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放課後倫理学  作者: 紅茶
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パートナーシップ

駅前のカフェ『アレクサンドリア』。


アンティーク調の家具と、珈琲の香りが漂うこの店は、放課後の高校生たちがたむろするには少し敷居が高い。


その一番奥の席で、ミサキは緊張した面持ちでメニュー表を握りしめていた。


「……遅れてごめんなさい。委員会が長引いちゃって」


ミサキが恐縮しながら席に着くと、対面に座っていたセナは、読んでいたハードカバー(『ローマ帝国衰亡史』)を優雅に閉じた。


「いいのよ。待つのも外交の一部だわ。相手に『待たせた』という負い目を感じさせることで、交渉を有利に進められるから」


セナは不敵に微笑んだ。長い黒髪、意志の強そうな瞳、そして隙のない制服の着こなし。


図書委員のミサキとは住む世界が違う、「学園の女帝」のオーラがある。


「そ、そうなんだ……。えっと、今日はどうしたの? 急に呼び出したりして」


ミサキがおずおずと尋ねると、セナは紅茶のカップをソーサーに置いた。


「単刀直入に言うわ。貴女と『英仏協商アンタント・コルディアル』を結びに来たの」


「えいふつ……きょうしょう?」


「そう。1904年、イギリスとフランスが長年の対立を解消して結んだ同盟よ。共通の敵――ドイツに対抗するためにね」


セナは身を乗り出し、声を潜めた。


「今の私たちにおける『ドイツ』が誰か、わかるわよね?」


ミサキは少し考え、ピンときた。


「あ……もしかして、ケイちゃんとマコトくんのこと?」


「正解」


セナは指を鳴らした。


「あの二人、放っておくとすぐに二人だけの世界(ドイツ観念論の世界)に引きこもるでしょう? 貴女がケイの恋人で、私がマコトを狙っているとしても、あの二人の『魂の結合』は強固すぎる。このまま各個撃破を狙っても、私たちは永遠に二番手のままだわ」


セナは冷徹な眼差しで、テーブルの中央を指差した。


「だから、手を組みましょう。文学(貴女)と歴史(私)。アプローチは違うけれど、目的は同じはずよ。『難解なパートナーをどう制御し、どう独占するか』。……違う?」


ミサキは瞬きをした。


あまりに唐突で、あまりに戦略的な提案。

けれど、その言葉の裏にある「焦り」のようなものを、ミサキの文学的直感は感じ取っていた。


「……ふふ」


ミサキはふわりと笑った。


「セナちゃんって、意外と寂しがり屋なんだね」


「は?」


セナの眉がピクリと跳ねる。


「ううん、なんでもない。……わかった。私でよければ、お話しよう?」



注文したケーキセットが届くと、場の空気は少しだけ和らいだ。


ミサキはショートケーキを、セナはザッハトルテを突っついている。


「ねぇ、ミサキさん。貴女、ケイのどこが良かったの?」


セナがフォークを咥えながら、品定めするような目で聞いてきた。


「あいつ、中身はガチガチの理屈屋で、デリカシーなんて欠片もないじゃない。しかも女なのに『俺』とか言ってるし。普通、もっと王子様みたいな人がいいと思わない?」


「んー、そうだねぇ」


ミサキはクリームを掬いながら、遠い目をした。


「確かにケイちゃんは不器用だよね。言葉はきついし、すぐニーチェとか持ち出すし。でもね、それは『鎧』なんだと思うの」


「鎧?」


「うん。ケイちゃんはきっと、世界に対してすごく敏感なの。傷つくのが怖いから、論理っていう鎧で全身を固めて、戦ってる。……そういう姿を見てるとね、なんだか『守ってあげたいな』って思うんだ」


