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大介物語


Act.1

目覚めは最悪だった。

冬だというのに、全身冷や汗で、喉はカラカラ。少々吐き気もあるような・・・・

「しばらく見なかったのに・・・まったく・・・・」

一旦は身体を起こしてみたが、いつものように眩暈がして、もう一度倒れこむ。

更年期にはまだ早いと思うんだけど・・・・・

ただし、”いつものこと”は、対処法も産む。

大介はゆっくりと身体を起こし、汗ばんだパジャマを脱ぎ捨てバスルームに向かった。

シャワーの蛇口をひねって、お湯を待っている間に、鏡に映る青ざめた顔を見る。あんまり自分らしくない。かと言って、自分がどういう顔をしてしかるべきかは曖昧だ。鏡の中の蒼い顔が自分を見て笑う。熱めのシャワーを一気に頭から被ると、止めていた息を吐いた。


大介は来年、大学最後の学年に上がる。

本来なら今年・・・いや、早い奴は入学した時点から、良い就職先を探して奔走するらしいが、3年の後期になっても、動く気が全く起きない。

第一、『就職』と言う言葉が一向にピンと来ない。

相変わらず自分が何者で、何がしたくて、どこを目指すのかなんて考えたこともないし、思いつきもしない。学部は経済を選んでいるが、それは会社経営者の父親に対する面子みたいなもので、いずれは会社を継ぐかもしれないことにも期待はない。何もかもが腑に落ちないまま今に至っている。

頭をタオルで拭きながらバスルームを出ると、スマホの通知音がなった。

表示されたメッセージに顔が和む。

「今時メールとはね。」

アプリを開くと見慣れたアドレスが目に入った。

『パルモで。志野』

ヒューっと音にならない口笛を鳴らして、急いで服に着替える。洋服ダンスから”使えそうな”服を選んで外へ飛び出した。時計を見る、まだ朝8時前だ。

なんだってこんなに早くメールをよこすんだ?まるで俺が起きていることを知っているみたいに。

「相変わらず不思議な人だよな・・・・」

にやけた顔のまま、大介は小走りで街へ出た。


東京の朝は騒がしい。

通勤の車、人、子供たちが大騒ぎで通り過ぎたり、ゴミの収集車が走っていたり、時にはパトカーや救急車、消防車も走っていたりする。みんな、どこへ行くんだろう・・・・

何もかも、ただの波の音に過ぎないような、意味の無い音に聴こえる。

こんな風に特に無気力になるのは、”夢”を観た日に限る。普段もあまりエネルギーがある方ではないが、特に、だ。そして死んでまた生き返るのも常だった。

大介はしばらく街の音に耳を預けると、やがて歩き出した。今は生きていることを確かめるかのように。

「おはようっす!」

”パルモ珈琲店”と札が掛かった重い扉を勢いよく蹴り開けると、同じくらいの勢いでダミ声が返ってくる。

「ばかやろう!ドアが傷むだろうが!」

凛と張った野太い声が、大介を現実世界へ覚醒させる。

「ごめん、その声聴きたくてさ。あんまり怒ると血圧が上がるぜ、マスター。」

「ったく、口の減らない奴だ。ドアが壊れたら弁償してもらうぞ!」

「そうはいっても、開けるのに力がいるドアでしょ?よく客から文句が出ないよな。」

「俺が丁寧に開けて差し上げるんだよ。開けにくかろうが、入りたいって客だからな。」

言いながら親指で奥を示す。途端に大介の顔が緩んだ。マスターにウインクを返すと、奥のテーブルに向かう。

「志野!」

声を掛けられて、一人の女性がタブレットから目を上げた。

長い髪は漆黒の艶だ。波打つようにウエーブがかかっている。その(ひと)はにっこりと微笑んだ。

「おはよう。元気そうね、大介」

「残念ながら。夢見が悪くてさ。いつ帰ってきたの?今回は長いって言ってたけど。」

「そうね、予定より早く撮影が終わったの。一昨日東京に戻ってきて、昨日編集作業をやって、徹夜明け。」

「お~、仕事と容姿は関係ないって証拠だな。どうだった?遥かなるドイツは?」

「あら、ビートルズね。珍しい。ここはクラシック・カフェでしょ?」

志野がカウンターに艶やかなに声を掛けると、マスターが親指を立ててみせた。早朝の店の中にはモーニングを楽しむ会社員や、学生たちが目を覚まそうとぼんやりしている。ビートルズを知らない世代の方が多いかもしれない。志野と同じく、幾人かの客が顔を上げて曲に聞き入った。

「今日は特別って意味だろ。志野が帰ってきたからさ。」

言いながら大介も親指を立てる。ふふっと志野が笑った。


大介と志野が出会ったのはそう遠くない。

彼女は某ファッション雑誌の編集者で、主に街角で出会った若者をスカウトし、読者モデルとして撮っていた。大介とはここ、”パルモ珈琲店”で偶然出会ったのだ。

その時、志野はスマホを握りしめ、ありとあらゆる伝手に頼ってモデルを探している最中だった。

担当していた『In The Town』と言うコーナーで撮る予定だった読者モデルに事故が起こり、撮影不可になったのだ。当然焦る。

雑誌は隔週だったが、締め切りは毎週だ。編集作業に一週間は必要だった。中々良い条件のモデルが見つからず、穴をあける覚悟をしていた時、ガツンと扉が蹴られる音がして・・・・

