表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
放課後倫理学  作者: 紅茶
13/37

賽(さい)は投げられた。

私の朝は、世界の情勢分析から始まる。


午前六時。


スマートフォンのアラームが鳴る前に目を覚まし、まずはBBCとCNNのヘッドラインをチェックする。中東の緊張、欧州の経済指標、大国のパワーゲーム。


それらは現代のニュースだが、私の目には全て過去の歴史の変奏曲バリエーションとして映る。


「……愚かね。トゥキディデスの罠にまた嵌まろうとしているわ」


独りごちながら、私はベッドから起き上がる。


ローマ帝国の興亡も、ナポレオンの失敗も、人類はまだ学びきれていないらしい。歴史は繰り返す。だからこそ、歴史を学ぶ者だけが未来を支配できる。


制服に着替える。シャツの皺一つ、プリーツの乱れ一つ許さない。鏡に映る自分は、完璧な武装を施した「兵士」であり、同時に学園という小国を統治する「君主」たる風格を纏っていなければならない。


長い黒髪を丁寧に梳かし、私は戦場――学校へと向かう。


通学電車の中は、蒙昧な大衆モブで溢れている。


スマートフォンでくだらない動画を見て笑う者、昨日のドラマの話で盛り上がる女子高生たち。彼らはローマ時代の市民と同じだ。「パンとサーカス」を与えられていれば満足し、自分たちが歴史の濁流に流されていることに気づかない。


(……退屈な時代ね。英雄も革命もいない)


私は吊革に捕まりながら、文庫本の『マキャベリ語録』を開く。


この退屈な平和パクス・ロマーナの中で、私が目指すのは一つ。この学園における影響力の拡大。生徒会選挙を見据えた地盤固め、そして――。


ふと、脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。

銀縁眼鏡をかけ、涼しい顔で難解な哲学書を読んでいる、あの男。


マコト。


彼だけは違う。この蒙昧な大衆の中で、彼だけが私の思考速度についてこられる。私が「歴史の必然」を語れば、彼は「実存の不安」で返してくる。


彼との会話は、高度な外交戦だ。言葉の裏を読み合い、互いの領土エゴを侵食しようとする、スリリングな冷戦。


(……今はまだ、勢力均衡バランス・オブ・パワーが保たれているけれど)


いつか必ず、彼を私の帝国の版図に組み入れてみせる。


彼のような優秀な参謀ブレーンを手に入れることこそが、私の覇業には不可欠なのだから。


そう考えるだけで、退屈な通学時間が少しだけ色鮮やかなものになる。


「――あの、セナさん。おはよう」


学校の下駄箱で、声をかけられた。


隣のクラスの男子、ヤマダ(仮称。名前を覚えるリソースが惜しい)だ。


彼はどこか怯えたような、それでいて期待に満ちた目で私を見ている。典型的な「貢ぎ物を持ってくる属州の民」の目だ。


「……おはよう。何か用?」


私は靴を履き替えながら、最低限の外交儀礼としての笑顔を向ける。


「あ、いや、その……今日の放課後、少し時間ないかな? 屋上で、話したいことがあって」


来たわね、と私は内心で溜息をついた。


この時期特有の、非生産的なイベント。愛の告白。


断るのは簡単だが、無下に扱えば私の評判(支持率)に関わる。啓蒙専制君主は、民衆に愛されなければならないのだ。


「ええ、いいわよ。十分だけなら」


私は時間を区切ることで、主導権を握る。

ヤマダはパァッと顔を輝かせた。


「ありがとう! じゃあ、放課後に!」


彼は逃げるように去っていった。

私は自分の上履きを見つめ、小さく首を振る。


朝から予定外の外交案件が発生した。だが、これも統治者の務めだ。私は完璧な一日を再構築すべく、教室へと向かった。



放課後の屋上は、夕焼けに染まっていた。

フェンスの向こうに広がる街並みは、これから夜の帳が下りるのを待っている。


私は腕組みをして、ヤマダを待っていた。約束の時間の三分前。


彼は息を切らしてやってきた。遅刻ではないが、余裕のなさが透けて見える。


「ご、ごめん! 待った?」


「いいえ。私が早かっただけよ」


私は彼を観察する。

緊張で強張った顔、泳ぐ視線、落ち着きのない手足。


……ダメね。指導者としてのカリスマ性が皆無だわ。


もし彼が私の隣に立つとしたら、どんなメリットがある? 彼は私の知的好奇心を満たせる? 私の戦略的決断に有益な助言を与えられる?


