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放課後倫理学  作者: 紅茶
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人虎伝

私の世界は、いつだって半径30センチメートルの中で完結していた。

目から、手元の文庫本までの距離。それが私の世界の全て。


放課後の図書室。


西日が長く伸びて、空気中に舞う埃が金色の粒子のようにキラキラと輝いている。

古い紙の匂い。インクの匂い。ワックスの匂い。


ここはこの学校の中で唯一、時間がゆっくりと流れる場所だ。


「……ハッピーエンドか。よかった」


私は読み終えた文庫本をパタンと閉じ、小さく息を吐いた。


物語の中では、主人公たちは数々の試練を乗り越え、愛を確認し合い、美しい結末を迎えた。そこには秩序があり、意味があり、カタルシスがある。


けれど、顔を上げて視界に入ってくる現実はどうだろう。


窓の外からは運動部の掛け声。廊下からは女子生徒たちの甲高い笑い声。


「ねーねー、昨日のインスタ見た?」


「マジうける、あいつキモくない?」


意味のない会話。秩序のない騒音。

現実リアルというのは、どうしてこうも散漫で、退屈で、そのくせ暴力的なんだろう。


私はミサキ。

図書委員。


クラスでは「大人しい子」「本が好きな子」というタグを付けられ、背景モブとして処理されている存在。


でも、それでよかった。


私は自分が主人公になりたいなんて思わない。誰かのドラマに巻き込まれて傷つくくらいなら、安全な観客席でページを捲っている方がずっと幸せだ。


太宰治は『人間失格』で、道化を演じることで人間社会への恐怖を隠した。


私は道化にすらなれない。ただ「図書室」というシェルターに逃げ込み、活字の海に亡命しているだけの臆病者だ。


(……今日も、何も起きなかったな)


私はカウンターの中で、貸出カードの日付印をカチャン、と回した。


昨日は10月12日。今日は10月13日。

明日は14日で、明後日は15日。

物語のような「起承転結」なんてない。ただ淡々と、ページ数だけが増えていくような日常。


そう思っていた。


あの「嵐」が、この静寂の聖域に飛び込んでくるまでは。



「だーかーら! マコト、お前は根本的に間違ってんだよ!」


その日、図書室の扉が乱暴に開かれた。

静寂を切り裂くような、ハスキーで大きな声。

私は驚いて顔を上げた。


入ってきたのは、二人組だった。


一人は、銀縁眼鏡をかけた男子生徒。理知的で、涼しげな顔をしている。


もう一人は――女子生徒だ。


けれど、その佇まいは私の知っている「女子」のカテゴリーから大きく逸脱していた。

スカートの下にジャージを履いているわけではない。着崩しているわけでもない。


ただ、歩き方が、立ち振る舞いが、圧倒的に「男前」なのだ。


肩で風を切るように歩き、眉間に深い皺を寄せ、手振り身振りで何かを熱弁している。


「デカルトは心身二元論を唱えたが、現代脳科学の観点からすれば、精神なんて脳内物質の電気信号に過ぎねぇんだよ! 俺のこの怒りも、ドーパミンかノルアドレナリンの過剰分泌だ!」


「はいはい、ケイ。声が大きいですよ。ここは図書室です」


男子生徒――マコトくんと呼ばれた彼は、慣れた手つきで彼女を制した。


「うるせぇ! 俺は今、真理について語ってるんだ!」


「真理を探究する前に、公共の場所でのマナーを探究してください」


彼らは一番奥のテーブル席に陣取った。

私は呆気にとられて、その様子を見ていた。


(……なにあれ?)


ケイ、と呼ばれた女の子。一人称が「俺」。

普通の女子なら、痛々しいとか、厨二病とか言われて浮いてしまうだろう。


でも、彼女には不思議とそれが馴染んでいた。

背伸びをしている感じじゃない。それが彼女の「地金じがね」なのだと感じさせる、不思議な説得力があった。


「……面白い人たち」


私は手元の小説から目を離し、彼らを観察し始めた。


私の「読書」の対象が、本から現実へとシフトした瞬間だった。



それからというもの、私は放課後になるのが少しだけ楽しみになった。


彼ら――ケイちゃんとマコトくんは、頻繁に図書室に現れた。


彼らは恋人同士ではないらしい。

甘い雰囲気は皆無で、いつも何かの議論をしている。


ニーチェがどうとか、構造主義がどうとか、私にはちんぷんかんぷんな単語が飛び交う。


「ねぇ、マコト。神は死んだってニーチェは言ったが、現代において神の代わりになるのは『いいね!』の数だと思わねぇか?」


「承認欲求の神格化ですか。鋭いですが、少し俗っぽいですね」


ケイちゃんの言葉は、いつも尖っていた。

世界を疑い、人間を疑い、全てを論理で解体しようとする。


まるで、鋭利なメスを振り回す外科医のようだ。


でも。


観察を続けるうちに、私はあることに気がついた。

ある雨の日のことだ。


マコトくんが先に帰ってしまい、ケイちゃんが一人で残っていた。


彼女は難しい顔で、分厚い哲学書(『純粋理性批判』だったと思う)を睨みつけていた。

雷が鳴った。


ドーン! という大きな音に、図書室の窓ガラスが震える。


「っ……!」


ケイちゃんの肩が、ビクッと大きく跳ねた。

彼女は顔を上げ、不安そうに窓の外を見た。

その時の表情。


いつもの自信満々でふてぶてしい「俺」の顔じゃない。

迷子になった子供のような、心細くて、今にも泣き出しそうな顔。


彼女はギュッと自分の二の腕を抱きしめ、小さく震えていた。

そして、誰にも聞こえないような声で呟いた。


「……怖くねぇし。ただの放電現象だし」


その姿を見た時、私の中で何かがカチリと嵌まった。


(ああ、そうか)