「ばかやろう!ドアが・・・・」

以下同文。

入ってきた若い男は、長身でふわっとした前髪をかきあげ笑った。その笑顔が消える前に、志野は名刺を渡して大介の手を引っ張っていた。

「お願いがあるんだけど」


結局『In The Town』には半年参加した。

毎回では無かったが、モデルに問題が起こったり、志野の意に添わない条件を出された時などに、必ず大介が呼ばれたのだ。

「ドイツはどこを廻ったの?統一してるから、もうどこでも行けたんだよね?」

「先ずはベルリンから入って、ノイヴァンシュタイン城まで。秋口は綺麗だから、良い写真が沢山撮れたわ。そこは大満足。日程さえもっとくれればね。」

志野の瞳が、遠いドイツの風景を見ている。

「着物を撮ってきたの。西陣織の。日本の手仕事は海外だからこそ、綺麗なのかもね・・・」

瞳が少女のようにうっとりと潤む。

大介はこの年上の女の落ち着いた佇まいが好きだった。

夢見るように語っていても、どこかに冷静さがあって、それが逆に異世界を感じさせる。

彼女のしぐさからは大人の香りと少女が持つ匂い袋のような儚さがあって、時々大介の胸をざわつかせた。綺麗な赤い口紅がコーヒーカップをなぞり、細い指が髪を漉く。大介が好きな志野の癖。

着物を着た志野が古城を背に立つ様を見たくなった。

「いいね。ドイツ」

志野を見つめないように、目をそらしながら大介は言った。

かすかに微笑むと、志野の目は手元のタブレットに落とされる。会話は止まった。

肩をすくめて大介も黙ったまま、コーヒーを飲む。

通りでは、人の行き来も益々活発になっているようだ。時刻は8時を過ぎている。

タブレットを閉じると、志野がタバコを消した。

「そろそろ行くわね。チーフが遅刻じゃ様にならないし。」

「送る。」

「どこまで?」

「ドア」

志野の笑顔につられて大介も立ち上がった、その時・・・・・

どこかで悲鳴が聞こえた。

「いやね、朝っぱらから」

いくら東京でも日常で事件は珍しい。

「近くなら、警察も・・・」

様子を見るために、マスターが扉を開けたその時・・・

「おわっ!」

何かが足元に転がり込んできた。思わず志野を抱き寄せる。この人を倒すわけにはいかない。

「なに・・・」

「犬?猫?・・・・人間?」

「マスター、ドア閉めて!」

「おお!」

大きな音を立てて、ドアが閉まった。立ち尽くした3人が見たもの。

それは・・・人間だ。しかも、子供?いや、少年?いずれにしても若者だ。

いつの間にか、大介たちが座っていたテーブルの下に潜り込んでいる。良く見えないが、薄汚れた靴やズボンの裾が、何日か外で生活していることを物語っていた。

「おい、おまえ・・・」

と、マスターが近寄るのをさえぎるように、再びドアが勢いよく開き、今度は中年の女性が入ってきた。そして途端に弾丸のように喚き始める。

「ここに男が入ってきたでしょ?入って来たわね!見たから追っかけてきたのよ!出しなさいよ!あたしのカバン取ったのよ!どこにいるの?出てきなさい!」

狭い店先でバタバタと足を踏み鳴らして怒鳴っている姿を見て、このままだと明らかに店が壊されると感じたマスターが咄嗟に道を塞ぎ、なだめにかかった。

「ちょっと、落ち着いて。直ぐに探しますから。とにかく落ち着いて・・・・」

しかし、オバさんも負けてはいない。恐らく取られた鞄には現金が入っていたのだろう。蒼ざめている。

「悪いことやったな、お前」

志野と大介は、少年が隠れているテーブルの椅子にそっと座った。少しテーブルが揺れている。少年は震えているようだった。

「志野、遅れるよ」

「大丈夫、こんな面白い場面見ないでどうするの?」

再び煙草を加えながら、志野が言った。大介はわめいているオバさんとマスターの攻防戦を横目で見ながら、低い声で言った。

「おい、バッグを出せ」

反応は無い。

「1.2.3・・・まで待てないな」

そういうと、いきなり少年の身体を蹴り上げた。恐らく脇腹か足だろうと思うが、下を見ていないのでわからない。反応を待つまでもなく、もう一度足を挙げようと身体を動かすと、足元に何かが出てきた。大介はそれを拾うと上着の下に入れて、騒いでいるオバさんの脇を通って店を出て行った。取り合えず、オバさんをカウンターの席へ連れて行くのになんとか成功したマスターが、志野を見る。

志野は軽く煙草を振って見せると、火をつけた。

「おい、禁煙席・・・・」

言っても無駄な状況だと理解して、マスターがため息をつく。そうこうしている内に、騒動が少し収まったころ合いを見て客たちが店を出る準備を始めた。今度はレジに追われて、マスタはカウンターを離れた。

