第35話:伝統と熱狂
一四二一年、六月。ボヘミア東部チャースラフ。
聖ペテロ・パウロ教会の身廊は、
かつてない熱気と張り詰めた緊張感で包まれていた。
ステンドグラスから差し込む初夏の日差しが、
対峙する二つの集団を照らし出している。
右列には絹をまとったプラハの貴族たち、そして市参事会の有力者たち。
彼らはハンカチで口元を隠しながら、不快そうに眉をひそめている。
対する左列には、黒ずんだ鎖帷子と革鎧を着た、我らがターボル軍の幹部たち。
泥と鉄、そして血の臭いを漂わせる野蛮人の集団だ。
今日は、ボヘミア王国の未来を決めるチャースラフ会議初日――
演台で声を張り上げているのは、
ボヘミア最高城伯チェニェク・ゼ・ヴァルテンベルカ。
この国の貴族の筆頭であり、日和見で名高い男でもある。
「諸卿。ここ数年、我らの国は戦火と混乱に晒されてきた。
王は遠く、皇帝は我らを異端と罵り、十字軍が幾度となくボヘミアを蹂躙した。
だが、その中にあっても、我らはこの地を守り抜いてきたのだ」
そこまでは、よくある貴族らしい前置きだ。
だが、その後に続く言葉が、彼らの置かれた立場を端的に示していた。
「ターボルの諸君にも、功績がある。ヴィートコフの丘、ヴィシェフラド城……
その武勇と新しき兵器は、ボヘミアを救った。それは私も認めよう」
堂内に小さなどよめきが走る。
やや年長の貴族が、隣の者らと顔を見合わせ、不快そうに口元を歪めた。
彼らにとって、農民と職人の寄せ集めが『功績』を持つという事実は、
喉に刺さった骨のようなものなのだろう。
「しかし……しかしだ」チェニェクはそこで言葉を切り、声を少し低くした。
「この国は、聖書の言葉に従うべきであっても、
無秩序な平等によって乱されてはならぬ。
ターボルの主張する過激な教えは、我ら古くからの秩序を脅かしておる」
ようやく本音を言ったな、と私は心の中で嘲笑う。
「統治は『熱狂』ではなく、『伝統』によって差配されるべきだ。
即ち、ボヘミア王国の静謐と正しき支配は、
我ら正統なる貴族とプラハ市が主導すべきであるッ!」
右列の貴族たちが互いに目配せをし、さざめきのように同意の声を上げる。
「そうだ! そうだ!」
「成り上がり者どもめ! わきまえろ!」
「学の無い貴様らに、政治のことなど分からんだろう!」
その瞳には侮蔑の色が濃い。彼らの言い分は単純だ。
『汚れ仕事は引き続き、野蛮人どもに任せてやってもいいが、
取り分は、これまで通り我々が握り続ける』
安全な議席に守られていると錯覚した彼らは、そう主張している。
史実では空中分解しつつあったフス派が、一時的にとはいえ再び結束したのが
この会議だったのだが、この世界では――
「それで?」
低く、地を這うような声が堂内を凍りつかせた。
ジシュカが、ゆっくりと立ち上がる。隻眼の猛将は、武器など持っていない。
だが、その全身から立ち上る威圧感だけで、貴族は言葉を喉の奥へ押し込まれる。
「伝統、結構。正統、結構。だがな、最高城伯殿。
貴公らの言う伝統と正統の守護者――ロジュンベルク家はどこへ行ったのかな?」
堂内が水を打ったように静まり返る。
南ボヘミアの支配者、オルドジフ二世とその軍勢。
そう、史実とは異なり、常にターボルを脅かしてきた大貴族はもういないのだ。
南の広大な領地、銀山、そして塩。その半数が、今やターボルの影響下にある。
おそらく再来年までには、ターボルに反抗的な南ボヘミアの領主は
