賽(さい)は投げられた。
私の朝は、世界の情勢分析から始まる。
午前六時。
スマートフォンのアラームが鳴る前に目を覚まし、まずはBBCとCNNのヘッドラインをチェックする。中東の緊張、欧州の経済指標、大国のパワーゲーム。
それらは現代のニュースだが、私の目には全て過去の歴史の変奏曲として映る。
「……愚かね。トゥキディデスの罠にまた嵌まろうとしているわ」
独りごちながら、私はベッドから起き上がる。
ローマ帝国の興亡も、ナポレオンの失敗も、人類はまだ学びきれていないらしい。歴史は繰り返す。だからこそ、歴史を学ぶ者だけが未来を支配できる。
制服に着替える。シャツの皺一つ、プリーツの乱れ一つ許さない。鏡に映る自分は、完璧な武装を施した「兵士」であり、同時に学園という小国を統治する「君主」たる風格を纏っていなければならない。
長い黒髪を丁寧に梳かし、私は戦場――学校へと向かう。
通学電車の中は、蒙昧な大衆で溢れている。
スマートフォンでくだらない動画を見て笑う者、昨日のドラマの話で盛り上がる女子高生たち。彼らはローマ時代の市民と同じだ。「パンとサーカス」を与えられていれば満足し、自分たちが歴史の濁流に流されていることに気づかない。
(……退屈な時代ね。英雄も革命もいない)
私は吊革に捕まりながら、文庫本の『マキャベリ語録』を開く。
この退屈な平和の中で、私が目指すのは一つ。この学園における影響力の拡大。生徒会選挙を見据えた地盤固め、そして――。
ふと、脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。
銀縁眼鏡をかけ、涼しい顔で難解な哲学書を読んでいる、あの男。
マコト。
彼だけは違う。この蒙昧な大衆の中で、彼だけが私の思考速度についてこられる。私が「歴史の必然」を語れば、彼は「実存の不安」で返してくる。
彼との会話は、高度な外交戦だ。言葉の裏を読み合い、互いの領土を侵食しようとする、スリリングな冷戦。
(……今はまだ、勢力均衡が保たれているけれど)
いつか必ず、彼を私の帝国の版図に組み入れてみせる。
彼のような優秀な参謀を手に入れることこそが、私の覇業には不可欠なのだから。
そう考えるだけで、退屈な通学時間が少しだけ色鮮やかなものになる。
「――あの、セナさん。おはよう」
学校の下駄箱で、声をかけられた。
隣のクラスの男子、ヤマダ(仮称。名前を覚えるリソースが惜しい)だ。
彼はどこか怯えたような、それでいて期待に満ちた目で私を見ている。典型的な「貢ぎ物を持ってくる属州の民」の目だ。
「……おはよう。何か用?」
私は靴を履き替えながら、最低限の外交儀礼としての笑顔を向ける。
「あ、いや、その……今日の放課後、少し時間ないかな? 屋上で、話したいことがあって」
来たわね、と私は内心で溜息をついた。
この時期特有の、非生産的なイベント。愛の告白。
断るのは簡単だが、無下に扱えば私の評判(支持率)に関わる。啓蒙専制君主は、民衆に愛されなければならないのだ。
「ええ、いいわよ。十分だけなら」
私は時間を区切ることで、主導権を握る。
ヤマダはパァッと顔を輝かせた。
「ありがとう! じゃあ、放課後に!」
彼は逃げるように去っていった。
私は自分の上履きを見つめ、小さく首を振る。
朝から予定外の外交案件が発生した。だが、これも統治者の務めだ。私は完璧な一日を再構築すべく、教室へと向かった。
放課後の屋上は、夕焼けに染まっていた。
フェンスの向こうに広がる街並みは、これから夜の帳が下りるのを待っている。
私は腕組みをして、ヤマダを待っていた。約束の時間の三分前。
彼は息を切らしてやってきた。遅刻ではないが、余裕のなさが透けて見える。
「ご、ごめん! 待った?」
「いいえ。私が早かっただけよ」
私は彼を観察する。
緊張で強張った顔、泳ぐ視線、落ち着きのない手足。
……ダメね。指導者としてのカリスマ性が皆無だわ。
もし彼が私の隣に立つとしたら、どんなメリットがある? 彼は私の知的好奇心を満たせる? 私の戦略的決断に有益な助言を与えられる?