ミサキは頬を染めて笑った。


「夏目漱石の『坊っちゃん』みたいに、無鉄砲で純粋で、でも生きづらそうな感じ。そういう不器用な主人公って、愛おしいじゃない?」


セナは呆れたように溜息をついた。


「……貴女、重症ね。それを『母性本能』と言うのか、文学的な『解釈のしすぎ』と言うのか知らないけど」


「そう言うセナちゃんこそ」


ミサキは逆に問い返した。


「どうしてマコトくんなの? 彼はケイちゃん以上に食えない人だよ? いつもニコニコしてて、本音が見えないし」


「だからよ」


セナは即答した。


「攻略しがいがあるから」


セナはナイフでザッハトルテを鋭角に切り取った。


「マコトは、一見すると中立を保つ『緩衝地帯』に見えるわ。誰にでも優しくて、誰の側にもつかない。でも、その内側には、ケイすら制御しきれないほどの巨大な知性リソースが眠ってる」


セナの目が、征服者のそれに変わる。


「歴史上、そういう豊かな土地は、強い指導者が統治すべきなの。ケイはマコトを『盟友』として放置してるけど、私は違う。私が彼を完全に併合アンネクサシオンして、私の帝国の宰相にする。……彼のあの冷めた目が、私への熱情で曇る瞬間を見てみたいのよ」


「……うわぁ

ミサキは苦笑いした。


「セナちゃんは、恋愛も『戦争ウォー』なんだね」


「当然よ。クラウゼヴィッツも言ってるわ。『戦争とは、他の手段をもってする政治の継続である』と。恋愛も同じ。外交と戦略の延長線上にあるのよ」


「ふふ。面白いなぁ」


ミサキは紅茶を啜った。


「私たちは正反対だね。私はケイちゃんの物語を『読みたい』けど、セナちゃんはマコトくんという歴史を『書きたい』んだ」


「……うまいこと言うわね」


セナは少し悔しそうに、しかし認めるように頷いた。


「でもね、セナちゃん」


ミサキは少し真面目な顔になった。


「マコトくんは、そう簡単に書かせてくれないと思うよ。彼はケイちゃん以上に『物語フィクション』を信じてないから」


「どういうこと?」


「マコトくんは哲学者だから、あらゆる事象を疑ってるでしょ? セナちゃんが『好き』って攻め込んでも、彼はそれを『一時的な脳内物質の作用』とか『権力欲の発露』とかって分析して、かわしちゃうと思うの」


ミサキはケーキの苺をフォークで刺した。


歴史ファクトで攻めても、彼は動かない。だって、事実は解釈次第でどうとでもなるって知ってるから」


セナの動きが止まった。図星だったらしい。


「……じゃあ、どうすればいいって言うの? 文学少女の貴女なら、彼を落とす『魔法の言葉』でも知ってるわけ?」


「うーん、魔法はないけど……」


ミサキは首を傾げた。


「『行間』を作ること、かな」


「行間?」


「うん。言葉で全部説明して、論理で追い詰めちゃうと、逃げ場がなくなるでしょ? そうじゃなくて、言葉にしない『余白』を残してあげるの。そうすると、人間は勝手にそこに意味を見出そうとしちゃうんだよ」


ミサキは悪戯っぽくウィンクした。


「太宰治も言ってたよ。『待つ』ということの苦しさと甘美さについて。……セナちゃんは攻めるのが得意だけど、たまには『待って』みたら? 謎を残したまま、ふっと引いてみるの」


セナは腕組みをして考え込んだ。


「……撤退戦術(ファビアン戦略)ってこと? 焦らして、相手をおびき寄せる?」


「そうそう。マコトくんみたいな人は、わからないことがあると気になっちゃうはずだから。『あれ? どうして今日は攻めてこないんだろう?』って考えさせたら、もうこっちの勝ちだよ。だって彼は、その時間ずっとセナちゃんのことを考えてるわけだから」


セナは数秒の沈黙の後、ニヤリと笑った。


「……やるじゃない、ミサキ。貴女、ただのふわふわした文学少女かと思ってたけど、意外と策士なのね」


「えへへ、伊達に恋愛小説いっぱい読んでないよ」


「認めてあげるわ。貴女のその『フィクションの力』、侮れないわね」


セナはカップを持ち上げた。


「じゃあ、私からも貴女に助言アドバイスをあげる。歴史の観点からね」


セナは鋭い視線をミサキに向けた。


「ケイは今、貴女に夢中かもしれない。でも、歴史において『平和』は永続しないの。必ず『飽き』や『反乱』が起きる」


ミサキがドキリとする。


「ケイは刺激を求めるタイプよ。安定した日常パクス・ロマーナが続くと、退屈してまたマコトのところへ議論しに行っちゃうわ。だから貴女に必要なのは、『定期的な動乱イベント』よ」


