ディズニーデート
1.舞浜という名の植民地にて
京葉線の舞浜駅に降り立った瞬間、その空気の異質さに、私――マコトは眼鏡の位置を直さざるを得なかった。
溢れかえる笑顔、極彩色の服、そして耳のついたカチューシャを装着した群衆。
ここは日本であって日本ではない。米国文化が完璧に現地化され、独自進化を遂げた「夢と魔法の王国」という名の巨大な飛び地だ。
「……遅いわよ、マコト。開園時間はとっくに過ぎているわ」
改札の前で腕組みをして待っていたのは、今日のデートの主宰者にして、我が学園の女帝、セナである。
今日の彼女は、いつもの制服姿ではない。
オフショルダーの白いブラウスに、深いワインレッドのフレアスカート。大人びた配色だが、その頭にはしっかりと――スパンコールのついたミニーマウスのカチューシャが装着されていた。
「申し訳ありません、セナ。京葉線の混雑が予想以上でして。……それにしても」
私は彼女の頭を見上げた。
「その装備、貴女の『覇権主義』にはいささかファンシーすぎませんか?」
「郷に入っては郷に従え、よ」
セナは私の手にも、ミッキーのカチューシャを押し付けてきた。
「ここの国民になりきるのも、統治者の務めよ。ほら、つけなさい。これは『恭順の意』を示すための儀式なんだから」
「……やれやれ。私の頭脳がファンタジーに侵食されていくようだ」
私は苦笑しながらカチューシャを装着した。
鏡を見るまでもなく、シュールな絵面だろう。哲学書を愛する男と、歴史書を愛する女が、ネズミの耳をつけて向き合っているのだから。
「行くわよ。今日のスケジュールは分単位で組んであるの。ファストパス(現在はプライオリティパス等だが、彼女の認識は古い体制のままだ)の取得戦略、レストランの予約、パレードの観測地点。……全てにおいて、花やしきのような『行き当たりばったり』は許さないわ」
セナが私の手を強引に引く。
その手は熱く、そして力がこもっていた。
これはデートではない。私の忠誠心を試すための「査問会」であり、彼女による「再教育プログラム」なのだ。
ゲートをくぐると、そこはボードリヤールの言う「シミュラークル(オリジナルなき模倣)」の極致だった。
作り込まれた街並み。完璧に管理された清掃。
現実の汚れを一切排除した、ハイパーリアルな世界。
「……見事ですね」
私はワールドバザールの街並みを見上げて感嘆した。
「フーコーが見たら卒倒しそうだ。ここには『監視塔』はないが、キャストとゲストの相互監視によって、完璧な規律が保たれている。パノプティコン以上の管理社会だ」
「ええ。だからこそ、ここは世界で最も成功した『ユートピア』なのよ」
セナは満足げに頷いた。
「暴力を使わずに、笑顔と物語だけで民衆を支配する。私の目指す統治の理想形だわ。……マコト、貴方も見習いなさい。私を支配したいなら、これくらいの『魔法』をかけてみろってことよ」
「ハードルが高いですね。私は魔法使いではなく、ただの哲学者ですから」
「なら、今日は魔法にかかる側でいなさい。……ほら、チュロスよ。口を開けて」
セナがシナモンシュガーのたっぷりかかったチュロスを差し出してくる。
周囲のカップルと同じような「あーん」の構図だが、彼女の目は「食え」と命令している。
私は観念して、その甘い棒を齧った。
砂糖の甘さと、彼女の支配欲の味がした。
2.イッツ・ア・スモールワールドの地政学
いくつかのアトラクションを回った後、私たちは『イッツ・ア・スモールワールド』のボートに乗っていた。
世界中の子供たちが歌い、踊る、平和の象徴のようなライドだ。
「……平和ね」
セナがボートの揺れに身を任せながら呟いた。
「国境も、宗教対立も、経済格差もない。あるのは『小さな世界』という統一されたイデオロギーだけ」
「カントの『永遠平和のために』を具現化したようですね」
私は人形たちを眺める。
「しかし、歴史家の君から見て、この光景はどう映るんです?」
「欺瞞ね」
セナは即答した。
