第40話:五百のアーメン
私たちは、聖ヴィート大聖堂の隣にある旧司祭館の一室へと案内された。
重い扉が閉ざされると、ヴェフタ大司教は窓の外に広がる風景に目を向ける。
しばしの沈黙。十を数えただろうか。彼は背を向けたまま、静かに問いかけた。
「それで、ローマとの繋がりを断ち切るのに、どのくらいの時を要するのかね?」
私は即座に、脳内年表に検索をかける。今は一四二一年。
前世通りに事が進むのなら、十字軍が再びボヘミアに向けて動き出すまで、
あと四ヶ月あるかないか。それまでに、この国から魔法を消さなければ――
「遅くとも二ヶ月。資材の調達さえ順調なら一ヶ月半といったところでしょうか」
私は断言する。ヴェフタはゆっくりと振り返り、満足げに頷いた。
窓からの逆光で、その瞳は濁っているようにも、透き通っているようにも見える。
「最長で二ヶ月か――そのくらいの期間なら、教皇庁の枢機卿たちが
私の破門状を起草している間に、事が終わるだろう」
彼は、安堵したように息を吐いた。
「頼むぞ、ジリ主監。ローマとの繋がりを断ち切り、
真のボヘミアへと生まれ変わるには、君の、いや君たちの力が必要だ」
「ええ、必ずやり遂げます」
私はヴェフタに一礼し、カテジナとギルド長を促してプラハ城を後にした。
――そしてターボルへの帰路、
馬車の中は、ランプの揺らめく光と車輪の軋む音だけが支配していた。
向かいに座るカテジナとギルド長が、落ち着かない様子でこちらを窺っている。
私はうるさく揺れる車内で、羊皮紙に羽ペンを走らせる。
描いたのは化学式ではなく、錬金術の蒸留図に近い絵図だ。
「ギルド長」そして私は、前置きなく切り出す。
「六百個の施釉の壺、それと中に入れるひと回り小さな素焼きの壺。
あとは大量の緑礬油、そして胆礬を調達してくれ」
「六百!?」ギルド長が目を剥いた。
「壺は……まあ、何とでもなる。だが緑礬油はそんなにねえぞ。
薬屋が抱えてる分をかき集めても、六百の壺は埋められねえ」
緑礬油――現代で言う硫酸だ。胆礬は硫酸銅。
中世では貴重かつ危険な薬品である。
「錬金術師を総動員して、緑礬を乾留させればいい」私は静かに答えた。
「ターボルなら緑礬も胆礬も、いくらでも手に入るはずだ」
「はぁ――そんなんで緑礬油を作れるんだな」
ギルド長は顎髭をしごきながら、私の描いた蒸留図を眺める。
「それなら大丈夫だ。ギルドの総力を挙げてかき集めてこよう」
ギルド長の了承を得ると、今度はカテジナに視線を向けた。
彼女はいつの間にか、爪の手入れをしている。揺れる車内で器用にも。
「カテジナ。君には亜鉛の精製と、銅線の製造を頼む」
「亜鉛? ああ、ジンクのことね」カテジナは即座に反応し、顔を上げた。
「以前『相続人の粉』を集めてもらった時、クトナー・ホラの銀鉱石は
不純物が多くて質が悪いとボヤいていただろう? その不純物が閃亜鉛鉱だ。
ターボルの廃棄場にも山ほど捨てられているはずだ。
沸点が低いから、密閉したレトルトで還元すれば取り出せる」
「――あっ、なるほどね」カテジナの目が、一瞬で理解の光を帯びた。
「ガルバニ電池を作りたいのね!」
私は思わず手を止めた。彼女の理解の早さに驚いたのだ。
「――君は、電気のことを知っているんだな?」
カテジナは不思議そうな表情を浮かべた後、少し得意げに鼻を鳴らした。
「当ったり前でしょ、ジョージ。マンチェスターの工場なら
電気メッキは最新技術だったし、ロンドンとリヴァプールの間じゃ
アタシが子供の頃からテレグラフが動いてるわよ」
こんなど田舎と一緒にしないで頂戴、
そう言わんばかりにカテジナは肩をいからせる。
