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放課後倫理学  作者: 紅茶
17/37

呉越同舟ロマンスカー

新宿駅のホームは、朝の喧騒に包まれていた。

発車ベルが鳴り響く中、俺――ケイは、指定された座席にドカッと腰を下ろし、深いため息をついた。


「……最悪だ。これはカントの言う『定言命法(無条件の義務)』でなければ、即座に逃亡しているところだぞ」


俺が毒づくと、通路側の席に座ったセナが、優雅に紅茶のペットボトルを開けながら冷ややかな視線を送ってきた。


「朝からうるさいわね、哲学者。これは生徒会役員としての『公務』よ。私だって、貴女と二人きりで箱根の研修センター視察なんて、地政学的悪夢ナイトメアだと思ってるわ」


「なら断ればよかっただろうが。なんで副会長の権限を行使しなかった?」


「マコトが言ったのよ。『今回は予算折衝の重要な会議だから、最強の論客二人を送り込む必要がある』って。……あいつ、絶対面白がってるわよね」


セナが忌々しげに言う。俺も同意せざるをえなかった。


あの眼鏡男、俺たちを同じ箱に詰め込んで、化学反応(爆発)が起きるのを安全圏から観察するつもりだ。


「はぁ……。往復の交通費と経費が出るのが唯一の救いか」


「貴女、意外と俗物よね。マルクス主義者みたいな顔して、資本主義の恩恵には弱いわ」


ロマンスカーが滑らかに動き出す。

窓の外を流れるビル群を見ながら、セナがふと、手元のタブレットを取り出した。


画面には、今日のスケジュールと、現地の地図、そして膨大な資料が表示されている。


「いい? ケイ。今日の作戦目的は『他校との合同合宿所としての利用可能性の調査』および『現地生徒会との交流』よ。貴女みたいに抽象的な議論で煙に巻くんじゃなくて、具体的な数字とファクトで交渉してよね」


「わかってるよ。だがな、セナ。ファクトだけじゃ人は動かん。現地の人間の『精神ガイスト』を掌握するには、理念イデアの提示が必要だ。お前のやり方はドライすぎて、相手の反感を買うぞ」


「甘いわね。理念なんてものは、利益という土台の上に乗っかる飾りよ。ビスマルクを見なさい。演説や多数決ではなく、『鉄と血』だけが問題を解決したのよ」


「時代錯誤も甚だしいな。今は令和だぞ、鉄血宰相」


開始五分で、すでに雲行きが怪しい。

俺は窓枠に肘をつき、セナはタブレットを睨みつける。


会話はない。


だが、奇妙なことに、この沈黙は「気まずい」ものではなかった。


お互いに「こいつとは話が合わない」という前提を共有しているがゆえの、ある種の安定した冷戦状態。


「……ねぇ、ケイ」


不意にセナが口を開いた。


「貴女、マコトのどこが気に入ってるの?」


唐突な問いに、俺は咳き込みそうになった。


「げほっ……。な、なんだ急に。文脈コンテクストを無視するな」


「移動時間の有効活用よ。知っておきたいの。ライバルが何を考えているのか」


セナはタブレットを置き、真っ直ぐに俺を見た。その瞳は、歴史上の猛将のように鋭く、逃げ場を許さない。


俺は少し考え、窓の外を見た。


「……あいつは、俺の『問い』を笑わない」


「笑わない?」


「ああ。俺が『世界はどうして存在するのか』とか『正義とは何か』とか、答えのない問いを投げ続けても、あいつは一度も『そんなの考えても無駄だ』とは言わなかった。……一緒に迷路に入ってくれるんだよ。出口がないとわかっていてもな」


