表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
放課後倫理学  作者: 紅茶
1/37

性善説と性悪説

窓の外は、世界の終わりみたいに暗い灰色だった。叩きつけるような雨音が、教室の喧騒を薄い膜で覆っている。五時間目の世界史と六時間目のLHRロングホームルーム、そして帰り支度を終えて、後は帰るのみとなった気怠い放課後。


俺は自分の席で頬杖をつき、不機嫌を隠そうともせずに窓ガラスを睨みつけていた。


「……で、結局見つからなかったんですか?」


向かいの席から、穏やかで、どこか湿度を含んだ声が聞こえる。


俺は視線だけを動かして、声の主を見た。文庫本を片手に、紅茶のペットボトルを弄んでいるクラスメイト。


「ああ、ない。俺のビニール傘。昨日コンビニで買ったばっかの六百五十円。名前も書いたのに、マジで信じらんねえ」


俺が吐き捨てると、目の前のマコトは、困ったように眉を下げた。


「災難でしたね。誰かが間違えただけかもしれませんよ」


「間違えねえよ。持ち手にデカデカと『ケイ』って書いたシール貼っといたんだぞ? 確信犯だろ。盗んだ奴は今頃、俺の傘で悠々と雨を凌いでるわけだ。……これだから人間ってのは信用できねえ。性悪説こそが真理だ」


俺が鼻を鳴らすと、マコトはパタンと文庫本を閉じた。その仕草は優雅で、少し鼻につく。


「性悪説、ですか。荀子ですね」


「ああ。人間ってのは生まれつき利己的で、放っておけば欲望のままに争う。今の俺の傘泥棒みたいにな。だから規律や教育で無理やり矯正しなきゃいけない。そうだろ?」


「ふふ、少し乱暴な解釈ですが、当たらずとも遠からずです。でも、私はやはり孟子の性善説を支持したいですね。人は生まれながらにして善なる種を持っていると思いますよ」


マコトは敬語を崩さない。このすました態度が、俺の苛立ちに油を注ぐ。


俺たちはいつもこうだ。些細な出来事から始まって、気づけば答えの出ない議論に花を咲かせている。


「おめでたい頭だな。じゃあ聞くけど、なんで俺の傘はなくなった? みんなが善人なら、俺は今頃濡れずに帰る心配なんてしなくて済んだはずだ」


俺が詰め寄ると、マコトは眼鏡の位置を人差し指で直し、静かに語り始めた。


「性善説というのは、『誰もが聖人君子で、悪いことなど一切しない』という楽観論ではないんです。孟子が言ったのは、あくまで『善の端緒めばえ』が備わっている、ということですよ。有名な『孺子じゅし将にせいに入らんとする』の話は知っていますよね?」


「幼い子供が井戸に落ちそうになってたら、誰でも『危ない!』って思って助けようとする、ってやつだろ」


「そうです。そこに利害関係はありません。助けたからといって子供の親に恩を売りたいわけでも、村人から褒められたいわけでもない。ただ反射的に、他者の不幸を見過ごせない『忍びざるの心』が働く。これを孟子は『惻隠そくいんの心』と呼び、仁の端緒としました。他にも、悪を恥じ憎む『羞悪しゅうおの心』、譲り合う『辞譲じじょうの心』、是非を判断する『是非ぜひの心』。これら四つの端緒、すなわち『四端したん』が、人間の本性として備わっていると考えたのです」


マコトの語り口は、まるで教壇に立つ教師のように滑らかだ。


「つまり、俺の傘を盗んだ奴にも、その『四端』とやらがあったはずだって言いたいのか?」


「ええ。ですが、種はあくまで種です。水を与え、肥やしをやり、大切に育てなければ枯れてしまう。孟子は、この善なる本性を拡充させる努力が必要だと説きました。逆に言えば、環境が悪かったり、欲望に負けて修養を怠ったりすれば、人は悪に染まることもある。あなたの傘を持って行った人も、もしかしたら土砂降りの雨にパニックになり、その瞬間だけ良心の声がかき消されてしまったのかもしれません」


「甘いな」


俺は椅子を後ろに傾け、天井を仰いだ。


「その『環境が悪ければ悪に染まる』ってのが、そもそも人間が弱い証拠だろ。荀子はもっとリアリストだ。彼は戦国時代の末期、血で血を洗う争いを目の当たりにしていただろうしな。人間は飢えれば食を争い、寒ければ暖を奪い合う。それが『さが』だ。放っておけば社会は混乱する。だから『礼』という外的な規範が必要なんだ」