「でも、必要な欺瞞よ。人類は歴史上、一度だって一つになれたことなんてない。ローマによる平和も、モンゴル帝国も、結局は武力による強制だった。……でも、ここでは音楽によって統合されている。現実にはあり得ないからこそ、この虚構は美しいのよ」
セナはふと、私の肩に頭を預けてきた。
カチューシャの耳が、私の頬に当たる。
「……ねぇ、マコト」
「なんです?」
「私と貴方の間にも、国境はあるのかしら」
哲学的な問いかけだ。
私は彼女の髪の匂い――いつものシトラスではなく、今日は甘いバニラの香りがした――を吸い込みながら答えた。
「ありますよ。自意識という国境が。ヘーゲルが言うように、私たちは他者と融合することはできません。常に『主と奴』の闘争がある」
「……ふふ、やっぱり哲学者ね」
セナは私の腕に手を回し、ぎゅっと抱きしめた。
「でも、今は休戦協定を結んであげる。……このボートが一周する間だけは、私も貴方も、ただの平和ボケしたカップルでいましょう」
ボートが水面を進む。
世界中の言葉で「さようなら」が描かれたゲートをくぐる。
その瞬間だけは、彼女の言う通り、私たちは歴史の重みも哲学の苦悩も忘れて、ただ寄り添う二人の男女だった。
3.事件発生 ~迷子の泣き声~
午後2時。
シンデレラ城の前広場は、パレード待ちの客でごった返していた。
私たちは次のファストパスの時間まで、ベンチで休憩を取ることにした。
「……計算通りね。あと15分でパレードが通過するわ。この位置なら、私の好きなヴィランズのフロートが正面に来るはずよ」
セナはスマホの地図アプリを見ながら、完璧な布陣にご満悦だ。
その時だった。
雑踏のノイズに混じって、異質な音が聞こえてきた。
「……うえぇぇぇん! ママぁ……!」
子供の泣き声だ。
しかも、ただのぐずり泣きではない。恐怖と絶望が混じった、本気の泣き声。
私は視線を巡らせた。
ベンチの裏手、植え込みの陰に、小さな男の子が一人で立っていた。
5歳くらいだろうか。ミッキーの描かれた帽子を被り、首からはポップコーンバケットを下げている。顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。
「……迷子ですね」
私は腰を浮かせた。
「キャストを呼びましょうか。近くにクルーがいるはずです」
ディズニーのキャストは優秀だ。すぐに保護され、迷子センターへ連れて行かれるだろう。それが最も合理的で、正しい対処法だ。
しかし。
「……待ちなさい」
セナが私を制した。
彼女はスマホをしまい、眉をひそめて男の子を見つめた。
「あの子、パニック状態よ。今、知らない大人が制服で近づいたら、余計に怯えて逃げ出すかもしれない。……この人混みで逃げられたら、探すのは困難だわ」
「では、どうするつもりです?」
セナは答えず、ベンチから立ち上がった。
そして、彼女の纏っていた「女帝」のオーラが、ふっと消えた。
彼女は男の子の前に歩み寄り、その高いヒールを気にすることなく、地面に片膝をついた。
男の子と、目線の高さを合わせるために。
「……こんにちは」
セナの声は、私が今まで聞いたことのないトーンだった。
いつもの威圧的な命令口調でも、私を挑発する艶っぽい声でもない。
柔らかく、少し高めで、安心感を与える、まるで保育士のような声。
男の子がビクッとして泣き止み、セナを見る。
「……だれ……?」
「私はセナ。お姉さんはね、今から魔法の国を探検するところなの」
セナはバッグからハンカチを取り出し、男の子の涙を慣れた手つきで拭った。
「君のお名前は? かっこいい帽子を被ってる騎士さん」
「……ゆうと……」
「ゆうと君ね。いい名前。……ママとはぐれちゃったの?」
男の子――ゆうと君がコクリと頷き、また泣きそうになる。
「大丈夫よ」
セナは優しく、しかし力強く、ゆうと君の小さな手を握った。
「ママはね、今かくれんぼしてるの。ゆうと君が見つけてくれるのを待ってるのよ。……お姉さんと一緒に、ママを探しに行こうか?」
「……うん……」
ゆうと君が、セナの手にすがりつく。
その一連の流れ(プロセス)は、あまりにも鮮やかだった。