答えは否だ。彼のこれまでの言動(授業中の発言、友人との会話の盗み聞きデータ)から分析するに、彼は善良だが平凡な市民だ。私の帝国の拡大には寄与しない。


「あのね、セナさん」


ヤマダは意を決したように、一歩踏み出した。


「ずっと前から、君のことが好きでした! いつも凛としてて、頭が良くて、憧れてて……。僕と、付き合ってください!」


彼は深々と頭を下げた。

教科書通りの、何のひねりもない直球の告白。


私は静かに彼を見下ろす。

彼の言葉には「熱意」はあるが、「戦略」がない。


私をどう幸せにするのか、二人でどんな未来を築くのかというビジョン(国是)が欠如している。ただ「好きだ」という感情を押し付けてくるだけ。それは外交ではなく、ただの嘆願だ。


(……ああ、つまらない)


その瞬間、私の脳裏をよぎったのは、またしてもあの男の顔だった。

マコトなら、こんな無防備な攻め方はしない。


彼はもっと迂遠に、哲学的な比喩を用いて、私の退路を断ってから核心に迫るだろう。あるいは、私が攻め込まざるを得ないような隙をわざと見せるかもしれない。


彼との駆け引きのスリルに比べれば、目の前のこの状況は、結果の見えた消化試合(ワーテルローの戦い)に過ぎない。


「……顔を上げて、ヤマダ君」


私は努めて冷静な声を出す。


「気持ちは嬉しいわ。貴方が私を高く評価してくれていることは理解した」


ヤマダが期待に満ちた目で顔を上げる。


「でも、ごめんなさい。貴方の提案は受け入れられないわ」


「え……ど、どうして?」


「同盟というのはね、互いにメリットがなければ成立しないの」


私は彼に近づき、残酷な真実を告げる。


「貴方は私に『憧れ』と『献身』を提供してくれるかもしれない。でも、私が求めているのは、対等な立場で議論を戦かわせ、互いに高め合える『好敵手ライバル』であり『盟友』なの」


私は彼の方に手を置いた。


「貴方は優しい人よ。でも、優しさだけでは国は治まらない。……わかるわね?」


ヤマダは呆然としていた。私の言葉の意味を半分も理解していないだろう。だが、拒絶された事実だけは伝わったようだ。


彼の目から光が消える。


「そっか……。そうだよね、僕なんかじゃ、釣り合わないよね……」


彼は力なく笑った。


「ごめん、変なこと言って。忘れて」


彼は逃げるように屋上を去っていった。


敗残兵の背中。

私は一人、屋上に残された。

夕陽が沈み、一番星が輝き始める。


完璧な処理だった。支持率を落とさず、かつ明確に拒絶した。私は有能な統治者として振る舞った。


なのに。


なぜだろう。胸の中に広がる、この砂を噛むような虚しさは。



私は生徒会室に戻った。

誰もいない部屋。静寂が支配する空間。ここが私の城だ。

私は自分の席に座り、深いため息をついた。

どっと疲れが出た。


「……何なのよ、もう」


私は机に突っ伏した。

ヤマダ君には悪いことをしたかもしれない。でも、仕方ないじゃない。彼じゃダメなのだ。私の心は、これっぽっちも動かなかった。


なぜ動かなかったのか。


それは、比較対象がいたからだ。

私の脳内には、常にマコトという基準ベンチマークが存在している。


誰がアプローチしてきても、無意識のうちに彼と比べてしまう。


「マコトなら、もっと面白い返しをするのに」「マコトなら、私の意図を察してくれるのに」


(……私、重症ね)


私は顔を上げ、誰もいない空間に向かって苦笑した。

認めるしかない。私は、自分で思っている以上に、あの哲学オタクの眼鏡男に執着している。


それは単なる「有能な駒が欲しい」という戦略的な欲求だけなのだろうか?


もし、彼が私に告白してきたら、私はどうする?


ヤマダ君の時みたいに冷静に分析できる?

