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放課後倫理学  作者: 紅茶
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観測者②

文化祭という「ハレ(非日常)」が終わり、梅雨明けの湿気とともに「ケ(日常)」が戻ってきた7月上旬。

期末試験を目前に控えた2年A組の教室は、鉛筆の走る音と、エアコンの唸る音、そして若者たちの押し殺した溜息で満たされていた。

僕――「観測者」としての僕の視点から、この教室の風景、そして彼らの「その後」を記録しておこうと思う。

タイトル:『観測者の手記、あるいは「背景モブ」たちの静かなる戦い』

1.教室という生態系の変化

僕の席(真ん中の列の後ろから三番目)から見る景色は、6月以前とは明らかに変わっていた。

あの「四人」の周りに漂う空気が、以前よりも濃密で、かつ安定したものになっているのだ。

まずは左奥、窓際。

ケイとミサキちゃん。

以前のケイなら、試験前には「日本の教育制度における暗記偏重の弊害」について演説をぶち上げていたはずだ。

しかし今の彼女は、驚くほど大人しい。

机の上には哲学書ではなく、『数学Ⅱ・B』の参考書が広げられている。

そしてその隣には、ミサキちゃんがいる。

「……ここ、この公式を使うと論理的に導き出せるんだ。三段論法と一緒だ」

「へぇ~、ケイちゃんすごい! 言葉で説明されるとわかりやすいね」

「だろ? 数学は宇宙共通の言語だからな……」

ケイが得意げに教え、ミサキちゃんがニコニコと頷く。

驚くべきは、ケイの筆箱だ。以前は無骨なプラスチックケースだったのに、今はなぜか**「パンダのぬいぐるみポーチ」**を使っている。

あの「花やしき」のお土産だろうか。哲学者がパンダの背中からシャーペンを取り出す姿はシュールだが、本人は満更でもなさそうだ。

二人の間には、陽だまりのような穏やかな「愛」がある。それはもう、誰が見ても明らかな「公式カップル」の空気だった。

そして、その少し手前。

マコトとセナ。

こちらは打って変わって、ピリピリとした緊張感……いや、「高度な作戦会議」の空気が漂っている。

セナは生徒会長選挙を見据えてか、あるいは単にプライドが高いからか、学年トップの座を譲る気がない。そしてマコトも、涼しい顔をしてトップ争いの常連だ。

「マコト。世界史の論述、この観点だと減点されるわよ。もっと多角的に分析しなさい」

「おや、厳しいですね。ですが、この解釈はウォーラーステインの世界システム論に基づいています」

「高校のテストに大学レベルの理論を持ち込むなと言ってるの。……赤ペン入れておいたから、直しなさい」

「御意、女王陛下」

セナの指示は厳しいが、その目には絶対的な信頼がある。

そしてマコトのスクールバッグには、以前はなかった**「ミッキーマウスのキーホルダー」**が揺れている。

あの「鉄の女」セナが、ディズニーランドでデレたという噂は、どうやら本当らしい。

彼らの関係は、ベタベタした恋愛ではない。背中を預け合う「共犯者」であり、互いを高め合う「ライバル」だ。

「甘いカップル」と「辛口の同盟」。

この対照的な二組が、教室の空気をおもしろおかしく、そして少し羨ましく彩っている。

2.僕の文化祭、僕の青春

ふと、6月の文化祭を思い出す。

彼らが『精神の迷宮』で大暴れし、学校中の注目を集めていたあの日。

僕は何をしていたか。

僕は、ただの「裏方」だった。

お化け屋敷の行列整理。待ち時間の目安を書いたプラカードを持って、「最後尾はこちらでーす」と叫び続ける係。

地味だ。圧倒的に地味だ。

ケイが哲学的な演説をし、セナが冷徹に指揮を執り、マコトがシステムを管理し、ミサキちゃんが怪演していた裏で、僕はひたすら客を誘導していた。

でも、それがつまらなかったかと言えば、そうでもない。

「あ、高橋くん(僕のことだ)。お疲れ様! これ、差し入れ!」

同じ係だった女子――隣の席の佐々木さんが、冷えたラムネを渡してくれた。

「ありがとう。……すごい人だね」

「うん。でも、みんな楽しそう。私たち、いい仕事してるよね」

佐々木さんが汗を拭いながら笑った。その笑顔を見た時、僕の中で何かがカチリと音を立てた。

主役たちが輝けるのは、僕たちのような「背景」が舞台を支えているからだ。

そして、「背景」には「背景」なりの、ささやかなドラマがある。

休憩時間に佐々木さんと回った模擬店。

