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放課後倫理学  作者: 紅茶
33/37

夏休み②

1.エントロピーの増大する回廊にて

夏休み二日目。

私――マコトは、近所の大型ショッピングモールに来ていた。

目的は、生徒会合宿およびクラスの海旅行に向けた、備品の買い出しである。

「……紙皿、紙コップ、虫除けスプレー、そして大量のカレールー」

スマホのリストを確認しながら、私はカートを押す。

冷房の効いた館内は、夏休みに入ったばかりの家族連れでごった返していた。

あちこちで子供が走り回り、親が叫び、ベビーカーが行き交う。

「やれやれ。熱力学第二法則の通りですね。閉じたモールの中では、エントロピー(無秩序)は増大する一方だ」

人混みを避けて、少し閑散としたインテリアコーナーの通路に入った時だった。

私の視界に、奇妙な「静寂」が入ってきた。

ソファ売り場の真ん中に、一人の少女が立っていた。

年齢は5歳くらいだろうか。

フリルのついた可愛らしいワンピースを着ているが、その立ち姿は彫像のように微動だにしない。

泣いているわけでも、親を探してキョロキョロしているわけでもない。

ただ腕組みをして、眉間に深い皺を寄せ、床のフロアガイド(地図)を凝視している。

(……迷子、でしょうか?)

私はディズニーランドでの経験(セナ直伝の保育スキル)を思い出し、声をかけることにした。

しゃがみ込み、目線を合わせる。

「こんにちは、お嬢さん。どうしました? お母さんとはぐれましたか?」

少女はゆっくりと顔を上げ、私を見た。

その瞳は、5歳児とは思えないほど冷徹で、分析的だった。

「……貴様、誰だ?」

開口一番、それだった。

「えっ……私は通りすがりの高校生ですが」

「ふん。まあいい。使えるリソースなら、一般人モブでも利用するのが統治者の務めだもの」

少女は私を上から下まで値踏みし、フッと鼻を鳴らした。

「丁度いいわ。貴様、私を抱き上げなさい。視点が低すぎて、全体構造が把握できないのよ」

「……は?」

この既視感デジャヴ

上から目線の命令口調。人を道具扱いする態度。

私の脳裏に、ある人物――セナの顔が浮かんだ。

だが、目の前の少女はさらにタチが悪そうだった。

2.シュレーディンガーの姉

私は言われるがまま、少女を抱き上げた。

軽い。まるで羽毛だ。だが態度は岩のように重い。

「ほう。高いわね。位置エネルギーが増大した気分はどう?」

少女は私の腕の中で、満足げにモールを見渡した。

「……あの、お嬢さん。やはり迷子なんですよね?」

私が確認すると、少女は心外そうに眉をひそめた。

「訂正しなさい。私は『観測不能状態』にあるだけよ」

「観測不能?」

「ええ。姉上が目を離した隙に、私がこちらの座標に移動した。現在、姉上にとって私は『ここにいるかもしれないし、いないかもしれない』という重ね合わせの状態にある。つまり、私はシュレーディンガーの猫ならぬ、シュレーディンガーの妹というわけ」

……なんだこの子供は。

5歳児の口から量子力学の用語が出てきた。

思考回路はケイ(理屈屋)に近いが、その傲慢な態度はセナ(女帝)そのものだ。

最強最悪のハイブリッド種だ。

「……なるほど。では、その『姉上』という観測者を見つけないと、君の実存は確定しないわけですね」

私が合わせると、少女はニヤリと笑った。

「貴様、意外と話が通じるじゃない。採用してあげるわ」

少女は私の胸元シャツのポケットを指差した。

「報酬として、まずは私に糖分を供給しなさい。脳のグルコースが枯渇しているの。あそこの自販機で、リンゴジュース(果汁100%に限る)を献上せよ」

「……御意、小さなお嬢様リトル・レディ

私は完全に「従者モード」に切り替えた。

セナに鍛えられたおかげで、この手のワガママへの耐性はついている。

3.ベクトル解析による捜索

リンゴジュースを飲みながら、少女――名前を聞いたら**「ルナ」**と名乗った――は、冷静に状況分析を始めた。

「いい? 一般人。姉上の行動パターンを数式化するわよ」

ルナちゃんはストローを咥えながら言った。

「姉上は直情的で、エネルギー効率が悪い。私がいないと気づいたら、まずはパニックを起こし、次に音速で移動を開始するはずよ」

「音速ですか」

「ええ。運動エネルギーは K = \frac{1}{2}mv^2 。姉上の質量と焦燥感を掛け合わせれば、相当な破壊力でこのモール内を移動していると推測されるわ」

彼女の説明は、ケイよりも物理学的で、セナよりも辛辣だった。

「そして、もう一つの変数があるの」

ルナちゃんは溜息をついた。

「私の片割れ……双子の弟のソルよ。あいつはバカだから、姉上と一緒に走り回っているか、あるいは別の場所でカオスを引き起こしている可能性が高いわ」

「双子の弟……」

私は確信に近づいていた。

セナが言っていた「5歳の双子」。

名前もルナ(月)とソル(太陽)。セナ(星)と合わせて、天体シリーズか。

間違いなく、彼女の妹だ。

「ではルナちゃん。君の計算によると、お姉さんはどこにいる確率が高いですか?」

「ふふん。簡単よ」

ルナちゃんはインフォメーションカウンターの方を指差した。

「姉上はプライドが高いから、放送で呼び出すことは『敗北』だと思って避けるはず。でも、弟が泣き出したら、仕方なくカウンターへ向かう……。今の時刻と弟の空腹係数を計算すれば、そろそろあの辺りに出現するはずよ」

