第33話:最初で最後
「――全員下がれッ! 離れろッ!」プロクの絶叫が響く。
オルドジフを中心とした半径五メートルの空間が、陽炎のように揺らめいている。
不用意に近づいた兵士たちが、見えない壁に触れたかのように
一瞬で火だるまとなり、肉も革も炭化し、鎧だけが歪んで崩れた。
「バ、バカな……!? ターボルには霊脈が通っていないはずだぞ!
個人の魔力だけで、これほどの威力を維持できるはずがない!」
プロクは眼鏡を押し上げようとしたが、その指先は小刻みに震えていた。
「――暴走か」私は熱波に顔をしかめながら分析する。
あれは通常の聖蹟シーケンスではない。
自分の生命、魂そのものを薪にして焚べているのだろう。
狂信は、時としてこのような奇跡を引き起こす。
「最低でも一五三八℃――」私は予測する。鉄の融点。
鎧が溶け出したところを見ると、奴の五メートル以内は製鉄所の炉心と同じだ。
入れば即座に溶解する。無敵の防御にして、最強の攻撃。
「重装歩兵は武器を捨て撤退せよ! 無駄死にするぞ!」
ジシュカが叫ぶ。
「ピスタラ隊とクロスボウ隊は遠巻きにして撃ち続けろ!
奴の魔力が尽きるまで削れ!」
アニエたちが一斉射撃を加える。だが、弾丸は極熱の壁に阻まれる。
鉛の弾は空中で溶け、蒸発して霧散していく。
鏃もまた、オルドジフへ届く前に飴のように曲がり、弾かれる。
「ハハハハッ! 無駄な足掻きよ! 異端の攻撃なぞ届くものか!
余は神の剣、神の怒り。何人たりとも穢すことなどできん!」
己の馬すら焼き殺し、オルドジフは狂乱のまま走り出す。
奴が通るだけで、逃げ遅れた兵士たちが次々に発火し、断末魔を上げる。
もはや人間ではない。歩く溶鉱炉だ。
「くそッ、近づけん!どうすればいいんだ!」
バルトシュが歯噛みする。
遠距離攻撃は無効化。近距離攻撃は自殺行為。手詰まりか。
「――瞬時に蒸発しないところを見ると二八六一℃以下。
生身で十メートルほど近づけられるのなら、
どれだけ高く見積もっても一六◯◯℃も無い!」
私は背負っていた革張りのケースから、ライフル・ピスタラを取り出す。
そして小箱の中に収まっている異常な重さの弾丸
――タングステン焼結コアAP弾
タングステン自体の融点は三四二二℃だが、
重合金の強度限界は、凡そ一四◯◯℃から一五◯◯℃程度まで落ちる。
しかし超音速の飛翔体なら、通過中に限界温度へ達することはない。
「タングステンなら奴を殺せる」私は瞬時にそう判断する。
ただし、弾丸は一発しかない。チャンスは一度だけ――
「ライフリングが実装されているとはいえ
火薬が暴発しないギリギリまで接近して、正中を狙うしかない」
難易度が高すぎる――だがやるしかない。
「――奴の背後だな」
少しでも成功率を上げようと、私はゆっくり前へ歩く。
奴の意識は、ターボル軍左翼に向いていた。
(アニエ! 頼む! 奴の気を引いてくれ!)
私の向かい側正面で指揮を取るアニエに、そう目線を送る。
彼女は私の視線に気づき、そして手元にある異様に長いピスタラを見て
察したようだ。碧緑の目を細めて、しっかりと頷き返す。
アニエは直卒のピスタラ隊を率いて、オルドジフの正面へと出る。
「聖杯を恐れるキリストの敵よ! 自分の城すら治められぬ貴族の面汚しめ!
己が姿を見よ! 貴様こそ異形の悪魔ではないか!」
彼女は罵倒しながら、一斉射撃を浴びせ続ける。
「小娘がァッ!貴様から聖なる炎で罰してやる!」
オルドジフの憎悪がアニエへ向く。熱の奔流が前方へと集中する。
今だ!
私は前にいる兵士たちを押しのけて、熱波に焼かれる泥の上を這いずり、
オルドジフの背へと接近する。皮膚がチリチリと痛む。空気が熱い。
距離二〇メートル。まだ遠い。
距離一五メートル。眉毛が焦げる匂いがする。
距離一〇メートル。ここが限界だ。これ以上は火薬が暴発する。
「ぐっ、熱い……ッ」顔の皮膚が引きつる。髪が縮れる。
恐怖が理性を塗りつぶそうとする。熱から逃れろと本能が叫ぶ。
だが、その熱さの中で、私は見る。
燃え盛る梁の下で、私に手を伸ばすエリシュカの姿を。
『お兄様ッ!熱い、熱いよぉッ!!』
彼女の感じた熱さは、こんなものではなかったはずだ。
彼女の絶望は、こんなものではなかったはずだ。私は突き進む。
(今、助けるぞ。エリ)
私は立ち上がった。ここしかないッ。チャンスはこの一度だけ!
ライフルを構える。手袋が焦げ始め、革が皮膚に張り付く。
オルドジフの背を捉える。ライフリングが刻まれた銃身。
タングステンの弾芯。食らうがいい。前世の科学と今世の執念が生み出した――
神殺しの一撃
「オルドジフッ!!」
私は思わず叫んでいた。オルドジフが驚愕で振り返る。
「なっ、貴様は!?」
その瞬間、私の人差し指が引き金を絞った。
ズダァァァァァンッ!!
爆音。肩が外れるほどの反動。
銃口から飛び出したのは、音速を超える確実な死。
推定一六◯◯℃の熱の壁を、タングステンAP弾は一瞬で突き抜ける。
鉛のジャケットは溶け落ちるが、剥き出しになった硬質な弾芯だけは、
熱に屈することなく直進する。
ドシュッ!!
鈍く、重い音がした。
オルドジフの左胸、心臓の位置で、『五弁の薔薇』が弾け飛ぶ。
「が……、あ……?」
熱が、一瞬で霧散する。
オルドジフの身体は、ゆっくりと、スローモーションのように後ろへと倒れる。
バシャッ。泥と血溜まりの中へと沈めたその身体は、もう二度と動くことはない。
静寂が、戦場を支配した。
私はふらつく足で、オルドジフへ歩み寄る。
仰向けになった彼の瞳は、虚空を見つめたまま光を失っていた。
胸に大穴が開き、心臓は跡形もなく消し飛んでいる。
『神の剣』と豪語した男の、あっけない最期。
「……ハ、ハハ……」乾いた笑いが漏れる。
終わった。父上。兄上たち。エリシュカ。天から見ているか。
奴を地獄へ送り返してやったぞ――
「ジーク!」
アニエが駆け寄ってくる。プロクも、ジシュカも。
ルカたちはみんな涙を流している。
声が遠く聞こえる。私の目からも、涙が溢れ出していた。
飛来するは、まず歓喜、次に安堵、最後に喪失――
復讐は終わった。
だが、失われたものは帰ってこない。家族の温もり、エリシュカの笑顔。
ただ、胸の奥底で淀み続けていた黒い澱が、静かに消えていくのを感じた。
「――終わったよ、エリシュカ」
私は空を見上げた。
ボヘミアの春の空は、どこまでも青く、そして残酷なほどに澄み渡っていた。




