第28話:坊つちやん
南ボヘミアの夜は、吐く息すら凍りつくほどの冷気に支配されていた。
星明かりすら雪雲に遮られた闇の中、ターボル軍の小さな一隊が
陣営から密かに離れていく。脱走兵ではない。彼らは工匠隊に属しているが、
普請よりも、私の身辺警護を務めることの方が多い従者たちだ。
足音は雪に吸われ、衣擦れの音だけが微かに響く。
「――ここまでです、坊っちゃん」
先頭を歩いていた大柄な男が足を止め、振り返る。彼の名はルカーシュ。
フルム城で厩舎番という重職を担っていた、父の信任厚き配下だった。
あの惨劇の日、務めで町へ降りていたために生き延びた四名のうちの一人であり
今は私の下で工匠頭補佐を務めてもらっている。
坊っちゃん呼びはもう止めろと言っているのに…
彼の中ではまだ、私は守るべき小さな三男坊のままらしい。
「この作戦の発案は私だ。お前たちだけにやらせるつもりは――」
「なりません」私に命じられる前に、ルカは言葉を遮り、強く首を横に振った。
その目は暴れ馬を御していた当時のような、頑固で真剣な光を宿している。
「坊っちゃんは、フルムに残された最後の希望です。
ロジュンベルクを倒し、フルムを再興して頂かなければならないのです。
戦場へ出ることは認められても、危険な潜入任務はさせられません」
「私にも土地勘はある!」
「足手まといです」横から口を挟んだのは、元庭師の若者だった。
名はペトル。普段は工匠隊の一隊を率いてもらっている。
彼は申し訳なさそうに、しかし断固として続ける。
「俺たちは松明がなくても、闇夜に紛れて走れます。壁も登れます。
ですがジリ様は――学者だ。戦場での指揮は一流でも、
泥棒のような真似事には向いておられません」
――私は言葉に詰まる。悔しいが、彼らの言う通りだ。
今の自分に、雪の積もった山道を彼らと同じ速度で踏破する体力は無いだろう。
無理について行けば、彼らの退路を断つことにもなりかねない。
そして何より、彼らが私を守ろうとしていることが伝わる。
身体だけではない。心も。そして名誉も。
「――分かった。だが、少しでも危険があれば逃げろ。
任務よりもお前たちの命が最優先だ。
私たちはこんなところで、まだ死ねないんだ。そうだろう?」
彼らを見渡すが、頷く者はいない――
「ルカ、約束しろ! お前はフルムを再興しろと私に言ったな?
領民がいなければ、再興なんてできないんだぞ!」
「――分かりましたよ、坊っちゃん。
まったく。頑固なところは御父上にそっくりですな。
見張りに見つかったら、迷わず逃げます。お前たち、いいな?」
諦めたように、目の前の影すべてが頷く。
それを確認してから、私は厳重に封蝋された革袋をいくつも手渡していく。
中身は、カテジナが下働きたちに煙突掃除させて集めさせた『ヒ素』だ。
「いいか、よく聞いてくれ。これはただの毒ではない。悪魔そのものだ」
私は革袋の一つを掲げる。
その重みは羽のように軽いが、意味する死の重さは計り知れない。
「致死量は、わずか小麦一粒ほどだ。
この革袋一つで百人以上を確実に病気に、その半分以上を死へと追いやる」
四人の男たちが、ゴクリと唾を飲み込む音が聞こえた。
彼らは剣槍は扱い慣れているが、これほど小さな『死』を扱ったことはない。
「散布する時は、絶対に風上に立つな。口と鼻を厚い布で覆え。
もし少しでも粉を吸い込んだと思ったら、
すぐに喉に指を突っ込んで、全て吐き出せ。いいな?」
「はっ」
「それと仕事が終わったら、必ず全身を洗い流せ。
手だけじゃない、頭から足の爪先までだ。服も叩いて雪で洗え。
どれだけ寒くても、どれだけ雪が降っていてもだ。
体に残っていれば、お前たちが死ぬことになる」
私の真剣な眼差しに、ルカたちは深く頷き
いくつもの革袋を大切そうに腰袋へと仕舞った。
「承知いたしました――死骸や糞尿は、今回は使わぬので?」
「ああ。効果が出るのに時間がかかるし、臭いですぐ分かるからな。
だが、これなら気づかれにくい。ただ静かに、倒れていく」
「へっ、上等ですな」ペトルはニヤリと笑い、腰の剣を叩いた。
「火あぶりにされるより、よっぽど慈悲深い死だ。感謝して欲しいもんですな」
「――すまないな。
ヒ素は信頼できる、限られた者にしか存在を明かしたくないんだ」