「……末恐ろしい5歳児ですね」

私たちはインフォメーションカウンターが見えるベンチで張り込みを開始した。

ルナちゃんは私の膝の上に座り、悠々とジュースを飲んでいる。

「ねぇ、一般人」

「マコトです」

「マコト。貴様の抱き心地、悪くないわね。クッション係数0.8ってところかしら」

「それは光栄です」

「……姉上の彼氏は、どんな奴なのかしらね」

ルナちゃんが不意に呟いた。

「姉上、最近家でニヤニヤしてて気持ち悪いのよ。『宰相』とか呼んでるし。……きっと、貴様みたいな、言いなりになる軟弱な男なんでしょうね」

私は思わず吹き出しそうになった。

「そうかもしれませんね。きっとその『宰相』も、毎日大変な思いをしていると思いますよ」

「同情するわ。姉上の支配欲はブラックホール並みだもの」

4.事象の地平線での再会

数分後。

ルナちゃんの予測通り、事象は発生した。

「すいません! このくらいの背丈の、生意気そうな女の子を見ませんでしたか!?」

カウンターに駆け込んできたのは、帽子を目深に被り、サングラスをした女性。

変装しているつもりだろうが、その滲み出るオーラと、足元のハイヒールですぐにわかった。

セナだ。

そしてその横には、ソフトクリームを顔中に塗りたくって泣きじゃくる男の子(弟のソル君だろう)がいる。

「……予測通りね。偏差値の低い行動だわ」

ルナちゃんが私の膝の上で呆れている。

私はルナちゃんを抱いたまま、立ち上がった。

「行きましょうか。お姉さんのお迎えです」

私はセナの背後に近づき、声をかけた。

「……お困りのようですね、お嬢様?」

セナがビクッとして振り返る。

サングラス越しでもわかるほど、彼女の目が点になった。

「は……? マコト……!?」

そして、私の腕の中にいる少女を見て、さらに驚愕した。

「ルナ!? なんであんたがマコトに抱っこされてんのよ!」

「遅いわよ、姉上」

ルナちゃんは私の腕から、冷ややかな視線を送った。

「貴女の捜索アルゴリズムはお粗末ね。この一般人マコトがいなければ、私は今頃、エントロピーの彼方に消えていたわよ」

「なっ……! あんたが勝手に消えたんでしょ!」

セナは激昂し、それからハッと我に返って周囲を見た。

「い、いや、これは違うのよマコト! これは私の管理能力不足ではなく、不可抗力的なカオスで……!」

私が「宰相」であるとバレてはマズいのか、あるいは単に恥ずかしいのか。

セナは顔を真っ赤にして弁解を始めた。

私は苦笑し、ルナちゃんを地面に下ろした。

「大丈夫ですよ、セナ。事情はルナちゃんから聞きました。『観測不能状態』だったそうですね」

「……あんた、こいつの屁理屈を理解したの?」

セナは呆れ顔だ。

「ええ。誰かさん(ケイ)のおかげで、この手の会話には慣れていますから」

私はしゃがみ込み、弟のソル君にもハンカチを渡した。

「君も大変だったね。……これで顔を拭いて」

「ありがとー! おにいちゃん、やさしい!」

ソル君は無邪気に笑った。こちらは素直な子のようだ。

5.ミニチュア女帝の評価

「……たく、世話かけたわね」

セナはサングラスを外し、疲れた顔で溜息をついた。

「まさか、あんたに妹まで拾われるなんて。……私の一族は、あんたに借りを作りすぎだわ」

「いいえ。合宿の買い出しついでですから」

私はカートを示した。

「それに、ルナちゃんとの会話は有意義でしたよ。物理学と統治論の講義を受けていました」

「……変なこと吹き込んでないでしょうね、ルナ」

セナが妹を睨む。

ルナちゃんは腕組みをして、私を見上げた。

そして、ニヤリと笑った。

「姉上。この男、合格よ」

「は?」

「クッション性、忍耐力、そして私の高尚な会話についてくる知性。……姉上の『宰相』にしては、上出来なんじゃない?」

ルナちゃんの言葉に、セナの顔が爆発しそうなほど赤くなった。

「なっ、ななな……! こいつが宰相だなんて、誰が……!」

「隠しても無駄よ。私の観測結果と、姉上のニヤニヤ顔のデータが一致しているもの」

ルナちゃんは私に向かって手を差し出した。

「マコト。姉上に飽きたら、私の従者になりなさい。今の姉上より、私の方が将来性は高いわよ?」

「こらルナ! マコトは私のものよ! 誰にも渡さないわよ!」

セナが慌てて私の腕を掴んだ。

「行くわよマコト! 荷物持ちを手伝いなさい! 罰として、こいつら(怪獣たち)のお守りも追加よ!」

「やれやれ。……御意、女王陛下たち」

私は二人の「女帝」に挟まれ、さらに足元にはソル君がまとわりつく。

騒がしくて、論理的で、そして愛おしいカオス。

私の夏休みは、どうやら退屈する暇はなさそうだ。

帰り際、ルナちゃんが耳元で囁いた。

「……リンゴジュース、美味しかったわ。借りは作らない主義だから、今度、姉上の弱点スリーサイズとか教えてあげる」

「……それは是非、詳しくお願いしたいですね」

私はセナにバレないように、小さな共犯者とウィンクを交わした。

どうやら私は、この最強の姉妹に、骨の髄まで支配される運命にあるらしい。

(了)


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