「動乱……?」


「そう。たまには貴女から、ケイの予想を裏切るような行動を起こしなさい。理屈の通じないワガママを言うとか、急に冷たくするとか。……『予測不能な変数』になるのよ。歴史上、予測不能な指導者ほど恐れられ、そして惹きつけられるものはないわ」


セナはテーブルの下で足を組み替えた。


「ケイの論理ロジックを、貴女の感情パトスでぶち壊してやりなさい。あいつはMっ気があるから、自分の計算が狂うことを無意識に望んでるはずよ」


ミサキは目をぱちくりさせて、それから吹き出した。


「あはは! ケイちゃんがMっ気なんて、初めて聞いた! でも……確かにそうかも。予想外のことが起きると、すごく楽しそうな顔するもんね」


「でしょ? 貴女は優しすぎるのよ。もっと『暴君ネロ』になってもいいわ」



カフェの窓から、夕陽が差し込み始めた。

オレンジ色の光が、二人の少女を照らす。


かつては接点などなかった、図書室の住人と生徒会の女帝。


しかし今、二人の間には奇妙な連帯感が生まれていた。


「……ねぇ、セナちゃん」


ミサキが最後の紅茶を飲み干して言った。


「私たち、仲良くなれそうだね」


「勘違いしないで。これはあくまで『戦略的パートナーシップ』よ」


セナはツンとして言ったが、その表情は柔らかかった。


「でも……まあ、悪くないわ。貴女との会話は、史料批判のいい練習になるし」


「ふふ、素直じゃないなぁ」


セナは伝票を手に取って立ち上がった。


「ここは私が持つわ。戦勝国の余裕ノブレス・オブリージュよ」


「えっ、悪いよそんな!」


「いいの。その代わり、今度図書室で、マコトがどんな本を借りたかリストアップして報告しなさい。諜報活動費だと思って」


ミサキは苦笑して、バッグを持った。


「了解です、女帝陛下」


二人は店を出た。

夕暮れの街並みを見ながら、セナがふと呟いた。


「……ねぇ。もし、ケイとマコトがくっついちゃったら、どうする?」


それは、二人が心の奥底で一番恐れているシナリオ(最悪の歴史)だった。

あの二人の魂の結びつきは、性別や恋愛を超越した何かがある。


ミサキは少し考えて、空を見上げた。


「その時は……その物語の『続編』を、私たちが書き換えるしかないね」


「書き換える?」


「うん。ケイちゃんがマコトくんを選んでも、そのマコトくんをセナちゃんが奪い去っちゃえばいいし、独りになったケイちゃんを私が慰めて、また惚れさせればいい。……物語は、何度だって書き直せるんだよ」


ミサキの言葉に、セナは目を見開き、そして今日一番の大笑いをした。


「あははは! 最高ね! 貴女、やっぱり相当タチが悪いわ!」


セナはミサキの肩をバンと叩いた。


「そうね。歴史は勝者が作るもの。私たちが勝てば、それが正史オフィシャルになるんだから」


「そうそう。頑張ろうね、共犯者さん」


駅の改札前で、二人は別れた。


文学少女は、自分の恋人の待つ不確実な未来(物語)へ。


歴史マニアの少女は、自分の意中の相手がいる戦場(現実)へ。


それぞれの武器――『情緒』と『戦略』を懐に忍ばせて。


「さて」


セナは独りごちて、スマホを取り出した。

画面にはマコトの連絡先が表示されている。


「講和会議の続きでも申し込みましょうか」




ミサキは文庫本を開いた。

栞が挟まれたページには、こう書かれている。


『愛は、お互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである』――サン=テグジュペリ。


「ケイちゃん、覚悟しててね」


叙事詩と正史の協商は締結された。

この強力なヒロイン連合軍の前に、あの難解な哲学者コンビが陥落する日も、そう遠くはないかもしれない。

(了)



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