「では、行って参りますよ、坊っちゃん」
四人は一斉に頭を下げ、闇へと溶けていった。
私はその背中が見えなくなるまで、雪の中で立ち尽くしていた。
――そして、深夜のクルムロフ城下町
南ボヘミアの支配者ロジュンベルクの本拠地だけあって、その警備は厳重だった。
城壁には松明が焚かれ、巡回兵が定期的に行き交っている。
だが、ルカたちには事前に教えられた『目』があった。
(――情報通りだ。三つ目の見張り台、交代の位置に死角がある)
スミル様からもたらされた内部情報。
巡回ルートの死角、交代時間の空白、そして井戸へと続く裏道。
それら全てが正確だった。
彼らは猫のように音もなく城壁を越え、城下町へと侵入する。
深夜の町は静まり返り、家々の煙突から細い煙が昇っているだけだ。
「手分けするぞ。俺は貯水槽へ行く。ペトルたちは東西の共同井戸だ。
クバ、お前は沈殿池に撒いたら、先に狩猟小屋へ戻って
たっぷり湯を沸かしておいてくれ。灯りは外に漏らすなよ」
ルカの小声に、三人がそれぞれ頷いて散る。
ルカは影から影へと移動し、兵舎の貯水槽へとたどり着く。
布で顔を二重に覆い、かじかむ手で革袋の封を切る。
中に入ってるのは、雪と見紛うような白い粉。
(すまねえな、あんたらに恨みはねえが――)
脳裏に、何の罪もない兵士や下働きの姿がよぎる。
彼らだけではない。多くの無関係な者たちが、毒を口に入れるだろう。
だが次の瞬間、彼の記憶はあの日へと引き戻される。
丘の上の燃え盛るフルム城。必死に駆け上がる、されど全く進まない自分の足。
背中から切り捨てられていた妻と子。瓦礫の下で黒焦げになっていた同輩たち。
いくつもの矢に貫かれている主人。折れた人形のように横たわるエリシュカ様。
その小さな骸を抱きかかえ、喉を裂き、血を吐きながら、
もはや言葉にならない、獣のような慟哭を上げるジリ様――
あの時、俺の代わりに全てを叫び出してくれたのは、坊っちゃんだった。
貴様らは、俺たちの全てを奪い、坊っちゃんの心まで殺した――
(――いいや、恨みはある。大ありだ)
ルカの目に、暗い復讐の炎が戻る。
貴様らは、ロジュンベルクという悪魔を主人に戴いている。
その庇護の下で、暖炉にあたり、温かいスープを飲んでいる。
我々から奪った命の上で、平穏を貪っている。
ならば、貴様らもその報いを受けねばならん。
「せめて苦しまず逝きな――燃やされないだけ、マシと思え」
ルカはいくつもの革袋を傾け、サラサラと暗い水面へと流し込む。
それは、誰に知られることなく広がる、白き災厄――
ひと仕事終えた彼らは、町を離れ、凍てつく森の中へと戻った。
だが、まだ任務は終わってない。
ジリの言いつけ通り、彼らはクバの待つ狩猟小屋へと向かう。
「う、うぅ……寒みぃ……!」
ペトルが、ガタガタと歯を鳴らしながら服を脱ぐ。
急がなければ、猛毒よりも先に凍死する。
「泣き言を言うな!坊っちゃんの命令だ!」
ルカもまた、悲鳴を上げたくなる体を叱咤し、用意された湯を何度も被る。
彼らは必死に体を擦り、清めた。
それはターボルに持ち帰ってはならない猛毒を洗い流すためであり、
同時に、罪を洗い流すための儀式のようでもあった。
「――なぁ、補佐」
かつてフルム城で下働きをしていた少年クバが、青ざめた唇で問いかける。
「俺たちゃ地獄行きッスかね」
「まぁそうだろうな」
ルカは濡れた髪をかき上げ、窓の外を眺めた。雪がちらつき始めている。
「だがな、坊っちゃん一人で行かせられねえだろ。
天国にいる嫁や子供たちに怒鳴られちまう」
「――違いないッスね」男たちは笑い合った。
その笑顔は、凍えるような寒さの中で、どこか誇らしげだった。
――そう、俺たちはみんな知っている。
フルムは良い領地、フルム家は情け深い人々だった。
良き主人に慈しまれ、妻と出会い、子が産まれた。あの穏やかな日々。
それが、ある日突然、一方的に踏み躙られた。
こんな理不尽、許せるか? 許せるわけが無い!
すべて忘れて新しい土地で暮らせ? ふざけるな!
俺たちはフルムの風に吹かれて生きてきた、フルムの民だ!
「よし、流し終わったら暖を取るぞ。風邪ひいたら、坊っちゃんの役に立てねえ」
「へいッ!」
男たちは震える体で服を着込み、動ける程度に温めてから、
再び闇の中へと消えていく――




