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放課後倫理学  作者: 紅茶
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講和条約

水族館の巨大な水槽は、人工的な青い光に満たされていた。

数万匹のイワシが銀色の鱗を煌めかせ、一つの巨大な生き物のように旋回している。


「……壮観ね。まるで、指導者に扇動される愚かな大衆モブみたい」


隣に立つセナが、ガラスに手を当てて呟いた。

彼女の横顔は、水槽の青い光を浴びて、冷たく美しい。

私――マコトは、少し距離を取ってその光景を眺めていた。


「手厳しいですね、セナ。彼らは捕食者から身を守るために群れているだけですよ。生存本能です」


「いいえ、思考停止よ」


セナは私のほうを向き、口角を上げた。


「歴史を見れば明らかだわ。個を捨てて全体主義(ト全体主義)に埋没した集団は、結局は破滅に向かう。……マコト、あんたはああいうの、嫌いでしょう?」


「ええ、まあ」


私は眼鏡の位置を直す。


「キルケゴールなら『単独者たれ』と言うでしょうね。群衆の中に真理はない。孤独の中にこそ神との対話がある、と」


「ふふ、やっぱり」


セナは一歩、私に近づいた。

彼女の靴音が、私のパーソナルスペースを侵食する。


「だから私はあんたを選んだの。あの群れの中で、ただ一人、流れに逆らって泳ごうとする変な魚。……捕獲したくなるのよね、そういう希少種は」


「私は絶滅危惧種ですか」


「いいえ、私の帝国の『重要文化財』よ」


セナは私の腕に自分の腕を絡ませた。

自然な動作だが、その拘束力は強く、逃げることを許さない。


「さあ、行きましょう。この水族館(植民地)の視察はまだ始まったばかりよ」



私たちは「クラゲファンタジア」と呼ばれるゾーンに入った。


照明は落とされ、円柱状の水槽の中で、半透明なクラゲたちがゆらゆらと漂っている。幻想的で、カップルたちが身を寄せ合うには絶好のロケーションだ。


「……綺麗だけど、虚しいわね」


セナがつまらなそうに言った。


「脳も心臓もなく、ただ海流に流されるだけ。歴史を作る意志ヴィルを感じないわ」


「そうでしょうか」


私は漂うミズクラゲを目で追った。


「哲学者ボードリヤールは、現代社会を『シミュラークル(オリジナルなき模倣)』の世界だと言いました。この水族館自体が、自然の海を切り取ったように見せかけた、完全な虚構シミュレーションです」


私は水槽を指差した。


「温度も、餌も、光も管理されたこの空間で、彼らは『野生』を演じさせられている。私たちも同じかもしれませんよ。デートという『形式』を消費しているだけで、そこに本物の感情はあるのかどうか」


私が少し意地悪く言うと、セナは足を止めた。


そして、私のネクタイをぐいと引っ張り、顔を近づけた。


「……生意気なくち


セナの瞳が、暗がりの中で妖しく光る。


「あんた、私が『形式』だけであんたを連れ回してると思ってるの?」


至近距離。


シトラスの香りが、磯の匂いを上書きする。


「歴史はね、書物の中で起きるんじゃないの。現場フィールドで起きるのよ」


セナは私の耳元で囁いた。


「今、私の心拍数が上がっていること。あんたの顔が少し赤いこと。これが『史実ファクト』よ。シミュレーションなんかじゃないわ」


「……っ」


私が言葉に詰まると、セナは満足そうに微笑んで、パッと離れた。


「論破完了。……ほら、次はサメを見に行くわよ。あっちの方が、食うか食われるかの緊張感があって、今の私たちにお似合いだわ」



大水槽のトンネル。


頭上を巨大なシロワニ(サメ)がゆっくりと通過していく。

鋭い歯。圧倒的な暴力の象徴。


「かっこいい……」


セナが陶酔したように見上げている。


「この海域の支配者ヘゲモン。力による平和パクス。やっぱり、秩序を維持するには絶対的な力が必要よね」


「ホッブズ的な世界観ですね」


私は苦笑する。


「『万人の万人に対する闘争』を防ぐためのリヴァイアサン(怪物)。でもセナ、ここは水族館です。その絶対強者も、ガラス一枚隔てた向こう側では、人間に管理された囚人に過ぎない」


私は天井を見上げた。


「フーコーは『監獄の誕生』で、パノプティコン(一望監視施設)について語りました。見られていることを意識させることで、権力は内面化される。このサメも、私たちに見られることで『展示物』として飼い慣らされているんです」


「へぇ……」


セナは私の顔をじっと見た。


「じゃあ、あんたも同じね」


「はい?」


「あんたも今、私に見られてる」


セナの手が、私の掌に重なり、指を絡めてきた。いわゆる「恋人繋ぎ」だ。


「私が常にあんたを見つめて、意識させることで……あんたは少しずつ、私の『所有物』として飼い慣らされていくのよ。パノプティコンの囚人みたいにね」


セナの指に力がこもる。


「どう? マコト。私という看守オーナーに見つめられる気分は」


逃げ場はない。

水槽の青い光は、深海の色であり、同時に出口のない監獄の色でもあった。


だが、不思議と不快ではない。


ケイとの関係が「自由な空」だとしたら、セナとの関係は「心地よい深海」なのかもしれない。重力と水圧に縛られながらも、守られているような感覚。


「……悪くありませんね」


私は観念して、彼女の指を握り返した。


「ただし、囚人にも権利はあります。たまには看守をからかう自由(哲学)くらいは認めてください」


「ふふ。善処するわ」



水族館を出ると、外はもう夕暮れだった。

海風が火照った頬に心地よい。


「楽しかったわ、マコト」


セナは伸びをして、私の横顔を覗き込んだ。


「で? 今日の首脳会談の成果は?」


「そうですね……」


私は少し考え、言葉を選んだ。


「水族館という人工的な楽園において、私は君の『帝国主義的野心』を再確認しました。そして、それに対する私の防衛線が、案外脆いことも」


「あら、それはポツダム宣言?」


「いいえ。講和条約の締結です」


私は眼鏡を直し、真面目な顔で言った。


「今後も、定期的な『二国間協議デート』には応じます。ただし、併合はされません。あくまで主権国家として、対等な関係を望みます」


セナはきょとんとして、それから今日一番の明るい声で笑った。


「あはは! 本当にあんたって面白い!」


セナは私の腕にギュッとしがみついた。


「いいわよ、認めてあげる。当面は『保護国』扱いにしておくわ。でも覚悟しててね。歴史上、保護国がいつの間にか直轄領になるなんて、よくある話だから」


「……肝に銘じておきます」


夕陽が海を赤く染めている。

私の隣には、世界史という名の強かな侵略者がいて、私の心という領土を虎視眈々と狙っている。


だが、ヘーゲルも言っていた。


「歴史とは、自由の意識の進歩である」と。


この強引な少女との攻防戦を通じて、私もまた、ケイとは違う新しい「自由」の形を学び始めているのかもしれなかった。


「帰ろう、マコト。お腹空いたわ。何か奢って」


「……そこは『賠償金』として請求するんですね」


「当然でしょ? 敗戦国なんだから」


私――マコトは、やれやれと溜息をつきながらも、その腕を振りほどこうとはしなかった。

深海の青から、夕焼けの赤へ。


私たちの歴史は、まだ始まったばかりだ。

(了)


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