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放課後倫理学  作者: 紅茶
36/37

観測者僕の文化祭

1.熱気の外側にて

「最後尾はこちらでーす! 現在、90分待ちとなっておりまーす!」

僕の声が、廊下の喧騒にかき消されそうになる。

手には『精神の迷宮・最後尾』と書かれたプラカード。

額からは汗が流れる。

6月の蒸し暑さと、人口密度300%の廊下の熱気で、制服のシャツは背中に張り付いていた。

文化祭当日、午後1時。

僕たち2年A組の出し物は、異常なほどの盛り上がりを見せていた。

噂によると、副委員長のセナがSNSで巧みな情報操作を行ったらしい。「入場制限間近」というデマ……いや、戦略的広報のおかげで、他校の生徒や一般客が押し寄せているのだ。

教室の中からは、「キャアアアッ!」「無理無理!」という悲鳴と、不気味な重低音のBGMが聞こえてくる。

中では今頃、ケイが暗視ゴーグルをつけて「実存の不安」を演出したり、ミサキちゃんが鏡の中で幽霊を演じたりしているのだろう。

マコトは機材室で涼しい顔をして音響をいじり、セナはインカムで指示を飛ばしているはずだ。

彼らは「戦場」にいる。

ドラマチックで、刺激的で、物語の中心にいる。

対して、僕はここだ。

廊下の隅。行列の最後尾。

やることは単純。プラカードを持って立ち、列を整理し、「押さないでください」と声をかけるだけ。

地味だ。圧倒的に地味だ。

まさに「モブキャラ」の仕事である。

でも。

僕は、この場所が嫌いじゃなかった。

「……すごい人だね」

隣で同じように誘導をしていた女子生徒――佐々木さんが、パタパタと手で顔を仰ぎながら話しかけてきた。

彼女は隣のクラスの子だが、シフトの都合で同じペアになったのだ。

ポニーテールが少し汗で濡れていて、それがなんだか、とても「青春」っぽくてドキッとする。

「うん。セナたちの作戦勝ちだね。……疲れてない? 佐々木さん」

「ううん、大丈夫! お祭りっぽくて楽しいよ」

彼女はニコッと笑った。

その笑顔を見た瞬間、僕の中で、教室内の「哲学的恐怖」も「歴史的拷問」もどうでもよくなった。

僕の世界の重大事件は、今ここにある。

2.ラムネと共有する時間

「あ、そうだ。これ」

佐々木さんがエプロンのポケットから何かを取り出した。

冷えたラムネの瓶だ。2本ある。

「さっき休憩の時に買っておいたの。……はい、お疲れ様」

「えっ、いいの?」

「うん。ずっと声出してくれてたから。喉乾いたでしょ?」

僕はありがたく受け取った。

瓶の表面についた水滴が、手のひらを冷やす。

「……いただきます」

「どうぞー」

二人並んで、ビー玉を押し込む。

プシュッ、という小気味良い音とともに、炭酸の泡が吹き上がる。

廊下の隅、パイプ椅子に座って、二人でラムネを飲む。

周りは行列客でごった返しているけれど、この一角だけは、不思議と平和な空気が流れていた。

「……美味しい」

「ね。生き返る~」

佐々木さんが瓶を傾け、喉を鳴らす。

ふと、教室の方から「うわあああ!」という野太い悲鳴が聞こえた。

「あはは、また誰か叫んでる」

佐々木さんがクスクス笑う。

「ケイちゃんたち、すごいよね。あんな本格的なの作っちゃって。……なんか、私たちとは住む世界が違うみたい」

「そうだね。彼らは主役だから」

僕はラムネのビー玉をカランと鳴らした。

「でもさ、主役ばかりじゃ映画は撮れないよ。僕たちがこうして列を整理しないと、あのお化け屋敷は5分でパンクする」

僕が言うと、佐々木さんは少し驚いた顔をして、それから優しく目を細めた。

「……ふふ、そうだね。私たち、縁の下の力持ちだね」

「うん。……それに」

僕は勇気を出して言った。

「僕は、暗い迷宮の中で叫んでるより、ここで佐々木さんとラムネ飲んでる方が、ずっと楽しいかな」

言った後で、顔が熱くなるのを感じた。

これは、かなり大胆な発言だったかもしれない。

佐々木さんは瞬きをして、それから頬をほんのりピンク色に染めた。

「……私も。こっちの方が好きかも」

3.平和な午後

「最後尾はこちらでーす!」

「足元にお気をつけくださーい!」

休憩を終え、僕たちは再び声を張り上げた。

やることは変わらない。地味なルーチンワークだ。

でも、さっきより声に張りが出ている気がする。

時折、インカムをつけたセナが廊下を疾走していったり(すごい形相だった)、マコトが工具箱を持って走っていったりするのが見えた。

彼らはトラブルと戦っている。

世界の危機(ブレーカー落ち)と戦っている。

頑張れ、主人公たち。

君たちが派手に暴れ回ってくれるおかげで、僕のこの平穏な時間が守られている。

「あ、列が曲がってるよ」

「おっと。……こちら一列にお並びください!」

「ふふ、張り切ってるね」

佐々木さんと目が合う。

二人で笑い合う。

大きな事件は起きない。

誰かが気絶することもないし、愛の告白劇が始まるわけでもない。

ただ、炭酸のようにシュワシュワとした、ささやかな幸福感だけがある。

僕の文化祭は、これでいい。いや、これがいい。

行列の最後尾。

そこは、僕にとっての特等席だった。

(了)


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