ニーチェとショーペンハウアー
窓の外では、陸上部がエンドレスにトラックを周回していた。
その単調なリズムと、荒い呼吸が聞こえてきそうな光景を、俺――ケイは頬杖をついて眺めていた。
「……なぁ、マコト。あいつら、何周走れば気が済むんだ? ゴールしてもまた明日には走り出す。まるで回し車の中のハムスターだな」
俺がぼやくと、向かいの席で紅茶(今日はアールグレイらしい)の香りを嗅いでいたマコト――「私」が、静かに頷いた。
「ええ。見ていて痛々しいほどです。まさにショーペンハウアーの言う『盲目的な生存意志』そのものですね」
マコトはまたしても、分厚いハードカバーの哲学書を撫でた。今度は『意志と表象としての世界』だ。
「人間は、満たされない欲望に突き動かされて走り続ける。欲しいものが手に入らない『苦痛』と、手に入った瞬間に訪れる『退屈』。人生はその二つの間を揺れ動く振り子に過ぎない。……陸上部の彼らも、勝利への渇望(苦痛)と、勝った後の虚しさ(退屈)を永遠に繰り返しているだけです」
マコトの声は、秋の夕暮れのように穏やかで、そして絶望的だった。
「この世は『最悪の世界』です。生きることは、苦しむことと同義なんですよ」
「出たよ、哲学界きってのネガティブじじい」
俺は呆れて天井を仰いだ。
「ショーペンハウアーだろ? ニーチェの師匠格だが、結論があまりに陰気くさい。『人生はクソゲーだから、欲望を捨てて解脱しようぜ』なんて、死人の理屈だ」
「解脱ではなく、意志の否定、あるいは諦念と言ってください」
マコトは涼しげな顔で訂正する。
「欲望という怪物が暴れるから苦しいのです。ならば、その欲望を鎮め、自分という個我を消し去り、静かに芸術を鑑賞したり、他者に同情(共苦)したりして生きる。それが賢者の知恵というものです」
「はんッ、気に食わねぇな!」
俺は椅子をガタッと鳴らして身を乗り出した。
「ニーチェは言ったぜ。『ショーペンハウアーのペシミズムは、生命力の衰退だ』ってな。苦しい? 退屈? 上等じゃねぇか! その苦しみこそが、俺たちを強くする糧なんだよ!」
俺は窓の外のランナーを指差した。
「あいつらは『やらされて』走ってるんじゃねぇ。自分の意志で、限界を超えようとしてるんだ。これを『力への意志』って言うんだよ。苦難を否定して逃げるんじゃなくて、それを踏み台にして成長しようとするエネルギーだ。ショーペンハウアーみたいに『痛いからやめよう』なんて縮こまってる奴に、生の輝きはわからねぇよ」
「勢いだけは素晴らしいですね」
マコトは柳に風と受け流す。
「でもケイ、それは若さゆえの過信です。ニーチェの言う『超人』や『永劫回帰』――この苦しい人生を永遠に繰り返してもいいと言える境地――なんて、生身の人間には土台無理な話です。私たちは傷つきやすい、ハリネズミなんですから」
「……ハリネズミ?」
「ええ。『ハリネズミのジレンマ』ですよ。ショーペンハウアーの有名な寓話です」
マコトは両手の指を組み、少し寂しげに微笑んだ。
「寒い冬の日、ハリネズミたちは暖を求めて身を寄せ合う。でも近づきすぎると互いの針が刺さって痛い。だから離れる。でも離れると寒い……。人間関係も同じです。寂しいから誰かを求めるけれど、近づけば傷つけ合う。だから、適度な距離を保ち、他者への過度な期待を捨て、『同情』――共に苦しむ者として憐れみ合うのが、最も平和な生き方なのです」
マコトの言葉には、不思議な説得力がある。
こいつはいつもそうだ。一歩引いた場所から、傷つかないように、傷つけないように、世界をガラス越しに眺めている。それがこいつの優しさであり、同時に弱さでもある。