俺が言うと、セナはふん、と鼻を鳴らした。


「なるほどね。貴女にとってマコトは、終わりのない思考実験に付き合ってくれる『実験室』ってわけか」


「言い方が悪いな。お前はどうなんだよ。あいつのどこがいいんだ?」


俺が問い返すと、セナは迷わず即答した。


「『余白』よ」


「余白?」


「そう。彼は歴史を客観的に見ているようで、自分の物語を持っていない。空っぽの器みたいにね。だからこそ、私がそこに強烈な歴史ヒストリーを刻み込みたくなるの。……私の色で染め上げて、私の帝国の宰相にしたい。征服欲をこれほど掻き立てる男はいないわ」


「……うわぁ。マキャベリズム全開だな」


俺は呆れを通り越して感心した。


「お前、愛することと支配することが同義になってないか?」


「歴史上、偉大な愛はすべからく支配よ。クレオパトラも、ナポレオンもね」


セナは不敵に微笑み、紅茶を一口飲んだ。

全く理解できない価値観だ。

だが、不思議と不快ではなかった。


彼女の言葉には嘘がない。自分の欲望を、歴史的な正当性でコーティングして堂々と主張するその姿勢は、ある種、清々しいほどに「実存」していた。



箱根湯本駅に到着し、登山鉄道に揺られて目的地へ向かう。

視察対象の研修センターは、山の中腹にある古い洋館を改装した施設だった。


「……古いな。明治期の建築か?」


「ええ。資料によると1910年竣工。かつては財閥の別荘だったそうよ」


セナは建物の柱を触りながら、値踏みするように目を細めた。


「耐震補強はされているようだけど、維持費がかかりそうね。動線も悪い。権威を示すための建築であって、実用性が欠如しているわ」


「そうか? 俺は悪くないと思うぞ」


俺は高い天井を見上げた。


「この空間の『余剰』がいいんだ。機能性一辺倒の現代建築にはない、精神的なゆとりがある。ここで哲学合宿をすれば、カントの超越論的感性論も理解できそうだ」


「出た、観念論。……いい? ケイ。私たちがチェックすべきは『コストパフォーマンス』と『安全性』よ。感性で予算は下りないの」


案内役の職員が現れ、俺たちは館内を回った。

セナの質問は鋭かった。


「稼働率は? 光熱費の推移は? 周辺の土砂災害リスクは?」


職員がタジタジになるほどの、徹底的なリアリズム。


一方、俺は別の視点から攻めた。


「食堂の配置が気になりますね。これでは上座と下座が固定化され、フラットな議論が阻害されます。ハーバーマスの言う『対話的理性』を実現するには、円卓の導入を検討すべきでは?」


「は、はぁ……ハーバーマス、ですか……」


職員は困惑していた。


無理もない。コストカッターの女帝と、理想を語る哲学者の波状攻撃だ。

視察が一通り終わり、俺たちは中庭のベンチで休憩を取った。


職員が差し入れてくれた温泉饅頭をかじりながら、セナが息をついた。


「……疲れたわ。あの職員、数字を把握してなさすぎよ。官僚機構の腐敗ね」


「お前の詰め方がキツイんだよ。『魔女狩り』でもしているみたいだったぞ」


「事実確認をしただけよ。で? 哲学者様の見解は?」


俺は饅頭を飲み込み、洋館を見上げた。


「施設としては合格点だ。だが、構造が少し『権力的』だな」


「権力的?」


「ああ。フーコーの『パノプティコン(一望監視施設)』だ。管理人の部屋が中央にあって、全ての廊下が見渡せるようになっている。あれじゃ生徒は常に『見られている』ことを意識して、規律を内面化してしまう。自由な発想が出にくい環境だ」


