第9話:待ち構える巨人
一四二〇年、秋。
ボヘミアの空気は、日ごとにその冷たさを増していく。
朝霧は凍てつき、枯れ草を白く染め上げている。
だが、プラハの南端に位置するその要塞だけは
異様な熱気と、人を拒絶する冷厳な殺気に包まれていた。
ヴィシェフラド城。
かつてのボヘミア王の居城であり、今は十字軍の管轄する聖なる宝物庫。
プラハへの補給路を抑えるこの喉元を陥落させない限り、
我らフス派に安寧はない。
眼下を流れるヴルタヴァ川の水面は深く、暗い。
その河畔にまで、ジシュカ率いるターボル軍本隊は兵を進めていた。
「――もう斉射は不要。一発だけ撃て。
最後に、反応距離と跳ね返りを確認したい」
命令と共に、巨大なアームが空を切り裂く。
陣地に設置されたトレビュシェット四基のうち、
一基から大人の胴体ほどもある石塊が放たれる。
唸りを上げて飛翔する重量。狙いは正確無比。
放物線を描いた石塊は、吸い込まれるように城壁へと迫る。
本来ならば、次の瞬間には轟音と共に石壁が砕け
破片が飛び散るはずだった。
ギィィィンッ!!
鼓膜をつんざく、この世の物とは思えない硬質で奇妙な音が響き渡る。
石塊が城壁に当たる音ではない。城壁の数十メートル手前、
何もないはずの空中で、石塊が『何か』と正面激突したのだ。
火花が散り、石塊はその衝撃に耐えきれず、粉々に砕け散る。
破片がぱらぱらと断崖へ落ちていく中、
空中のそれは一瞬だけ青白く波打ち、再び透明な静寂へと戻る。
「――やはり無駄だな」
前線指揮所でその光景を見ていたジシュカは、隻眼を細めた。
そこには、苛立ちも焦りもない。
目の前で起きた理解不能な出来事を、単なる現実として処理していく。
そこへ、泥まみれになった伝令の兵士が駆け込んでくる。
地下で作業を進めていた工匠分隊からの報告だ。
「駄目です、将軍!やはり掘り進めません!」
「岩盤にでも当たったか?」
「いいえ、もっと厄介なものです!
城壁まであと五十クロクのあたりで、ツルハシが弾かれました。
地下深くまで、あの空のと同じ『見えない壁』が続いているようです」
空中の投擲も、地下の坑道戦での侵入も阻まれる。
陣営内に動揺が走る中、一人の男が憤然と進み出た。
農夫上がりの幹部、バルトシュ上級隊長だ。
持ち前の勇敢さで頭角を現した男だが、血の気が多いのが玉に瑕だ。
「将軍!このまま手をこまねいていては、兵の士気が下がる一方でしょう!
このバルトシュめに、突撃を命じてくだされ!
石が駄目でも、ワシら信徒一丸となって押し寄せれば、
あのような堕落した教会の呪いなぞ直ぐに破れるはず――」
「お待ちなさい、バルトシュ」
熱くなる農民幹部を制したのは、プロクだった。
彼は眼鏡の位置を直しながら、絶望的な眼差しで城を見上げていた。
「あれは呪いなどではありませんよ。
聖蹟ヘカトンケイル――百の手を持つ巨人の名を冠した広域防御陣です」
「メカトンだかスカトンだか知らねえが、ワシらの信念より硬いと言うかッ!」
「ええ、硬いですね。あれは霊脈を動力として展開する最強の防御陣。
ボヘミア広しといえども、あれを設置できるのは
聖地ヴィシェフラドと聖ヴィート大聖堂ぐらいなものでしょう」
プロクは淡々と、しかし残酷な事実を告げる。
「ヘカトンケイルは、教会によって『破門』された者、
つまり我らフス派による物理干渉を徹底的に拒絶するよう術式が組まれています。
石も、矢も、そして人も。
我々が突撃などすれば、見えない壁に寸断されて肉塊となるだけです」
ざわめきが走る。異端者は肉塊にされる――なら、カトリックの連中は?
「そ、それじゃあ、奴らは出入り自由だってのか!?」
「教会の祝福を受けた者なら、自由に通過できますよ。
もっとも、今は我らが城を包囲しています。
彼らも外へは出られず、閉じ込められたままですがね」
バルトシュは言葉を失い、悔しそうに拳を震わせた。
神はまたしても、教会にのみ加護を与えるのか。
その事実に、兵士たちの間にも重苦しい空気が漂い始めた。
東からは、皇帝ジギスムント率いる十字軍が救援に向かっているとの情報もある。
ここで無駄に時間を浪費すれば、挟み撃ちにされ、我々は全滅することになる。
沈黙を破ったのは、ジシュカのしわがれた声だった。
「――力攻めは不可能だ」
将軍は懐から鉄のスキットルを取り出し、一口あおる。
喉を焼く酒精が思考を研ぎ澄ませる。
「無駄死には好かん」
「しかし将軍、それでは……!」
「敵が殻に籠もるというのなら、干上がらせるまでよ」
ジシュカの隻眼が、鋭く光る。
「鎖は揃ったな? プロコフ」
「はっ、各地からの徴発が遅れましたが、昨晩すべて集まりました」
「よし、ヴルタヴァ川を封鎖する。船はおろか、流木一本通すな。
ヴィシェフラドへの補給路を完全に断て」冷たい絶対的な命令。
幹部たちは弾かれたように動き出す。
「城内の水と食料が尽きるのが先か、皇帝の救援が先か。我慢比べといくぞ」
兵糧攻め。それしかないのは事実だが、あまりに時間が掛かる。
敵の救援が到着するまでに、城が落ちる保証はない。
「閣下、封鎖は行いつつも、やはりあの結界を破る手立てを探るべきです」
アニエは、意を決したように具申する。
「問題ない」ジシュカは全く取り合おうとしない。
「しかし――」
「既に、別の手は打ってある、そうだなプロコフ?」
プロクは眼鏡の縁を上げて答える。
「はっ、ターボルへは一月前から早馬を出しております」
「そういうことだ、アネシュカ上級隊長」
アニエはそれ以上何も言わずに、目礼する。
――そうか、閣下はそういう御方だったな。
最高学府プラハ大学で聖蹟を研究していた私たちの学者先生。
百戦錬磨のジシュカ将軍が、ジリ工匠頭を使わない理由など、どこにもないのだ。




