ニーチェとワーグナー
放課後の音楽室からは、金管楽器の重厚な旋律が漏れ聞こえていた。
吹奏楽部の練習ではない。誰かがオーディオで、大音量のクラシックを流しているのだ。
「……なぁ、マコト。少し音量を下げてくれねぇか。胃もたれしそうだ」
俺――ケイは、窓際の席で眉間を揉みながら言った。
夕焼けが教室をオレンジ色に染め上げているが、空気に満ちているのは哀愁ではなく、過剰なまでの情熱と荘厳さだ。
前の席で、マコトが恍惚とした表情で指揮者の真似事をしている。
「何を言っているんです、ケイ。ここが一番のクライマックスですよ。ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』。この無限旋律、解決されない和音の連続……ああ、魂が溶けていくようです」
マコト――「私」は、陶酔しきった声で言いながら、少しだけボリュームを絞った。
「溶ける、ね。言い得て妙だ」
俺は鼻で笑う。
「ニーチェが言った通りだ。『ワーグナーは音楽家ではない、病気である』ってな。お前のその顔、完全にアヘン中毒者のそれだぞ」
マコトはゆっくりと振り返り、心外だと言わんばかりに眼鏡を直した。
「手厳しいですね。かつてはニーチェもワーグナーを崇拝していたのに。若き日の彼にとって、ワーグナーこそがギリシャ悲劇を現代に蘇らせる『ディオニュソス的』な英雄だったはずですよ」
「ああ、最初はな」
俺は机に肘をつく。
「でも、ニーチェは気づいちまったんだよ。ワーグナーの音楽が、生の肯定じゃなくて、現実からの逃避だってことに。あいつの音楽は、神経を麻痺させて、人工的な興奮と『救い』を垂れ流す。まさに麻薬だ。健康的じゃねぇ」
「健康的かどうかで芸術を断じるのは、ニーチェの悪い癖ですね」
マコトは文庫本――おそらくワーグナーの評伝か何かだろう――を開いた。
「ワーグナーが目指したのは『総合芸術』です。音楽、詩、演劇、舞台美術、すべてを融合させ、観客を神話の世界に没入させる。それは現実逃避ではなく、日常の些末な苦しみから魂を解放する『救済』のアートなんですよ」
「その『救済』ってのが気に入らねぇんだよ」
俺は椅子を蹴るようにして足を組んだ。
「晩年のワーグナーが書いた『パルジファル』を見ろよ。キリスト教的な禁欲と、憐れみによる救い。ニーチェが一番嫌った『奴隷道徳』のオンパレードだ。自分の足で立てない弱者が、音楽という温かい羊水の中に逃げ込んで、架空の救いに涙する。そんなの、ただの『役者』による手品だろ」
「手品で何が悪いんです?」
マコトは穏やかに反論する。
「世界は過酷です。ショーペンハウアーも言ったように、生きることは苦しみです。だとしたら、美しく壮大な幻影に身を委ね、一時でも苦痛を忘れることは、人間に必要な『薬』ではありませんか?」
「薬? 毒だろ」
俺は即答する。
「ニーチェは言ったぜ。『すべての神々は死んだ』と。縋るものがなくなった荒野で、それでも『この人生を愛する(アモール・ファティ)』ことこそが超人への道だ。なのにワーグナーは、古臭い神話や宗教の香水を振りまいて、人々の目を曇らせる。それは人を弱くするんだよ。『強くなれ、自分の足で立て』って時に、『可哀想に、こっちへおいで』って甘やかすババアみたいなもんだ」
「ババアとは言葉が過ぎますね……」
マコトは苦笑いした。
「でも、ケイ。あなただって疲れている時はあるでしょう? そんな時、ただ『強くなれ』と叱咤されるのと、美しい旋律に包まれて『そのままでいい』と許されるの、どちらが心に沁みますか?」
「っ……」
俺は言葉に詰まる。昨日の体育の補習で筋肉痛のふくらはぎが、微かに疼いた気がした。
マコトは続ける。
「ニーチェの思想は、確かに高潔で力強い。ハンマーを持って偶像を破壊する姿はかっこいいです。でも、誰もが常にハンマーを振り回していられるわけじゃない。時にはバイロイト祝祭劇場のような暗闇の中で、圧倒的な『情動』の波に飲まれたい夜もある。それは弱さではなく、人間の生理的欲求ですよ」
教室に流れる『愛の死』の旋律が、夕闇に溶けていく。
確かに、悔しいほどに美しい。理屈を超えて、神経に直接訴えかけてくるような強制力がある。
ニーチェがワーグナーと決別した後も、彼を憎みつつ、同時に誰よりも彼を理解し、その才能を愛していたように。
「……認めるよ」
俺はため息交じりに言った。
「ワーグナーは天才的な『魔術師』だ。あいつの音楽には、理性をぶっ飛ばす威力がある。だからこそ危険なんだよ。一度あの心地よい沼にハマったら、二度と現実の荒野に戻ってこられなくなる」
「ふふ、だからこそ、あなたのような批評家が必要なんです」
マコトは音楽を止めた。突然の静寂が、教室に満ちる。
「熱狂しすぎる私たちに、『それはただの演劇だ』と冷水を浴びせる役割がね。ニーチェとワーグナーが、もし喧嘩別れせずに互いを尊重し続けられていたら……きっと、最強の二人だったと思いませんか?」
「どうかな。水と油だろ」
俺は鞄を手に取り、立ち上がった。
「一方は『没入しろ』と言い、一方は『覚醒しろ』と言う。混ぜたら爆発するぜ」
「その爆発こそが、文化を進めるエンジンかもしれませんよ」
マコトも立ち上がり、丁寧に椅子を引いた。
「情熱的な陶酔と、冷徹な覚醒。どちらか片方だけでは、人間はきっと退屈するか、焼き切れてしまう」
「……うまいことまとめやがって」
俺はフンと鼻を鳴らした。
「ま、今日のところは引き分けにしてやるよ。ただし、次はもっと軽快な曲にしろよ。『カルメン』とかな。ニーチェも推奨してるぞ、『地中海的で健康的だ』って」
「『カルメン』ですか。愛のために刺し殺される話が健康的かどうかは疑問ですが……検討しておきます」
俺たちは並んで廊下に出た。
窓の外は完全に日が落ち、校庭の照明が灯り始めている。
「さて、帰るか。今日は部活ねぇし」
俺はスカートのポケットから自転車の鍵を取り出し、指で回した。
「ええ。あ、ケイ。荷物持ちましょうか?」
マコトが俺のスクールバッグに手を伸ばす。
「いらん。自分の荷物くらい自分で持つ。それが『超人』への第一歩だ」
俺はバッグを肩に担ぎ直して、マコトの手を払った。
「やれやれ。これだからニヒリストは可愛げがない」
マコトはスラックスの埃を払いながら、呆れたように肩をすくめた。
「うるせぇよ、ロマンチスト」
俺――ケイは、ローファーのかかとを踏み鳴らしながら大股で歩く。
私――マコトは、背筋を伸ばしてその隣を歩く。
男勝りで現実主義な女子と、
理屈っぽくて夢見がちな男子。
かつての哲学者と音楽家は決裂したが、俺たちはまだ、こうして隣を歩いている。
互いに噛み合わない思想を奏でながら、この騒がしい「人生」という劇場の舞台袖へ向かって。




