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第13話:汝、自身を知れ

ヴィシェフラド城の朝は、静謐な絶望に包まれていた。

異端者たちによって補給を完全に断たれ、城内の食糧が底を突いたからである。

城の中庭には、力なく座り込む守備兵たちの姿がある。

彼らは革ベルトや革靴を煮て飢えを凌ぎ、濁った水をすすって命を繋いでいた。

だが、城の最上階にある謁見の間だけは、別世界の優雅さを保っていた。


「――景色が汚れていますね」


城主のジェレズニー領主司教は、

緑の光を帯びた特注のゴブレットを揺らしながら窓の外を見下ろした。

四十代半ばの、彫像のように整った顔立ち。

だが、その美しさには血の通った温かみがない。

磨き上げられた大理石のように冷たく、完璧で、そして人間味がなかった。


豪奢な法衣には金の刺繍が施され、指にはいくつもの高価な指輪が光っている。

彼が不快そうに眉をひそめた先には、

眼下の平原を埋め尽くすフス派陣営、ターボルとプラハの軍勢があった。

泥にまみれた農民兵、粗末な荷車、そして煤けた旗。

それは、彼にとって敵軍というだけでなく、

美しいボヘミアの風景画に付着した拭い難い泥の染みだった。


「ワインをお持ちしました」

若い従卒は、緊張した面持ちで一呼吸置いた。


「ヴィシェフラド城主にしてリトミシュル領主司教ジェレズニー閣下」

一字一句を間違えぬよう細心の注意を払いながら、

朗々と主人の肩書きを読み上げる。そして、恭しく銀の盆を差し出した。


城内の井戸は枯れかけているが、この部屋は芳醇な赤ワインの香りで溢れていた。

ヴィシェフラド城の宝物庫にあった聖遺物『カナの婚礼』によって、

ただの水が最高級の葡萄酒へ変えられているのだ。

彼はそのワインを一口含む。ふくよかな香りが鼻孔をくすぐる。


城壁の下では、部下たちが泥水を巡って争っているというのに

この部屋の主人は喉の渇きすら知らない。

彼にとって平民どもの飢餓など、季節の移ろいと同じ自然現象に過ぎなかった。


「閣下。ご機嫌麗しゅう」


入室を許可すると、一人の神官が静かに姿を現した。

ヴィシェフラド城付きの助祭だ。たしかオルドジヒと言ったか。

名門シュテルンベルクの黄金星を胸に掲げる若者だが、

その野心は信仰よりも現世の功名に向けられているようだった。

ヴィートコフで敗北した聖ヨハネ騎士団のことを

『信仰よりも腕力を頼みとした野蛮な連中』と公言して憚らない男だ。


「――何用か。余は今、ボヘミアに染み付いた汚れに憂いている」


「はっ。その件につきまして進言に参りました。

この私、オルドジヒ・フォン・シュテルンベルクに一隊をお預けいただければ

あの薄汚い異端者どもを駆除してご覧に入れます」助祭は胸を張る。


「ヴィシェフラドの聖蹟は無敵ですが、ただ籠もっているだけでは、

神の御威光も曇るというもの。ここらで一度、正義の鉄槌を下すべきかと」


「ほう?」ジェレズニーは興味なさそうに、ゴブレットの縁を指でなぞった。

「十字軍が敗れた相手だぞ。お前に相手が務まるのかな?」


「聖騎士団など、所詮は剣を振り回すことしか能のない徳の低い者たちでした。

聖蹟の真髄は、清らかなる血と信仰心にこそ宿りましょう。

私が授かりし聖蹟サンクチュアリならば、異端の粗末な武器など通用しません。

必ずや、異端どもの首を閣下の御前に」


ジェレズニーは、フッと笑った。それは信頼の笑みではない。

退屈しのぎの余興を見つけた、上級貴族特有の残酷な笑みだった。

そもそも聖騎士団が敗れたといっても、油断があったからに違いないのだ。

それに、この助祭の持つ聖遺物は、個人の防御だけなら最高クラスの強度を誇る。

少なくとも、農民兵どもに後れを取ることはあるまい。


「いいだろう。許可する」彼は窓の外、眼下の泥染みを指差した。

「ただし、美しくやれ。余の庭で、あまり騒々しい真似はするな」


「ははッ!仰せのままに!」

助祭は深々と頭を下げ、足早に退室していった。

扉が閉まると、再び静寂が戻る。

ジェレズニーは残ったワインを飲み干し、空になったグラスをテーブルに置いた。


彼には分からない。

なぜ、神に選ばれぬ者たちが、分不相応な平等を求めて騒ぐのか。

生まれながらの貴族と平民。選ばれし聖職者と異端。

そこには城を覆うヘカトンケイルのように、決して越えられぬ壁があるというのに


「――愚かなことよ」


彼は再び窓の外へ視線を戻す。

崖下の平原で蠢くフス派など、踏み潰されるのを待つだけの虫に過ぎなかった。

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