第31話:跛行の狼
ターボル南方は、文字通りの泥沼になっていた。足首まで埋まる粘土質の土壌。
工匠隊のルカーシュ補佐たちは、泥まみれになりながら拒馬を設置していく。
「急げ!馬防柵は二重に組め!敵は騎兵だ、足さえ止めればただの的だぞ!」
私は指示を飛ばす。
「工匠頭、新旧ワゴンの配置はいかがいたしましょう」
ルカが余所行き用の口調と表情で、新たな指示を待つ。
「旧型を真正面に集め、新型は左右に囲むように配置してくれ」
「よろしいので? 重装騎兵の中央突破を許すことにもなりかねませんが」
ペトルが横から口を挟む。
「将軍からの指示だ。正面は敵に食いつかせる囮にする。
新型ワゴンが足らないからな」
「ああ、なるほど」
このやりとりだけで、ジシュカが何をしたいのか察したらしい。
彼らもヴィートコフから転戦を重ねてきている猛者たちだ。さすがに理解が早い。
ワゴンの配置を終えると、車輪を手早く杭で固定していく。
「工匠頭、これで最後です!」
「ご苦労。本作戦では、私は右翼の指揮を取るように言われている。
お前たちはここに残って――」その言葉を遮るように、
「いえ、坊っちゃん。我らは従者ですよ? ご一緒いたします」
有無を言わせない迫力で、かつての厩舎番は進言する。
「――わかった。私の背中を守れるのは、お前たちだけだな。
では、フルムの無念を晴らしにいくとしようか」
ルカ、ペトル、クバは頷き、私たちは無言でピスタラを空へ掲げる。
――そして翌日
南の地平線が黒く染まった。地鳴りのような蹄の音と共に現れたのは、
もはや軍隊としての規律を保った集団ではなかった。
泥と煤にまみれ、ギラギラと飢えた狼のような目をした凡そ五千の兵。
彼らにとってこれは戦争ではない。生き残るための狩りなのだ。
後背のクルムロフには死と汚物しかない。
目の前のターボルを食らい尽くさねば、明日の命はない。
その中央で、ひときわ巨大な軍馬に跨り、豪奢な甲冑を身にまとった男がいた。
オルドジフ二世・フォン・ロジュンベルク。
金髪が風に靡き、碧眼は血走っている。
かつて『南ボヘミアの貴公子』と謳われた美貌は見る影もなく、
今や飢えた狼のそれだった。
「――見よ!肥え太った豚どもの巣窟を!」
オルドジフが剣を突き上げ、絶叫する。
その声は枯れ、狂気を孕んでいるが、不思議と戦場全体に響き渡った。
「あの異端の荷車を! あそこには主が約束されたパンがある! ワインがある!
奴らは神の食卓を汚す豚どもだ。豚を屠り、その肉を食らうことこそ聖餐である!
奪い尽くし、食らい尽くせ! 満腹こそが神の祝福であるッ」
「アーメン!」「主よ、今日の糧をお与えください……!」
轟くのは勇ましい鬨の声ではない。病と飢えと信仰が混濁したうめき声だった。
彼らは震える手で十字を切りながら、口の端からは涎を垂らしている。
ウオオオオオオオオッ!!
狂った死兵。もはや失うものなど何も無い、底知れぬ脅威を肌で感じる。
「――来るぞ!構えろッ!」ジシュカの号令一下、
ヴァーゲンブルクの隙間から無数の銃口とクロスボウが突き出される。
だが、オルドジフは愚かではなかった。
狂気に蝕まれてなお、その戦術眼は錆びついていない。
「異端の荷車など恐れるな!弱点は継ぎ目だ!
重装騎兵は中央突破せよ!歩兵は側面から回り込め!奴らの弾込めの隙を突け!」
的確な指揮だ。ワゴンの連結部、特に旧式ワゴンの鎖は騎兵の質量衝撃に弱い。
「放てッ!」一斉射撃。轟音と共に先頭の騎兵たちが崩れ落ちる。だが、
後続は死体を踏み越えて突っ込んでくる。止まらない。恐怖を感じていないのだ。
ドガァァァンッ!!
凄まじい衝撃音が響き、ワゴンが激しく揺れる。
新型ワゴンに突っ込んだ重装騎兵のランスチャージを受け止めた。
鋼鉄の装甲が火花を散らす。
「耐えたぞ!突き崩せ!」
ジシュカが叫び、隙間からパルチザンを突き出して落馬した騎士を串刺しにする。
防衛線は保たれた――そう思った瞬間だった。
「――領内に蔓延る異端どもを焼き尽くせ。聖蹟ヴィテク」
オルドジフが、低く、呪詛のように呟いた。
その瞬間、ターボル兵たちの身体が何の前触れもなく発火する。
「ギャアアアアアッ!?」
「あ、熱ッ!なんだ!?火矢か!?」
「違う!体の中から……熱いッ、助け――!」
ボッ、ボッ、ボッ!次々と人間が松明のように燃え上がる。
火種などない。油を被ったわけでもない。
ただ、オルドジフに近い異端者だけが自然発火しているのだ。
オルドジフは無表情のまま近臣を引き連れて、
燃え盛るターボル兵たちの中を悠然と突き進んでいく。
奴の周りだけ、不可視の熱源で一方的に攻撃されている。
「ひ、ひぃッ!悪魔だ!」
「近づくな!近づくと燃やされるぞ!」
前線が混沌に陥る。物理的な衝撃なら耐えられる。
だが、この不可解な現象は無理だ。未知への恐怖が、鉄の規律を蝕んでいく。
「下がれ!距離を取れ!」隊長らが叫ぶが遅い。
炎に包まれた味方がのたうち回り、それが真正面の旧型ワゴンに火を付ける。
穴を見つけたロジュンベルク兵が雪崩れ込んでくる。
「神の名において、その麦袋をよこせェッ!」
先頭の兵士が、ロザリオを握りしめた拳でターボルの兵を殴り倒す。
返り血を聖水のように浴びながら、
彼は祈るように、そして獣のように、荷台へと歯を立てた。
「感謝します、感謝します……ッ!」
略奪の狂騒は、奇妙なほど熱心な祈りの場へと変貌していた。
「――正面が押されています!第二防衛線まで撤退を!」
プロクの悲鳴にも近い具申。だが、ジシュカは動じない。
隻眼は戦場の混沌を見つめ、口元を歪めた。
「ようやく食いついたな。飢えた狼め」