(そうか、産業革命というと蒸気機関のイメージだったけど、
十九世紀半ばだと、もう電信の時代か――)
興が乗ったのか、故郷を懐かしんでいるのか、カテジナは早口で続ける。
「ウィートストンとクックの電信機ね。針が動いて文字を伝えるのよ」
(――おっと、電信の仕組みまで理解しているのか。なら話は早い)
私は思わず口端を吊り上げる。彼女は情報のデジタル通信、
つまりモールス信号の前身となる概念を既に理解しているのだ。
これなら設計図を一から引く必要はない。
「大量の電池を直列に繋いで、高い電圧を作る。
そしてその電気を使って、電磁ブザーを動かしたいんだ」
「分かったわ」カテジナは即座に頷いた。
「亜鉛の精製の目処が立ったら、
銅線を巻きつけたコイルと鉄片で、電気ベルの仕組みを作ればいいのね」
「その通り。ただ――」私は注意を促す。
「コイルを作るには、銅線を絶縁する必要がある。
裸のまま巻いたらショートしてしまう」
「分かってるわよ。絹糸を巻けばいいわ」
カテジナはあっさりと正解を答える。
「パパの工場でも、そういう『巻き線機』を作ってたことがあるわ。
シルクは絶縁性が高いし、細く巻けるから便利なのよねえ。
今回のは松脂を溶かしたニスで、さらに固めた方が良いかも」
「ハハッ、カテジナには何も言う事ないな。完璧だ。
うんざりするほど巻くことになるが、そこは婦人部の協力を得てくれ」
私は思わず感嘆の声を漏らした。
やはり十九世紀のエンジニアが近くにいるのは心強い。
「おいおい、ちょっと待て」ギルド長が手を上げた。
彼は眉間に皺を寄せ、困惑した顔をしている。
「俺にもわかりやすく説明してくれ。
二人が何を話しているのか、さっぱり分からん」
「ああ、すまない」
私は、十五世紀の耳にも届く形に言葉を組み替える。
「ギルド長、人間が一呼吸で『アーメン』と祈れる回数はいくつだろうか?」
「なんだいそりゃ? って一回か、せいぜい二回といったところだろ」
「そうだな。だが、この雷の力を使えば、
一呼吸で『五百回のアーメン』を発生させることができる」
「――はぁッ? 五百!?」ギルド長の目が丸くなる。
「ああ。そんな祈りを受け取ったローマはどう考えると思う?」
私は続ける。
「一呼吸で五百回のアーメンなんて、人間には絶対不可能だ。だから
ローマはこう考える『これは人の祈りではない。悪魔の手が入り込んだ』とね」
「――なるほどなあ」
ギルド長はぼんやりと、まだ半信半疑な表情で頷く。
「つまり、雷の力で『悪魔の軍勢が攻め込んできた』と勘違いさせて、
ローマに門を閉ざさせるってわけか」
「そういうことだ」私は力強く頷いた。
「ローマが自身の安全のために門を閉ざせば、ボヘミアは孤立して、
ローマからの加護を受けられなくなってしまう。その隙に、私たちは
聖蹟ボヘミアンを壊してしまう。つまりボヘミアから魔法が消えるってわけだ」
「――はあ、相変わらずやることなすこと無茶苦茶だが」
ギルド長は苦笑した。カテジナも隣で元気よくうんうん頷いている。
「だが、分かったぜ。壺と緑礬油はたっぷりかき集めてやらあ」
と決意を新たにしたところで、ギルド長は再び疑いの眼差しを向けてくる。
「――で、本当のところはどうなんだ?
実は悪魔を呼び出すってんじゃあねえだろうな? 兵器廠長様よ」
ギルド長は胸元で小さく十字を切る。
「私が呼び出すのは、科学という神さ」私はそっと肩をすくめる。
「さあ、そろそろひと休みしよう。私たちがまともに眠れるのは今夜ぐらいだぞ」
こうして、馬車はターボルへ向かってひた走る。