「ちょっと、少年。顔を見られた?」

もちろん、返事はない。志野は大介が出て行ったドアを見ながら、煙を吐いた。

「見られていない自信があるなら出てきて椅子に座りなさい。知らん顔してね。」

テーブルの震えは止まっている。志野はちょっとイライラして語気を強めた。

「早くなさい!突き出してもいいのよ。」

小さなため息が聞こえ、志野の前に人影が浮かび上がってきた。

「良い子ね」

少年は志野の含み笑いを苦々しく無視して向かい側に座った。


オバさんはマスターの入れたコーヒーを飲んでいる。少し落ち着いたようだが、怒りと絶望で震えている。それはそうだ。人生の中でひったくり被害に合うなど、そうそうあるものではない。

「今、警察に電話しますから」

さすがにマスターも同情し始め、スマホを手に取ったその時、ドアが開いて大介が入ってきた。

どこから走ってきたのか、かなり息が荒い。ぜーぜー言いながら、店内を見回すとあざとく、バッグを女性の前に差し出す。

「これ、あなたのですよね?」

少年の身体が一瞬ビクつく。

「見ちゃだめよ。」

小声で鋭く志野が制した。

オバさんは、ビックリして思わず小さな悲鳴を上げる。

「どこでこれを?男がひったくったのよ」

「そうなんです。俺、見たんですよ。で、警察に電話しようとしたら、そいつ、バッグを捨てて逃げたんですよ。」

「ここに入ったでしょ?」

「そうなんですか?それは見てなかった。バッグ拾ったら、一瞬あなたを見失ったから慌てちゃって。探しましたよ、会えて良かったです!」

困ったような顔でオバさんがマスターを見る。スマホを手にもったまま、マスターが肩をすくめた。

「取り合えず中身を確認して、被害があったら警察に通報しましょう。」

小さくうなずいて、オバさんはカバンの中身を調べ始めた。

一つ一つ、カウンターに出していく。少年は志野の肩越しにその様を見つめていた。まるで、映画を見ているようなうつろな瞳だ。

「クスリでもやってんの?」

誰にともなく、志野がつぶやく。

「やってない」

答えると思ってなかった答えに、思わずドキッとして少年をみる。少年はやっと身体の力を抜いて、水を一口飲んだ。


「大丈夫でした。」

最後に茶封筒の中に入っていたお金を数えると、ほっと息をついてオバさんは立ち上がった。そして、大介に深々と頭を下げた。

「ありがとうございました。このお金がないと、とても困ったんです。子供が入院しているので。」

そして、マスターに向かってまた深々と頭を下げる。

「ご迷惑おかけしてすみませんでした。本当にありがとうございました。」

オバさんは、もう一度大介に頭を下げると、ふいに志野と少年を見た。

一瞬マスターと大介にも緊張は走ったが、オバさんは黙って志野に軽く会釈をすると、そのまま店を出て行った。建付けの悪いドアは、大介が閉めた。

店は静寂を取り戻した。


Act.2

「名演技ね。そういう才能があるって知らなかったわ。今度ドラマやる?」

戻って来た大介を志野がからかう。大介は空になったコップに水を汲みにいくと、そのままカウンターで飲み干した。少年は黙ってうつむいている。

今の季節にそれなりの格好ではあるが、服の袖口、顔や手が薄汚れている。無表情で何も考えていないような眼をしていた。

ちょっとした沈黙を破るために、志野が立ち上がる。

「あたし行くわね。これ以上遅刻出来ないし。何かあったら連絡して」

「うん。志野、早く行かなきゃ」

「あら、嫌だ。」

時計を見てつぶやくと、志野はカウンター越しにマスターに軽く手をふり、扉を開けて出て行った。

それを見送ると、大介は改めて少年を見た。

特に人助けをしようと思ったわけでは無いが、オバさんの必死さからすると、恐らくとても大切なお金だったのじゃないかと思ったが、当たりだった。鞄から取り出した封筒は、結構な厚さだったのだ。何をするにも、理由はある。ひったくったこの少年にも理由はあるのだろうが・・・・。

「立てよ。」

さっきのキックが効いたのか、少年は素直に立ち上がった。

「マスター、奥の洗面所借りるぜ。店のトイレじゃまずいから」

「おいおい、何するつもりなんだ。血の跡掃除するとか勘弁してくれよ。」

少年の身が硬くなる。大介は笑いながら少年の肩を抱いて店の奥に入った。


「よし、出な」

少年は顔を拭いたタオルを投げ捨てると、洗面所を出た。

「行儀悪いな、おまえ。」

自然と口を突いて出た大介の言葉に、瞬発的にタオルを拾う。躾の悪い子供ではないらしい。今は状況が本来の少年を混乱させているのだと感じた。

取り合えず汚れた顔と手を洗わせて明るいところで姿を見ると、浮浪児ではないとわかった。着ている洋服も質がよさそうだし、髪もすっきりとカットされている。単なる家出少年なのか・・・捜索願いが出ているかもしれない。

「どうすんだ、大介」

マスターが心配そうに声をかけてきた。耳打ちするほどの小さな声じゃない。

「別に・・・」

「別にって、このままほったらかしかよ。警察に連れていけよ。」

「うん、そうだね。」

実際、大介にはこの少年をどうするかのヴィジョンは全く無い。警察も面倒だし、ひったくった鞄はもうないし、オバさんも暗に赦してくれたのだ。取り合えず少年をカウンターに座らせた。

