第20話:リグレット
これは、全ての始まりであり、全てが終わった日の記憶だ。
一四一九年、秋。まだ世界が白く凍てつく前のこと。
当時の私は、プラハ大学の学寮で、
羊皮紙とインクの匂いに包まれて幸福な日々を過ごしていた。
転生者の私にとって、この世界に存在する魔法――聖蹟は、
知的好奇心を無限に擽る未知の物理現象に他ならなかった。
「警告? ふぅ、少々しつこいな――」
私は寮長からの手紙を、暖炉にくべてしまった。
「まったく教会も暇なことだ。たかが一学生の論文に目くじらを立てるなんて」
いま思えば、当時の私には、前世である現代日本の宗教観が深く根付いていた。
宗教とは冠婚葬祭のための伝統行事。あるいは心の安らぎを得るための精神修養。
『カトリック』といえば、穏やかで博愛精神に満ちた善良な人々。
そんな頭お花畑全開な認識が、私の判断を狂わせていた。
中世における宗教とは、王権をも凌駕する絶対的な法であり、
逆らう者を物理的に抹殺する巨大な暴力装置であるという現実を、
頭では理解していても、私はどこか他人事のように感じていたのだ。
この世界に転生して、もう十九年が経過していたというのにも関わらず――
だから、カトリックとフス派の諍いにもまるで興味が持てなかった。
あれは政治闘争だ。象牙の塔に引きこもり、真理を探究する学問の途には
何ら関係のないことだ。そう、高を括っていた。だが、破滅は唐突に訪れた。
「――残念だが、ジリ・ゼ・フルム。君を庇い立てすることは、もはやできん」
呼び出された私は、マルティヌス学長から、そう苦渋の決断を聞かされた。
彼は穏健派に属していて、優秀な学生を愛していた。
だがそれ以上に、プラハ大学という組織を守らねばならない立場だった。
「大司教区からの最終通告だ。
『聖蹟の神秘を暴こうとする冒涜者を排除せよ。
さもなくば大学全体の異端審問を行う』とね」
「――まさか!私の研究一つで大学全体を?」
「脅しではないだろうな。君も知っていよう。
陛下が崩御され、情勢は緊迫している。教会は生贄を欲しているのだ。
我々はかつてから、目の敵にされているからな」
マルティヌス学長は、退学証明書にサインし、私に手渡した。
「すまないな、ジリ君。君のような才気あふれる若者を、守ってやれなくて――」
「――いえ、ご迷惑をおかけしました、学長」
この時、私は愚かにも、事の重大性をまだ理解していなかったのだ。
ヤン・フスを輩出したプラハ大学が放校処分にせざるをえない、その意味を。
大学を追い出されたのは痛いが、実家のフルム領に戻れば研究は続けられる。
父は厳格だが教育には理解があるし、二人の兄も弟の私には甘いところがある。
ほとぼりが冷めるまで、田舎で静かに暮らせばいい――
そんな甘い見通しを持って、私は愛馬に跨り、プラハを後にした。
道中、私は久しぶりに会う家族のことを考えていた。
父、兄たち、そして歳の離れた妹エリシュカ。
私たちは早くに母を亡くしたので
彼女は幼い頃からズラター・コルナ修道院に預けられていた。
哀れに思った私は、面会しに行っては「いつもの『ジパング物語』を聞かせて!」
家族愛に飢えた彼女によくねだられたものだった。
前世で妹のいなかった私も、そんな彼女を溺愛していた。
「お兄様もおうちに戻って来るのね!」
フス派台頭による治安悪化で、
妹が修道院から実家へ戻されたのはつい先月のこと。
手紙には、領内を治めるのに忙しい父上や兄上たちに構ってもらえず、
寂しい思いをしていると綴られていた。
大きくなっても、甘えん坊のままのようだ。
今回はプラハ土産もたくさんある。大学を辞めたと知れば悲しむだろうか。
いや、ずっと家にいるのだと知れば、むしろ喜んでくれるかもしれないな。
そんな暢気なことを考えながら、私は最後の丘をゆっくりと駆けていた。
あともう少しでフルム城が見える――
――と、そこで私は鼻をつく異臭に気づいた。
焚き火の匂いではない。木材と何か肉が焼け焦げる、不吉な匂い。
心臓が早鐘を打つ。私は愛馬の腹を蹴り、全速力で駆けた。
森を抜け、視界が開けた瞬間、私の思考は真っ白に染まった。
「あ……あぁ……」
私の生家が、フルム城が、紅蓮の炎に包まれていた。
第二の人生、十五歳まで過ごした愛する家が。
父に叱られ、罰として一夜明かしたあの納屋が。
兄たちに剣術の稽古をつけてもらったあの庭が。
花冠を頭に載せたエリシュカと笑いあったあの牧場が。
それら全てが燃えていた。
そして、城門から撤収していく軍勢の下卑た嗤い声に気づく。
掲げられている旗印は、五弁の薔薇。
南ボヘミアの支配者にしてカトリックの盟主ロジュンベルク家。
先頭に立つは、当主オルドジフ二世・フォン・ロジュンベルク。
「なぜだ……なぜロジュンベルクが…なぜ『跛行の狼』がここに…!」
父は中立を保っていた。フス派に傾倒などしていない。なのになぜ!
