第29話:灰から薔薇を咲かせる唯一の方法
かつて南ボヘミアの真珠と謳われた麗しきクルムロフ城下は、
春の到来を喜ぶ民の姿など何処にもなく
現世に顕現した地獄の様相を呈していた。
事の始まりは、冬の終わりだった。
城内の兵たちが、次々と腹を押さえて転げ回っていった。
当初は、降誕祭で腐った肉でも食べたのだろうと皆が笑っていた。
だがそれは、瞬く間に城外へも広がっていく。
老若男女の全てが、上と下から汚物を撒き散らし、眼窩を窪ませ、
青白い顔つきで、体力の無い者たちから死んでいった。
熱はない。ただ激しい嘔吐と下痢、そして耐え難い腹痛。
赤痢にも似た症状。しかし死者の桁が違う。
何度も欧州を滅ぼしかけた黒死病を思わせるが
それ特有の腫れも真っ赤な喀血も見当たらない。
城付きの医師たちは「悪い風が入り込んだ」だの
「星の並びが悪い」だの、能書きを垂れるばかりで
瀉血を行っても聖水を飲ませても、一向に症状は回復しない。
教区の司祭助祭たちによる祈祷や悪魔祓いも、まるで効果がない。
そればかりか――
「――呪いじゃあッ! これは神罰じゃあッ!」
広場では、痩せこけた司祭が十字架を掲げて絶叫していた。
「見よ! このクルムロフは神に見放された!
ロジュンベルク卿が浄財を横領し、私利私欲のために戦を長引かせた報いだ!
聖なる地が穢されたのじゃ!」
かつては領主の威光を褒め称えていた聖職者たちが、
今では率先して領主を糾弾している。
連座で財産没収を恐れた彼らは、自分自身の保身のために
『ロジュンベルクは呪われている』という流言飛語を事実に変えようとしていた。
「逃げろ! ここにいては全員、神の怒りに触れる!
トレボニまで逃れれば助かるぞ!」また別の誰かが叫ぶ。
恐怖は伝播する。
一人、また一人と、家財道具をまとめた領民たちが城門へと殺到する。
もはや衛兵の制止など、誰も聞き届けやしない。
南ボヘミアの経済を支えてきた民草が、雪崩を打って流出していく。
城の最上階に、この混乱をただただ見下ろすことしかできない男がいた。
オルドジフ二世・フォン・ロジュンベルク。
五弁の薔薇を紋章に抱く南ボヘミアの王。
金髪碧眼の美貌は、母方のドイツ系貴族譲りだが、
今の彼に『跛行の狼』と呼ばれていた頃の覇気は見えない。
「ええいッ、奴らを止めろ!逃げる者は即刻、農奴逃亡罪で斬り捨てろ!」
オルドジフは髪をかきむしり、ひとり喚く。
――神罰だと? この私が? 皇帝陛下の忠実なる臣下であり、
カトリックの守護者たる、このロジュンベルク家が呪われているだと。
ふざけるな。ありえん。異端のフス派ならいざしらず、
いったいなぜ神は敬虔な私にこのような試練をお与えになるのだ――
「閣下、『オゾラの竜騎士』殿がお見えです。――武装したままで」
家令の怯えきった報告と同時に、重厚な扉が蹴り破られた。
入ってきたのは、皇帝の右腕にしてハンガリー傭兵団を率いる
猛将フィリッポ・スコラーリ――通称ピッポ・スパノだった。
歴戦のイタリア人傭兵隊長は、一礼もせず、冷ややかな視線を投げつける。
「ロジュンベルク卿。今週分の給金が支払われていないが?」
「――手続きが遅れているだけだ、スコラーリ将軍。
インホフ商会の手違いでな。数日待ってくれれば――」
スコラーリは鼻を鳴らし、腰の剣に手を置いた。
「――フン、噂は本当のようだな。金が無いのなら、ここで契約は終了だ」
「待て! 貴公は皇帝陛下から派遣された身であろう!