俺は視線を戻し、マコトの目を真っ直ぐに見た。


「荀子の言う『性悪』は、別に人間が悪魔だって意味じゃない。『弱い』とか『未完成』って意味に近いだろ。だからこそ、後天的な努力、つまり『』が必要なんだ。『人の性は悪なり、その善なるものは偽なり』ってな。この『偽』は人偏に為す、つまり人間の作為、教育や文化のことだ。俺たちは学校で校則を守らされ、法律に縛られているから、かろうじて社会生活を送れている。本能のままなら、俺は今すぐ食堂のパンを強奪してるかもしれんぞ?」


「ふふ、あなたがパンを強奪する姿は想像できませんね」


マコトは口元に手を当てて笑った。


「でも、あなたの言う通りです。荀子の性悪説は、決して人間への絶望ではありません。むしろ『教育すれば誰でも聖人になれる』という、力強い人間信頼の裏返しとも言えます。生まれが王族だろうが平民だろうが、本性は等しく欲望の塊。だからこそ、後天的な学習次第でどうにでもなるという平等思想を含んでいます」


「だろ? だったら、今の世の中を見渡してみろよ。ニュースをつければ詐欺だの強盗だの、戦争だのって話題ばっかりだ。どいつもこいつも自分の利益ばっかり追いかけてる。ホッブズが『リヴァイアサン』で言った『万人の万人に対する闘争』こそが、人間の自然状態なんじゃないのか? あいつも性悪説寄りだろ」


俺が西洋哲学に話を広げると、マコトは嬉しそうに身を乗り出してきた。


「ホッブズ、いいですね。彼は人間を『利己的な運動体』として捉えました。自己保存の本能が最優先されるから、法や国家という強力な権力リヴァイアサンがないと、互いに殺し合ってしまう。これは確かに荀子の『礼』による統治に近い。でも、ルソーはどうですか? 彼は『人間不平等起原論』で、自然状態の人間はもっと牧歌的で、憐れみの情を持っていたと説きましたよ。文明や所有制度が人間を堕落させたのだ、と」


「ルソーはロマンチストすぎるんだよ。野生の人間が平和に暮らしてたなんて幻想だ。現代の進化生物学や遺伝子の話を持ち出してもいいぜ。ドーキンスの『利己的な遺伝子』はどうだ? 生物は遺伝子を残すための乗り物に過ぎない。利他的に見える行動も、結局は自分の遺伝子に近い血縁者を守るためか、あるいは将来的な見返りを期待した『互恵的利他主義』に過ぎないって説もある」


俺は机の上で指を組んだ。


「つまり、俺が誰かに親切にするのは、自分がいい気分になりたいか、後で助けてもらいたいという計算があるからだ。純粋な『善』なんてものは、脳内物質の報酬系が生み出した幻想に過ぎない。……どうだ、ぐうの音も出ないだろ」


俺が得意げに笑うと、マコトは静かに首を横に振った。


「いいえ。科学的な分析がどうであれ、私たちが『善』を感じる心そのものを否定することにはなりません。カントを見てください。彼は、人間の傾向性やりたいことと、道徳的義務やるべきことを分けました。利益や感情に流されず、『それが正しいことだから行う』という義務の意識こそが尊いとした。たとえ遺伝子の命令が利己的だとしても、人間にはそれに抗う理性が備わっている。それこそが、孟子の言う『大体(だいたい=理性の心)』に従う生き方ではないでしょうか」


マコトの言葉は、いつも綺麗だ。泥臭い現実から少し浮いた場所にある。


「でもな、現実は綺麗事じゃ済まない。中国の歴史を見てもそうだろ。結局、性善説を唱えた孟子の儒教は、国教化されて支配の道具に使われた。朱子学なんかになれば、『理』を絶対視して、人間の自然な感情を押し殺すような堅苦しいものになっちまった。『存天理、滅人欲(天理を存し、人欲を滅す)』なんて、息が詰まるぜ」


「それは後世の解釈の問題ですよ。本来の儒教はもっと人間味があったはずです。それに、性悪説的な法家思想を採用した秦の始皇帝はどうなりました? 厳罰主義で天下を統一しましたが、結局は民衆の恨みを買ってすぐに滅びました。恐怖や規則だけで人を縛るのには限界があるんです」


「……痛いところを突くな」


俺は苦笑した。確かに、ガチガチの校則だけで縛られた学校なんて地獄だ。


「結局、どっちもどっちなんだよ。性善説も性悪説も、目指すところは『秩序ある平和な社会』って点では一致してる。スタート地点が『人間を信じるか』『人間を疑うか』の違いだけで」


