夏休み②
1.エントロピーの増大する回廊にて
夏休み二日目。
私――マコトは、近所の大型ショッピングモールに来ていた。
目的は、生徒会合宿およびクラスの海旅行に向けた、備品の買い出しである。
「……紙皿、紙コップ、虫除けスプレー、そして大量のカレールー」
スマホのリストを確認しながら、私はカートを押す。
冷房の効いた館内は、夏休みに入ったばかりの家族連れでごった返していた。
あちこちで子供が走り回り、親が叫び、ベビーカーが行き交う。
「やれやれ。熱力学第二法則の通りですね。閉じた系の中では、エントロピー(無秩序)は増大する一方だ」
人混みを避けて、少し閑散としたインテリアコーナーの通路に入った時だった。
私の視界に、奇妙な「静寂」が入ってきた。
ソファ売り場の真ん中に、一人の少女が立っていた。
年齢は5歳くらいだろうか。
フリルのついた可愛らしいワンピースを着ているが、その立ち姿は彫像のように微動だにしない。
泣いているわけでも、親を探してキョロキョロしているわけでもない。
ただ腕組みをして、眉間に深い皺を寄せ、床のフロアガイド(地図)を凝視している。
(……迷子、でしょうか?)
私はディズニーランドでの経験(セナ直伝の保育スキル)を思い出し、声をかけることにした。
しゃがみ込み、目線を合わせる。
「こんにちは、お嬢さん。どうしました? お母さんとはぐれましたか?」
少女はゆっくりと顔を上げ、私を見た。
その瞳は、5歳児とは思えないほど冷徹で、分析的だった。
「……貴様、誰だ?」
開口一番、それだった。
「えっ……私は通りすがりの高校生ですが」
「ふん。まあいい。使えるリソースなら、一般人でも利用するのが統治者の務めだもの」
少女は私を上から下まで値踏みし、フッと鼻を鳴らした。
「丁度いいわ。貴様、私を抱き上げなさい。視点が低すぎて、全体構造が把握できないのよ」
「……は?」
この既視感。
上から目線の命令口調。人を道具扱いする態度。
私の脳裏に、ある人物――セナの顔が浮かんだ。
だが、目の前の少女はさらにタチが悪そうだった。
2.シュレーディンガーの姉
私は言われるがまま、少女を抱き上げた。
軽い。まるで羽毛だ。だが態度は岩のように重い。
「ほう。高いわね。位置エネルギーが増大した気分はどう?」
少女は私の腕の中で、満足げにモールを見渡した。
「……あの、お嬢さん。やはり迷子なんですよね?」
私が確認すると、少女は心外そうに眉をひそめた。
「訂正しなさい。私は『観測不能状態』にあるだけよ」
「観測不能?」
「ええ。姉上が目を離した隙に、私がこちらの座標に移動した。現在、姉上にとって私は『ここにいるかもしれないし、いないかもしれない』という重ね合わせの状態にある。つまり、私はシュレーディンガーの猫ならぬ、シュレーディンガーの妹というわけ」
……なんだこの子供は。
5歳児の口から量子力学の用語が出てきた。
思考回路はケイ(理屈屋)に近いが、その傲慢な態度はセナ(女帝)そのものだ。
最強最悪のハイブリッド種だ。
「……なるほど。では、その『姉上』という観測者を見つけないと、君の実存は確定しないわけですね」
私が合わせると、少女はニヤリと笑った。
「貴様、意外と話が通じるじゃない。採用してあげるわ」
少女は私の胸元を指差した。
「報酬として、まずは私に糖分を供給しなさい。脳のグルコースが枯渇しているの。あそこの自販機で、リンゴジュース(果汁100%に限る)を献上せよ」
「……御意、小さなお嬢様」
私は完全に「従者モード」に切り替えた。
セナに鍛えられたおかげで、この手のワガママへの耐性はついている。
3.ベクトル解析による捜索
リンゴジュースを飲みながら、少女――名前を聞いたら**「ルナ」**と名乗った――は、冷静に状況分析を始めた。
「いい? 一般人。姉上の行動パターンを数式化するわよ」
ルナちゃんはストローを咥えながら言った。
「姉上は直情的で、エネルギー効率が悪い。私がいないと気づいたら、まずはパニックを起こし、次に音速で移動を開始するはずよ」
「音速ですか」
「ええ。運動エネルギーは K = \frac{1}{2}mv^2 。姉上の質量と焦燥感を掛け合わせれば、相当な破壊力でこのモール内を移動していると推測されるわ」
彼女の説明は、ケイよりも物理学的で、セナよりも辛辣だった。
「そして、もう一つの変数があるの」
ルナちゃんは溜息をついた。
「私の片割れ……双子の弟のソルよ。あいつはバカだから、姉上と一緒に走り回っているか、あるいは別の場所でカオスを引き起こしている可能性が高いわ」
「双子の弟……」
私は確信に近づいていた。
セナが言っていた「5歳の双子」。
名前もルナ(月)とソル(太陽)。セナ(星)と合わせて、天体シリーズか。
間違いなく、彼女の妹だ。
「ではルナちゃん。君の計算によると、お姉さんはどこにいる確率が高いですか?」
「ふふん。簡単よ」
ルナちゃんはインフォメーションカウンターの方を指差した。
「姉上はプライドが高いから、放送で呼び出すことは『敗北』だと思って避けるはず。でも、弟が泣き出したら、仕方なくカウンターへ向かう……。今の時刻と弟の空腹係数を計算すれば、そろそろあの辺りに出現するはずよ」
