幕間ディナータイム
一四二一年、四月。
春の訪れが、ターボル南門に撒かれた血と硝煙の臭いを、
ようやく拭い去ろうとしていたその頃。
市街地の一角にある石造りの館――アネシュカ・ゼ・レデチ上級隊長の仮住まい、
その客間に二人の女性の姿があった。
「お招きいただき光栄ね、アニー。少しは落ち着いた?」
そう言って微笑むのは、ターボルの工業化を一手に牽引するカテジナ工場長。
漆黒の絹で作られたそのドレスは、腰回りが異常なほどタイトに絞り上げられ
逆に背後には複雑に畳まれた布が、まるで孔雀の尾のように
ボリュームを持たされている。肩からデコルテにかけては大胆に露出され、
そこには彼女が自分自身で磨き上げたであろう、
歯車を模した真鍮のネックレスが鈍く光っていた。
そして後ろに控える従者リドミラも、この時代の侍女に着せる
くすんだ茶や灰の粗衣ではない。こちらも漆黒の生地に、
雪のような白さの襟とエプロンが映える、妙に整った装いだった。
「――ええ、どうぞ入って。カタリーナ、それにルドミラも」
出迎えたアネシュカは、深い紺青のベルベットに銀の刺繍が施された、
重厚なウップランドを纏っていた。高く仕立てられた襟が
彼女の顎のラインを際立たせ、頭上の精緻なヴェールが、
ロウソクの光を受けて聖画の光輪のように輝いている。
アネシュカは、あまりに大胆で、奇妙ともいえる
異国風衣装の二人に一瞬だけ目を奪われたものの、
すぐにホストとしての立場を思い出し、奥の食堂へと招き入れた。
「先日の防衛戦。造兵廠のおかげで、私の隊も、ジークも、命を救われました。
これはその、個人的な感謝の印です」
アネシュカが椅子を勧めると、
リドミラが素早く主人カテジナの座る位置を整える。
テーブルの上には、既に湯気を立てる皿が並べられていた。
香ばしい油の匂い。それは、ボヘミアの食卓ではあまり馴染みのない、
けれどカテジナの鼻腔をくすぐる、強烈な郷愁の香りだった。
「これは……まさか」カテジナは、大きな瞳を丸くする。
「ええ、以前に貴女が『故郷の味が恋しい』と零していたのを聞きましたから」
アネシュカは少し照れくさそうに、皿を勧めた。
「ジークに聞いたのだけど、なんでも魚と芋を揚げた料理だとか。
芋、という野菜は見つからなかったけれど、料理人に工夫させてみたわ」
皿に盛られていたのは、黄金色に揚げられた魚の切り身と、
同じく油で揚げられた根菜の塊だった。フィッシュ・アンド・チップス。
産業革命の煤煙にまみれたマンチェスターの労働者たちの間で
急激に流行りだした、安価で、高カロリーで、明日を生きるための活力源。
「……見た目は、それっぽいけど」
カテジナはナイフを入れる。サクッという小気味よい音。
中から現れたのは鱈ではなく、丁寧に泥抜きされた鯉。
そして付け合わせのチップスは芋ではなく、蕪だった。
どちらもボヘミアの特産といえる食材。
一口、口に運ぶ。ビールで溶いた衣の苦味と、川魚特有の脂の甘み。
そして蕪の素朴な味わい。モルトビネガーの強烈な酸味はなく、
代わりにレモンを思わせる香草の風味が効いている。
「……全然違う」
カテジナはぽつりと小さく呟くが、それから破顔する。
「でも、これはこれで、すっごく美味しい!」
残念ながら、マンチェスターの屋台で油紙に包まれて売られていた、
あの下世話で塩辛い味ではなかった。
けれど、友がわざわざ用意してくれた、その温かい心遣いの味が滲みた。
カテジナはフォークを動かしながら、遥か彼方の故郷へと想いを馳せる――
運河をゆく船の音、赤レンガの塔から立ち上る真っ白な蒸気。
フロックコートの袖を少しだけ捲ってハンマーを叩いていたパパ。
そして、美しい切削音を響かせていたウィットワースおじ様の工場。
(……帰ろうと思えば、帰れるだけのお金は貯まったのよね)
ジリが払ってくれた報奨金は、
マンチェスターへの旅費を賄うに余りある額に達している。
だがカテジナは、家族を恋しくは思っても、帰国する気にはなれなかった。
(だけど、あの大英帝国に戻ったところで、女のアタシに何が成せるというのよ!)