「ええ。その通りです。ただ、私は思うんです。現代社会において、性悪説的なシステムは確かに重要です。監視カメラ、セキュリティゲート、契約書、法律。これらは『人は悪いことをするかもしれない』という前提で作られています。あなたの傘泥棒を防ぐために、鍵付きの傘立てが必要だったように」


「おう、次からは絶対そうする」


「でも、システムだけでは社会は回りません。例えば、私たちは今こうして会話していますが、私が突然ナイフを取り出してあなたを襲わないと、あなたは無意識に信じているでしょう?」


「……まあ、お前はそういうキャラじゃないしな」


「それは『信頼』です。コンビニでお釣りをもらう時、店員が偽金を渡してこないと信じている。電車に乗る時、運転士が自暴自棄になって事故を起こさないと信じている。高度に発達した現代社会こそ、見知らぬ他者への膨大な『性善説的信頼』の基盤がないと、一秒たりとも成立しないんですよ」


マコトの言葉に、俺は窓の外を見た。雨は小降りになってきている。


「信頼、か……。まあ、確かにいちいち『こいつは俺を殺す気か?』なんて警戒してたら疲れちまって生きていけねえな」


「でしょう? それに、あなたが性悪説を唱えるのは、本当は人間の善性を信じたいからではないですか? 期待しているからこそ、裏切られた時に傷つき、怒る。本当に人間がどうしようもない悪だと諦めていたら、傘が盗まれたくらいでそこまで感情的になりませんよ。『ああ、またか』で終わりです」


図星を突かれて、俺は少し赤面したかもしれない。誤魔化すように俺は頭をかいた。


「うっせーな。俺はただ、六百五十円が惜しいだけだ」


「ふふ、素直じゃないですね。……あ、見てください。雨、上がりましたよ」


マコトが指差す先、雲の切れ間から薄い光が差し込んでいた。濡れたアスファルトが光を反射して輝いている。


「……本当だ。ちっ、盗まれたことには変わりねぇけどな」


俺が席を立とうとした時、教室の前の扉がガラリと開いた。


入ってきたのは、隣のクラスの男子生徒だった。手には、見覚えのあるビニール傘を持っている。


「あの、すいません。このクラスの……えーと、ケイさんっています? 持ち手にケイってシール貼ってあって、いますか?」


俺は目を見開き、勢いよく立ち上がった。


「それ俺のだ!」


男子生徒はホッとした顔で近づいてきた。


「よかった。これ、昇降口の下駄箱の横に落ちてて。誰かが間違って蹴っ飛ばして、陰に入り込んでたみたいなんだ。名前書いてあったから、クラス回って探してたんだ」


「……落ちてた?」


盗まれたんじゃない。ただ、誰かが引っ掛けて、見えにくい場所に転がっていただけ。それをこいつがわざわざ届けてくれた。


「おう、サンキューな。助かったわ。マジで」


「いいえ、じゃあ」


男子生徒は軽く手を挙げて去っていった。

教室に残されたのは、傘を取り戻した俺と、ニヤニヤと笑っているマコトだけ。


「……なんだよ」


「いえ? ただ、荀子の言う通り、世界は欲望と争いに満ちているなあ、と思いまして」


「悪かったよ! 俺の早とちりでした!」


俺は傘を机の横に引っかけ、大きく息を吐いた。


「でもまあ、わざわざ届けてくれる奴もいるんだな。あいつも別に、俺から礼金をもらおうとしたわけじゃないだろうし」


「ええ。まさに『惻隠の心』ですね。あるいは、困っている人を助けるという『教育』の賜物かもしれませんが」


マコトはペットボトルの残りを飲み干し、立ち上がった。


「結局、人間の中には善も悪もある。カントの言うように、私たちは動物的な欲望と理性的な道徳法則の狭間で揺れ動く存在なんです。だからこそ、どちらが『本性』かと決めつけるより、どちらになりたいか、どちらを育てたいかという『意志』の問題なのかもしれませんね」


マコトは鞄を持ち上げ、窓際に立つ俺――ケイを見下ろした。


夕日が差し込み、マコトの長い髪が黄金色に縁取られている。その表情は、いつものように冷静で、けれどどこか楽しげだった。


「意志、か。……まあ、お前の言う通り、あの親切な奴のおかげで、俺の性悪説は一旦保留にしてやるよ」


俺は傘を手に取り、苦笑いした。


「でもな、これだけは言っておく。俺が性悪説を支持するのは、その方が気が楽だからだ。最初から『人間はダメな生き物だ』と思っておけば、誰かに優しくされた時に『すげえ!』って感動できるだろ? 逆にお前みたいに性善説で生きてると、ちょっとした悪意に触れただけでダメージでかくないか?」


