ヤルタ会談
1.緩衝地帯の悲劇
昼休みの学生食堂は、カオス(混沌)の坩堝だった。
揚げ油の匂い、食器のぶつかる音、数百人の生徒の話し声。
私――マコトは、窓際の席で「本日のA定食(唐揚げ)」と向き合いながら、胃の痛みを覚えていた。
なぜなら、私のトレイを挟んで、右と左に「二つの超大国」が陣取っているからだ。
「……で? なんでマキャベリストのセナ様が、わざわざ庶民の食堂にいらっしゃるんです?」
私の右側で、紙パックのコーヒーをストローで啜りながら、ケイ――「俺」が不機嫌そうに言った。
足は大きく組まれ、私の領域を侵食している。
「あら、ケイこそ。愛しのミサキちゃんとはランチしないの? 『愛の巣』である図書室に籠もっていればいいのに」
私の左側で、優雅にサラダをつつきながら、セナが冷ややかな笑みを浮かべた。
姿勢は良く、その整った黒髪が私の肩にかかる距離にある。
「今日はミサキが委員会だからな。……つーか、俺がどこで飯を食おうが勝手だろ。ここは俺とマコトの指定席だ」
「指定席? 領有権を主張するには、既成事実が足りないんじゃない? 国際法上、実効支配していない土地は『無主地』とみなされるのよ」
火花が散っている。
私は唐揚げを口に運ぶタイミングを完全に見失っていた。
「……あの、お二人とも」
私は箸を置いた。
「私の頭上で『勢力圏』の争いをするのはやめていただけませんか。私はポーランドでも朝鮮半島でもありません。ただの平穏な男子高校生です」
「黙ってて、マコト」
「すっこんでろ、マコト」
二人の声が綺麗にハモった。
私は溜息をつき、味噌汁を啜った。ヘーゲル先生、どうやらここでは「奴隷(私)」には発言権がないようです。
2.承認をめぐる闘争
セナはフォークを置き、ケイに向き直った。
その目は、歴史上の冷酷な外交官のように据わっている。
「単刀直入に言うわ、ケイ。あんたは欲張りすぎるのよ」
セナは指を三本立てた。
「あんたはミサキちゃんを手に入れた。それは認めるわ。素晴らしい『同盟』よ。でもね、だからといってマコトまでキープし続けようなんて、覇権主義にも程があるわ」
「あ?」
ケイが眉をひそめる。
「資源は有限なの。あんたのリソース(時間と感情)はミサキちゃんに割かれている。その隙に、マコトという『戦略的要衝』が放置されているのよ。力の空白が生じている以上、私がそこに進出するのは歴史的必然でしょう?」
セナの論理は、相変わらず冷徹で隙がない。
「彼が寂しい思いをしないように、私が管理してあげる。ウィン-ウィンの関係よ。それを邪魔するあんたは、ただの『ごね得』を狙う駄々っ子に過ぎないわ」
「……はっ、管理だぁ?」
ケイは鼻で笑い、紙パックを握り潰した。
「おいおい、歴史オタク。人間関係を『領土』や『資源』でしか見られないから、お前は二流なんだよ」
ケイは身を乗り出し、私の肩に腕を回した。
「いいか? 俺とマコトの関係は、そんな損得勘定じゃねぇんだよ。ヘーゲルだよな、マコト?」
「え、私に振りますか?」
私が目を白黒させていると、ケイは構わず続けた。
「ヘーゲルは言った。『主人と奴隷』の関係は、互いに命がけの闘争を経て成立するってな。でもな、俺たちは違う。俺たちは互いの自由を認め合うことで、高め合ってるんだ。俺がミサキと付き合おうが、火星に行こうが、俺とマコトの魂の回線は繋がってんだよ。物理的な距離なんて関係ねぇ」
ケイは私の顔を覗き込んだ。
「だろ? 俺がちょっと目を離した隙に、他の奴に『管理』されたいか? お前はそんな安っぽい男じゃねぇよな?」
これは……脅迫に近い「信頼」の押し付けだ。
しかし、ケイの言う「魂の回線」という言葉に、私の胸の奥が少し熱くなったのも事実だ。
だが、セナも引かない。
「魂? 笑わせないで」
彼女は私のもう片方の腕に手を添えた。