答えは否だ。彼のこれまでの言動(授業中の発言、友人との会話の盗み聞きデータ)から分析するに、彼は善良だが平凡な市民だ。私の帝国の拡大には寄与しない。
「あのね、セナさん」
ヤマダは意を決したように、一歩踏み出した。
「ずっと前から、君のことが好きでした! いつも凛としてて、頭が良くて、憧れてて……。僕と、付き合ってください!」
彼は深々と頭を下げた。
教科書通りの、何のひねりもない直球の告白。
私は静かに彼を見下ろす。
彼の言葉には「熱意」はあるが、「戦略」がない。
私をどう幸せにするのか、二人でどんな未来を築くのかというビジョン(国是)が欠如している。ただ「好きだ」という感情を押し付けてくるだけ。それは外交ではなく、ただの嘆願だ。
(……ああ、つまらない)
その瞬間、私の脳裏をよぎったのは、またしてもあの男の顔だった。
マコトなら、こんな無防備な攻め方はしない。
彼はもっと迂遠に、哲学的な比喩を用いて、私の退路を断ってから核心に迫るだろう。あるいは、私が攻め込まざるを得ないような隙をわざと見せるかもしれない。
彼との駆け引きのスリルに比べれば、目の前のこの状況は、結果の見えた消化試合(ワーテルローの戦い)に過ぎない。
「……顔を上げて、ヤマダ君」
私は努めて冷静な声を出す。
「気持ちは嬉しいわ。貴方が私を高く評価してくれていることは理解した」
ヤマダが期待に満ちた目で顔を上げる。
「でも、ごめんなさい。貴方の提案は受け入れられないわ」
「え……ど、どうして?」
「同盟というのはね、互いにメリットがなければ成立しないの」
私は彼に近づき、残酷な真実を告げる。
「貴方は私に『憧れ』と『献身』を提供してくれるかもしれない。でも、私が求めているのは、対等な立場で議論を戦かわせ、互いに高め合える『好敵手』であり『盟友』なの」
私は彼の方に手を置いた。
「貴方は優しい人よ。でも、優しさだけでは国は治まらない。……わかるわね?」
ヤマダは呆然としていた。私の言葉の意味を半分も理解していないだろう。だが、拒絶された事実だけは伝わったようだ。
彼の目から光が消える。
「そっか……。そうだよね、僕なんかじゃ、釣り合わないよね……」
彼は力なく笑った。
「ごめん、変なこと言って。忘れて」
彼は逃げるように屋上を去っていった。
敗残兵の背中。
私は一人、屋上に残された。
夕陽が沈み、一番星が輝き始める。
完璧な処理だった。支持率を落とさず、かつ明確に拒絶した。私は有能な統治者として振る舞った。
なのに。
なぜだろう。胸の中に広がる、この砂を噛むような虚しさは。
私は生徒会室に戻った。
誰もいない部屋。静寂が支配する空間。ここが私の城だ。
私は自分の席に座り、深いため息をついた。
どっと疲れが出た。
「……何なのよ、もう」
私は机に突っ伏した。
ヤマダ君には悪いことをしたかもしれない。でも、仕方ないじゃない。彼じゃダメなのだ。私の心は、これっぽっちも動かなかった。
なぜ動かなかったのか。
それは、比較対象がいたからだ。
私の脳内には、常にマコトという基準が存在している。
誰がアプローチしてきても、無意識のうちに彼と比べてしまう。
「マコトなら、もっと面白い返しをするのに」「マコトなら、私の意図を察してくれるのに」
(……私、重症ね)
私は顔を上げ、誰もいない空間に向かって苦笑した。
認めるしかない。私は、自分で思っている以上に、あの哲学オタクの眼鏡男に執着している。
それは単なる「有能な駒が欲しい」という戦略的な欲求だけなのだろうか?
もし、彼が私に告白してきたら、私はどうする?
ヤマダ君の時みたいに冷静に分析できる?
