観測者先生
1.ナポレオンの身長と、女帝の冷ややかな視線
「いいかー、みんな! ナポレオンの辞書に不可能という文字はない、というのは有名だが、実は彼のラブレターはとんでもなく情熱的で、かつ女々しかったんだぞ! 戦場から妻のジョセフィーヌに『風呂に入らず待っていてくれ』なんて手紙を送るくらい、彼は匂いフェチで……」
5時間目の世界史B。
俺、葛城は教壇の上で指揮棒(という名の指示棒)を振り回し、熱弁を振るっていた。
教科書? そんなものは机の端に置いてある。今の俺の頭の中は、19世紀フランスの英雄の人間臭いエピソードでいっぱいだ。
教室の一部、特に歴史オタクの男子数名は「へぇー!」「マジかよナポレオン!」と目を輝かせている。よしよし、歴史への興味はバッチリだ。
だが、教室の中央、最前列付近から、絶対零度の視線が飛んでくる。
生徒会副会長、セナだ。
彼女は教科書とノートを完璧に広げ、冷ややかな目で俺を見上げている。その目はこう言っていた。
『先生。そのトリビアは共通テストに出ますか? 出ないなら、さっさとウィーン体制の説明に進んでください。貴方の授業は知識量は認めますが、カリキュラムの進捗管理としては落第点です』
(……ひえぇ、怖い怖い)
俺は内心で冷や汗をかきつつ、咳払いをした。
「あー、まあ、つまりだ。英雄もまた人間だったということだ。……はい、じゃあ教科書36ページ開いてー」
授業後。
セナが教卓にやってきた。
「先生。今のペースだと、中間考査までに現代史に入れませんよ。補習をするおつもりですか?」
「い、いやぁ、セナ君。君なら独学でカバーできるだろう?」
「私の話ではありません。全体の学力底上げの話です。……マコト、行くわよ」
セナは隣に控えていたマコトを引き連れて去っていった。
マコトは俺に苦笑いで会釈していく。「すみません、彼女、気が立ってるんで」という顔だ。
あいつら、本当に夫婦漫才だな。
「……まったく。あんなしっかりした高校生がいると、大人の立場がないねぇ」
俺は白衣のポケットに手を突っ込み、廊下に出た。
俺は立派な教師じゃない。
授業は脱線するし、ネクタイはいつも曲がっているし、職員会議では居眠りをする。
だが、この学校の生徒たちのことは、誰よりも見ているつもりだ。
2.回廊の観測者
放課後の廊下は、様々な人生が交差する交差点だ。
窓際を歩く、ケイとミサキ。
ケイが何か難しい顔で語り、ミサキがそれをニコニコ聞いている。
凸凹コンビだが、見ているだけで幸せな気分になる。
そして、教室の後ろの方で、黙々と掃除をしている男子生徒――高橋(『僕』)。
彼は目立たない。成績も普通。
だが、俺は知っている。彼が文化祭の時、誰よりも汗をかいて行列整理をしていたことを。そして最近、隣のクラスの女子といい雰囲気だということも。
「よう、高橋。精が出るな」
俺が声をかけると、彼はビクッとして振り返った。
「あ、葛城先生。……別に、当番なんで」
「そうかそうか。歴史においてはな、名前の残らない民衆こそが、真の主役なんだぞ」
「……また変なこと言ってる」
彼は呆れたように笑った。
それでいい。大人は少しバカにされるくらいが、子供にとっては話しやすい壁になれるんだ。
俺はそのまま進路指導室へ向かう。
今日は予約が入っている。クラスで孤立気味な女子生徒だ。
「進路相談」という名目だが、彼女が本当に話したいのは「家での居心地の悪さ」だということを、俺は知っている。
「さてと。歴史の授業の続きといくか」
俺は彼女の話をただ聞くだけだ。
アドバイスなんて大それたことはしない。ただ、「ここにいてもいいんだぞ」という場所を作ってやる。
世界史に出てくる暴君や革命家に比べれば、今の悩みなんてちっぽけだ……なんて言わない。
彼女にとっては、それが今の「世界」の全てなのだから。
俺にできるのは、その世界が崩壊しないように、つっかえ棒になってやることくらいだ。
3.ピアノの発表会と、孤独な要塞
俺が特に気にかけている生徒がいる。
2年A組のケイだ。
あの一人称「俺」の哲学少女。
実は、俺は彼女を高校入学前から知っている。
それも、小学生の頃からだ。
俺には娘がいる。今は中学生だが、小学生の頃、ピアノ教室に通わせていた。
その教室に、ケイもいたのだ。
発表会の日。
俺の娘は、練習不足でトチりまくり、「きらきら星」を不協和音で奏でて戻ってきた。「パパ、緊張したー!」と笑いながら。
その直後、ケイの出番だった。
彼女は、今のようなジャージ姿ではない。
真っ黒なドレスを着て、長い髪を綺麗に結い上げ、無表情でピアノの前に座った。