私は燃え盛る城内へと飛び込む。「父上!兄上!エリシュカ!」返事はない。
中庭には、変わり果てた父と兄たちの姿があった。
剣を握ったまま、全身に無数の矢を受けて絶命していた――
彼らは最期まで、何かを守ろうとして戦ったのだ。
その背後にある、居住区を守るために。
「――ッ!エリシュカッ!!」
私は熱波をかき分け、階段を駆け上がり、妹の部屋へと走る。
崩れ落ちた梁。焼け落ちたタペストリー。煙で視界が効かない。
「お……に、さま……?」微かな、本当に微かな声が聞こえた。
私は狂ったように瓦礫を退ける。
そこには、下半身を太い梁に挟まれ、血と煤にまみれたエリシュカがいた。
「エリシュカ!いま助ける、いま助けるからな!」
私は焼けた梁に手をかけ、渾身の力で持ち上げようとする。
だが、ビクともしない。
私の貧弱な腕力では、この質量を動かせない。
「あ、あぁ……熱い、よぉ……」火の手が回る。
それでも私は梁を持ち上げようとする。皮膚が焼け、爪が剥がれる。
右の頬が焼けるような痛みに襲われる――だが、そんなことはどうでもいい。
「くそッ!くそッ!くそッ!動け!動けよッ!
物理だ、モーメントだ、なにか、なにか動かす方法は――!」
パニックになった私の頭には、無意味な数式が浮かんで消えるだけ。
なにもできない。なにも思いつかない。あああ、私は無力だ。
「お兄様……きて、くれたんだ……」
「ああ、来たさ!遅くなってすまない!すぐに出してやるから!」
「ううん……いいの……わたし、うれしい……」
エリシュカの白い頬に、黒い煤と涙が伝う。
彼女は、焼けた私の頬に、そっと手を伸ばした。
「ずっと、あいたかった……さいごに、あえて……」
その小さな指先が、焼け爛れた私の右頬に触れる。
熱いはずなのに、彼女の手だけが冷たかった。
「最期なんて言うなッ!君は生きるんだ!私が守る!」
「……あつい、のは、いや……お兄様……」
彼女の瞳から、光が消えていく。天井が音を立てて崩落を始める。
「あ……」伸ばされた手。その指先が、私の頬を撫で、そして力なく落ちた。
ドゴォォォォォンッ!!
真上の屋根が崩落した。私は爆風に吹き飛ばされ、中庭へと転がり落ちた。
目の前で、エリシュカのいた部屋が、炎に飲み込まれる。
「あ……あああああああああああッ!!」
絶叫。喉が裂け、血の味がするまで私は叫び続けた。
――気がつけば翌朝だった
雨が、全てを洗い流していた。私は黒焦げになった廃墟から、家族の遺骨
――のようなものを必死にかき集め、生き残った者たちで牧場の片隅に埋めた。
父上。二人の兄上。そしてエリシュカ。みんな、みんな、私が殺したんだ。
私が教会の警告を無視したから。私が、中世の狂気を「非科学的だ」と嘲笑って
本気で取り合わなかったから。見せしめのために、フルム家が選ばれた。
異端の芽を摘むための、残酷な生贄に。
「――すまない」墓標の前で、私は地面に額を擦り付けた。涙はもう枯れていた。
代わりに、どす黒いマグマのような感情が、腹の底で煮えたぎっていた。
「神などいない。奇跡など存在しない」
存在するのなら、目の前の惨劇などありはしない。
「あるのは、暴力だけだ」
私は、焼け残った父の剣を地面に突き立て、誓いを立てる。
「許さない。絶対に許さないぞ、ロジュンベルク。オルドジフ。この虐殺を
正当化するカトリック。くだらない教皇。くだらない皇帝。くだらない聖蹟」
「奴らの全てを焼き尽くしてやる。
家族に、エリシュカに与えた以上の熱量と絶望で。
奴らのなにもかもを泥へ沈めてやる」
復讐だ。そのためには力がいる。個人の力ではない。
奴らを殺し尽くせるだけの集団が。
その時、私はある男の顔を思い浮かべた。
大学の同期であり気の許せる友、プロコフ・ゼ・スミルコヴァ。
彼はいま、プゼニのフス派指導者ブジェニェク卿の元で書記官をしているはずだ。
彼なら、私の価値を理解できる。懐からそっと黒い粒の入った小瓶を取り出した。
実験用の試作品――粒状火薬。これが私の魂を売るためのトークンだ。
「――私はまだ、そちらへは逝けない。
しばらく天国で待っていてくれ、父上、兄上たち、そしてエリシュカ」
私はもう振り返ることなく歩き出した。
背後の廃墟には、まだ微かに煙が燻っていた。
その煙は、私の心の中で永遠に消えることのない、復讐の狼煙となった。
――さあ、ようやくだ、ようやく始めることができる。
ロジュンベルクを、あの鬼畜どもの誇る『聖なる薔薇』とやらを
灰に変える時がようやく来たのだ。
奴らの死肉は、フルムの牧場にバラ撒いてやる。
きっとキレイなシロツメクサが生えるだろう。
またエリシュカに花冠を作ってやらなきゃな。
きっと喜んでくれるだろう――