「なんか食わせてやってよ。おれ、授業があるんだ」

「おい、こいつを置いてく気か?」

大介は自分の鞄の中身をごそごそと探ると、白い封筒を取り出し少年の眼の前に置いた。

「ここに金が入ってるから、それで飯代払って、残りは家に帰る交通費にしろ。人の物は絶対に取るな。あの人にも金が要る事情があるんだ。」

最後の一言は、自分に言い戻すように小さな声になっていたが、それには気が付かなかった。


通りに出ると、出勤や学校へ行く人並みがだいぶ増えていた。冬の風が建物の隙間から身体を打つ。

大介はダウンジャケットの襟を上げなおして歩き出した。

人には誰しも理由がある・・・・・

15か16か・・・・顔はあんまり良く見なかったが、あの少年にも理由があったんだろう。だが、関係ない。

あとはマスターが好きにするさ。時計を見ると9時過ぎだ。大介は急いで走り出そうとしたが、進めなかった。何故ならダウンジャケットの裾を引っ張られて引き留められたからだ。降りむくと、さっきの少年だった。

「なんだよ・・・・・」

「金、いらない。」

言いながらポケットに封筒を入れ込もうとジャケットを引っ張り始めた。

「ちょっ!待て、あぶな・・・・」

身体のバランスを崩しそうになり、思わず少年の手をつかみ、力ずくで引き離す。

「落ち着けったら!」

「いらないんだ・・・・」

「え?」

ふいに少年の身体から力が抜けた。支える形になった大介は、彼を抱え込んだまま路上に座り込んだ。

「おい、マジかよ!おい!」

手にクシャクシャの封筒を握りしめたまま、少年は意識を失っていた。ため息って、こんな時なんの役にもたたないな・・・・・

ふと、目があった通行人に笑顔で声をかけてみた。

「すみません、おんぶするの、手伝ってもらえます?あ、ちょっとこいつ汚れてますけど・・・・・」

声をかけられた会社員は、苦笑いして通り過ぎた。

Act.3

夢うつつに声がする。

「そうですか、わかりました。ありがとうございます。はい。」

誰かが誰かに別れを告げている。来客だったのかな。でも、母親の声じゃない。男の声だ。父親でもない。

うっすらと目を開けてみる。見慣れない天井板の模様が目に入った。

ここは・・・・どこだろう・・・・とても眠い・・・・でも、のどが渇いた。水が飲みたい。

「水飲むか?」

答える間もなく身体が起こされ、水の入ったコップが口元に当たった。

反射的に飲む。冷たい水が喉を通った瞬間に、どれだけ乾いていたか思い出したように,

少年は飲み続けた。

「もっといるか?」

うなずく。本当に喉が渇いていたのだ。

大介は空いたコップにさらに水を入れると、ゆっくり少年の手に持たせてやった。

噛みつくようにコップを口に持ってくると、喉の音がしてあっという間に水は無くなった。

「大丈夫か?」

コップを受けとりながら、肩で息をしている少年の背中を撫でてやる。肉をほとんど感じないような、薄い背中だ。少し落ち着いたのか、少年は再び身体を布団に沈めた。

その身体に毛布を上げてやりながら、大介は少年の顔を見た。

さっきは青白かった頬に少し赤みがさしている。熱があるからだろうが、呼吸は安定していた。大介はコップを持ってキッチンに立つと、おかゆを温めた。午前中の授業は諦めたが、午後からの授業には間に合いそうだ。人肌くらいに温めたおかゆを持って、布団の傍に置く。

「俺は授業に行くから、とりあえずこれを食って薬飲んで寝てくれ。話はあとだ。」

しばらく天井を見つめていた少年は、寝返りを打って大介に背を向ける。

「期待通りのことをやるなよな・・・・」

大介は呟くと、少年の腕を取っていきなり身体を引き起こした。

「何する・・・・!」

ビックリして思わず声を出した少年の膝に、おかゆのお盆を置く。

「お前がどういう奴で、何の理由で今ここに居るかは、俺にとってはどうでも良い。どうでも良いが・・・」

そのお盆に少年がポケットに入れていた薬の袋も置いて、大介は言った。

「ここで死なれちゃ困る。賃貸だからな。」

声もない少年の手にスプーンを握らせると、お椀の蓋を取った。

「ちゃんと食え。その薬はお前のだから。・・・必要なんだろ?」

少年は答えず、盆に置かれた薬の袋を見た。

しばらくそうして唇を嚙んでいたが、呼吸が苦しい。少年は黙ってお粥を口に含むと一気に食べ始めた。腹は減っているのだろう。そのままガツガツと食べている。

大介はもう一杯水を汲むと、お盆の上に乗せ外出の準備をしながら聴いた。

「名前は?」

少年は食べ終えたお粥のお椀を、布団の傍のお盆に置いて言った。

「あんたは・・・・俺をどうするつもり・・・?」

「どうって・・・・」

「警察に連れて行く?」

「・・・・・・」

「それとも、ここに・・・・このまま・・・・?」

消えそうに小さな声だが、意志の強さを感じて大介は答えに窮していた。

「別に・・・」

「だったら、名前なんか関係ないじゃない・・・。どうせ追い出すなら。」

少年は再び横になった。

「薬・・・」

「少し寝たら出ていくから。合鍵置いといて。鍵閉めて郵便受けに入れとく。」

それ以上、少年は話さなくなった。

大介は頭を掻きながらお椀を流しへ置くと、机の引き出しから合鍵を探しだした。

「それでも、名前くらい言えよ。」

少年は肩越しにチラと大介の顔を見ると、小さな声で呟くように答えた。

「・・・・・・実里みのり・・」

そういうと直ぐに布団の中に顔をうずめる。少し呼吸が楽になったようだった。

「了解。お前の汚い洋服はとりあえず洗濯機にあるから、帰ったら洗う。それが乾くまでは俺のを適当に着ててくれ。髪も身体も少し臭いからシャワーを浴びとけよ。全部乾くまでは・・・・・・とにかく寝てろ。ここを出るのはそれからだ。」