「……マコト。お前、そうやって『適度な距離』を取って、安全圏で賢者ぶってるのが楽しいか?」
「楽しい、とは違いますね。安らか、でしょうか」
「俺は御免だね」
俺は立ち上がり、マコトの机に両手をついて、顔を近づけた。
マコトが驚いて少しのけぞる。
「針が刺さる? だから何だ。血が出たっていいじゃねぇか。俺は寒さに震えて孤独に死ぬくらいなら、血まみれになっても誰かと熱を共有したいね。それが『生きる』ってことだろ?」
至近距離で睨み合う。
マコトの瞳に、俺の強気な顔が映っている。
「……カントなら『野蛮だ』と言うでしょうね」
「ニーチェなら『それでこそディオニュソス的だ!』って手を叩くさ」
しばらく沈黙が続いた後、マコトはふっと力を抜いて笑った。
「やはり、あなたには敵いませんね。ショーペンハウアーも、晩年は愛犬と散歩することだけを楽しみにしていた孤独な老人でした。あなたのその眩しい生命力の前では、私のペシミズムはただの愚痴に聞こえるかもしれません」
「バーカ。俺だって、お前の言いたいことはわかるよ」
俺は元の席にドカッと座り直した。
「実際、世の中は理不尽だらけだ。ニーチェだって、最初はショーペンハウアーに被れてたんだ。『世界はこんなに酷い』って認識までは一緒なんだよ。ただ、そこからの出口が違うだけだ」
「出口、ですか」
「ああ。お前は『出口なんてないから部屋の隅で静かにしてよう』と言う。俺は『壁をぶち破って外へ出よう』と言う。……でもな、マコト」
俺は少し声を落とした。
「壁をぶち破るには、まず『ここに壁がある』ってことを冷静に分析してくれる奴が必要だ。俺みたいに猪突猛進なバカだけじゃ、壁の厚さも分からずに脳震盪を起こして死ぬからな」
マコトは少し目を見開き、それから嬉しそうに口元を緩めた。
「なるほど。ニーチェにとってのショーペンハウアーが『教育者』であったように、私というペシリストも、あなたの『力への意志』の踏み台くらいにはなれる、ということですか」
「言い方がひねくれてるな。……ま、『ブレーキ役』としては優秀だってことだよ」
チャイムが鳴る。完全下校の時刻だ。
外のランナーたちも、ようやく足を止めてストレッチを始めている。
「帰ろうぜ、マコト。腹減った」
「ええ。……ああ、そういえばケイ。今日はあなたがジュースを奢ってくれる番でしたよね?」
「あ? なんでだよ」
「先週の賭けですよ。『今日の小テストで私が満点を取ったら』という」
「……チッ、覚えてやがったか。ショーペンハウアーのくせに欲望に忠実じゃねぇか」
「衣食足りて礼節を知る、ですよ。それに、他者の施しを受けるのもまた、同情(共苦)の一環です」
「理屈ばっかり捏ねやがって」
俺――ケイは、スカートのポケットから小銭入れを取り出し、ジャラジャラと鳴らしながら歩き出す。
私――マコトは、分厚い哲学書を鞄にしまい、スラックスのベルトを直してその後に続く。
「わっ!」
廊下の角で、俺がいきなり立ち止まったせいで、マコトが俺の背中にぶつかった。
「急に止まらないでください。あぶないじゃないですか」
「悪い悪い。……ほら、近づきすぎると痛いんだろ?」
俺がニヤリと笑うと、マコトは服を払いながら、やれやれと首を横に振った。
「ええ。でも、不思議と寒くはないですね」
「だろ?」
夕闇の廊下に、二人の足音が響く。
ハリネズミのように不器用な俺たちは、針の痛みを確かめ合いながら、それでも懲りずに身を寄せ合って生きていく。
それが、どんなに「最悪な世界」であったとしても。
(了)