焼きそばを半分こしたこと。

後夜祭のキャンプファイヤーで、フォークダンスの輪が回ってきた時、偶然彼女と手が触れ合ったこと。

その一瞬の鼓動は、ケイたちの情熱的なダンスにも負けないくらい、僕にとっては「歴史的事件」だった。

彼らが「物語の主人公」なら、僕は「日常の主人公」だ。

彼らが世界を変えるような大恋愛や議論をしている間に、僕は僕の半径数メートルで、小さな恋や悩みを積み重ねている。

それでいい。いや、それがいい。

3.図書館の片隅にて

放課後。

僕は図書室で勉強することにした。家だと誘惑が多くて集中できないからだ。

静かな館内。冷房が効いていて心地よい。

奥のテーブル席には、いつもの四人が陣取っていた。

試験勉強会だろう。

ケイが頭を抱え、セナが仁王立ちで教え、マコトがコーヒーを配り、ミサキちゃんが応援している。

相変わらず騒がしい(小声だが)連中だ。

僕は彼らから離れた、窓際の席に座った。

参考書を開く。今回の試験、数学はどうしても平均点以上を取りたい。

なぜなら、佐々木さんが「数学苦手なんだよね……」とこぼしていたからだ。もし僕が良い点を取れば、「教えてあげようか?」という口実ができる。

不純な動機? いや、これも立派な「戦略」だ。セナにだって負けないマキャベリズムだ。

「……あ、高橋くん」

声をかけられて顔を上げると、そこに佐々木さんが立っていた。

手には世界史の教科書。

「奇遇だね。高橋くんも勉強?」

「う、うん。まあね」

心臓が跳ねる。平静を装え、僕。

「佐々木さんも?」

「うん。家だと集中できなくて。……あのさ、もしよかったら、ここ、座ってもいい?」

彼女が僕の向かいの席を指差す。

特等席の四人が目に入らないくらい、僕の視界が彼女で埋め尽くされる。

「もちろんだよ。どうぞ」

佐々木さんが座る。ふわりと、制汗剤のシトラスの香りがした。

セナのような高級な香水じゃない。ミサキちゃんのような本の匂いでもない。

ありふれた、でも僕にとっては特別な、日常の匂い。

「ねぇ高橋くん。ここ、わかんないんだけど……」

「どれ? ……ああ、ここはね……」

奥の席では、ケイたちが「実存主義におけるテスト勉強の無意味さ」について議論しているのが聞こえる。

世界は広い。哲学も歴史も文学も、深淵で面白い。

けれど、今の僕にとっては、目の前の佐々木さんが「この年号、覚えられない~」と苦笑いしている事実の方が、ハイデガーの『存在と時間』よりも遥かに重要で、解決すべき難問だった。

4.それぞれの物語

夕方のチャイムが鳴る。

下校時刻だ。

僕たちは帰り支度を始める。

奥の四人も立ち上がったようだ。

「よし、今日はここまでだ! ラーメン食いに行くぞ!」

「賛成! 頭使ったらお腹空いた~」

「割り勘よ。予算オーバーは許さないわ」

「やれやれ。胃薬が必要ですね」

彼らは賑やかに去っていく。

圧倒的な存在感。彼らが通った後には、熱気のようなものが残る。

「……仲いいね、あの四人」

佐々木さんがポツリと言う。

「うん。住む世界が違う感じがするよ」

「そうかな? 私は高橋くんと勉強してる方が、落ち着くけどな」

佐々木さんが何気なく言った言葉に、僕の思考回路はショートした。

これは……どういう意味だ?

文脈の解釈が必要だ。ガダマーの解釈学か? いや、単なる社交辞令か?

「さ、帰ろっか」

彼女が先に歩き出す。

「あ、うん! 帰ろう!」

僕は慌てて鞄を持って追いかける。

廊下の窓から、夕陽が見える。

校門の向こうには、ケイとマコト、セナとミサキが並んで歩いているのが小さく見えた。彼らの背中は大きく、眩しい。

彼らはきっと、これからもドラマチックな青春を送るのだろう。

でも、僕だって負けていない。

隣を歩く佐々木さんの歩幅に合わせながら、僕はこっそりと拳を握った。

僕には僕の物語がある。

カメラは回っていないし、観客もいないけれど、この「日常」という舞台で、僕は僕なりのハッピーエンドを目指してもがいているのだ。

「あ、高橋くん。テスト終わったらさ、駅前の新しいカフェ行かない?」

「えっ、い、いいよ! 行こう!」

……ほらね。

僕の青春だって、捨てたもんじゃない。

彼ら(メインキャラ)も、僕ら(モブ)も。

誰もがそれぞれの人生の主人公として、この蒸し暑くて愛おしい7月を生きている。

(了)


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