大介は合鍵を握り締めてリュックを担ぐと、実里を置いて部屋を出た。


「それで、お前はどうすんの?食う?」

まだ授業前の講義室で、悪友の堀田が頬張っていた菓子パンを大介に投げる。

「サンキュ、結局昼飯食えなかった。」

「で、どうすんだ、そいつ。」

「うん・・・・。」

パンを口に入れながら大介は頭を掻いた。

緊急で主治医を呼び出し診察をしてもらったところでは、どうやら心臓疾患があるようだった。途中起きるかと思ったが、何日も寝ていないらしく、主治医が帰るまで実里は目を覚まさなかった。無くしたのか摺られたのかわからないが、荷物はない。薬だけはコートのポケットに突っ込んであって、それを見た主治医が心臓疾患のことを教えてくれた。それと、持っていた薬はニトログリセリンと言う名前で、心臓発作が起きた時に服用するものだと言うことも。

「あんまり、動かせないんだよな。多分・・・」

「主治医が来たら、親父さんにわかるだろ?大丈夫なのか?」

「うん。まあ・・・・とりあえず・・・・」

ドアが開いて教授が入って来た。

「後でな」

「おう」

ざわついていた学生たちが収まり、大介も授業に集中した。考えてもしょうがないことは、後回しにするべし。賢人がそういったかどうかは、わからない。


午後からの授業が1つ休講になったので、大介は堀田と別れて志野の会社へ向かった。

午前中の騒ぎのことを志野に話したかったからだ。

「お、久しぶりだな。元気でやってるか?」

社内に入ると編集長に声を掛けられた。

「おかげさまで。」

頭を下げる。出版社としては中堅のこの会社は、業界でも安定企業として注目されていた。書籍から雑誌、最近は電子書籍も扱っている。志野は雑誌編集者で、ひとつの女性誌を長く担当していた。

「もうモデルはやんないのか?結構評判良かったんだぜ。」

「そろそろ就職活動しないと・・・」

頭を掻きながら苦笑いする。

「あら、就職するつもりなの?」

聞き覚えのある声が大介の背後からした。振り向くのと志野が通り過ぎるのと、ほぼ同時だ。

「志野・・・・」

「今はダメよ。編集途中だから。」

マグカップを片手にさっさと会議室へ向かう。大介は編集長に頭を下げて志野の後を追った。ドアが閉まる前に手で押さえて、志野のご機嫌を伺う。

「あのさ、ちょっとだけ・・・・」

「5秒。1,2,3,・・・」

「あいつ、俺の部屋にいるの。」

「5。入れたの?なんで?」

「そのことだけど・・・・」

「今日の夜は?」

「え?予定ないけど・・・・」

「じゃあ20時にパルモで」

答える前にドアは閉められた。

大介はため息をつくと、ニヤニヤしている編集長に再び頭を下げて会社を出た。

一瞬木枯らしが吹いて、寒気を感じると、ダウンジャケットの前を合わせるて駅へ向かう。ふと、さっきの嵐のような”5分”に笑いが込み上げた。

大介は、12歳年上のこの女性を心から尊敬している。

その美貌もさることながら、頭の回転の良さや仕事に対する情熱、度胸の良さまで目を見張るものがあった。今日話したいことが大介の命に係わることなら、志野はあのドアを閉めたりしない。優先順位を常につけるのが彼女のポリシーであったし、大介は自分を甘やかさない志野の強さが好きだった。