すべて歴史書から名を消すことになるだろう。
「貴公らが伝統を大切に抱え、領地で震えている間に、
その熱狂でボヘミアを守ったのが我々だ。
――次は誰が『熱狂』に焼かれるのかな? よく考えてから口を開くことだ」
ジシュカの恫喝は決定打だった。次は自分たちが焼かれる番かもしれない、
その恐怖がプライドを上回る。彼らは青ざめ、視線を泳がせ、沈黙する。
(ここまでは、筋書き通りだな)
私は末席で、その様子を眺めながら小さく息を吐く。恐怖による支配は有効だ。
だが、それだけでは国は回らない。恐怖の次は『正当性』が必要だ。
「――遅くなりましたかな」
重い扉が、軋む音を立てて開いた。
堂内の空気が、一瞬で変わる。蝋の匂いまで冷えた気がした。
立ち上がる者、口元を押さえる者、十字を切る者。
入り口に現れたのは、豪奢な法衣をまとい、胸に十字架を掲げた聖職者――
「――ヴェフタ大司教猊下」
誰かが、かすれた声でその名を呼ぶ。
コンラート・フォン・ヴェフタ。王都プラハの大司教にして、
かつては皇帝ジギスムントに忠誠を誓っていた男。
そう、本来ならば、ここにいるフス派一同を異端として断罪すべき男。
その彼が左列へ悠然と歩み寄り、ジシュカの隣に立つ。
「な、猊下!? なぜそちらへ!?」
貴族たちが悲鳴のような声を上げる。ヴェフタは濁った瞳で堂内を見渡す。
「諸卿ら。長らくの沈黙を詫びよう。
だが、私もまた見ていたのだ。誰が真にボヘミアの民を守っていたかを。
それは我ら聖職の聖蹟でもなければ、貴公ら貴族の武力でもなかった。
農夫と職人、そして少数の勇気ある騎士たちの手によるものだった。
私はそれを、神の御心と見なさねばならぬ」
右列からは、押し殺したような呻き声が漏れた。
プロクは眼鏡を押し上げながら、口の端だけで微笑んでいる。
「故に、私はここに宣言しよう」
ヴェフタは十字を切り、堂内を見渡し、はっきりと言い放つ。
「みなの求めていたプラハ四箇条、すなわち聖体拝領の両形、聖書の自由な説教、
聖職者の富の制限、公の罪への罰。これらを、教会の名において承認する」
どよめきは嵐となる。プラハ大司教が、四箇条を公に認めた!
この瞬間からフス派は寄せ集めの反乱軍ではない。
異端者ではなく、プラハ大司教座に認められた『正しき信仰の一派』となる。
続いて会議は、没収の取り消し、所領と身分の回復を満場一致で決議し、
私やアニエ、プロク、ジシュカらの名も再び『土地台帳』に記される運びとなり
正式にボヘミア貴族へと復帰することになった。
ふと隣を見ると、アニエが唇を引き結んでいた。
家伝の献上を拒み、皇帝に滅ぼされたレデチ家。
その最後の生き残りが、今日この場で正統な貴族として迎え入れられる。
彼女の碧緑の瞳が微かに潤んでいるのを、私は見なかったことにした。
衝撃はそれだけに留まらない。
「さらに――」
ヴェフタは指を伸ばし、見えぬ王城の方角を指し示す。
「聖ヴィート大聖堂およびそこに秘められた全ての聖遺物の権限を
『ボヘミア』へ移譲する。再び王がこの地に迎えられるその日まで
聖蹟はボヘミアによって司られねばならぬ」
息を呑む音が、あちこちから聞こえた。
これは単に、教会の鍵を預けるという意味ではない。
この国中の聖職者が扱う奇跡の力、その根本にかかわる権限を、
聖職者という身分から切り離して『ボヘミア』という共同体に渡すという意味だ。
ボヘミア全土から魔法の消える日が近づいている。
この時、私はそう信じていた――




