表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
放課後倫理学  作者: 紅茶
22/37

文化祭後日譚

文化祭の振替休日。

平日の昼間という背徳感のある時間帯に、俺たちは学校の屋上ではなく、河川敷の土手に座っていた。

風が少し冷たい。秋が深まっている。


俺――ケイは、コンビニのおにぎりを頬張りながら、隣に座るマコトを横目で見た。


「……なぁ、マコト。パラドックスの話をしよう」


「唐突ですね。ゼノンのパラドックスですか? それとも嘘つきのパラドックス?」


マコトは水筒の茶を飲みながら、いつもの調子で返してくる。


「『テセウスの船』だ」


俺は川面を見つめた。


「ある船の部品が古くなり、少しずつ新しい部品に交換されていく。最終的にすべての部品が置き換わった時、その船は『元の船』と同じと言えるのか?」


「有名な同一性の問題ですね。……それがどうしました?」


「俺たちだよ」


俺は膝を抱えた。


「俺たちという『船』は、この文化祭を通じて大きく部品が入れ替わった。俺にはミサキという要素(恋人)が加わり、お前にはセナという要素(女帝)が加わった。俺たちの生活リズムも、思考の優先順位も、以前とは変わっちまった。……だとしたら、今ここにいる俺たちは、あの日、教室の隅で世界を呪っていた『俺たち』と同じなのか?」


俺はずっと、それを恐れていた。

恋人ができることは幸福だ。


だが、その幸福によって、俺の鋭利な牙が抜け落ち、マコトとのこの心地よい「共鳴」が失われてしまうのではないか。


マコトは少しの間沈黙し、川の流れを見ていた。


そして、静かに口を開いた。


「……構造主義的に考えましょう、ケイ」


「構造主義?」


「ええ。レヴィ=ストロースです。要素が変わっても、その要素同士の関係性(構造)が変わらなければ、システムは維持される」


マコトは俺の方を向き、眼鏡の位置を直した。


「君にミサキさんが、私にセナが加わった。それは確かに大きな変化です。でも、それによって『私と君』という関係の構造が崩れましたか?」


マコトは指を二本立てた。


「君が世界に対して怒り、私がそれを解釈する。君が走り出し、私がブレーキをかける。……この『対話の構造』自体は、何一つ変わっていないはずです」


「……」


「それに、テセウスの船には続きがあるんですよ。交換されて捨てられた古い部品を集めて、もう一隻の船を組み立てたら、どちらが『本物』か? という問いです」


マコトは悪戯っぽく笑った。


「私たちがもし変わってしまったとしても、私たちの間交わされた膨大な言葉ロゴスの蓄積が、第二の船として残ります。……だから、安心して幸せになりなさい。君がどれだけ『リア充』になろうとも、君の魂の座標軸アクシスは、ここにあるんですから」