想像してみる。
マコトが、いつもの涼しい顔で、でも少しだけ耳を赤くして、「セナ、君のことが好きだ。実存的に」とか何とか言ってくる姿を。
「……っ!」
カァッと顔が熱くなった。
心臓が、肋骨を叩くように激しく跳ねる。
冷静な分析? できるわけがない。
きっと私は、歴史上類を見ないほど動揺し、しどろもどろになり、赤面したままフリーズするだろう。
あの「鉄の女」と呼ばれた私としたことが、なんという醜態。
「……嘘でしょ。私、あいつのこと、そんなに……」
私は両手で熱い頬を覆った。
認めたくない。歴史マニアの私が、哲学オタクに心をかき乱されているなんて。
これでは、まるで私が「属州」で、彼が「本国」みたいではないか。
でも、この高鳴る鼓動は否定できない「史実」だ。
ヤマダ君の告白を断った時、私が心のどこかで安堵していたのは、「これでマコトに対して誠実でいられる」なんていう、殊勝な乙女心が働いたからではないのか。
「……馬鹿みたい」
私は机の引き出しから、小さな手鏡を取り出した。
鏡の中の私は、いつもの完璧な女帝ではなかった。
頬を朱に染め、瞳を潤ませた、ただの恋する女子高生がそこにいた。
「……こんな顔、誰にも見せられないわ」
私は鏡を伏せた。
歴史を動かすのは、理性ではなく情熱だとヘーゲルは言った。
私の帝国は今、内部から崩壊の危機に瀕している。たった一人の男への、制御不能な情熱によって。
少し頭を冷やそうと、私は生徒会室を出て、自動販売機コーナーへ向かった。
冷たい炭酸水でも飲んで、理性を再起動させなければ。
角を曲がった瞬間。
運命の悪戯か、歴史の必然か。
「……おや、セナ。まだ残っていたんですか」
そこに、マコトがいた。
彼は自販機で買ったばかりのミルクティーを手に、いつもの涼しげな表情で立っていた。
心臓が止まるかと思った。
さっきまで彼のことを考えて赤面していたというのに、このタイミングで遭遇するなんて。
「……ええ。少し残務処理があったから」
私は精一杯の虚勢を張って、平然を装う。声が少し上擦ったかもしれない。
「あんたこそ、遅いわね。また図書室でケイと哲学談義?」
「いいえ。今日は一人ですよ。ケイはミサキさんとデートだそうです」
マコトは少し寂しそうに、でも優しく微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間。
私の胸の中で、何かがプツンと切れた。
ああ、もう。
どうしてこの男は、こんなに無防備な顔を見せるのか。
私が今、どんな気持ちでここに立っているかも知らないで。ヤマダ君の告白を断って、あんたのことばかり考えていたことも知らないで。
私は彼に歩み寄った。
私のパーソナルスペースに、彼を入れる。
「……ねぇ、マコト」
「はい?」
「あんた、ミルクティーなんて甘いもの飲んでる場合じゃないわよ」
私は彼のネクタイを、クイッと引っ張った。
水族館の時と同じように。でも、あの時よりも強く、切実に。
マコトが少し目を見開く。彼の顔が近い。
「歴史はね、常に動いているの。悠長に構えていたら、いつの間にか時代に取り残されるわよ」
「……それは、どういう歴史的示唆ですか?」
「宣戦布告よ」
私は彼の耳元に顔を寄せた。
心臓がうるさい。でも、もう引けない。
「私、決めたから。……あんたを、私のモノにするって。ケイの代用品なんかじゃなくて、私の『唯一』として、徹底的に攻略してあげるわ」
言ってしまった。
もう後戻りはできない。これは、ルビコン川を渡るカエサルの決断だ。
私はパッと離れた。
マコトは、珍しく少し呆気にとられた顔をしていた。その表情を見られただけで、今日の私は勝利だ。
「覚悟しておきなさいよ、哲学者さん。私の帝国主義は、あんたが思ってるよりずっと強欲なんだから」
私は彼に背を向け、早足で歩き出した。
これ以上ここにいたら、顔が真っ赤になっているのがバレてしまう。
背後で、マコトが何か言いたげな気配がしたけれど、私は振り返らなかった。
廊下を歩きながら、私は自分の胸を押さえた。
鼓動が、まだ激しく鳴り響いている。
(……言っちゃった。もう、知らない!)
完璧な女帝の仮面は、完全にひび割れてしまった。
でも、不思議と気分は悪くなかった。
冷徹な戦略家である私が、感情に任せて宣戦布告をしてしまった。それは歴史的な失策かもしれないけれど、私の人生においては、きっと必要な「革命」だったのだ。
窓の外は完全に夜になっていた。
明日からの学校生活は、今までよりもずっと騒がしく、戦略的で、そして甘美な戦場になるだろう。
私は口元を緩めた。
受けて立ちなさいよ、マコト。
私が貴方を陥落させるのが先か、私が貴方の愛に降伏するのが先か。
これは、私のプライドと乙女心をかけた、絶対に負けられない戦争なのだから。
(了)