私は呆気にとられて、その光景を見ていた。
あの冷徹な女帝が、子供相手にこんな慈愛に満ちた表情を見せるなんて。
セナが私を振り返り、ウィンクした。
「マコト、作戦変更よ。パレード観賞は中止。『迷子の騎士とママ奪還作戦』を開始するわ」
「……了解しました、隊長」
4.女帝の推理と保育士のスキル
私たちは、ゆうと君を真ん中にして歩き出した。
本来なら迷子センターへ行くのが筋だが、セナは「まずは現場検証よ」と言って譲らなかった。
「いい? マコト。歴史学の基本は史料批判よ。情報を集めなさい」
セナはゆうと君の手を引いて歩きながら、私に指示を出した。
「ゆうと君、ママと最後にバイバイした時、何が見えた? お城? それとも電車?」
ゆうと君は鼻をすすりながら答える。
「……ううん。おっきな、お船」
「船ですね」
私は頭の中の地図を展開した。
「蒸気船マークトウェイン号か、あるいはカリブの海賊付近か」
「それとね」
セナはゆうと君の首にかかったポップコーンバケットを指差した。
「このバケットに入ってるポップコーン、何味かわかる? マコト」
私はバケットの中を覗き込んだ。
「……黄色い。カレー味ですね」
「ビンゴ」
セナが指を鳴らす。
「カレー味のポップコーンワゴンは、ウエスタンランドにあるわ。蒸気船の乗り場の近くだわ」
「なるほど。状況証拠が一致しました」
私は感心した。
「感情に流されず、物的証拠から場所を特定するとは。さすが歴史家です」
「当然よ。……それに」
セナは声を潜めて私に言った。
「あの子、ポップコーンがまだ半分以上残ってる。つまり、買ってからそんなに時間は経っていない。母親も近くで探しているはずよ」
私たちはウエスタンランドへ向かった。
移動中、ゆうと君が不安がらないように、セナはずっと話しかけていた。
「ゆうと君、ミッキーマウスってね、昔は白黒だったのよ。知ってた?」
「しらなーい」
「それにね、この国には隠れミッキーっていうのがいてね……あ、ほらあそこ! 壁の模様、ミッキーに見えない?」
「あ! ほんとだ!」
セナの話術は巧みだった。
歴史の小ネタを子供向けにアレンジし、退屈させない。
さらに、ゆうと君が靴紐を解けさせて転びそうになると、瞬時にしゃがんで結び直す。
「蝶々結び、できる? こうやって羽を作って……はい、できた」
その手際の良さは、どう見ても「初めて子供を扱った」人間のそれではない。
私は思わず尋ねた。
「……セナ。君、子供の扱いに慣れすぎていませんか? いつもの『民衆は愚かだ』と言っている君とは別人のようだ」
セナは少しバツが悪そうに視線を逸らした。
「……別に。私、下に妹と弟がいるのよ。しかも年が離れてるの。双子の5歳児が」
「双子!? それは……大変そうだ」
「ええ、地獄よ。家では毎日が戦国時代。怪獣たちが暴れまわるのを鎮圧して、オムツを替えて、絵本を読んで……。私の統治スキルは、マキャベリの本じゃなくて、あいつらとの戦争で磨かれたものなのよ」
私は驚き、そして納得した。
彼女のあの揺るぎないリーダーシップや、予想外の事態への対応力。そして何より、自分より弱い者に対する「守らねばならない」という責任感。
それは、机上の空論ではなく、姉としての実戦経験から来ていたのだ。
「……なるほど。君の強さの源泉を見つけました」
私は微笑んだ。
「君はいいお姉さんなんですね」
「……うるさい。からかわないで」
セナは耳まで赤くして、ゆうと君の手を握り直した。
「ほら、行くわよ。ママが待ってるわ」
5.母と子の再会、そして女帝の説教
ウエスタンランドのポップコーンワゴン周辺。
そこには、髪を振り乱し、半狂乱になって周囲を見回す女性の姿があった。
「ゆうと! ゆうとーーッ!」
ゆうと君が反応する。
「ママ!!」
「ゆうと!?」
母親が駆け寄ってくる。セナの手を離れ、ゆうと君が母親の胸に飛び込んだ。
「よかった……! ごめんね、ごめんね……!」
感動の再会だ。周囲のゲストも温かい目で見守っている。
私は安堵のため息をついた。