そして弾き始めたのは、ショパンの『革命』。
完璧だった。
ミスタッチは一つもない。リズムも強弱も、譜面通り正確無比。
小学生が弾いているとは思えない技巧。
会場中が息をのんだ。
だが、俺は聞いていて、背筋が寒くなった。
そこに「感情」がなかったからだ。
怒りも、悲しみも、喜びもない。
ただ「完璧に弾くこと」だけを目的とした、冷徹な論理のような演奏。
演奏が終わり、拍手喝采の中、彼女は機械的にお辞儀をして舞台袖に戻ってきた。
俺は近くにいたので、彼女が母親(教育熱心そうな人だった)に話しかけられるのを聞いてしまった。
「完璧だったわね、ケイ」
「……うん。ミスタッチ率ゼロ。課題はクリアした」
小学生の口から出る言葉じゃなかった。
彼女は、ピアノという「要塞」の中に立てこもっているように見えた。
誰の侵入も許さない。誰も理解してくれない。だから、論理と完璧さで武装して、自分を守るしかない。
(……危なっかしい子だな)
俺はずっと心配していた。
あの子はいつか、ポキリと折れてしまうんじゃないか。
あるいは、誰とも関わらないまま、孤独な天才として干からびてしまうんじゃないか。
4.雪解けの音がする
だから、高校の入学式で彼女の名前を見つけた時、俺は密かに担任を志願しようかと思ったくらいだ(結局、別のクラスになったが)。
最初はハラハラした。
「俺は性悪説を支持する」だの「学校はパノプティコンだ」だの、相変わらず武装して、周囲を威嚇していたからだ。
だが。
「変数」が現れた。
マコトという、彼女の論理を受け止め、翻訳してくれる男。
ミサキという、彼女の鎧の隙間に花を挿してくれる女。
そしてセナという、彼女と対等に殴り合える好敵手。
今日の放課後、職員室にケイがやってきた。
「おい、葛城。……あ、失礼。先生」
「『おい』でいいよ。なんだ、哲学的な悩みか?」
「違う。……進路調査票だ。出し忘れてた」
ケイはプリントを俺の机に放り投げた。
志望校の欄には、哲学科のある大学が書かれている。
「へぇ、哲学か。お前らしいな」
「当たり前だ。俺は思考し続ける葦だからな」
ケイはふん、と鼻を鳴らした。
その表情は、昔の「能面のような無表情」ではない。
生き生きとして、少し生意気で、そして何より「安心」している顔だ。
俺はつい、余計なことを言ってみたくなった。
「ケイ。ピアノはもう弾かないのか?」
ケイがピクリと反応し、怪訝そうに俺を見た。
「……なんで知ってるんだ」
「俺の娘も同じ教室だったんだよ。お前の『革命』、すごかったぞ。……怖いくらいにな」
ケイは少し驚いた顔をして、それから苦笑した。
「……今も、教室には通ってるよ。だけどあんなの、ただの指の運動だ」
「そうか? 俺は今の感情豊かなお前なら、もっといい『革命』が弾けると思うけどな」
「……余計なお世話だ」
ケイはそっぽを向いたが、その耳は少し赤かった。
「でもまあ……機会があったら、ミサキにくらいは聴かせてやってもいいか」
ボソッと言ったその言葉に、俺は目頭が熱くなりそうになった。
あの孤独な要塞の中にいた少女が、今は「誰かのために」演奏しようとしている。
「そうしろ。ミサキ君なら、きっと泣いて喜ぶぞ」
「泣かすな。あいつは笑ってる方がいい」
ケイは「じゃあな」と手を振って、職員室を出て行った。
廊下には、マコトが待っていたようだ。
「遅いですよ、ケイ。セナが痺れを切らしています」
「うるせぇ、昔話をしてたんだよ」
二人の背中が遠ざかる。
5.未完の地図たちへ
俺は椅子に深くもたれかかり、大きく伸びをした。
「……やれやれ。教師冥利に尽きるねぇ」
セナには「授業が下手」と怒られる。
他の先生からは「もっと威厳を持ってください」と注意される。
だが、これでいい。
生徒たちは、俺たちが教えなくても、勝手に学び、勝手に出会い、勝手に変わっていく。
世界史の教科書には「過去」しか載っていないが、彼らの目の前には真っ白な「未来」という地図が広がっている。
俺の役目は、彼らがその地図を描くペンを折らないように、あるいはインクが切れた時にそっと替えを渡せるように、近くでウロウロしている「暇な大人」でいることだ。
「さて、赤点組の補習プリントでも作るか」
窓の外、グラウンドでは部活生たちが走っている。
歴史は今日も作られている。
ナポレオンも、クレオパトラも、彼らの輝きには勝てないかもしれないな。
俺はニヤリと笑い、パソコンに向かった。
「問題1.ナポレオンが妻に送った手紙の内容として正しいものを選べ」
……うん、これを出したらまたセナに怒られるな。でも、出しちゃお。
(了)