俺が言うと、セナは意外そうな顔をした。


「へぇ……。貴女、ただ夢を見てるだけじゃないのね」


「当たり前だ。哲学は現実を疑うためのツールだぞ」


セナは少し考え込み、手帳にメモを取った。


「パノプティコン的構造の懸念、ね。……採用してあげるわ。確かに、生徒会合宿で監視社会を再現しても仕方ないし」


「お? 素直だな」


「有益な意見は取り入れる。それが賢明な君主の条件だからよ」


セナはふっと笑った。


「でも、貴女の言う通りね。管理しすぎると反乱レジスタンスが起きる。適度な自由を与えつつ、手綱は握っておく……そのバランスが統治の要諦よ」


「お前、本当にブレないな」


俺は苦笑した。


「だが、悪くない判断だ。採用してやる」


ふと、風が吹いた。

山の木々がざわめき、洋館の窓ガラスが光を反射する。

俺とセナは、ベンチに並んで座っていた。

距離にして三十センチ。

決して触れ合わないが、遠くもない。


「……ねぇ、ケイ」


「なんだ」


「あんたと話してると、翻訳の手間が省けて楽だわ」


セナがぽつりと言った。


「普通の相手なら、『パノプティコン』なんて言っても通じない。『管理社会のメタファー』っていちいち説明しなきゃいけない。でも、あんたにはその必要がない」


俺は驚いてセナを見た。彼女は少しだけ口元を緩めていた。


「管理社会のメタファーって言っても、伝わらないと思うけど、まぁ……奇遇だな。俺も同じことを考えていた」


俺は認めた。


「お前と話してると、『前提』を共有できてるから話が早い。お前の歴史的参照アナロジーは極端だが、論理構造はしっかりしてるからな。……議論していて、ストレスがない」


「ふふ、光栄ね」


「勘違いするなよ。お前の思想イデオロギーには反対だ」


「知ってるわよ。私も貴女の観念論にはヘドが出るわ」


言い合いながら、俺たちは笑った。

敵同士。思想も性格も正反対。

けれど、同じ「知的レベル」というリングの上に立っているという、奇妙な連帯感。


これは、マコトやミサキとはまた違う、ドライで、それでいて強固な「共犯関係」だった。



視察を終えた俺たちは、帰りのロマンスカーまで時間があったため、芦ノ湖へ足を延ばした。


「せっかくだから観光しましょう。現地の文化を知るのも外交よ」というセナの提案だ。


湖畔にはアヒルボートや手漕ぎボートが並んでいる。


「……乗るか?」


「ええ。トラファルガーの海戦を再現しましょう」


なぜか俺たちは、二人乗りの手漕ぎボートに乗ることになった。

俺がオールを握り、セナが向かい側に座る。


「おい、なんで俺が漕ぐんだ」


「私は司令官だからよ。漕ぎ手(ガレー船の奴隷)は貴女の役目」


「ふざけんな、この搾取階級め!」


文句を言いながらも、俺はオールを動かした。ボートはゆっくりと湖面を進む。

富士山が遠くに見える。絶景だ。


「……いい景色ね。天下を統一した秀吉も、小田原征伐の時にこの山を見たのかしら」


セナが湖面に手を浸しながら言う。


「ねぇ、ケイ。もし私たちが戦国時代に生まれてたら、どうなってたと思う?」


「お前は間違いなく、謀略を巡らせる軍師か、冷酷な女城主だろうな。俺は……山に籠もって世俗を離れる隠者か」


「似合ってるわ。でも、私は貴女を放っておかない」


セナは水滴を指先で弾いた。


「私は貴女の山を包囲して、兵糧攻めにして、無理やり下山させて私の軍門に降らせるわ」


「最悪だな! なんでそこまで俺に執着するんだ」


「優秀だからよ」


セナは真っ直ぐに俺を見た。


「貴女のその『本質を見抜く目』は、戦争には邪魔だけど、統治には必要だから。……マコトと同じよ。私は欲しいものは全部手に入れる主義なの」


ボートが揺れる。


俺は漕ぐ手を止めて、セナを見返した。

水面からの照り返しが、彼女の顔を明るく照らしている。


「……セナ。お前は強いな」


「あら、今さら?」


「いや、物理的な強さじゃなくてな。自分の欲望エゴを肯定できる強さだ。ニーチェは言った。『汝の意志することをなせ』と。お前はまさに、超人的な肯定感を持ってる」


俺は嘆息した。


「俺には無理だ。俺はいつだって迷ってる。正解がない世界で、論理という杖をついて、おっかなびっくり歩いてるだけだ。……お前みたいに、迷わず進める奴が、少し羨ましいよ」