「必ず話は聞いてくれるしね。」

大介は頭を掻くと、改札を抜けて地下鉄のホームへ入っていった。


Act.4

大介が出た後、実里は寝ようと思ったのだが、自分の身体の匂いの酷さに耐えかねて、シャワーを浴びた。温かいお湯が疲れ切った実里の心まで溶かしてくれるようだった。

風呂場を出ると身体を拭き、クローゼットから大介のTシャツとジャージをみつける。裸の上にそのまま着ると、実里は改めて布団にくるまった。

やっと心地よさに包まれる。家を出てから、どれくらいの時間が経ったんだろう・・・・。

温かさにまどろんでいると、段々眠気に襲われて来た。ちゃんとした布団で寝るのは何日ぶりなんだろうか・・・・。実里は直ぐに眠りに落ちた。


目が覚めると窓の外は暗くなり始めていた。

東京の冬は早く日が暮れる。

どのくらい寝たのだろうか。住人は、まだ帰って来ていないようだった。

実里はゆっくりと身体を起こし、枕元のコップを手に取って少し残っていた水を飲んだ。その横に薬袋がある。


_____薬、薬って・・・・知らないくせに・・・・


実里は布団の傍のスタンドを付けると、部屋の中をゆっくりと見回した。

自分が寝ている布団の傍にベッドがあった。ここは主の寝室らしい。天井が高く、広めの部屋で、作り付けのクローゼットもある。


_____学生なのにこんな部屋で一人暮らしなら、結構金持ちなのかな・・・・


起きていると少し胸苦しい。実里は胸をさすりながら、盆の上に乗っている薬を手に取り横になった。今すぐ飲むわけではないが、持っていると安心する。

このコンポツな心臓とおさらばしようと思っていたのに、薬を手放せない。生きたいとも思っていないのに・・・・。実里は目を瞑った。

その時、突然、胸の痛みが襲ってきた。呼吸が荒くなり、目が開いた。

一瞬胸を押さえた隙に、薬袋を見失った。布団の中に落ちたのだ。動悸が激しくなり、苦しさが増してくる。実里は必死に布団の中をまさぐった。だが、苦しさに身体を曲げる。薬の袋が手に当たらない。実里は布団を押しのけ、出来るだけ手を伸ばし、足を使って薬を探す。苦しい・・・・苦しい・・・・

「おい!」

大介は布団の上でのたうち回っている実里の身体を起こした。直ぐにべっとりとした脂汗が大介の手に染みる。

「発作か?薬はどうした?」

胸を掻きむしるように両手で胸元を抑えながら実里が口をパクパクしている。息が詰まって声が出ないようだった。大介は実里を抱きかかえたまま、掛け布団を剥がして薬を探す。実里の口からは息が漏れる音が聴こえ、顔面は蒼白だ。薬は直ぐに見つかった。

「いいか、薬だ。今口の中にいれるから。」

実里は震えながら口を開ける。大介はそこに薬を入れ、水を飲ませようとコップを手に取った。

「いら・・・・いらない・・・・」

「え?水なくて飲めるのか?」

ニトログリセリンは基本、舌下に入れて解けるのを待つ。実里は頷きながら薬を舌で移動させると、黙って目を瞑っている。大介は片手にコップを握り、もう片方の手で実里の身体を支えながら、その様子を呆然と見ていた。

やがて呼吸がゆっくりになってくると、実里の身体は更に力をなくし、ぐったりと大介に身を預けた。少し熱も出てきたようで、身体が熱い。

「そうだ・・・志野に連絡しなくちゃ」

いくらなんでも今の状態のままの実里を置いてはいけない。

大介は布団を整えると、実里の身体を横たえた。ふと薬を取り出したカラの包装紙をじっと見る。

遠い記憶が大介の記憶に重なり、そのことに恐怖を覚えて立ち上がろうとした。

が、立てなかった。

「おい・・・・」

実里の手が大介のセーターの端を握っていたからだ。蒼白だった顔に少し赤みがさしている

「大丈夫か?水飲むか?」

実里はうっすらと目を開くと、直ぐにまた瞑る。そのまま寝息が聞こえてきた。

この身体で、少年は何をするつもりだったのだろう。家から出て、一人で?。

大介は諦めて座り込むと、ズボンのポケットからスマホを取り出し、志野にメッセージを送った。


”ごめん、今日は諦める”


直ぐに返信が来る。


”了解”


メッセージも必要要件だけなのが志野らしい。

大介は静かに実里の手を身体から外すと、食事を作りにキッチンへ向かった。誰かのためにご飯を食べないなんて、まっぴらごめん、だったからだ。


Act.5

朝日が眩しい。カーテンは遮光性のものにしてあるのに、なんでこんなに眩しいんだろう・・・。

「チェッ」と舌打ちをして、実里は目を覚ました。

朝起きて最初に舌打ちをするのは実里の癖だ。それは欲求不満の表れだ、と誰かが言ってたっけ。父さんだっただろうか・・・・そして、次にちょっとのんびりした優しい声で・・・・・

「具合どうだ?」

実里は目をぱっちりと開けた。目の前に見慣れない男の顔がある。びっくりして起き上がると、頭から何かが落ちた。タオルだ。周りを見回し、状況を把握しようとする。

「さすがに驚いたぞ。薬が飲めて良かったけど・・・熱も出たから全然寝れなくて・・」

そのタオルを拾って、大介があくびをしながら実里の額に手を置いた。

「下がったな。」

実里は立ち上がって寝室を出る大介の背中を凝視した。


________そうか・・・昨日発作が・・・


映画のように映像が浮かんでくる。薬を口に入れてからの記憶はない。薬はきちんと枕元に置いてあった。嫌なのに、薬を見ると安心する。実里は両手で顔を覆った。

「泣いてるのか?」

その声に我に返る。

「・・・・泣いてなんか・・・」

その答えは無視して、大介はテーブルを実里の布団の傍までひっぱると、温めたお粥と簡単に作ったおかずを置いた。

「昨日もほとんど食べてないからな。残りもんで悪いけど。この薬は毎回飲むものじゃないんだろ?」

無意識に実里が頷く。

「とりあえず体力をつけなきゃ。胃が収まったらもう少しちゃんとした飯にする。」

大介は自分の分の茶碗にもお粥を分けた。どうも少量作るのが難しく、どうしても多めになってしまう。そのままお粥を食べ始めようと実里を見ると、実里は目の前の食事をじっと見つめている。大介は、食べるのをやめて言った。

