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第2話:十のうち九を救う

一夜明けても、張り詰めた静寂に支配されていた。

絶対的に不利な戦況なのは、誰もが分かっている。

それでも逃げ出す者は、一兵たりともいなかった。

寄せ集めといえど、自らの信仰のためならば教会すら敵に回すのだ。

私は、その覚悟と戦意を少々見誤っていたのかもしれない。


私は引き続き、部下たちに新型火薬の製造を指示しつつ

計量スプーンで黒い粒を掬い上げては革袋の中へ流し込んでいく。

従来の火薬は単なる粉だったため、湿気に弱く、燃焼も不均一だった。

だが私たち工匠は、それを水で練ってペースト状にしてから粒にする

コーニングという工程を加えた。

これにより、空気の通り道が生まれ、爆発的な燃焼速度が得られる。


本来なら、十六世紀に発見されるはずの発明――


「ねえ、手が止まっているわよ?ジーク」


その美しい発声に、私は思わず顔を上げた。

いつの間にか前にいたのは、アネシュカ・ゼ・レデチだった。

日焼けした小麦色の肌に、質素なヴェールでまとめたダークブロンドの髪。

その容姿は――前世を含めても、私が見た中で一番の美人だった。

ハリウッド女優のような華やかさ。


かつてはサザヴァ川流域の鉱山と製鉄を支配していたレデチ家。

だが、その高度な冶金技術を皇帝へ献上することを拒絶し、歴史から抹消された。

プゼニに疎開させられていた深窓の令嬢は、この寄せ集めの軍勢の中で

手砲ピスタラの正しい扱い方を知る数少ない射手の一人となり、

前線指揮官となっていた。


「ああ、アニエか。――すまない、少し考え事をしていた」

「考え事?また難しい顔をして」


アニエは私の隣にそっと腰を下ろすと、目の前に積まれた革袋を指差した。


「これが聖騎士様たちを打ち倒す『奇跡の火薬』なんでしょう?

早くちょうだい。みんな待ってるわ」

無邪気、と言っていいのか分からない。信頼だ。

真っ直ぐな信頼が、今の私には痛かった。


「アニエ。これは奇跡なんかじゃない。ただの化学だ」

私は革袋をひとつ引き寄せ、指先で口を締め直す。


「そして――まだ完成していない」「完成していない?」

彼女が首を傾げる。その仕草だけが年相応で、胸の奥が少しだけ軋む。


「アニエ、君のピスタラを貸してもらえるか?」

差し出されたピスタラを、私は慎重に受け取る。

それは砲と呼ぶには、あまりに原始的だ。青銅か鉄か、丸めて叩いた筒を

木の棒に留めただけ。継ぎ目は不揃いで、内側には微かな歪みが残っている。

鍛冶師の腕が悪いのではない。時代が、材料が、道具が足りていないのだ。


「この筒はあまりに脆すぎる。私の計算した燃焼圧に耐えられないんだ。

十あるピスタラのうち、一つは確実に破砕する――」


目の前の黒い粒は、決して我らの救世主なんかじゃない。穢れた悪魔への供物だ。


「指が飛び、目が潰れ、死ぬ。そして、それは偶然の暴発事故なんかじゃない」

私はピスタラをそっと返し、アニエを見た。


「私は、君たちに十枚の札を配って『当たりを引いた一人はそのまま死ね、

この戦争の勝利のためにな』と言ってるんだ」

アニエは少しだけ目を見開き、それから自分のピスタラへと視線を落とした。

わずかな沈黙。そして彼女は――小さく、だが力強く笑う。


「なんだ、そんなこと」「そんなことって――」


「だってジーク。このまま聖騎士様の突撃を受ければ、私たち確実に死ぬのよ?」

アニエは私の手から計量スプーンを奪い取り、

目の前の黒い粒を革袋へ流し込んでいく。迷いもなく。


「確実に死ぬ運命が、十のうち九も助かる運命へと変わる。すごいことじゃない」


彼女は唇の端を上げた。


「大学から追い出された学者先生は、計算も出来ないのね」


「――君は、怖くないのか?」「怖いから、これで撃つのよ」

芝居がかった手つきで、彼女はピスタラの無骨な銃身をそっと撫でる。

宝石のような碧緑の瞳に、薄暗い炎が宿っていた。


「ここに残った人たちはね、ジーク。

みんな『人間』として死にたいと願っているわ」

ただ潰されて死にたくはない。自分の意思で引き金を引き、前のめりで死にたい。


そうか。私はやはり見誤っていたのだろう。怒りを、その気高さを。


「――新型火薬の込め方を教えよう。他の隊長たちも呼んでくれ」

私も覚悟を決めよう。


「ええ、ご教授願えるかしら、学者先生」

ローズウォーターの香りが微かに漂った気がした。

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