夏休
1.かつての「私」からの呼び出し
夏休み初日。
蝉時雨がアスファルトに降り注ぐ、暴力的なまでに晴れた午後。
私――マコトは、いつもの制服や、セナ好みの小綺麗なジャケットではなく、何年も着古したスポーツブランドのTシャツとハーフパンツ姿で、市営の運動公園にいた。
足元には、すり減ったトレーニングシューズ。
『久しぶりにボール蹴らね? 公園で待ってる』
スマホに残るLINEのメッセージ。
差出人はケンタ。中学時代のクラスメイトであり、サッカー部のチームメイトだ。
彼は私と同じ高校に進んだが、クラスは別々。そして私はサッカー部には入らなかったため、校内ですれ違えば挨拶をする程度の関係になっていた。
「……マコト! 遅せぇよ!」
芝生の広場で、日焼けした短髪の少年が手を振っていた。
足元でリフティングをしながら、こちらを見ている。
あちらは現役のサッカー部員。全身から「夏」と「青春」のオーラを発している。
「遅刻ではありませんよ、ケンタ。君が早すぎるんです」
私は苦笑しながら近づいた。
「それに、この炎天下に呼び出すなんて。君の脳みそは筋肉でできているんですか?」
「うるせぇな。インテリぶるのは昔から変わんねぇのな」
ケンタはニッと笑い、足元のボールを浮かせ、私に向かって蹴り出した。
鋭いパス。
私の身体は思考するよりも早く反応した。
胸でトラップし、足元に落とす。柔らかく、吸いつくようなボールタッチ。
数ブランクがあっても、身体は覚えていた。
「へっ、ナイス。やっぱりまだ動けるじゃん、お前」
「……錆びついていますよ。計算式を解く方が楽です」
私はボールを蹴り返した。
パス交換が始まる。
ポン、ポン、という乾いた音が、蝉の声に混じる。
言葉はいらない。ボールの軌道だけで会話をする、この原始的なコミュニケーション。
それは、セナとの高度な心理戦や、ケイとの抽象的な哲学問答とは違う、懐かしくて単純明快な時間だった。
2.芝生の上の空白
30分ほど汗を流した後、私たちは木陰のベンチに座り、スポーツドリンクを煽った。
「ふー、生き返るわ」
ケンタがタオルで顔を拭きながら言った。
「にしてもマコト、お前本当にもったいねぇよな。中学ん時、地区大会の決勝でアシスト決めたの、お前だろ? なんで高校でサッカー辞めたんだよ」
「……言ったでしょう。効率が悪いからです」
私はボトルを見つめながら、いつもの嘘をつく。
「部活に時間を費やすより、勉強して良い大学に行く方が、生涯年収の期待値が高い。合理的な判断です」
「出た出た、合理性」
ケンタは呆れたように笑った。
「ま、お前らしいけどさ。……でも、最近楽しそうじゃん」
「はい?」
「噂になってるぜ。あの生徒会のセナ先輩と付き合ってるって。それに、2年の哲学オタクの女子とも仲いいんだろ? なんか、中学の時より『人間』っぽくなったよな」
「人間っぽくなった、ですか」
「ああ。昔のお前、なんかサッカーしてても勉強してても、どこか冷めてたからさ。……今は、生きてるって感じがするわ」
ケンタの言葉は、鋭く核心を突いていた。
彼のような直感型の人間には、私の精巧な仮面の下にある変化が見えてしまうらしい。
「……そうかもしれませんね。彼女たちは、私を退屈させませんから」
「そりゃよかった。お前が笑ってるなら安心だわ」
ケンタはニカっと笑い、空を見上げた。
入道雲が湧き上がっている。
平和な午後だ。
……このまま、当たり障りのない話で終わればよかった。
3.語りえぬ領域
「そういやさ」
ケンタが何気なく、本当に何気なく切り出した。