これは本音だった。

ミサキの前では見せない、マコトの前でも隠している、俺の弱音。


なぜか、この天敵セナの前では、それを口にしても「負け」にならない気がした。

セナは少し驚いた顔をして、それから優しく目を細めた。


「……馬鹿ね。迷わない人間なんていないわ」


セナは湖面を見つめた。


「私だって怖い。歴史を見れば、永遠に続く帝国なんて一つもないって知ってるから。いつか私も失敗するかもしれない。築き上げたものが崩れるかもしれない」


彼女の声が、少しだけ震えた。


「でも、だからこそ進むのよ。立ち止まったら、そこで歴史は終わりだから。……恐怖を飼い慣らして、虚勢を張って、前に進む。それが私の『戦い』よ」


セナは顔を上げ、俺に微笑みかけた。


「貴女が論理で恐怖と戦ってるのと同じよ。武器が違うだけ。……私たちは案外、似た者同士なのかもね」


「似た者同士……か」


俺は苦笑した。


「絶対に認めたくないが、否定する論拠が見当たらないな」


「でしょ? ……さ、湿っぽい話は終わり。岸に戻りなさい、漕ぎ手。お腹が空いたわ」


「へいへい、イエス・マム」


俺たちは再び、くだらない軽口を叩きながら岸へと戻った。

湖の上には、二人の笑い声がしばらく残っていた。



帰りのロマンスカー。

窓の外はすでに夜だった。

一日の疲れからか、車内は静まり返っている。

俺は缶コーヒーを、セナはホットティーを飲んでいた。


「……悪くない一日だったな」


俺が呟くと、セナは頷いた。


「ええ。視察の成果もあったし、貴女との議論も……まあ、知的遊戯としては楽しめたわ」


「素直じゃないな」


「貴女こそ」


セナは窓に映る自分の顔を見ながら、ふと言った。


「ねぇ、ケイ。協定を結ばない?」


「協定?」


「ええ。『相互不可侵条約』兼『限定的軍事同盟』よ」


セナは小指を差し出した。


「マコトを巡る争いにおいては、私たちは敵同士。そこは譲らない。でも、生徒会の運営や、退屈な日常との戦いにおいては、手を組む。……どう?」


「……ハッ、都合のいい提案だな」


俺は笑った。


「だが、悪くない。お前と組めば、マコトも少しは楽になるだろうしな」


俺は自分の小指を、セナの小指に絡めた。

指切り。

幼い子供の契約だが、俺たちにとっては重い条約調印だ。


「契約成立ね。破ったら針千本……いいえ、ギロチンよ」


「怖すぎるだろ。……ま、善処するよ」


指を離すと、セナは満足そうに目を閉じた。


「少し寝るわ。新宿に着くまで起こさないで」


「ああ。寝顔に落書きしてやるから安心しろ」


「殺すわよ」


数分もしないうちに、セナから規則正しい寝息が聞こえてきた。

普段はあんなに攻撃的で隙がないのに、寝顔は意外と幼い。


「女帝」の仮面を外した、ただの少女の顔。


(……やれやれ)


俺は読みかけの文庫本を開いたが、文字は頭に入ってこなかった。

隣にいる「天敵」の体温が、妙に心地よかったからだ。


マコト、ミサキ。そしてセナ。

俺の世界は、いつの間にかこんなにも賑やかで、複雑で、愛おしい登場人物たちで溢れかえっている。


デカルト的孤独?

ニーチェ的ニヒリズム?


そんなものに浸っている暇は、当分なさそうだ。


「……ありがとな、セナ」


俺は誰にも聞こえない声で呟き、窓の外の夜景を見つめた。

流れる街の灯りが、まるで俺たちの未来を祝福する松明のように、キラキラと輝いていた。

(了)




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