文化祭①
6月10日、文化祭当日。午前10時。
学園は祝祭の熱気に包まれていたが、生徒会室だけは、最前線の司令部のような緊張感に支配されていた。
扉が開くたびに、廊下から焼きそばのソースの匂いと、大音量のBGM、そして生徒たちの無責任な歓声が室内になだれ込んでくる。
だが、ドアが閉まればそこは再び、設定温度19度の冷気と、プリンターの吐き出す駆動音だけが支配する無機質な戦場に戻る。
文化祭とは、恐らく唯一と言っていい学生主体の学校イベント。
各クラスや委員会、部活動、その他有志が、箱と日にちだけを用意され、その枠の中で企画立案から運営までをこなす。
クラス集団で一つの目標を遂行することで、教科書の上だけでは決して学べない「他者との合意形成の難しさ」と、それを乗り越えた先の「本物の達成感」を肌で学ぶことになる。
文化祭とは、単なる「お祭り」ではない。それは、まだ何者でもない学生たちが、自分たちの力だけで社会との接点を持ち、カオス(混沌)の中から秩序と感動を創造する、極めて高度な探究学習の場である。
しかし、そうした学習的な意義を意識する生徒は恐らく皆無。
彼らにとっての文化祭の本質、その正体とは「退屈な日常からの、公認された脱走」であり、「今日なら何かが起きるかもしれないという、集団的な熱病」を楽しむ祝祭だ。
「文化祭マジック」という言葉があるように、このイベントには「何かが起きなくてはならない」という強迫観念めいた期待が付きまとう。
気になる異性に声をかける口実、後夜祭での告白、バンド演奏での自己顕示。
普段のヒエラルキーが一時的にリセットされるこの空間で、「自分は物語の主人公になれるかもしれない」という淡い期待(あるいは錯覚)を消費すること。それが彼らにとっての最大の関心事だ。
殊、文化祭においては、運営を担当しおおむね裏方として活躍する生徒会は、そうした浮ついた様相とは別次元のように思われるかもしれないが、実情は無論、例外ではなかった。
「……報告! 3年B組の焼きそば模擬店、氷の在庫が切れそうです!」
「1年C組、行列整理が追いつかず、廊下が封鎖状態です!」
「ステージ機材、マイク一本にノイズが入ります!」
セナは左手で無線機を握り、右手で書類に判を押し、目線は刻一刻と変化するモニターの監視カメラ映像を追っている。
彼女の頭脳は、学園という国家のOSを一人で回しているかのようだった。
次々と飛び込んでくるトラブルの報告。
無線機とスマホが鳴り止まない。
このカオスの中央で、生徒会副会長・セナは、パイプ椅子に深々と座り、冷徹な指揮を執っていた。
「慌てないで。一つずつ処理するわよ」
セナの声は、よく通るアルトだ。
その一言で、パニックになりかけていた役員たちが静まり返る。
彼女は机上の地図を指差し、矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「まず飲食班。購買部の冷凍庫から予備の氷を徴収。許可証は発行はこちらでやるわ。ルートは西階段を使いなさい。東は混雑しているわ」
「廊下の封鎖は、空き教室を待機列として開放。……1年C組の責任者には、文化祭後に教育使用許可書を書かせるわ」
「マイクのノイズは、予備の『3番』と交換。音響担当に伝えて」
「は、はいっ! すぐに行きます!」
委員たちが弾かれたように駆け出していく。
的確で、迅速で、無駄がない。
私――マコトは、その様子を隣で補佐しながら、心の中で舌を巻いていた。
セナは今日の文化祭を「戦争」と定義していた。
来場者という名の敵軍を、満足度という武器で制圧する。そのためには、補給線の維持と情報の集約が不可欠だ。
しかし。
ふと、彼女の手元を見て、私は違和感を覚えた。
彼女が握りしめているペンの先が、微かに震えている。
額には、うっすらと汗が滲んでいる。
疲れた目を誤魔化すように、無意識的な瞬きの回数は目に見えて多くなる。
完璧に見える指揮の裏で、彼女は異常なほどのハイペースで自分を追い込んでいた。
「……セナ」
私はペットボトルの水を差し出した。
「少しペースを落としませんか? まだ午前中です。仕事量がキャパシティを超えてしまったように思います」
「……余計なお世話よ」
セナは水を受け取らず、睨みつけてきた。
「午前中に全ての問題を片付けるのよ。午後には……『予定』があるのよ」
「予定?」
セナはふいっと視線を逸らした。
その横顔に、一瞬だけ焦りのようなものが見えた。
彼女は机の引き出しから、一枚のプリントを取り出し、裏返しにして私に突き出した。
「……これを見なさい。午後の私のシフト表よ」
私はプリントを受け取り、裏返した。