マコトの言葉は、いつも俺の不安を論理的に解体し、再構築してくれる。

俺は安堵のあまり、ため息をついた。


「……詭弁だな。だが、採用してやる」


「光栄です」


「なぁ、マコト。セナの『統治』はどうだ? キツイか?」


「ええ、もう。毎日が外交戦争ですよ。隙を見せればすぐに主権を奪われそうになる。……でもまあ、退屈はしません」


マコトは苦笑しながら、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。その仕草は昔のままだ。

だが、俺は気づいてしまった。


「……変わったな、お前」


「はい?」


「以前のお前なら、そんな『外交戦争』なんて面倒事は、ショーペンハウアーを引用して『無意味だ』と切り捨てて、安全圏に逃げていただろう」


俺はマコトの横顔を指差した。


「だが今の顔は、なんていうか……『当事者』の顔だ。セナという強烈な他者に領土を侵犯されて、防衛戦を強いられているのに、それを『生の実感』として楽しんでやがる」


マコトという精巧な自動機械オートマトンに、セナというバグが混入し、人間らしい「熱」や「ノイズ」が生じている。


あの潔癖だったマコトの魂に、他者と関わることで生じる泥や傷がついているのだ。


「……買い被りですよ。単に、逃げ道を塞がれているだけです」


マコトは少し照れくさそうに視線を逸らした。


「それに、君だって同じでしょう? ミサキさんの『文学的解釈』に、論理ロジックを骨抜きにされているじゃないですか」


俺たちは顔を見合わせて笑った。

部品は変わった。航路も変わった。

そして何より、船員である俺たちが、少しだけ「人間臭く」なった。


けれど、この船の羅針盤は、まだ狂っていない。


「帰るか、マコト。今日はセナとの『定例会談』があるんだろ?」


「ええ。遅刻したらギロチンですからね」


俺たちは立ち上がり、土手の草を払った。

二つの影が並んで伸びる。


その距離感だけは、どんなに環境が変わっても、1ミリたりとも変わらない「聖域」なのだ。



2.セナとミサキ


放課後のカフェ『アレクサンドリア』。

文化祭の打ち上げと称して、私――セナは、ミサキを呼び出していた。


「はい、ミサキ。貴女の好きなイチゴのタルトよ。文化祭の功労者への報奨ボーナスだと思って」


「わぁ、ありがとうセナちゃん! ……でも、高そう」


ミサキは目を輝かせながらも、恐縮してフォークを握っている。

小動物みたいで可愛らしい。ケイがあれほど執着するのも、戦略的には理解できる。この「守ってあげたい感」は、あの堅物哲学者の最大の弱点だろう。


「気にしないで。私のポケットマネーよ」


私は紅茶を優雅に啜りながら、本題に入った。


「で? どうなの。戦後処理の状況は」


「戦後処理?」


ミサキが首を傾げる。


「ケイとの関係よ。文化祭のラスト、あんなにドラマチックに踊ったんだもの。その後の『講和条約(お付き合い)』は順調なんでしょうね?」


「あ、うん……」


ミサキは顔を真っ赤にして、フォークを口に運んだ。


「順調……かな。ケイちゃん、相変わらず理屈っぽいけど、最近はそれが『照れ隠し』だってわかるようになってきたから」


「分析が進んでいるわね。さすが文学少女」


「セナちゃんこそ、どうなの? マコトくんとは」


ミサキが逆に問いかけてくる。その目は好奇心でキラキラしている。


「……一進一退ね」


私は溜息をついて、カップを置いた。


「あいつ、のらりくらりと躱すのが上手すぎるのよ。私が『週末空いてる?』って聞くと、『ハイデガーの研究会がある』とか『図書館で予約した本が』とか言って、なかなかデートの確約アポイントメントが取れないの」


「あはは、マコトくんらしいね」


「でもね、逃がさないわ。私は包囲網を狭めているところよ。既成事実を積み上げて、逃げ道を塞いで、最終的には私の帝国の『永久宰相』に任命してやるんだから」


私が拳を握ると、ミサキは楽しそうに笑った。

そして、少し真面目な顔になって言った。


「ねぇ、セナちゃん。『千夜一夜物語アラビアンナイト』って知ってる?」


「シェヘラザードの話でしょ? 王様に毎晩物語を聞かせて、処刑を延期させたっていう」


「うん。セナちゃんは『力』でマコトくんを捕まえようとしてるけど、マコトくんは知的な人だから、シェヘラザードみたいに『続きが気になる話』で惹きつけるのもアリだと思うな」


「続きが気になる話?」


「そう。『この人のそばにいると、飽きないな』『もっと話を聞きたいな』って思わせるの。セナちゃんは歴史の話をしてる時、すごく楽しそうだから。マコトくんもきっと、その話を聞くのが好きなんだと思うよ」


ミサキの言葉に、私は虚を突かれた。


力による支配ハード・パワーばかり考えていたけれど、文化による魅力ソフト・パワーで攻めるべきだと言うのか。


「……貴女、たまに鋭いこと言うわね」


「えへへ、物語の構造分析は得意だから」


ミサキはクリームを口につけたまま、ニコニコしている。

この子は侮れない。


ケイという猛獣を「文学」という檻で飼い慣らし、私に対して堂々と戦略的アドバイスをしてくる。

やはり、彼女は私の最良の同盟国だ。


「わかったわ。戦術を見直してみる」


私は伝票を手に取った。


「その代わりミサキ、貴女もケイの手綱を緩めちゃダメよ。あの手のタイプは、放っておくとすぐに孤独という洞窟に逃げ込むから」


「うん、任せて! しおりを挟んで、いつでも私がいる場所に戻ってこれるようにしておくから」


「……ロマンチストね」


「セナちゃんはリアリストだね」


私たちは顔を見合わせて笑った。

性格も、アプローチも正反対。


でも、「難解な男(女)たちを愛してしまった」という一点において、私たちは最強の共犯者だ。


「行きましょう。次は本屋に付き合って。マコトの好きそうな歴史書の新作が出てるのよ」


「うん! 私もケイちゃんにおすすめする詩集を探したいな」


女帝と語り部。

私たちの「戦後」は、平和ボケする暇もなく、次なる愛の作戦会議へと続いていくのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