「……末恐ろしい5歳児ですね」
私たちはインフォメーションカウンターが見えるベンチで張り込みを開始した。
ルナちゃんは私の膝の上に座り、悠々とジュースを飲んでいる。
「ねぇ、一般人」
「マコトです」
「マコト。貴様の抱き心地、悪くないわね。クッション係数0.8ってところかしら」
「それは光栄です」
「……姉上の彼氏は、どんな奴なのかしらね」
ルナちゃんが不意に呟いた。
「姉上、最近家でニヤニヤしてて気持ち悪いのよ。『宰相』とか呼んでるし。……きっと、貴様みたいな、言いなりになる軟弱な男なんでしょうね」
私は思わず吹き出しそうになった。
「そうかもしれませんね。きっとその『宰相』も、毎日大変な思いをしていると思いますよ」
「同情するわ。姉上の支配欲はブラックホール並みだもの」
4.事象の地平線での再会
数分後。
ルナちゃんの予測通り、事象は発生した。
「すいません! このくらいの背丈の、生意気そうな女の子を見ませんでしたか!?」
カウンターに駆け込んできたのは、帽子を目深に被り、サングラスをした女性。
変装しているつもりだろうが、その滲み出るオーラと、足元のハイヒールですぐにわかった。
セナだ。
そしてその横には、ソフトクリームを顔中に塗りたくって泣きじゃくる男の子(弟のソル君だろう)がいる。
「……予測通りね。偏差値の低い行動だわ」
ルナちゃんが私の膝の上で呆れている。
私はルナちゃんを抱いたまま、立ち上がった。
「行きましょうか。お姉さんのお迎えです」
私はセナの背後に近づき、声をかけた。
「……お困りのようですね、お嬢様?」
セナがビクッとして振り返る。
サングラス越しでもわかるほど、彼女の目が点になった。
「は……? マコト……!?」
そして、私の腕の中にいる少女を見て、さらに驚愕した。
「ルナ!? なんであんたがマコトに抱っこされてんのよ!」
「遅いわよ、姉上」
ルナちゃんは私の腕から、冷ややかな視線を送った。
「貴女の捜索アルゴリズムはお粗末ね。この一般人がいなければ、私は今頃、エントロピーの彼方に消えていたわよ」
「なっ……! あんたが勝手に消えたんでしょ!」
セナは激昂し、それからハッと我に返って周囲を見た。
「い、いや、これは違うのよマコト! これは私の管理能力不足ではなく、不可抗力的なカオスで……!」
私が「宰相」であるとバレてはマズいのか、あるいは単に恥ずかしいのか。
セナは顔を真っ赤にして弁解を始めた。
私は苦笑し、ルナちゃんを地面に下ろした。
「大丈夫ですよ、セナ。事情はルナちゃんから聞きました。『観測不能状態』だったそうですね」
「……あんた、こいつの屁理屈を理解したの?」
セナは呆れ顔だ。
「ええ。誰かさん(ケイ)のおかげで、この手の会話には慣れていますから」
私はしゃがみ込み、弟のソル君にもハンカチを渡した。
「君も大変だったね。……これで顔を拭いて」
「ありがとー! おにいちゃん、やさしい!」
ソル君は無邪気に笑った。こちらは素直な子のようだ。
5.ミニチュア女帝の評価
「……たく、世話かけたわね」
セナはサングラスを外し、疲れた顔で溜息をついた。
「まさか、あんたに妹まで拾われるなんて。……私の一族は、あんたに借りを作りすぎだわ」
「いいえ。合宿の買い出しついでですから」
私はカートを示した。
「それに、ルナちゃんとの会話は有意義でしたよ。物理学と統治論の講義を受けていました」
「……変なこと吹き込んでないでしょうね、ルナ」
セナが妹を睨む。
ルナちゃんは腕組みをして、私を見上げた。
そして、ニヤリと笑った。
「姉上。この男、合格よ」
「は?」
「クッション性、忍耐力、そして私の高尚な会話についてくる知性。……姉上の『宰相』にしては、上出来なんじゃない?」
ルナちゃんの言葉に、セナの顔が爆発しそうなほど赤くなった。
「なっ、ななな……! こいつが宰相だなんて、誰が……!」
「隠しても無駄よ。私の観測結果と、姉上のニヤニヤ顔のデータが一致しているもの」
ルナちゃんは私に向かって手を差し出した。
「マコト。姉上に飽きたら、私の従者になりなさい。今の姉上より、私の方が将来性は高いわよ?」
「こらルナ! マコトは私のものよ! 誰にも渡さないわよ!」
セナが慌てて私の腕を掴んだ。
「行くわよマコト! 荷物持ちを手伝いなさい! 罰として、こいつら(怪獣たち)のお守りも追加よ!」
「やれやれ。……御意、女王陛下たち」
私は二人の「女帝」に挟まれ、さらに足元にはソル君がまとわりつく。
騒がしくて、論理的で、そして愛おしいカオス。
私の夏休みは、どうやら退屈する暇はなさそうだ。
帰り際、ルナちゃんが耳元で囁いた。
「……リンゴジュース、美味しかったわ。借りは作らない主義だから、今度、姉上の弱点教えてあげる」
「……それは是非、詳しくお願いしたいですね」
私はセナにバレないように、小さな共犯者とウィンクを交わした。
どうやら私は、この最強の姉妹に、骨の髄まで支配される運命にあるらしい。
(了)