「そんな抽象的な概念で、お腹は膨れないわ。マコトが必要としているのは、観念的な『繋がり』じゃなくて、具体的な『対話』と『体温』よ。あんたがいない放課後、彼がどんな顔で本を読んでいるか知ってる? ……私は知ってるわ」
セナの声が、甘く、湿度を帯びる。
「私は現実を提供できる。あんたが彼を『精神』の世界に閉じ込めている間に、私は彼を『歴史』の表舞台に連れ出してあげる。……ねぇマコト、どっちが魅力的?」
3.三体問題の解
右からはケイの「俺を信じろ」という無言の圧力(熱量)。
左からはセナの「私を選びなさい」という甘美な誘惑(重力)。
私は、二つの巨大な天体に引っ張られる、哀れな小惑星だ。
ニュートン力学では、二つの天体の動きは計算できる。しかし、三つになった途端、その軌道は予測不能になる。
「三体問題」には、一般的な解法は存在しない。
だとしたら。
私は私なりの「特異点」を作るしかない。
「……お二人とも」
私は静かに口を開いた。
「私のために争うのはやめてください――なんて、少女漫画のような台詞は吐きませんよ」
私は二人の腕を、やんわりと、しかし拒絶の意志を持って外した。
「ケイ。君の言う通り、私たちの絆は特別です。でも、それを『絶対的な既得権益』としてあぐらをかくなら、それは傲慢です。君がミサキさんとの世界を広げているように、私にも新しい世界を知る権利がある」
ケイが少しむっとした顔をする。
「そして、セナ。あなたの提案は魅力的ですが、私を『獲得目標』として扱うのはやめてください。私は君の帝国の属州になるつもりはない。対等な条約でない限り、批准はしません」
セナが目を細める。
「つまり、私は『どちらも選ばない』し、同時に『どちらも選ぶ』」
私は眼鏡を直し、二人を見据えた。
「キルケゴールは『あれか、これか』と決断を迫りましたが、私はあえて、現代思想家のデリダ的に『脱構築』しましょう。ケイとの友情(腐れ縁)も維持する。セナとの刺激的な駆け引きも楽しむ。……この不安定な『三すくみ』の状態こそが、今の私にとって最も知的で、スリリングな環境だからです」
食堂のざわめきが一瞬遠のく。
私の宣言は、ある意味で一番タチの悪い「二股宣言」にも聞こえたかもしれない。
しかし、二人の反応は意外なものだった。
「……ふん、言うようになったな」
ケイはニヤリと笑い、私の背中をバシッと叩いた。
「ま、そうでなくちゃな。俺の相棒を務めるなら、それくらいの図太さがなきゃ務まらねぇ」
「あら、生意気」
セナもまた、楽しげに口元を緩めた。
「属州じゃなくて、独立国として同盟を結びたいってわけ? いいわよ。外交交渉のハードルは上がったけど……その方が征服しがいがあるわ」
どうやら、二人の猛獣使い(ビーストテイマー)としての資質を問われることになったらしい。
「それでは、昼休みも残り少ないですし」
私は箸を再び取った。冷めかけた唐揚げを口に運ぶ。
「ヤルタ会談は決裂、ということで。冷戦は継続です」
「望むところだ」
「受けて立つわ」
ケイとセナが視線をぶつけ合い、火花を散らす。
その間に挟まれた私は、冷めた唐揚げを咀嚼しながら、胃薬の場所を思い出していた。
サルトルは「地獄とは他人のことだ」と言った。
ニーチェは「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている」と言った。
私の目の前には、二つの深淵が口を開けている。
このカオスな三体問題の軌道が、どこへ向かうのか。
神のみぞ知る――いや、歴史と哲学の神ですら、匙を投げるかもしれない。
「……ごちそうさまでした」
私――マコトは、空になった食器を持って立ち上がる。
俺――ケイは、不敵に笑ってストローを噛む。
私――セナは、妖艶に微笑んで髪を払う。
三つの惑星は、まだ衝突せず、かといって離れもせず。
奇妙なバランスを保ったまま、午後の授業という日常へ回転していくのだった。
(了)




