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放課後倫理学  作者: 紅茶
35/37

文化祭ケイ

1.完全なる闇を求めて

文化祭当日。正午過ぎ。

2年A組『精神の迷宮』のバックヤードは、蒸し風呂のような熱気と、絶え間ない悲鳴に包まれていた。

「……違う。タイミングが遅い」

俺――ケイは、暗視ゴーグルをつけたまま、インカムに向かって低い声で指示を飛ばした。

「第三エリア担当。客が足を踏み出して、息を吸い込んだ瞬間に風を送れ。生理的な驚きではなく、肌にまとわりつくような『不快感』を与えろと言ったはずだ」

『り、了解っす……でもケイちゃん、客の回転早すぎて、タイミング合わせるのが……』

「言い訳は不要だ。世界構築ワールドビルディングに妥協はない」

俺は機材室のパイプ椅子に座り込み、モニターを睨みつけていた。

俺が目指したのは、ハイデガー的な「実存の不安」を呼び覚ます空間だ。

視覚を奪い、聴覚を研ぎ澄ませ、孤独な自己と向き合わせる。

そのために、俺はこの空間の創造主デミウルゴスとして、全ての現象を統御しなければならない。

だが。

現実は、俺の計算を超えていた。

「キャアアアッ! 無理無理!」

「押すなって! 進めよ!」

「うわ、なんか踏んだ!」

マコトの予想通り、客足は途絶えない。

だが、その「量」が問題だった。

俺が想定していた静謐な恐怖は、大衆の喧騒によってただの「パニックアトラクション」へと劣化しようとしている。

俺の愛する哲学的な静寂が、土足で踏み荒らされているような感覚。

「……くそッ」

俺はこめかみを押さえた。

頭痛がする。

無数の足音、悲鳴、空調の唸り音。それらがノイズとなって、俺の脳髄を直接ヤスリで削っていくようだ。

2.論理の亀裂

「ケイちゃん?」

ふと、肩に優しい手が置かれた。

休憩交代で戻ってきたミサキだ。彼女は幽霊役の白いワンピースを着ているが、その表情は心配そうに曇っている。

「顔色が悪いよ。……少し休まない?」

ミサキが冷えた麦茶を差し出してくる。

「……不要だ」

俺はモニターから目を離さずに答えた。

「今、俺がここを離れたら、この迷宮はただの『お化け屋敷』に成り下がる。セナの拷問器具だけに頼るような、浅薄な見世物になってたまるか」

「でも……手が震えてる」

ミサキが俺の手をそっと握った。

その手は温かかったが、今の俺にはその温かさすら、過剰な刺激インプットに感じられた。

「触るな……ッ」

俺は反射的に手を振り払ってしまった。

「あ……」

ミサキが驚いたように手を引っ込める。

「……すまん」

俺はすぐに後悔した。

「神経が……過敏になっているだけだ。俺は大丈夫だ。理性の力で統御できている」

嘘だった。

視界が少し歪んでいる。

論理の防壁が、物理的な疲労と感覚過多によって、メキメキと音を立ててひび割れ始めていた。

「……わかった。でも、無理だけはしないでね」

ミサキは悲しげに眉を下げ、持ち場へと戻っていった。

その背中を見送りながら、俺は自己嫌悪に陥った。

世界を支配するどころか、自分の感情すら制御できていない。

俺は哲学者失格だ。

(第1話・了)