余を見捨てることは、陛下への反逆となるぞ!」
オルドジフの必死の抗弁に、スコラーリは肩をすくめる。
「勘違いするなよ、小僧。
陛下からお預かりしたこの軍勢を、飢えで崩壊させるわけにはいかないのでな。
金も払わず、フスの狂信者どもと戦えとは命令できん」
そう言って、スコラーリは踵を返す。
「安心しろ。支払いが確認されるまで、ハンガリー軍は何もしない。何もな」
軍靴を荒らげてまた一人、許可もなく男が入室してくる。バイエルン傭兵団長だ。
だがその表情には、南ボヘミアの支配者に対する敬意など微塵もない。
「ロジュンベルク卿。話が違うぞ」
雇い状と思われる羊皮紙を床に投げ、侮蔑混じりに吐き捨てる。
「ま、待て! 金ならあるのだ! 近いうちに皇帝陛下から――」
「近いうちに、だと? 笑わせるな。俺たちバイエルン傭兵団も暇をもらうぞ。
ただし――」
団長はニヤリと卑しい笑みを浮かべ、腰の剣を撫でた。
「未払いの給金は、近隣の村々から現物で徴収させてもらう。
なあに、村人は逃げ出して空き家だらけだ。手荒にヤッても文句は出まいよ」
「き、貴様らッ!余の領地で略奪を働く気かッ!」
「文句があるなら、今ここにフロリン金貨を積み上げなッ!」
オルドジフは言葉に詰まる。
金、金、金。どいつもこいつも。ああそうだ、金だ。
ロジュンベルクの力の源泉。銀山と製塩所から湧き出る無限の富。
それがあるからこそ、皇帝も教皇も私を重用し、屈強な傭兵たちが集まってきた。
だが、その黄金の泉から、今は何も汲み出せない。
(インホフ……あの裏切り者の商人風情が……ッ!)
ニュルンベルクの大商人による突然の即時返済要求。それに呼応するように、
領内の教会や修道院が、預けていた資産の返還を求めて城へと押し寄せてきた。
「返さないのなら銀山を差し押さえる」「教皇庁の命令だ」「破産する前に返せ」
などと訳の分からぬことを喚き散らし、
金庫にあった金貨はおろか聖遺物や銀食器、ありとあらゆる物を奪っていった。
相手は、外国の御用商人に、カトリックの高位聖職者たちだ。
殺して黙らせることはできない――
なすがままに返済した結果、今度は傭兵たちに支払う給金が枯渇した――
疫病さえ流行らなければ夏まで保つはずだったのに――
バイエルン傭兵団長は嘲笑を残し、執務室から出て行った。
遠からず、クルムロフ近郊の村々は炎に包まれるだろう。
守るべき領民を、雇った傭兵が襲う。領主としての威信は、完全に地に堕ちる――
「――オルドジフ二世よ。無様なものだな」
凍りついた部屋に、おごそかで、しかし絶対的な侮蔑を含んだ声が響く。
オルドジフが弾かれたように振り返ると、
そこには豪奢な毛皮をまとった初老の貴族が立っていた。
チェニェク・ゼ・ヴァルテンベルカ伯。
ボヘミア王国最高城伯にして、オルドジフの後見人を務める大貴族だ。
「おおっ、チェニェク伯父上! よくぞ! よくぞ来てくださいました!
どうかご助力を! 異端の呪いと傭兵の反乱で、我が領は危機に瀕しております。
伯父上の軍勢で奴らを――」
縋るように歩み寄るオルドジフを、チェニェクは手に持った鹿革の手袋で制する。
その目は、汚物を見るように冷ややかだった。
「勘違いするな。兵を出しに来たのではない。縁を切りに来たのだ」
「……は?」オルドジフの思考が停止する。
「儂は何度も注意したはずだぞ。
お主には才がある、だがまだ若い、学びが足りぬと。
ロジュンベルクの領地は広いのだ。当主が好き嫌いを出すなと。
たとえ考えが合わずとも、領主たちの言い分にも耳を傾けよと。
だからフルムの焼き討ちにも反対した。ローマに傾倒し、
外国人ばかりと付き合いを深め、身内を蔑ろにした結果がこれだ」
チェニェクは可愛い甥を、慈しむ目で見つめながら諭す。
まるで、これが今生の別れであるかのように。
「お主は『カトリックの守護』を謳いながら、身内の忠義を食い物にしてきた。
反発しておるのはスミル卿だけではないぞ。
メンハートも、そう、もはやヴィテク家門はお主に愛想を尽かしておる」
「な、なにを……彼らは余の盟友で……」
「盟友? 搾取先の間違いであろうて――もうこれ以上、
我がヴァルテンベルカ家を巻き込んでくれるな。人も金も出すことはできん」
チェニェクは背を向ける。
それは、ロジュンベルク家の孤立を決定づける死刑宣告だった。
「待ってください! 伯父上!
