文化祭ケイ
1.完全なる闇を求めて
文化祭当日。正午過ぎ。
2年A組『精神の迷宮』のバックヤードは、蒸し風呂のような熱気と、絶え間ない悲鳴に包まれていた。
「……違う。タイミングが遅い」
俺――ケイは、暗視ゴーグルをつけたまま、インカムに向かって低い声で指示を飛ばした。
「第三エリア担当。客が足を踏み出して、息を吸い込んだ瞬間に風を送れ。生理的な驚きではなく、肌にまとわりつくような『不快感』を与えろと言ったはずだ」
『り、了解っす……でもケイちゃん、客の回転早すぎて、タイミング合わせるのが……』
「言い訳は不要だ。世界構築に妥協はない」
俺は機材室のパイプ椅子に座り込み、モニターを睨みつけていた。
俺が目指したのは、ハイデガー的な「実存の不安」を呼び覚ます空間だ。
視覚を奪い、聴覚を研ぎ澄ませ、孤独な自己と向き合わせる。
そのために、俺はこの空間の創造主として、全ての現象を統御しなければならない。
だが。
現実は、俺の計算を超えていた。
「キャアアアッ! 無理無理!」
「押すなって! 進めよ!」
「うわ、なんか踏んだ!」
マコトの予想通り、客足は途絶えない。
だが、その「量」が問題だった。
俺が想定していた静謐な恐怖は、大衆の喧騒によってただの「パニックアトラクション」へと劣化しようとしている。
俺の愛する哲学的な静寂が、土足で踏み荒らされているような感覚。
「……くそッ」
俺はこめかみを押さえた。
頭痛がする。
無数の足音、悲鳴、空調の唸り音。それらがノイズとなって、俺の脳髄を直接ヤスリで削っていくようだ。
2.論理の亀裂
「ケイちゃん?」
ふと、肩に優しい手が置かれた。
休憩交代で戻ってきたミサキだ。彼女は幽霊役の白いワンピースを着ているが、その表情は心配そうに曇っている。
「顔色が悪いよ。……少し休まない?」
ミサキが冷えた麦茶を差し出してくる。
「……不要だ」
俺はモニターから目を離さずに答えた。
「今、俺がここを離れたら、この迷宮はただの『お化け屋敷』に成り下がる。セナの拷問器具だけに頼るような、浅薄な見世物になってたまるか」
「でも……手が震えてる」
ミサキが俺の手をそっと握った。
その手は温かかったが、今の俺にはその温かさすら、過剰な刺激に感じられた。
「触るな……ッ」
俺は反射的に手を振り払ってしまった。
「あ……」
ミサキが驚いたように手を引っ込める。
「……すまん」
俺はすぐに後悔した。
「神経が……過敏になっているだけだ。俺は大丈夫だ。理性の力で統御できている」
嘘だった。
視界が少し歪んでいる。
論理の防壁が、物理的な疲労と感覚過多によって、メキメキと音を立ててひび割れ始めていた。
「……わかった。でも、無理だけはしないでね」
ミサキは悲しげに眉を下げ、持ち場へと戻っていった。
その背中を見送りながら、俺は自己嫌悪に陥った。
世界を支配するどころか、自分の感情すら制御できていない。
俺は哲学者失格だ。
(第1話・了)
タイトル:『文化祭事変・側面史(ケイ・ミサキ編)② ~ノイズの海と、崩壊する自我~』
1.嘔吐
午後2時。ピークタイム。
『精神の迷宮』の待ち時間は90分を超えていた。
教室の外まで行列が溢れ、廊下のざわめきが壁を通して響いてくる。
俺の限界は、唐突に訪れた。
インカムから流れる複数の報告。
『第二エリア、ライトの接触不良!』
『第三エリアで客が過呼吸! 救護班!』
『BGMのループがズレてます!』
情報の洪水。
処理しきれない変数の乱舞。
俺の中で、何かがプツンと切れた。
「……う、っ……」
強烈な吐き気が込み上げてきた。
サルトルが『嘔吐』で描いたような、世界の存在そのものが粘着質を持って迫ってくる感覚。
壁のシミが、パイプ椅子の冷たさが、空気中の埃が、すべてが「意味」を失った物質として俺に圧し掛かる。
「……はぁ、はぁ……ッ」
俺は椅子から転げ落ち、膝をついた。
息がうまく吸えない。
視界がホワイトアウトする。
世界が回る。
誰か、音を止めてくれ。
誰か、俺を「無」にしてくれ。
「ケイちゃん!!」
遠くで声がした気がした。
誰かが駆け寄ってくる足音。
そして、俺の体を包み込む、柔らかい匂い。
2.アリアドネの糸
「……しっかりして! 息を吸って!」
目を開けると、ミサキの顔が至近距離にあった。
彼女は俺の背中をさすりながら、必死に呼びかけている。
「ミ……サキ……」
「ダメだ、ここはうるさすぎる。……行こう、ケイちゃん」
ミサキは俺の腕を肩に回し、無理やり立たせた。
華奢な彼女のどこにそんな力があるのかと思うほど、強く、確かな力で。
「どこへ……俺は、管理を……」