これで一件落着――かと思いきや。
「……お母様」
セナが、母親の前に立った。
その声は、さっきまでの「優しいお姉さん」ではなく、いつもの「冷徹な女帝」に戻っていた。
「は、はい……? あの、保護してくださって……」
「感謝の言葉は結構です」
セナは腕組みをして、母親を見下ろした。
「ポップコーンを買うのに夢中になって、お子さんの手を離しましたね? この混雑の中で、子供から目を離すことがどれほどのリスクか、理解していますか?」
母親が萎縮する。「は、はい……申し訳ありません……」
「子供はね、親という錨がなければ、すぐに流されてしまう小船なのよ。貴女が守らなくて誰が守るの?」
セナの言葉は厳しかったが、そこには深い愛情があった。
「……泣かせないであげて。あの子、ずっと我慢して、貴女を探してたんだから」
セナは最後に、しゃがみ込んでゆうと君に目線を合わせた。
「ゆうと君。ママに会えてよかったね。もう離れちゃダメよ」
「うん! おねえちゃん、ありがとう!」
「ええ。……いい子ね」
セナはゆうと君の頭を優しく撫で、そして立ち上がった。
「行くわよ、マコト。任務完了だわ」
私たちは親子に背を向け、颯爽と歩き出した。
背後から、母親の「ありがとうございました!」という声が何度も聞こえてきた。
「……厳しかったですね、セナ」
「当然よ。国民(子供)を危険に晒す指導者(親)には、警告を与える義務があるわ」
セナはツンとして言ったが、その横顔は、やり切った満足感で輝いていた。
6.エレクトリカルパレードの夜に
夜。
ディズニーランドは、光と音の魔法に包まれていた。
エレクトリカルパレード。
私たちはシンデレラ城の見えるベンチに座り、流れていく光のフロートを眺めていた。
「……疲れたわ」
セナが私の肩にもたれかかってくる。
「迷子対応でエネルギーを使い果たしたわ。パレードを見る気力もない」
「お疲れ様でした、セナ。今日の君は、ナポレオンよりも偉大でしたよ」
私は彼女の肩を抱き寄せた。
「……ねぇ、マコト」
セナが呟く。
「幻滅した? 私があんな、所帯じみた姉ちゃんだって知って」
「まさか」
私は即答した。
「逆ですよ。私は君に惚れ直しました」
セナが顔を上げる。
「私は君を、ただの『支配欲の強い女性』だと思っていました。でも、君の支配の根底には『庇護愛』がある。弱きを守り、秩序を作るための力。……君が将来、どんな家庭を築くのか、あるいはどんな組織を率いるのか。私はそれを一番近くで見たくなりました」
「……っ」
セナの頬が、パレードの光を受けて赤く染まる。
彼女は視線を逸らし、私の胸に顔を埋めた。
「……調子いいこと言わないでよ、宰相のくせに」
「事実です」
「……じゃあ、責任取りなさいよ」
セナのくぐもった声が聞こえる。
「私がこんなに弱みを見せたのは、あんたが初めてなんだから。……これから先も、私の隣で、私の『統治』を支えなさい。これは命令よ」
それは、彼女なりの精一杯のデレであり、事実上のプロポーズのような言葉だった。
「御意」
私は彼女の髪を撫でた。
「このマコト、女王陛下の忠実なる騎士として、生涯お仕えします」
「……バカ。ナイトじゃなくて宰相でしょ」
「おや、そうでしたか」
ドーン、と花火が上がる。
夜空を彩る大輪の華。
「夢と魔法の王国」のフィナーレだ。
しかし、私にとっての魔法は、目の前のこの少女だった。
歴史を愛し、世界を支配しようとし、迷子に優しく、そして今、私の腕の中で震えている愛しい少女。
「……マコト」
「はい」
「キスしなさいよ。……この花火が終わるまでに」
私は苦笑し、そして彼女の顎を静かに持ち上げた。
カチューシャの耳がぶつかる。
私たちは笑い合い、そして、甘いチュロスの味が残る唇を重ねた。
米国式の契約? 日本式の告白?
そんな形式はどうでもいい。
今ここにあるのは、確固たる「同盟」と、解けることのない「魔法」だけだった。
舞浜の夜風は冷たかったが、二人の体温は、いつまでも冷めることはなかった。
(了)




