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放課後倫理学  作者: 紅茶
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ハーバーマス対ガダマー

放課後のチャイムが鳴り止むと同時に、教室には重苦しい静寂が降りてきた。

この高校には、明治時代から続く不可解な伝統がある。


無言清掃むごんせいそう


掃除の時間は一言も発してはならない。心身を清め、勤労の精神を養うための「禅」の修行のような時間。


俺――ケイは、雑巾を絞りながら、この理不尽な儀式に対して猛烈な憤りを覚えていた。


「……ッ」


俺は床に雑巾を叩きつけたい衝動を抑え、猛烈な勢いで廊下を拭き始めた。


隣では、マコトが、ほうきを持って涼しい顔で埃を掃いている。


彼はこの静寂を苦にしていない。むしろ、この空気に調和し、淡々と役割をこなしている。


(気に食わねぇ……!)


俺の脳内では、批判的理性のサイレンが鳴り響いている。


なぜ喋ってはいけない?


掃除とは環境を改善するための機能的な行為だ。ならば、「あそこの汚れが落ちにくい」「洗剤を持ってきてくれ」といったコミュニケーションは、効率化のために必須ではないか。


それを「精神修養」などという曖昧なドグマで封殺するのは、権力による「体系的に歪められたコミュニケーション」に他ならない。


15分間の苦行が終わり、終了の放送が流れた。


「清掃終了。生徒の皆さんは手洗いうがいをしましょう」


その瞬間、世界に音が戻る。

俺は立ち上がり、バケツに雑巾を投げ込んで、堰を切ったようにマコトに詰め寄った。


「おいマコト! お前、あの『無言清掃』をどう思う?」


マコトはほうきを片付けながら、いつものように眼鏡を直した。


「どう、とは? 今日も床が綺麗になって、清々しい気持ちですが」


「毒されてるな、お前は!」


俺は濡れた手をジャージで拭きながら吠えた。


「あれはただの思考停止だ。対話を禁じることで、俺たちを従順な『身体』に作り変えようとする権力の装置だぞ。ハーバーマスなら激怒してるね。『理想的発話状況』が完全に破壊されてるってな!」



俺たちは誰もいない放課後の教室に戻り、いつもの席――窓際の特等席に向かい合った。

俺の怒りは収まらない。


「いいかマコト。ハーバーマスは言った。コミュニケーションこそが理性の要だ。強制や支配のない、自由で平等な対話の中でこそ、真理や合意は形成される。だが、この学校はどうだ? 『伝統だから黙れ』の一点張りだ!」


俺は机をドンと叩いた。


「これは病気だ。社会の病理だ。ハーバーマスは精神分析を社会に応用した。抑圧された無意識イデオロギーが、患者(社会)のコミュニケーションを歪めている。だから俺たち理性が『精神分析医』となって、その歪みを暴き、批判し、治療しなきゃならねぇんだよ!」


俺の熱弁に対し、マコトは鞄から文庫本を取り出しながら、静かに反論を開始した。


「……相変わらず、ケイは啓蒙的ですね。理性のメスですべてを切り刻めると信じている」


マコトは穏やかな声で、しかし核心を突いてくる。


「ですが、ガダマーならこう言いますよ。『君はどこから批判しているんだ?』と」


「あ?」


「君は『伝統』を悪しき偏見イデオロギーだと断じ、そこから脱出・批判しようとしている。まるで自分だけが伝統の外側に立ち、神の視点から客観的に判断できるかのように。……でも、それは傲慢な錯覚です」


マコトはページをめくった。


「ガダマーの解釈学の基本はこうです。『我々は常に、すでに伝統の中にいる』。君が使う日本語、君が身につけている『掃除』という概念、そして君が振り回している『理性』や『批判』という道具さえも、すべて歴史や伝統から受け継いだものです。君は伝統の外には出られない。伝統というレンズ(先入観)を通してしか、世界を理解できないんです」



マコトの反撃は続く。


「『無言清掃』を、単なる権力の抑圧と見るのは、君の理性が作り出した一面的な解釈に過ぎません。ガダマー的に見れば、この伝統には『真理』が含まれているかもしれない」


「はっ! 黙って雑巾がけすることのどこに真理があるんだよ」


「『沈黙』という共通体験がもたらす連帯感。言葉を介さない身体的な同調。それは、近代的な合理的コミュニケーション(君の好きなハーバーマス的な対話)では汲み尽くせない、深い了解を生んでいるかもしれない。……君は『前判断(先入観)』によって、その可能性を切り捨てているだけです」


マコトは俺の目をまっすぐに見つめた。


「伝統の権威は、盲従させるものではありません。それは『過去からの知識の蓄積』として、私たちを助けてくれるものです。それを理性の名の下に断罪するのは、歴史を無視した『啓蒙の暴力』ですよ」