想像してみる。


マコトが、いつもの涼しい顔で、でも少しだけ耳を赤くして、「セナ、君のことが好きだ。実存的に」とか何とか言ってくる姿を。


「……っ!」


カァッと顔が熱くなった。


心臓が、肋骨を叩くように激しく跳ねる。

冷静な分析? できるわけがない。


きっと私は、歴史上類を見ないほど動揺し、しどろもどろになり、赤面したままフリーズするだろう。


あの「鉄の女」と呼ばれた私としたことが、なんという醜態。


「……嘘でしょ。私、あいつのこと、そんなに……」


私は両手で熱い頬を覆った。

認めたくない。歴史マニアの私が、哲学オタクに心をかき乱されているなんて。


これでは、まるで私が「属州」で、彼が「本国」みたいではないか。

でも、この高鳴る鼓動は否定できない「史実」だ。


ヤマダ君の告白を断った時、私が心のどこかで安堵していたのは、「これでマコトに対して誠実でいられる」なんていう、殊勝な乙女心が働いたからではないのか。


「……馬鹿みたい」


私は机の引き出しから、小さな手鏡を取り出した。

鏡の中の私は、いつもの完璧な女帝ではなかった。

頬を朱に染め、瞳を潤ませた、ただの恋する女子高生がそこにいた。


「……こんな顔、誰にも見せられないわ」


私は鏡を伏せた。

歴史を動かすのは、理性ではなく情熱パトスだとヘーゲルは言った。


私の帝国は今、内部から崩壊の危機に瀕している。たった一人の男への、制御不能な情熱によって。



少し頭を冷やそうと、私は生徒会室を出て、自動販売機コーナーへ向かった。

冷たい炭酸水でも飲んで、理性を再起動させなければ。


角を曲がった瞬間。


運命の悪戯か、歴史の必然か。


「……おや、セナ。まだ残っていたんですか」


そこに、マコトがいた。


彼は自販機で買ったばかりのミルクティーを手に、いつもの涼しげな表情で立っていた。

心臓が止まるかと思った。


さっきまで彼のことを考えて赤面していたというのに、このタイミングで遭遇するなんて。


「……ええ。少し残務処理があったから」


私は精一杯の虚勢を張って、平然を装う。声が少し上擦ったかもしれない。


「あんたこそ、遅いわね。また図書室でケイと哲学談義?」


「いいえ。今日は一人ですよ。ケイはミサキさんとデートだそうです」


マコトは少し寂しそうに、でも優しく微笑んだ。


その笑顔を見た瞬間。

私の胸の中で、何かがプツンと切れた。


ああ、もう。


どうしてこの男は、こんなに無防備な顔を見せるのか。


私が今、どんな気持ちでここに立っているかも知らないで。ヤマダ君の告白を断って、あんたのことばかり考えていたことも知らないで。


私は彼に歩み寄った。


私のパーソナルスペースに、彼を入れる。


「……ねぇ、マコト」


「はい?」


「あんた、ミルクティーなんて甘いもの飲んでる場合じゃないわよ」


私は彼のネクタイを、クイッと引っ張った。

水族館の時と同じように。でも、あの時よりも強く、切実に。


マコトが少し目を見開く。彼の顔が近い。


「歴史はね、常に動いているの。悠長に構えていたら、いつの間にか時代に取り残されるわよ」


「……それは、どういう歴史的示唆ですか?」


「宣戦布告よ」


私は彼の耳元に顔を寄せた。


心臓がうるさい。でも、もう引けない。


「私、決めたから。……あんたを、私のモノにするって。ケイの代用品なんかじゃなくて、私の『唯一』として、徹底的に攻略してあげるわ」


言ってしまった。

もう後戻りはできない。これは、ルビコン川を渡るカエサルの決断だ。


私はパッと離れた。


マコトは、珍しく少し呆気にとられた顔をしていた。その表情を見られただけで、今日の私は勝利だ。


「覚悟しておきなさいよ、哲学者さん。私の帝国主義は、あんたが思ってるよりずっと強欲なんだから」


私は彼に背を向け、早足で歩き出した。

これ以上ここにいたら、顔が真っ赤になっているのがバレてしまう。


背後で、マコトが何か言いたげな気配がしたけれど、私は振り返らなかった。


廊下を歩きながら、私は自分の胸を押さえた。


鼓動が、まだ激しく鳴り響いている。


(……言っちゃった。もう、知らない!)


完璧な女帝の仮面は、完全にひび割れてしまった。

でも、不思議と気分は悪くなかった。


冷徹な戦略家である私が、感情に任せて宣戦布告をしてしまった。それは歴史的な失策かもしれないけれど、私の人生においては、きっと必要な「革命」だったのだ。


窓の外は完全に夜になっていた。


明日からの学校生活は、今までよりもずっと騒がしく、戦略的で、そして甘美な戦場になるだろう。


私は口元を緩めた。


受けて立ちなさいよ、マコト。


私が貴方を陥落させるのが先か、私が貴方の愛に降伏するのが先か。


これは、私のプライドと乙女心をかけた、絶対に負けられない戦争なのだから。

(了)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