」

3.忍ぶ恋

ミサキがページを捲り、ある箇所を指差した。

「ここだよね。私、この言葉が一番好きかも」

ミサキは静かな声で朗読した。

『恋の至極は、忍ぶ恋と見立て候。逢ひてからは、恋のたけが低く成る事也。一生忍びて思ひ死にする事こそ、恋の本意なれ』

(最高の恋とは、誰にも打ち明けずに心に秘め続ける恋のことだ。両思いになってしまっては、恋の純度が下がってしまう。一生想いを隠したまま、相手を想って死ぬことこそ、恋の本質である)

読み終えて、ミサキはうっとりとした顔をした。

「……すごい美学だよね。見返りを求めない、一方的な献身。

主君に『忠義を認めてほしい』なんて思うのは二流。ただひたすら尽くして、知られずに死ぬのがかっこいい……。

これって、究極の片思い論だよ」

ケイは腕組みをして、天井を仰いだ。

「……ああ。承認欲求の否定だ。

現代人はすぐ『いいね!』を欲しがるが、武士道は『誰にも知られなくていい』と言う。

自我エゴを完全に消滅させ、対象と一体化する。

……確かに、これは美しいな。俺の目指す『純粋な愛』の形に近いかもしれん」

「ふふ、ケイちゃんも『忍ぶ恋』派?」

「……さあな。だが、『逢ひてからは恋のたけが低く成る』というのは否定したい。

俺とお前は両思い(という定義でいいはずだ)だが、俺の熱量は下がるどころか、エントロピー増大の法則に従って拡散・増幅し続けているからな」

ケイが早口で照れ隠しを言うと、ミサキはコロコロと笑った。

「あはは! ケイちゃんの『武士道』は、ちょっと現代風だね」

「うるさい。これは修正版・葉隠だ」

4.現代の侍たち

「でもさ、ケイちゃん」

ミサキは本を閉じ、ケイを見つめた。

「『葉隠』を読むと、毎日を大切にしなきゃって思うよ。

明日、事故に遭うかもしれないし、世界が終わるかもしれない。

そう思ったら、今こうしてケイちゃんと図書室にいる時間が、すごく奇跡みたいに思える」

「……その通りだ」

ケイは真剣な眼差しで返した。

「ハイデガー的に言えば、我々は『時間』という有限な枠組みの中に投げ出されている。

だからこそ、後悔しないように生きる。

……言いたいことは言う。やりたいことはやる。

それが現代における『死に狂い』の実践だ」

「うん。……じゃあ、言いたいこと言うね」

ミサキは身を乗り出し、机の上に置かれたケイの手の上に、自分の手をそっと重ねた。

「……ん?」

「ケイちゃん。ここに寝癖、ついてるよ。……なんか、小動物みたいで可愛い」

ミサキは空いたもう片方の手で、ケイの頭のてっぺんにある跳ねた髪(アホ毛)をちょん、と触った。

「……ッ!?」

ケイは顔を真っ赤にして、バッと手で頭を押さえた。

「そ、そこかよ! もっと高尚な実存的告白かと思っただろうが!」

「えへへ。これも『重大なことは軽く行え』の実践だよ?」

「……クッ、一本取られたな」

ケイは本で顔を半分隠したが、その耳まで赤いのは隠せなかった。

夕暮れの図書室。

死を説く書物は、二人の少女の手によって、生を肯定する愛の書へと読み替えられた。

「忍ぶ恋」も美しいが、こうして手を取り合い、互いの体温や寝癖を笑い合う「現在の恋」もまた、武士たちが命懸けで守ろうとした「平和な日常」の姿なのかもしれない。

「帰ろうか、ミサキ。……明日死ぬとしても後悔しないように、今日は一番美味いラーメンを食うぞ」

「うん! 大盛りでね、お侍様!」

(了)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