俺は言葉に詰まった。

痛いところを突かれた。

確かに俺は、「古いもの=悪」「新しい理性=善」という図式でしか物を見ていなかったかもしれない。


だが、ここで引くわけにはいかない。それは俺のアイデンティティ(批判的理性)に関わる問題だ。


「……詭弁だね」


俺は腕組みをして、睨み返した。


「お前の言うことはわかる。『伝統の中にしか理解はない』。それは心地よい諦めだ。だがな、マコト。伝統が『間違っている』時はどうするんだ?」


俺は窓の外、校庭の国旗掲揚台を指差した。


「かつて、あの旗の下で戦争が行われた時も、人々は『伝統』や『空気』の中にいた。ガダマーの理屈じゃ、その中から戦争を批判することは不可能になる。『伝統だから仕方ない』で思考停止しちまう。……だからハーバーマスは言うんだ。伝統を内側から了解するだけじゃダメだ。外側から批判する『反省』の力が必要なんだって!」


「なるほど」


マコトは少し考え込み、頷いた。


「『イデオロギー批判』ですね。伝統が権力によって体系的に歪められている場合、それを暴く力が必要だと」


「そうだ。俺たちが『無言清掃』に違和感を持つのは、俺たちの理性がまだ死んでないからだ。俺は、この歪んだ空間を治療したいんだよ」



議論は平行線だ。

伝統の擁護者ガダマーのマコトと、イデオロギーの批判者ハーバーマスの俺。

二つの正義がぶつかり合い、教室の空気は熱を帯びていた。


だが、不思議と不快ではなかった。


俺たちは対立しているが、互いの言葉を無視してはいない。

俺はマコトの言う「歴史の重み」を感じているし、マコトも俺の言う「批判の必要性」を理解している。


ふと、マコトが本を閉じて微笑んだ。


「……ケイ。実は、ガダマーとハーバーマスの論争も、最後にはある種の歩み寄りをみせているのをご存知ですか?」


「歩み寄り?」


「ええ。ハーバーマスの言う『批判』も、結局は特定の伝統(啓蒙主義や西洋理性)に基づいていることを、彼自身も認めざるを得なかった。一方でガダマーも、伝統は固定されたものではなく、他者との対話によって常に書き換えられていくものだと認めています」


マコトは立ち上がり、黒板の前に立った。

そしてチョークで二つの円を描いた。


「私の地平(伝統肯定)」と「君の地平(批判的理性)」。


「私たちは対立しているようで、実は『対話』というゲームの盤上にいます。君が『無言清掃おかしいだろ!』と批判する。私が『いや、それにも意味がある』と擁護する。……このプロセス自体が、すでに伝統を更新しているんです」


マコトは二つの円が重なる部分を塗りつぶした。


「ガダマーはこれを『地平の融合』と呼びました。私たちは、完全に伝統を出ることはできないし、完全に客観的な批判者にもなれない。でも、こうして異なる視点を持つ二人が言葉を交わすことで、私たちの『理解』は少しずつ広がり、深まっていく」


マコトはチョークを置き、俺に向き直った。


「つまり、ケイ。『無言清掃』という悪しき(かもしれない)伝統があったおかげで、私たちはこうして放課後に熱い議論ができている。……これはこれで、悪くない『効果史(歴史の作用)』だと思いませんか?」


「……ハッ、お前は本当に口がうまいな」


俺は苦笑して、椅子に深くもたれかかった。


「つまり、俺の文句も、お前の屁理屈も、全部ひっくるめて『より良い伝統』を作るためのプロセスだって言いたいのか?」


「ええ。ハーバーマスの目指す『理想的発話状況』は、真空の中ではなく、こうした泥臭い伝統との格闘の中にしか生まれないのかもしれません」



俺たちは教室を出た。

廊下はすでに薄暗く、誰もいない。

あの「無言清掃」で磨き上げられた床が、夕陽を反射してオレンジ色に輝いている。


「……悔しいが、綺麗だな」


俺は床を見つめて呟いた。


「黙って磨いた分だけ、光ってはいる」


「ええ。君の怒りのエネルギーも、少しはこの床に転化されたようですね」


マコトが隣で笑う。


「だがな、マコト。俺は諦めんぞ」


俺は靴箱で上履きを脱ぎながら宣言した。


「明日の掃除時間、俺はあえて咳払いをしてみる。あるいは、わざとバケツをひっくり返して『あっと!』と叫んでやる」


「それは……批判的実践というより、ただの妨害行為では?」


「うるせぇ。俺なりのレジスタンスだ。この抑圧的な空間に風穴を開けてやる」


「やれやれ。では私は、君が先生に怒られないように、うまい言い訳(解釈)を考えておくことにします」


「共犯者だな」


「いいえ、解釈学的パートナーです」


俺たちは並んで校門を出た。


権力によって歪められた「無言」の時間の後に、こうして何の強制もない、歪みのない言葉を交わせる時間がある。


それこそが、俺たちにとっての本当の「清掃カタルシス」なのかもしれない。


「なぁ、マコト。腹減った。批判的理性がラーメンを要求している」


「奇遇ですね。私の伝統的胃袋も、炭水化物を求めています」


俺――ケイは、夕陽に向かって大きく伸びをする。

私――マコトは、その隣で静かに空を見上げる。


ガダマーとハーバーマス。

歴史的な論争は決着しなかったかもしれないが、俺たちの議論はいつだって「ラーメン屋に行く」という合意形成コンセンサスによって、平和的に解決されるのだ。


(了)



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