「ふふ、鋭いですね」


マコトは教室の扉へと歩き出す。俺もその後を追う。


「確かに、期待値が高い分、失望することもあります。でも、私はそのリスクを負ってでも、人間を信じる側に賭けたいんです。ウィリアム・ジェームズという哲学者が言っていました。『信じる意志』が事実を作り出すこともある、と。私が誰かを信じることで、その人が裏切れなくなって善人になる……なんてことも、あるかもしれませんから」


「……計算高いな、お前」


「処世術と言ってください」


俺たちは並んで廊下を歩く。

放課後の校舎は静まり返り、運動部の掛け声だけが遠くから聞こえてくる。


「で、だ」


俺はマコトの横顔を覗き込んだ。


「議論の決着はついてないけど、今日は俺の『負け』ってことでいいぜ。傘も見つかったし、お前の言った通りの『惻隠の心』を見せつけられちまったからな」


「おや、珍しい。ケイが素直に負けを認めるとは」


「うるせえ。あぁそうだ、明日先生が急用でピアノ教室が休みになったんだ。どっか遊びに行こうぜ」


「ふふ、わかりました。よろしいですよ。せっかくだから遠出して、千葉市あたりまで足を伸ばしましょうか……あ、そうだケイ」


マコトがふと思い出したように足を止めた。


「今日の議論、一つだけ訂正してもいいですか?」


「あ? なんだよ」


「さっき私は、現代社会は性善説的信頼で成り立っていると言いましたが……実は、現代の思想家の中には、もっとシビアな見方をする人もいます。ミシェル・フーコーなどは、近代社会を『規律訓練型権力』による監視システムだと分析しました。学校も病院も刑務所も、人間を『従順な身体』に作り変える装置だと。これは究極の性悪説――あるいは荀子の『礼』による管理システムの完成形とも言えますね」


「へえ。面白そうじゃん、そのフーコーっての。俺と気が合いそうだ」


「ええ。でも同時に、ハンナ・アーレントのように、全体主義の悪夢を経てもなお、人間同士が言葉を交わし、公共の世界を作る『活動』に希望を見出した人もいます。結局、私たちは歴史の中で、性善と性悪の振り子の間を行ったり来たりしているだけなのかもしれません」


マコトは昇降口の階段を降りながら、ふと俺の方を向いて微笑んだ。


「だから、ケイ。あなたが性悪説を唱えるリアリストでいてくれるのは、私にとってもありがたいんです。私が理想論に偏りすぎた時、あなたがその冷徹な視点でブレーキをかけてくれますから」


「……なんだよそれ。俺はブレーキ役かよ」


「最高の褒め言葉ですよ。バランスが大事なんです、中庸ちゅうようというやつですね」


昇降口に着き、俺たちは靴を履き替える。

外は完全に雨が上がり、夕焼けが空を真っ赤に染めていた。水たまりが鏡のように空を映している。


「じゃあな、マコト。気をつけて帰れよ」


「ええ、あなたも。……あ、ケイ」


「ん?」


「スカート、少し捲れてますよ」


マコトが俺のプリーツスカートの裾を指差した。

俺は慌ててスカートを直す。


「っ! 言えよ早く!」


「ふふ。では、また明日」


マコトは――スラックスのポケットに手を突っ込み、男物のローファーを鳴らして歩き出した。


その背中は、華奢だが意外と肩幅があり、男子生徒特有の骨格をしていた。


俺――ケイは、直したばかりのスカートを翻し、女物のローファーで水たまりを避けて歩き出す。


「……ったく。あいつ、最後まですましやがって」


俺ことカオル・ケイと、

私ことマコト。


性別も、性格も、信じる説も正反対の俺たち。

でも、だからこそ、こうして凸凹のまま噛み合っていられるのかもしれない。


雨上がりの空気を吸い込みながら、俺は戻ってきた傘をくるくると回した。

性悪説も性善説も、どっちも正解で、どっちも不正解。


ただ一つ確かなのは、明日もまたあいつと、答えのない議論をするのが楽しみだということだけだ。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
RT批評企画にご参加いただきありがとうございます。 1話がオススメとのことだったので読ませていただきました。 ①誰に向けた作品なのか? 主人公の紹介話であったのは理解できました。 ですが、物語として…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