「昨日みたいに我を張るのは、今日はやめとこうぜ。身体のことだからな。」

まるでその言葉がきっかけだったように、実里がためらいながら、お粥に口を付けた。

二人は静かに、温かい朝食を続けた。

大介にいきなり情が湧いたという訳ではない。実里を診てくれた主治医が言っていた言葉が気になっていた。

「小さい頃から心臓が悪かったわけでは無いと思うよ。知らないうちに血管の供給が細くなっていったという感じかな。」

「原因ってあるんですか?」

「冠動脈の内側が急に狭くなって、心臓に血液を送らなくなる。過度なストレスからも起こることだけど・・・」

まだ高校生くらいに見える。その若さでそんな病気にいきなりなるのは辛いだろうと思った。それに、親元を出ている理由も気になる。

先に食事を終えると、大介は自分の食器を持ってキッチンに向かおうとした。

「あの・・・・」

「ん?」

小さな声が聴こえて、足を止める。

「ありがとう・・・」

「ん?・・・・・・ああ・・・」

実里を見ると、箸を持つ手が少し震えていた。言いにくい言葉には過度な反応があるらしい。大介は少し笑った。

「良いんだ。食べ終えたら、食器を流しに置いといてくれよ。」

実里は頷くと、また食べ始めた。

今日は少しは穏やかに過ごせそうだ。

大介は流しの食器を洗いながら、ふうっと息を吐いた。


志野からの呼び出しは、午後の授業中だった。

”何時に終わる?そっちに合わせる。”

「誰?志野さん?」

となりに座っている堀田が耳打ちしてくる。うなずいて返信を打った。

”多分16時くらい。パルモで”

「俺も久しぶりに志野さんの顔見ようかな。」

本気とも嘘ともつかない言い方をする。大介は堀田の顔を見た。

「言いたいことでも?」

「あるな。」

ゴホンと、教授が咳ばらいをする。二人は頭を下げてノートを書き写すふりをする。

「この間、中間テストの結果が出てさ、お見事。郁也君は学年3位。」

「俺は常に1位だった。」

「お前は文系だろ?彼は理系。しかも、お前より高いレベルの進学校でT大医学部目指してる。」

「家庭教師が良いってアピールだな。」

堀田が拳でタッチしてきた。笑って返してやる。教授に見つかる前に二人は授業に集中した。


堀田とは大学のゼミが一緒だ。

知り合ったのは新入生歓迎会。隣の席に座ったのが始まりだが、ほとんど憶えていない。

新歓コンパなんて飲んで終わりだ。当然二人も散々飲まされた挙句ぶっ倒れて、目が覚めたら公園のベンチで寝ていた。

その日ベンチで目覚めた後、何を話したかまったく覚えていないが、缶コーヒーを飲んでいる時堀田が言ったことだけは覚えている。

「他人の事情にはあんまり興味がないけど・・・」

酒とコーヒーが入り混じった息が口から出て来た。思わず顔をそむけながら大介が咳き込む。

「おまえ、かなり臭いぞ・・・」

堀田が自分の息を手に吹きかけて、顔をしかめた。

「お前もだろ・・・」

大介も同じように自分の息を匂って顔をしかめる。二人はそのままの顔でお互いを笑った。

「興味はないけど・・・・お前のはかなり面白い事情だな。」

「・・・・・・俺、なんか言ったのか?」

大介は急に不安になって言う。

堀田はしばらく考えて、頭を振って「憶えてない」と言った。

「酒が強いのはわかった。そしてとりあえず、弟君の家庭教師は引き受けた。」

「家庭教師?」

「任せとけって。」

堀田は大介の肩をバンバン叩くと、よろよろと立ち上がり歩き出した。その後を追う。

「俺、家庭教師なんておまえに頼んだの?郁也の?おい、待てよ!」

友情はそこから3年間育まれている。


授業を終えると、二人は志野の待つパルモ珈琲店へ向かった。

「おまえなあ・・・・・」

今日は大介より先に堀田がドアを蹴り開けた。目の前に包丁を持って立って居るマスターがニヤリと笑う。堀田は慌てて大介の後ろに回りこんで背中を押し出した。その間5秒。素早いったらない。

「まあまあ・・・・俺が良く言い聞かせて・・・・」

「思ったより早かったのね。」

運よくドアが開き志野が入って来た。そして、堀田の襟首をつかんでマスターの前に突き出す。

「行きましょ。」

マスターに捕まって厨房に引っ張られる堀田を後目に、大介はニヤニヤしながら志野の後ろについてテーブルに座った。

「どう?彼。」

開口一番の質問。恐らく仕事が一段落ついて、”そういえば・・・”と思い出してメールをしてきたのだ。一度気にかかると答えを得るまで我慢がならないのも志野の性格だった。