だが、ここでは違う。ターボルでは今の年齢で、既にアーセナル工場長なのだ。
何千人もの男たちが、カテジナの図面に従い
カテジナの指示で鉄を打ち、世界を変える兵器を生み出している。
この快感は、絶対にヴィクトリア女王陛下のイングランドでは手に入らない――
「……お口に合わなくて?」
アネシュカは、カトラリーの止まったカテジナを心配そうに見つめる。
「ううん、逆。あまりの美味しさに、故郷を思い出してたわ。
父や、技術を教えてくれたおじ様たちには、手紙ぐらい出したいなと思ってさ」
カテジナは蕪のフライをかじりながら、自嘲気味に笑う。
「攫われたみたいだけど、ちゃんと生きてるし、
ボヘミアで元気にやってるわ、ってね。でも今の状況じゃ無理でしょ?」
「……ご家族も心配されているでしょうね」
アネシュカは同情を湛えた瞳を向け、回答する。
「ただ、今は皇帝との戦争中ですから……
国境を越える書状は、まず届かないと思うわ」
「やっぱりねえ……ジョージに頼んでみようかしら。
ドーバーを越えるルート持ってるかもしれないし」
カテジナの口から出た『ジョージ』の響きに、
アネシュカの長いまつ毛がぴくりと動く。
「ジークなら……まだフルムへ帰郷しているわ」
アネシュカが視線を窓の外、南の方角へと向ける。
その瞳には、戦友に対する信頼以上の、憂いを帯びた色が宿っていた。
「……妹さんに、ちゃんと会えたかしら」
「そうね……」カテジナもまた、あのいつも難しい顔をしたジリを思い浮かべる。
「せめて、あの眉間の深い皺が少しでも取れて帰ってくればいいんだけど」
彼の苦しみは分からない。それでも彼には、知的社交会の時だけ見せる、
無邪気で、どこか少年っぽいところが一番似合う気がした。
しんみりとした空気を払拭するように、カテジナはわざと明るい声を出す。
「そういえば、アニー。ずっと気になってたんだけど」
ゆっくりとワインを傾ける。
「どうしてジョージのことを『ジーク』と呼ぶの? ドイツ語の愛称よね、それ」
不意を突かれたのか、アネシュカがフォークを止める。
綺麗な小麦色の肌に、ほんのりと朱が差したように見えた。
「……それは」彼女は視線を逸らし、グラスの水滴を指でなぞる。
「私の家……レデチは、古い家ですから。
幼い頃からネメツキーに親しみがあるの。それに……」
「それに?」カテジナが先を促す。
アネシュカは意を決したように、小さな声で続ける。
「ジークは、勝利という意味でしょう?
彼がターボル軍に加わってから、私たちは負けを知らないわ。
絶望的だったスドミェルジュでも、ヴィートコフでも、ヴィシェフラドでも。
そしてこの前の防衛戦だって。彼はいつだって勝利をもたらしてくれる」
胸元の十字架にそっと触れる。
それは、レデチで代々と受け継がれてきたペンダントクロスだった。
「私にとって、彼は勝利そのものなの。没落して、後見人まで亡くした私に
再び戦う力を、生きる意味を与えてくれた……ジークは、私の、希望だから」
いつもの凛としたアネシュカが発したとは思えない、か細い声。
その熱っぽい吐息混じりの告白に、
カテジナは思わずニヤリと口元を歪めてしまう。
(こんな美人に、こんなにも想われてるなんて。ジョージも隅に置けないわね)
なぜか、カテジナの大きな胸に小さな痛みがチクリと刺すが、
気づかないフリをして続ける。
「――なるほどねえ。
愛称とかじゃなくて、もっとこう、重たくて情熱的な感じだったのね」
「なっ、か、からかわないで下さい!」
アネシュカは、もう頬だけでなく、耳まで真っ赤に染め上げている。
軍議や戦場では決して見せることのない、年相応の乙女の姿がそこにはあった。
「はいはい、ごちそうさま。
フィッシュ・アンド・チップス、とっても美味しかったわ」
カテジナは意地悪く笑いながら席を立つと、
真っ赤になって俯くアネシュカに素早く背を向ける。
そして、控えていた従者に目を向ける。
「リドミラ、いまの料理の作り方、あとで厨房で聞いておいて。
ジョージが帰ってきたら、ご馳走しなきゃ。
眉間の皺が伸びるくらい、たっぷりビネガーかけてね」
カテジナは窓の外を見る。故郷はいまだ遠い。
だがここには、自分の手で作り上げた最高の工場と、
母国よりも美味しいイングランド料理と、
少しだけ不器用で真っ直ぐな友と、
そして一緒に世界をひっくり返すジョージがいる。
ナスミスの娘に戻るのは、その後でも構わない――