そこには、分刻みで組まれたセナの行動予定が記されていた。
12:00~13:00 来賓対応
13:00~14:00 ステージ挨拶および表彰式リハ
ここまでは通常通りだ。
しかし、その次がおかしい。
14:00~16:00 【 空白 】
16:00~ トラブル対応・閉会式準備
「……2時間の空白?」
私は眉をひそめた。
「セナ。文化祭のピークタイムである午後の2時間に、生徒会副会長が不在になるというのは、リスクが高すぎませんか? ここで何をするつもりです? まさか、何か事件でも……」
「……もっと、建設的、なことよ」
セナは腕組みをして、ツンと顔を背けたまま言った。
「マコト。貴方のシフトも確認しなさい。……合わせておいたから」
私は自分のスマホでシフトを確認する。
確かに、私のスケジュールも14時から16時までが見事に「フリー」になっていた。
改めて全体のシフトを確認した。
他の生徒会役員には、副会長と私は、文化祭の『見回り』と告知されている。
つまり、虚偽文書偽造だ。
「……これは、職権乱用では?」
「黙りなさい。これは『トップダウンによる働き方改革』よ……一応、生徒会長には許可とってるわよ」
セナは小さく付け加え、ようやく私の方を向き、挑戦的な、しかしどこか必死な瞳で私を見据えた。
「単刀直入に言うわ。……デートよ、マコト」
「……はい?」
「聞こえなかった? デートをするのよ。文化祭デート」
セナは机をバンと叩いた。その勢いで、積まれていた書類が少し崩れた。
彼女はそれを直そうともせず、捲し立てた。
「私はね、この文化祭を運営するために、誰よりも働いてきたわ。だから、私には権利があるはずよ。たった2時間だけ、この『副会長』の仮面を外して、ただの女子高生として楽しむ権利が!」
彼女の瞳が揺れている。
いつもの絶対的な自信ではない。
「断られたらどうしよう」
「計画が崩れたらどうしよう」という、年相応の不安が見え隠れしている。
その必死な姿を見た瞬間、私の脳裏に、ある人物の顔が重なった。
――『俺は今、真理について語ってるんだ!』
図書室で、なりふり構わず自説を叫んでいたケイの姿だ。
不器用で、自分の理想のために周りが見えなくなり、それでも何かを掴もうともがく姿。
(……ああ)
私は思わず、口元を緩めてしまった。
似ている。
この完璧主義の女帝と、あの不器用な哲学者。
正反対に見えて、根底にある「必死さ」は同じだ。
自分の欲望や理想に対して、あまりにも正直で、無防備で。
「……マコト? 何笑ってるのよ。不敬罪で処刑するわよ」
セナが顔を赤くして怒る。
「いえ……失礼」
私は眼鏡を外し、目頭を押さえた。
おかしい。
今まで、彼女のことを「手のかかる支配者」としか見ていなかったのに。
今、目の前で顔を赤くして、スケジュール帳を握りしめている彼女が、無性に――
愛おしい、と思ってしまった。
それは恋愛感情と呼ぶにはまだ早いかもしれない。
けれど、ケイに対して抱いている「守ってあげなきゃいけないな」という保護欲にも似た、温かい感情だった。
「……わかりました、セナ」
私は眼鏡をかけ直し、彼女の目を真っ直ぐに見た。
「その提案、喜んでお受けします」
「……ほ、本当?」
セナの表情がパッと明るくなる。
「ええ。ただし条件があります」
「条件?」
「せっかくだから、楽しみましょう。できれば素のあなたのと共に過ごしたいです」
私がそう言うと、セナは虚を突かれたように瞬きをし、それからフッと笑った。
いつもの傲慢な笑みではなく、少し照れくさそうな、少女の笑みだった。
「……生意気ね。でも、許可してあげるわ」
セナは立ち上がり、私の前に手を差し出した。
握手だ。
キスでも、ハグでもない。
まだ「同盟国」としての距離感を保ったままの、しかし確かな信頼の証。
「頼りにしているわ、マコト。……私のデートプラン、完璧なんだから」
「ええ。楽しみにしていますよ、セナ」
私は彼女の手を握り返した。
その手は、冷房で冷え切っていたが、微かに汗ばんでいた。
彼女の緊張と、このデートにかける情熱が、掌から伝わってくるようだった。
握り合わされた手の熱。
私はこの時、人生で初めて「義務」よりも「欲望」を優先してしまった。
……思えば、この時から狂っていたのかもしれない。
私の論理も、私という人間の整合性も。
「さあ、休憩終わり! 次はステージ部門の進行確認よ! マコト、資料!」
「はい、こちらに」
セナはすぐに手を離し、司令官の顔に戻った。
だが、その横顔は、先ほどまでの焦燥感が消え、どこか晴れやかに見えた。
現在時刻は午後1時。
定刻に向けて、私たちの密かなるカウントダウンが始まった。




