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放課後倫理学  作者: 紅茶
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図書館のガダマー

放課後の図書室は、世界の喧騒から切り離された聖域だ。

カウンターの中で、ミサキは貸出カードの整理をしていた。


「……こんにちは、ミサキさん」


静かな声に顔を上げると、カウンター越しにマコト――「私」が立っていた。

手には、先日貸し出したハイデガーの『存在と時間』がある。


「あ、マコトくん。返却だね。……早かったね、これ読むの」


ミサキはバーコードリーダーを手に取り、微笑んだ。


「ケイちゃんが言ってた通りだ。『あいつは哲学書をマンガみたいに読む』って」


「ケイが大げさに言っているだけですよ」


マコトは苦笑し、眼鏡を直した。


「それに、難解な本ほど早く読まないと、最初のほうを忘れてしまいますから」


手続きを終える電子音が、静寂に響く。

本来ならここで会話は終わるはずだ。

だが、マコトは去ろうとせず、カウンターに少し身を乗り出した。


「……あの、ミサキさん」


「ん? なあに?」


「ケイは……その、迷惑をかけていませんか?」


それは、まるで保護者のような、あるいは長年連れ添った古女房のような問いかけだった。


ミサキは目を丸くし、それからクスリと笑った。


「ふふ。迷惑っていうか……手がかかるかな。デート中なのに急に『散歩におけるカロリー消費の効率性』について語り出したりするし」


「ああ……目に浮かびます。彼女は照れ隠しをする時、無駄に理屈っぽくなる癖がありますから」


マコトは深く頷き、ため息をついた。


「彼女の思考回路は、デカルト座標のように直角にしか曲がれないんです。曲線的な感情表現が苦手で」


「うん、そうだね」


ミサキはカウンターに頬杖をついた。


「でも、そこが可愛いところでもあるんだけどね」


「……可愛い、ですか」


マコトは意外そうに眉を上げた。


「ケイを『可愛い』と評したのは、私の知る限りあなたが初めてです。大抵の人間は『変人』か『面倒くさい奴』と言って去っていきますから」


「そうかな? 私は、ケイちゃんは不器用な純文学小説みたいだなって思うよ」


ミサキは遠くを見るような目をした。


「表面の文章は硬くてゴツゴツしてるけど、行間には『寂しい』とか『わかってほしい』っていう感情がいっぱい詰まってる。……マコトくんには、どう見えてるの?」


「私にとってのケイは……そうですね」


マコトは少し考え込み、静かに答えた。


「未完の哲学論文、でしょうか。矛盾だらけで、論理が飛躍していて、でも必死に真理に到達しようともがいている。だからこそ、誰かが脚注(注釈)を入れてあげないと、誤読されてしまう危うさがある」


文学としてケイを読むミサキ。

哲学としてケイを読むマコト。


二人は同じ「ケイ」という人物を見ているが、その解釈のアプローチは全く異なっていた。


「……ガダマーという哲学者が言いました」


マコトは静かに語り始めた。


「書物を理解するとは、著者の意図を再現することではない。読み手の『地平(先入観や立場)』と、テキストの『地平』が混ざり合い、新しい意味が生まれることだ。これを『地平の融合』と言います」


マコトはミサキを真っ直ぐに見た。


「私には、私の視点(地平)からしかケイが見えません。彼女の論理や思想は理解できても、彼女の『行間にある可愛げ』を読み取る能力は、私には欠けているのかもしれない」


マコトの声には、ほんの僅かな寂しさと、それ以上の敬意が混ざっていた。


「だから、ミサキさん。あなたが現れてくれてよかった。あなたという新しい読者が加わることで、『ケイ』という物語は、より豊かに解釈されるようになったんです」


ミサキはマコトの言葉を噛み締めるように聞き、それから優しく微笑んだ。


「マコトくんは、謙虚だね」


「そうですか?」


「うん。だって、マコトくんがいなかったら、ケイちゃんという本は難しすぎて、誰も最初のページを開けなかったと思うよ」


ミサキは身を乗り出した。


「ケイちゃん、よく言ってるよ。『マコトがいるから、俺は安心してバカができる』って。……マコトくんがしっかり『脚注』を入れて守ってくれてたから、ケイちゃんは壊れずにいられたんだよ」


ミサキの言葉に、マコトは一瞬目を見開き、それから照れくさそうに視線を逸らした。


「……買いかぶりすぎです。私はただの腐れ縁ですよ」


「ふふ、素直じゃないなぁ」


その時、図書室の扉がガラリと開き、話題の主――ケイが入ってきた。


「おいミサキ、終わったか? ……って、げっ。マコト、お前なんでここにいんだよ」


ケイは二人を見て、露骨に嫌な顔をした。


「まさか俺の悪口で盛り上がってたんじゃないだろうな」


「ええ、その通りです」


マコトは平然と答えた。


「君がいかに非論理的で、手のかかる『難書』であるかという文学的考察をしていました」


「はぁ? 俺ほど論理的な人間はいねぇよ!」


「ほらね、すぐムキになる」


ミサキがクスクス笑いながらカウンターを出てきた。


「じゃあ帰ろっか、ケイちゃん。マコトくんも一緒にどう?」


「いや、私は遠慮しておきます」


マコトは手を振った。


「セナに捕まる前に、戦略的撤退をしなければなりませんから。それに……」


マコトは二人を交互に見て、穏やかに微笑んだ。


「一つの物語に、解説者は二人もいりません。今は、君たち二人だけの『読書会』を楽しんでください」


「なんだそれ、意味わかんねぇ」


ケイは首を傾げたが、ミサキはマコトの意図を察して、そっと目配せをした。


(ありがとう、マコトくん)


(頼みましたよ、ミサキさん)


言葉には出さない、共犯者たちの秘密の通信。


「じゃあな、マコト。明日、ノート貸せよな」


「はいはい。君の悪筆が直っていたら考えます」


ケイとミサキが並んで図書室を出て行く。


凸凹だが、温かい背中。


残されたマコトは、静まり返った図書室で、返却されたばかりの『存在と時間』を棚に戻した。


「……さて」


マコトは独りごちる。


「私の地平も、少し広げないといけませんね。……セナという、別の難解な歴史書を読み解くために」


図書室の窓から、夕焼けが差し込む。

解釈の旅は終わらない。

人間という書物は、ページをめくるたびに新しい謎を提示してくるのだから。


(了)


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