観測者僕の文化祭
1.熱気の外側にて
「最後尾はこちらでーす! 現在、90分待ちとなっておりまーす!」
僕の声が、廊下の喧騒にかき消されそうになる。
手には『精神の迷宮・最後尾』と書かれたプラカード。
額からは汗が流れる。
6月の蒸し暑さと、人口密度300%の廊下の熱気で、制服のシャツは背中に張り付いていた。
文化祭当日、午後1時。
僕たち2年A組の出し物は、異常なほどの盛り上がりを見せていた。
噂によると、副委員長のセナがSNSで巧みな情報操作を行ったらしい。「入場制限間近」というデマ……いや、戦略的広報のおかげで、他校の生徒や一般客が押し寄せているのだ。
教室の中からは、「キャアアアッ!」「無理無理!」という悲鳴と、不気味な重低音のBGMが聞こえてくる。
中では今頃、ケイが暗視ゴーグルをつけて「実存の不安」を演出したり、ミサキちゃんが鏡の中で幽霊を演じたりしているのだろう。
マコトは機材室で涼しい顔をして音響をいじり、セナはインカムで指示を飛ばしているはずだ。
彼らは「戦場」にいる。
ドラマチックで、刺激的で、物語の中心にいる。
対して、僕はここだ。
廊下の隅。行列の最後尾。
やることは単純。プラカードを持って立ち、列を整理し、「押さないでください」と声をかけるだけ。
地味だ。圧倒的に地味だ。
まさに「モブキャラ」の仕事である。
でも。
僕は、この場所が嫌いじゃなかった。
「……すごい人だね」
隣で同じように誘導をしていた女子生徒――佐々木さんが、パタパタと手で顔を仰ぎながら話しかけてきた。
彼女は隣のクラスの子だが、シフトの都合で同じペアになったのだ。
ポニーテールが少し汗で濡れていて、それがなんだか、とても「青春」っぽくてドキッとする。
「うん。セナたちの作戦勝ちだね。……疲れてない? 佐々木さん」
「ううん、大丈夫! お祭りっぽくて楽しいよ」
彼女はニコッと笑った。
その笑顔を見た瞬間、僕の中で、教室内の「哲学的恐怖」も「歴史的拷問」もどうでもよくなった。
僕の世界の重大事件は、今ここにある。
2.ラムネと共有する時間
「あ、そうだ。これ」
佐々木さんがエプロンのポケットから何かを取り出した。
冷えたラムネの瓶だ。2本ある。
「さっき休憩の時に買っておいたの。……はい、お疲れ様」
「えっ、いいの?」
「うん。ずっと声出してくれてたから。喉乾いたでしょ?」
僕はありがたく受け取った。
瓶の表面についた水滴が、手のひらを冷やす。
「……いただきます」
「どうぞー」
二人並んで、ビー玉を押し込む。
プシュッ、という小気味良い音とともに、炭酸の泡が吹き上がる。
廊下の隅、パイプ椅子に座って、二人でラムネを飲む。
周りは行列客でごった返しているけれど、この一角だけは、不思議と平和な空気が流れていた。
「……美味しい」
「ね。生き返る~」
佐々木さんが瓶を傾け、喉を鳴らす。
ふと、教室の方から「うわあああ!」という野太い悲鳴が聞こえた。
「あはは、また誰か叫んでる」
佐々木さんがクスクス笑う。
「ケイちゃんたち、すごいよね。あんな本格的なの作っちゃって。……なんか、私たちとは住む世界が違うみたい」
「そうだね。彼らは主役だから」
僕はラムネのビー玉をカランと鳴らした。
「でもさ、主役ばかりじゃ映画は撮れないよ。僕たちがこうして列を整理しないと、あのお化け屋敷は5分でパンクする」
僕が言うと、佐々木さんは少し驚いた顔をして、それから優しく目を細めた。
「……ふふ、そうだね。私たち、縁の下の力持ちだね」
「うん。……それに」
僕は勇気を出して言った。
「僕は、暗い迷宮の中で叫んでるより、ここで佐々木さんとラムネ飲んでる方が、ずっと楽しいかな」
言った後で、顔が熱くなるのを感じた。
これは、かなり大胆な発言だったかもしれない。
佐々木さんは瞬きをして、それから頬をほんのりピンク色に染めた。
「……私も。こっちの方が好きかも」
3.平和な午後
「最後尾はこちらでーす!」
「足元にお気をつけくださーい!」
休憩を終え、僕たちは再び声を張り上げた。
やることは変わらない。地味なルーチンワークだ。
でも、さっきより声に張りが出ている気がする。
時折、インカムをつけたセナが廊下を疾走していったり(すごい形相だった)、マコトが工具箱を持って走っていったりするのが見えた。
彼らはトラブルと戦っている。
世界の危機(ブレーカー落ち)と戦っている。
頑張れ、主人公たち。
君たちが派手に暴れ回ってくれるおかげで、僕のこの平穏な時間が守られている。
「あ、列が曲がってるよ」
「おっと。……こちら一列にお並びください!」
「ふふ、張り切ってるね」
佐々木さんと目が合う。
二人で笑い合う。
大きな事件は起きない。
誰かが気絶することもないし、愛の告白劇が始まるわけでもない。
ただ、炭酸のようにシュワシュワとした、ささやかな幸福感だけがある。
僕の文化祭は、これでいい。いや、これがいい。
行列の最後尾。
そこは、僕にとっての特等席だった。
(了)




