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放課後倫理学  作者: 紅茶
20/37

文化祭②


午後2時。

生徒会室の時計の針が、約束の時間を指した。


「……時間ね」


セナは手元の書類をパタンと閉じ、立ち上がった。

彼女は迷うことなく左腕の「生徒会副会長」の腕章を外し、無造作にポケットに突っ込む。


そして、きっちりと閉めていたブラウスの第一ボタンを外し、首元のリボンを少しだけ緩める。


鏡を見ることもなく、ただ一呼吸置くだけで、彼女の纏う空気は「女帝」から「一人の少女」へと鮮やかに切り替わった。


「行くわよ、マコト」


「はい」


私も自分の腕章を外し、机の中に入れた。

余計な言葉はいらない。


これは事前に決められたスケジュールであり、私たちにとっての「正当な権利」なのだから。


廊下に出ると、熱気と騒音が私たちを包み込んだ。

私たちの鼓膜を、暴力的なまでの「熱狂」が打ち抜いた。


「――っ!」


そこには、数分前までモニター越しに眺めていた整然たる「秩序」など微塵もなかった。


充満するのは、焦げた未完成の匂い、ここぞとばかりに張り上げる運動部の声、そして数百人分が、ごった返す物理的な圧迫。


さながら、一人ひとりが自己の存在を大声で主張しているようだった。


遠くで吹奏楽部が鳴らすラッパ音をBGMに、普段であれば耳障りと感じるかもしれないガヤガヤとした雑多な話し声も、なぜか不思議と心地よく感じる。


管理されることを拒絶した若さという名のエネルギーが、祝祭という大義名分の下で爆発している。


一方で、私たちの進む先々で、沸き立っていた熱狂が波が引くように割れていく。


指導者への敬畏か、あるいは「見てはいけないもの」を見てしまった困惑か。


喧騒の中に、私たちの周囲だけが真空地帯になったような、奇妙な静寂の輪が広がっていた。


すれ違う生徒たちが、セナの姿を見て一瞬ギョッとし、反射的に道を譲ろうとするのだ。


だが、セナは挨拶を返すことも、注意することもしない。

ただ私のシャツの袖を、ちょい、と掴んだ。


「……マコト。離れないでよ」


その瞬間、私の内側で、理性の堤防が決壊した。


(本当は……こういう人なんだな)


脳内を駆け巡るのは、高潔な倫理観でも、冷徹な情勢分析でもない。

ただひたすらに熱く、脈動するような「生」の肯定感。


ニーチェが説いた『ディオニュソス的陶酔』とは、きっとこのことだ。


「副会長の補佐」という役割を脱ぎ捨て、この騒がしい雑踏の中で、ただ隣にいる少女の体温だけを指針に歩く。


その背徳的なまでの自由が、私の心拍数をかつてないほどに加速させていた。


「ええ。はぐれませんよ」


私は彼女のエスコートをするように、歩幅を合わせた。

腕章という重石を外した私の身体は、驚くほど軽い。


私たちは、私たちの統治する「帝国」を裏切り、一組の迷子として、祝祭へと混じっていった。


3年B組の模擬店に入ると、教室の空気が一瞬凍りついた。


「い、いらっしゃいませ……! セ、セナ副会長!?」


受付の生徒が直立不動になる。


「き、今日は査察ですか!? 衛生管理は完璧です!」


セナは小さく溜息をつき、緩めたリボンを指差した。


「違うわ。今は休憩中よ。ただの客として来たの」


「えっ……?」


「焼きそば二つ。……紅生姜は多めでね」


セナが普通の女子高生のように注文し、財布から小銭を出す。


そのあまりに自然な振る舞いに、店員たちは狐につままれたような顔をしていたが、すぐに


「は、はいっ! 喜んで!」と、まるで国賓でも相手にするかのように慌てて調理を始めた。


私たちは教室の隅の席に座った。

周囲の客たちが、遠巻きにこちらを見ている。


「おい、あの二人……」

「え、まさかデートか?」

「副会長に限ってないでしょ」

「あいつ野中と付き合っねんじゃねーの?」


驚きと好奇の視線。

だが、誰も話しかけてこない。


腕章を外したセナと私が並んでいる姿には、他人が安易に踏み込めない独特の結界のようなものがあるらしい。


「……静かね」


セナが焼きそばを割り箸で割りながら言った。


「こんなに人がいるのに、まるで私たちしかいないみたい」


「ええ。貴女が放つ『不可侵条約』のオーラが効いているようですよ。近づいたら最後通牒でも突きつけて来そうですし」


私が軽口を叩くと、セナはフッと笑い、箸で掴んだ麺を私に差し出した。


「なら、有効活用しましょうか。……ほら、マコト」


「……っ!?」


周囲の生徒たちが息を呑む音が聞こえた。


「セ、セナ……。ここは公衆の面前ですよ」


「だから何? 誰も見てないわよ。みんな、自分の焼きそばに夢中だもの」


セナは悪戯っぽく笑う。

もちろん、全員が見ている。

見ているが、直視できないのだ。


彼女はその状況を知った上で、楽しんでいる。

私は観念して、差し出された焼きそばを口にした。


ソースの濃い味と、彼女の満足げな笑顔。

この「堂々とした秘密の時間」は、どんなスリリングな映画よりも私の心拍数を上げていた。



縁日エリアで射的を楽しみ(セナが物理法則を無視した弾道で景品をなぎ倒し)、いくつかの展示を見て回った後。


私たちは喧騒を離れ、屋上へと続く階段の踊り場にいた。


「……ふぅ。意外と疲れるわね」


セナが壁にもたれかかる。


「でも、楽しかった。……私、ちゃんと『普通』にできてたかしら」


彼女は自分の頬に触れた。


「生徒会の顔とか、女帝とか……そういうのを全部外して、ただの女の子として、貴方の隣にいられたかしら?」


その問いかけに、私は胸が締め付けられた。

彼女は無意識のうちに、まだ「役割」を演じているのではないかと不安だったのだ。


私は一歩近づき、彼女の少し乱れた前髪を指先で直してあげた。


「ええ。完璧でしたよ」


私は彼女の瞳を見つめた。


「腕章のない貴女は、私が知る限り、世界で一番魅力的な女の子でした。……周りの生徒たちが、羨ましそうに私を見ていたのに気づきませんでしたか?」


「……見てないわよ、そんなの」


セナが顔を赤らめて俯く。


「私は……マコトしか、見てなかったから」


その言葉は、どんな甘いセリフよりも私の胸に響いた。


「……光栄です」


私は自然と彼女の手を取った。

言葉はいらない。

ありのままの彼女と、ありのままの私が、ここにいる。


それだけで、この時間は魔法にかかったように輝いていた。


その時。


不意に、校舎の照明がフッと落ちた。

遠くから悲鳴が聞こえる。


「……停電?」


セナの表情が、一瞬で引き締まる。


「女の子」の顔から、「副会長」の顔へ。

その切り替えの速さに、私は彼女の強さと、そして微かな寂しさを感じた。


「……夢の時間は終わりね」


セナがポケットから腕章を取り出し、左腕につける。

パチン、と安全ピンを留める音が、現実への帰還の合図だった。


「行くわよ、マコト。……私の祭りを守りに行くわよ」


「はい、セナ」


私たちは走り出した。

ただの恋人同士から、最強のパートナーへと戻って。

けれど、繋いだ手の温もりだけは、確かな「私情」として、手のひらに残っていた。



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