余を見捨てるのですか!? 我らは親族ではありませんか!」
「親族だからこそだ。今こそ当主の力量を見せつける時ぞ――
もっとも、燃え尽きた灰から薔薇が咲けば、の話だがな」
ゆっくりと扉が閉まる。
広い謁見の間に、オルドジフはたった一人取り残されていた。
寒い。暖炉には火が入っているはずなのに、骨の髄まで凍えるようだ。
領民は逃げた。頼りにしていた親族も、幼き頃からの親友も去った。
金はなく、傭兵は略奪者に変貌した。
「――なぜだ」オルドジフは、震える手で自身の顔を覆う。
「余が何をしたと言うのだ……? ロジュンベルクだぞ。選ばれし大貴族だぞ。
異端の豚どもを焼き殺し、神の正義を真摯に行使してきたというのに」
このロジュンベルクの地で、フルムが異端の錬金術に明け暮れていると聞き、
罰を与えたではないか!
異端に染まったフルム――その女子供まで綺麗さっぱりに焼いて、
領地を清めたというのに! 神の意向に従い、害虫を駆除したのに!
なぜ神は余を試すのか。なぜこのような苦難を与えるのか――
ガキッ。歯が欠けるほどの音を立てて噛みしめる。視界が赤く染まっていく。
屈辱と絶望が臨界点を超えて、どす黒い狂気へと変換されていく。
「ああ、そうか――まだ、足りぬ、というのだな」
オルドジフは、ふらふらと主座へ歩み寄り、
そこに立てかけてあった剣を手に取る。
そして、彼の中だけで成立する、歪んだ論理が構築されていく。
領地が呪われたのは、信心が足りなかったからだ。
味方が去ったのは、彼らが神の試練に耐えられぬ臆病者だったからだ。
ならば、余が証明せねば。
たとえこの身一つになろうとも、異端の血を以て神への供物とすれば、
必ずや奇跡は起きる。あのヴィシェフラドの司教どものように負けはせぬ。
余には、ロジュンベルク家には、代々伝わる『力』があるのだから。
「ええ、ええ、そうですとも。神よ、ご照覧あれ」
オルドジフは誰もいない虚空に向かって、恍惚とした笑みを浮かべた。
「もはや術数なぞ無用。正々堂々と。人心を取り戻すには、勝利しかない。
圧倒的な勝利だけが、正義を証明する」剣を引き抜き、切っ先を天に向ける。
その瞳には、もはや正常な理性を宿していなかった。
あるのは、破滅に向かってひた走る、狂信的な殺意のみ。
麾下の将兵を呼びつける。入室してきたのは、
疫病でやつれた者、あるいは略奪に走った配下を抑えきれず負傷している者、
かつての誇り高き騎士たちであった。
「全軍、出撃だ。動ける者、一人残さず連れてこい。
病人も、農具しか持たぬ貧民も構わぬ」
南ボヘミアに残された最後の兵力を、すり潰す覚悟で。
「目指すは北。異端どもの巣窟ターボル。
奴らを皆殺しにして、その血で薔薇を赤く染め直す……!」
薔薇の落日が迫っていた。だがその最後の光は、断末魔のように赤黒く、
そして焼き尽くすような狂気を孕んで、燃え上がろうとしていた。