タイトル:『文化祭事変・側面史(ケイ・ミサキ編)② ~ノイズの海と、崩壊する自我~』

1.嘔吐ラ・ナオゼ

午後2時。ピークタイム。

『精神の迷宮』の待ち時間は90分を超えていた。

教室の外まで行列が溢れ、廊下のざわめきが壁を通して響いてくる。

俺の限界は、唐突に訪れた。

インカムから流れる複数の報告。

『第二エリア、ライトの接触不良!』

『第三エリアで客が過呼吸! 救護班!』

『BGMのループがズレてます!』

情報の洪水。

処理しきれない変数の乱舞。

俺の中で、何かがプツンと切れた。

「……う、っ……」

強烈な吐き気が込み上げてきた。

サルトルが『嘔吐』で描いたような、世界の存在そのものが粘着質を持って迫ってくる感覚。

壁のシミが、パイプ椅子の冷たさが、空気中の埃が、すべてが「意味」を失った物質として俺に圧し掛かる。

「……はぁ、はぁ……ッ」

俺は椅子から転げ落ち、膝をついた。

息がうまく吸えない。

視界がホワイトアウトする。

世界が回る。

誰か、音を止めてくれ。

誰か、俺を「無」にしてくれ。

「ケイちゃん!!」

遠くで声がした気がした。

誰かが駆け寄ってくる足音。

そして、俺の体を包み込む、柔らかい匂い。

2.アリアドネの糸

「……しっかりして! 息を吸って!」

目を開けると、ミサキの顔が至近距離にあった。

彼女は俺の背中をさすりながら、必死に呼びかけている。

「ミ……サキ……」

「ダメだ、ここはうるさすぎる。……行こう、ケイちゃん」

ミサキは俺の腕を肩に回し、無理やり立たせた。

華奢な彼女のどこにそんな力があるのかと思うほど、強く、確かな力で。

「どこへ……俺は、管理を……」

「もういいの! 今は、ケイちゃん自身を守らなきゃ!」

ミサキは強い口調で言った。

普段はおっとりしている彼女の、初めて見る「拒絶」の表情。

それは、世界から俺を引き剥がそうとする、母性的な強さだった。

彼女は俺を引きずるようにして、裏口から廊下へ出た。

廊下もまた、喧騒の海だ。

だが、ミサキは迷わなかった。

人混みをかき分け、俺の手を強く握りしめ、一直線にある場所を目指して進んでいく。

その背中は、迷宮ラビリンスでテセウスを導いたアリアドネのように見えた。

俺の論理が迷子になった時、彼女の「物語(直感)」だけが、出口を知っているのだ。

「……もう少しだから。頑張って」

彼女の声が、ノイズの中で唯一の「意味ある音」として、俺の鼓膜に届いていた。

(第2話・了)

タイトル:『文化祭事変・側面史(ケイ・ミサキ編)③ ~書物の森と、アリアドネの膝枕~』

1.静寂の聖域

辿り着いたのは、図書室だった。

重厚な扉が閉まると同時に、外の喧騒が嘘のように遮断された。

冷房の効いた涼しい空気。

古紙とインクの匂い。

「……ここなら、大丈夫」

ミサキは俺を、特設コーナー『本の迷宮』の最奥にあるスペースへと連れて行った。

本棚に囲まれた、死角のような場所。

そこに置かれた長椅子に、俺を座らせる。

「……はぁ、はぁ……」

俺は荒い呼吸を繰り返していたが、心臓の早鐘は少しずつ落ち着きを取り戻していた。

ここは俺たちの聖域だ。

情報過多な現実から守られた、言葉の要塞。

ミサキは温かい紅茶を持ってきて、俺に持たせた。

「飲んで。少し落ち着くから」

俺は震える手でカップを口に運んだ。

温かい液体が喉を通り、凍りついていた内臓を溶かしていく。

「……すまん、ミサキ。俺は……」

俺は項垂れた。

「情けない。デミウルゴス気取りで、自分のキャパシティすら把握できていなかった。……ただの、無力な子供だ」

自己嫌悪で涙が出そうになる。

論理で武装していた鎧が剥がれ落ち、中身の脆い自我が晒されている気分だ。

2.物語による治癒

「……ううん。ケイちゃんは子供じゃないよ」

ミサキが隣に座り、そっと俺の頭を引き寄せた。

抵抗する気力もなく、俺は彼女の膝に頭を預けた。

柔らかい感触。

白いワンピースの布地越しに、体温が伝わってくる。

「ケイちゃんは、誰よりも繊細なだけ。世界の音を全部拾っちゃう高性能なアンテナだから……たまに、スイッチを切らなきゃいけないの」

ミサキは俺の髪を優しく梳きながら、近くにあった本を手に取った。

それは、彼女が選んだ絵本『モモ』だった。

「……聞いててね」

彼女は静かに朗読を始めた。

抑揚の効いた、鈴を転がすような声。

『時間は、生きるということ、そのものなのです。そして、人のいのちは心を住みかとしているのです』

その声は、論理的な意味を超えて、音楽のように俺の中に染み込んでいった。

カントの批判も、ヘーゲルの弁証法もいらない。

ただ、肯定的な「物語」のリズムだけが、ささくれ立った俺の神経を修復していく。

「……ミサキ」

「ん?」

「……お前の声は、いいな」

「ふふ、ありがとう」

俺は目を閉じた。

暗闇はもう怖くない。

そこには「無」ではなく、ミサキという「存在」があるからだ。

3.再起の時

どれくらい時間が経っただろうか。

俺の呼吸は完全に整い、頭の中の霧も晴れていた。

「……復活したか?」

「うん。顔色、良くなったよ」

俺は身を起こし、眼鏡をかけ直した。

膝枕の温もりが消えて少し寂しかったが、今はそれ以上に、身体の芯に力が満ちているのを感じた。

「……ありがとう、ミサキ。お前がいなかったら、俺は今頃バックヤードで廃人になっていた」

「どういたしまして。……私ね、役に立てて嬉しいの」

ミサキははにかんだ。

「いつもはケイちゃんが、難しい言葉で私を守ってくれるから。今日は私が、物語でケイちゃんを守りたかったんだ」

「……ああ。お前は最強の守護者だ」

俺は立ち上がり、作業着の埃を払った。

時計を見る。もうすぐ16時。

校長へのプレゼンの時間が迫っている。

「さて。行くか、ミサキ」

俺は彼女に手を差し出した。

「俺たちの『迷宮』がどれほど素晴らしいか、あの堅物校長に論理的に叩き込んでやる。……お前の選んだ本の力も借りてな」

「うん! 行こう、ケイちゃん!」

ミサキが俺の手を握り返す。

その手は小さくて柔らかいが、俺を現実世界に繋ぎ止めるための、何よりも強靭な「命綱」だった。

俺たちは図書室を出た。

扉の向こうには、まだ祭りの熱狂が待っている。

だが、もう恐れることはない。

俺の隣には、世界を翻訳してくれる「語り部」がいるのだから。


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