「もういいの! 今は、ケイちゃん自身を守らなきゃ!」
ミサキは強い口調で言った。
普段はおっとりしている彼女の、初めて見る「拒絶」の表情。
それは、世界から俺を引き剥がそうとする、母性的な強さだった。
彼女は俺を引きずるようにして、裏口から廊下へ出た。
廊下もまた、喧騒の海だ。
だが、ミサキは迷わなかった。
人混みをかき分け、俺の手を強く握りしめ、一直線にある場所を目指して進んでいく。
その背中は、迷宮でテセウスを導いたアリアドネのように見えた。
俺の論理が迷子になった時、彼女の「物語(直感)」だけが、出口を知っているのだ。
「……もう少しだから。頑張って」
彼女の声が、ノイズの中で唯一の「意味ある音」として、俺の鼓膜に届いていた。
(第2話・了)
タイトル:『文化祭事変・側面史(ケイ・ミサキ編)③ ~書物の森と、アリアドネの膝枕~』
1.静寂の聖域
辿り着いたのは、図書室だった。
重厚な扉が閉まると同時に、外の喧騒が嘘のように遮断された。
冷房の効いた涼しい空気。
古紙とインクの匂い。
「……ここなら、大丈夫」
ミサキは俺を、特設コーナー『本の迷宮』の最奥にあるスペースへと連れて行った。
本棚に囲まれた、死角のような場所。
そこに置かれた長椅子に、俺を座らせる。
「……はぁ、はぁ……」
俺は荒い呼吸を繰り返していたが、心臓の早鐘は少しずつ落ち着きを取り戻していた。
ここは俺たちの聖域だ。
情報過多な現実から守られた、言葉の要塞。
ミサキは温かい紅茶を持ってきて、俺に持たせた。
「飲んで。少し落ち着くから」
俺は震える手でカップを口に運んだ。
温かい液体が喉を通り、凍りついていた内臓を溶かしていく。
「……すまん、ミサキ。俺は……」
俺は項垂れた。
「情けない。デミウルゴス気取りで、自分のキャパシティすら把握できていなかった。……ただの、無力な子供だ」
自己嫌悪で涙が出そうになる。
論理で武装していた鎧が剥がれ落ち、中身の脆い自我が晒されている気分だ。
2.物語による治癒
「……ううん。ケイちゃんは子供じゃないよ」
ミサキが隣に座り、そっと俺の頭を引き寄せた。
抵抗する気力もなく、俺は彼女の膝に頭を預けた。
柔らかい感触。
白いワンピースの布地越しに、体温が伝わってくる。
「ケイちゃんは、誰よりも繊細なだけ。世界の音を全部拾っちゃう高性能なアンテナだから……たまに、スイッチを切らなきゃいけないの」
ミサキは俺の髪を優しく梳きながら、近くにあった本を手に取った。
それは、彼女が選んだ絵本『モモ』だった。
「……聞いててね」
彼女は静かに朗読を始めた。
抑揚の効いた、鈴を転がすような声。
『時間は、生きるということ、そのものなのです。そして、人のいのちは心を住みかとしているのです』
その声は、論理的な意味を超えて、音楽のように俺の中に染み込んでいった。
カントの批判も、ヘーゲルの弁証法もいらない。
ただ、肯定的な「物語」のリズムだけが、ささくれ立った俺の神経を修復していく。
「……ミサキ」
「ん?」
「……お前の声は、いいな」
「ふふ、ありがとう」
俺は目を閉じた。
暗闇はもう怖くない。
そこには「無」ではなく、ミサキという「存在」があるからだ。
3.再起の時
どれくらい時間が経っただろうか。
俺の呼吸は完全に整い、頭の中の霧も晴れていた。
「……復活したか?」
「うん。顔色、良くなったよ」
俺は身を起こし、眼鏡をかけ直した。
膝枕の温もりが消えて少し寂しかったが、今はそれ以上に、身体の芯に力が満ちているのを感じた。
「……ありがとう、ミサキ。お前がいなかったら、俺は今頃バックヤードで廃人になっていた」
「どういたしまして。……私ね、役に立てて嬉しいの」
ミサキははにかんだ。
「いつもはケイちゃんが、難しい言葉で私を守ってくれるから。今日は私が、物語でケイちゃんを守りたかったんだ」
「……ああ。お前は最強の守護者だ」
俺は立ち上がり、作業着の埃を払った。
時計を見る。もうすぐ16時。
校長へのプレゼンの時間が迫っている。
「さて。行くか、ミサキ」
俺は彼女に手を差し出した。
「俺たちの『迷宮』がどれほど素晴らしいか、あの堅物校長に論理的に叩き込んでやる。……お前の選んだ本の力も借りてな」
「うん! 行こう、ケイちゃん!」
ミサキが俺の手を握り返す。
その手は小さくて柔らかいが、俺を現実世界に繋ぎ止めるための、何よりも強靭な「命綱」だった。
俺たちは図書室を出た。
扉の向こうには、まだ祭りの熱狂が待っている。
だが、もう恐れることはない。
俺の隣には、世界を翻訳してくれる「語り部」がいるのだから。