「お前の親父さん、元気にしてるか? 中学ん時は、よく試合見に来てくれてたけど」
その瞬間。
私の中のスイッチが、カチリと切り替わった。
蝉の声が遠のく。
吹き抜ける風の温度が、急激に下がる。
視界の端が暗くなる感覚。
私の心臓は、規則正しく冷たい拍動を打ち始めた。
「防御態勢」への移行。
私はゆっくりとボトルの蓋を閉め、完璧な、そして絶対的に拒絶を含んだ微笑みを浮かべた。
「……ええ。変わりありませんよ」
声のトーンは変えていないはずだ。
表情も崩していないはずだ。
だが、私の纏う空気が一変したのを、野生の勘を持つケンタは敏感に察知したようだった。
「あ……いや、その……」
ケンタの笑顔が引きつる。
彼は見てしまったのだ。私の笑顔の奥にある、底知れない暗闇を。
深海のような、あるいは墓場のような、触れてはいけない沈黙の領域を。
「親父も、相変わらずです。仕事熱心で、厳格で。……私の『理想的な』父親ですよ」
私は嘘をついていない。
ただ、その言葉の定義が、世間一般のそれとは大きく乖離しているだけだ。
ウィトゲンシュタインは言った。『語りえぬものについては、沈黙しなければならない』と。
私の家庭という箱庭の中身は、言語化するにはあまりに重く、そして醜い。
「そ、そうか……。なら、いいんだけど……」
ケンタは視線を逸らし、気まずそうに自分の膝を叩いた。
「……悪い。変なこと聞いて」
「いいえ。気にしてませんよ」
私はことさらに明るく言った。
「それよりケンタ。次期キャプテン候補なんでしょう? 練習に戻らなくていいんですか?」
「あ、ああ! そうだった! やべぇ、行かなきゃ!」
ケンタは救われたような顔をして立ち上がった。
「じゃあな、マコト! またボール蹴ろうぜ!」
「ええ。機会があれば」
彼は逃げるように走っていった。
無理もない。私は今、無意識のうちに彼を拒絶し、見えないナイフを突きつけていたのだから。
4.夏の陽射しの下で
一人残された公園。
私はベンチに座ったまま、動けずにいた。
手元のスマホが震える。
セナからのメッセージだ。
『今度の合宿のスケジュール案、送ったわよ。執事らしく添削しなさい』
添付されたファイルには、分刻みの過密スケジュールと、可愛いスタンプ。
そして、ケイからも。
『ハイデガーの解釈で詰まった。今から電話できるか?』
日常からの通信。
光あふれる世界からの招待状。
私はスマホを握りしめ、深く息を吐いた。
この画面の向こうには、私が必死に築き上げた「幸福な居場所」がある。
セナといる時のスリル。
ケイといる時の安らぎ。
それは嘘じゃない。演技でもない。
けれど、ケンタの何気ない一言で、私は引き戻される。
家に帰れば待っている、あの重苦しい空気。
過去という鎖。
私はまだ、何一つ解決できていない。ただ、目を逸らして、高校生活というモラトリアムの中で遊んでいるだけだ。
「……それでも」
私は立ち上がり、強い陽射しの中に足を踏み出した。
眩暈がするほどの太陽。
「今はまだ、この光の中にいさせてください」
誰に祈るわけでもなく、私は呟いた。
いつか、この影が私を完全に飲み込む日が来るかもしれない。
あるいは、セナやケイの前で、この仮面が剥がれ落ちる日が来るかもしれない。
だが、それまでは。
私は「マコト」という、賢くて冷静で、少し皮肉屋な高校生を演じ続けよう。
それが、私にできる唯一の抵抗なのだから。
私はスマホを操作し、セナに返信を打った。
『了解しました、お嬢様。完璧に仕上げておきます』
蝉の声が、再びうるさく鳴り響き始めた。
私の夏休みは、光と影の境界線の上で、静かに幕を開けた。
(了)