彼女は、強いんじゃない。

強がっているんだ。


世界があまりにも怖くて、不可解で、傷つきやすいから。


だから「哲学」という名の分厚い鎧を着込んで、「論理」という剣を振り回して、必死に自分を守っているんだ。


『山月記』の李徴が、尊大な羞恥心ゆえに虎になったように。


彼女もまた、繊細すぎる自尊心を守るために、「哲学者」という猛獣の皮を被っているのかもしれない。


そう思ったら、急に彼女のことが愛おしくてたまらなくなった。


難解な哲学用語で武装したその内側には、きっと誰よりもピュアで、柔らかい心が隠されている。


(……読んでみたい)


私は思った。


「ケイ」という名前の、難解だけれど魅力的な書物を。


その硬い表紙をめくって、中のページに触れてみたい。



それからの私は、図書委員の権限(?)をフル活用した。


彼女が返却した本をチェックする。


デカルト、カント、ウィトゲンシュタイン。

どれも難しそうな本ばかり。でも、そのページの端には、彼女が引いた鉛筆の線が残っていたりする。


『我思う、ゆえに我あり』


その一文に引かれた、力強くも、少し震えた線。

それは彼女の「ここにいたい」「自分を確かめたい」という悲痛な叫びに見えた。


私は文学少女だ。哲学のことはよくわからない。

論理的整合性とか、命題とか言われてもピンとこない。


でも、「行間」を読むことならできる。


彼女は孤独だ。


マコトくんという理解者はいるけれど、彼は「対岸」から彼女を見守る人だ。同じ側で、手を繋いでくれる人じゃない。


(私が、その手を取れたら)


そんな大それたことを考えるようになった。

でも、どうやって?

いきなり話しかける?


「こんにちは、いつも見てました。あなたの内面の脆さに惹かれました」


……うわ、気持ち悪い。絶対引かれる。最悪の場合、「ストーカーという概念の定義について」とかいう議論をふっかけられて論破される。


私は主人公じゃない。

物語を動かす力なんてない。

ただカウンターの中で、貸出印を押すだけのモブキャラだ。


「……はぁ」


ため息をついて、窓の外を見る。

秋の夕暮れ。空には白く透けた月が浮かんでいる。


『月が綺麗ですね』


夏目漱石の逸話を思い出す。

直接「好き」と言わずに、風景に託して想いを伝える。

それは日本人の、そして文学の美学だ。

でも、ケイちゃんには通じないだろうな。


「月? 天体望遠鏡で見ればクレーターだらけの岩石だぞ」とか言われそう。


「……待って」


逆に、それを利用すればいいんじゃない?

彼女は「論理」の人だ。

不明確なもの、定義できないものを嫌う。

だったら、徹底的に「謎」を投げかけてみたらどうだろう。


差出人のない手紙。

意味深な一行。

論理では解けない、感情のパズル。


彼女の理性を揺さぶり、思考の渦に巻き込み、そして――その「答え」を探す過程で、私の存在に気づいてもらう。


これは、私なりの「賭け」だ。パスカルの賭けみたいに、失うものは何もない。もし気づいてもらえたら、無限の幸福が手に入る。



私は便箋を選んだ。


可愛らしいピンク色。ハートのシール。

彼女が一番嫌がりそうな、ベタで非論理的なアイテム。


ペンを執る。

なんて書こう。


「好きです」? 違う、それはあまりに平坦だ。


「友達になってください」? それも違う。


私が彼女に求めているのは、もっと根源的なことだ。


彼女が見ている、その孤独で、厳しくて、でも美しい「論理の世界」を、私も知りたい。

そして、私が見ている「物語の世界」を、彼女にも知ってほしい。


違う世界に住む二人が、隣り合って座る。

その距離感を、言葉にしたい。


『あなたの見ている世界を、僕も隣で見たいです』


書いた瞬間、顔が熱くなった。

「僕」なんて一人称、初めて使った。

でも、彼女が「俺」と言うなら、私も性別や役割を超えた魂の言葉を使いたかった。これは、文学的なレトリックであり、私なりの精一杯の背伸びだ。


放課後。


誰もいなくなった教室に忍び込む。

彼女の机。傷だらけで、少し落書きがある。


『神は死んだ』と小さく彫ってあるのを見て、思わず吹き出しそうになった。本当に、どこまでもケイちゃんだ。


私は教科書の下に、そっと手紙を挟んだ。

まるで、読みかけの本にしおりを挟むように。


心臓が早鐘を打っている。

こんな大胆なこと、生まれて初めてだ。

でも、不思議と後悔はなかった。


私は図書室に戻り、いつもの席に座った。

窓から、彼女の教室が見える。


明日、彼女はこの手紙を見つけるだろう。


眉をひそめ、「なんだこれは? 悪戯か? 論理的整合性がない!」と憤慨するかもしれない。マコトくんに相談して、犯人探しを始めるかもしれない。


それでもいい。


その瞬間、彼女の思考の中に「私(犯人)」が住み着くことになるのだから。


「……ふふ」


私は新しい文庫本を開いた。

でも、文字は頭に入ってこない。


だって、今から始まる現実の物語の方が、ずっとスリリングで、面白そうなんだもの。

私の日常という平坦なページに、初めてドラマチックな折り目がついた。


主人公は、あの不器用な哲学者。

そしてヒロインは――図書室の片隅で、彼女を待ち続ける私。


「待ってるよ、ケイちゃん」


窓の外、一番星が光った。

それは、論理的な天体現象であり、同時に、文学的な希望の光でもあった。


これが、私が彼女に出会うまでの話。

そして、私たちが「二人で一つの世界」を紡ぎ始める、プロローグの前夜の話。

(了)


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