「編集終了?雑誌になるの?」

「うん。来週号。で?」

「注文は?」

「言わずもがなでしょ。マスター、あたしと大介はいつもの。堀田くんは?」

ちょっとふくれながら注文を投げる。小鼻が少し広がって、途端に子供っぽくなるところが大介は好きだった。

「俺もコーヒー。」

厨房に残っていた皿洗いを済ませて、堀田が合流した。

「めげないわね、堀田君。そこが可愛いけど。」

「お褒めの言葉も麗しい。志野さん、お久しぶり!」

指でハートのポーズを作って志野に向ける。

「アホめ・・・」

「あほだからこそ、愛されるって知らねえの?」

志野が笑った。

「堀田!」

カウンターからマスターの野太い声が聴こえて来た。堀田がマッハの速さで飲み物を取りに行く。

「それで、どう?少年は」

「うん。別になんとも。あ、昨日発作を起こした。」

「発作?」

大介は頷いて、堀田が運んできたコーヒーを口に含んだ。

「うちの主治医の話では、心筋変性症か狭心症だって。どっちみちニトログリセリンは必要なレベルみたいだ。」

堀田が軽く口笛を吹く。

「本人も慣れたもんで、ちゃんと薬を飲んで治めてたよ。俺は水がいるかと思ったんだけど、後で調べたら、舌で溶かして飲むんだって。おまえ知ってた?」

「知るわけないだろ?俺の血族に心臓病はいない。」

志野が少し考えてから言った。

「大丈夫なの?一緒に居て」

「え?ああ・・・」

堀田が黙ってコーヒーを飲んでいる。大介は笑って志野に答えた。

「まだ昨日の今日だし、すぐにどうとも出来ないだろ?様子みて色々聴きだしてみるよ。親も探してるだろうし。」

「そうね・・・・。」

”一緒に居て”と、今志野はいったっけ?その意味を聞こうかどうしようか迷っていた時、堀田がニッコリ笑って言った。

「志野さん、今日は何もないんでしょ?久しぶりに会ったし、飲みに行こうよ。もちろん、志野さんの奢り。」

「おま・・・いきなり失礼だろ!」

「挑戦するのが楽しいの。ね、志野さ・・・」

「良いわよ。」

「え~!?」

堀田の顔が歓喜している。大介も驚いた。

いつもなら堀田のような賑やかな人種とは、必要がないかぎり志野は飲まない。たまに大介が誘うからしょうがなし、と言った風情で付き合うことはあったが、必ずマスターや会社の人間が一緒だったし、堀田からの直の誘いは受けたことがなかったからだ。

意気揚々と会計する堀田の後ろで、大介は小声で言った。

「ほんとに行くの?奢りだよ。」

「大丈夫。今日はそういう気分なの。たまには若いエネルギーも必要よ。もちろん、ここは奢らないいけどね。」

志野が会計を済ませると、堀田がドアを開けて志野を迎え入れた。

大介は予期せぬ出来事に戸惑いながらも、二人の後を追いながら外にでた。


Act.6

その晩は楽しかった。

堀田はいつでも明るくて、場を和ませる術を持っている。だがそれなりに悩んでもいた。

堀田の家庭は中流家庭だが、堅実な会社員の父親と専業主婦の母親が居る。一人っ子の堀田に期待は大きく、父親は常に自分以上になれと言っていた。だが、堀田にはかなえたい夢があることを大介は知っている。

「親の心子知らずっていうけどさ・・・」

堀田はしたたか飲んで酔っ払っている。

「当の親は、子の心は知らなくても良いって思ってるんだよな~」

結局はその話になって、堀田が酔いつぶれるまで飲み会は続くのが常だった。

だが今日は志野が代わりに堀田の話に付き合っている。

「珍しいよね。」

つぶれた堀田をおんぶすると、会計を済ませた志野に言った。

「いつもはこんな飲み会しないでしょ?飲みたかったの?」

「まあね。」

志野は曖昧に笑ってタクシーを拾った。

「乗って、ここも払うから。」

「え?良いよ。俺が・・・・」

「財布をバッグに戻すわよ。」

「ありがとうございました。」

大介は素直に頭を下げて笑う。タクシーの後部座席に堀田を押し込むと、自分も乗ろうとした。そこへ志野が声を掛けた。

「早く彼を親元に返すか、警察に連れて行くこと。」

「え?彼?」

「少年。約束して。」

すっと小指を出して来た。大介は流れでその小指に自分の小指を絡ませる。

「必ずね。残りはカンパよ。」

志野は小指を切って、大介にお金を渡すとタクシーのドアを閉めた。

大介は、遠ざかっていく志野を見たまま、運転手に行き先を告げる。タクシーは夜の中を走り出した。


堀田を送って部屋に戻った時には、深夜1時を回っていた。

実里は眠っているようだ。物音はしなかった。大介は慎重にドアの鍵を閉めると、部屋の中に入った。

寝室を少し開けて覗くと、案の定寝息が聞こえて来る。具合は悪くはなさそうだ。穏やかな息遣いだった。大介は実里を起こさないようにそっと寝室に入ると、クローゼットから着替えを取り出して、シャワーを浴びるためにそのまま抜き足で寝室を出ようとした。その時・・・・

「うわ!」

何かに足を引っ掛けて、大介の身体が床に倒れこんだ。慌てて起き上がるが時すでに遅し。驚いて実里が身体を起こした後だった。思わず声を掛ける。

「大丈夫か?!」

「あんたは?・・・・」

「え?・・・ああ・・・」

足の脛がじんじんする。部屋に明かりがともった。実里がスタンドを付けたのだ。大介は足をさすりながら笑った。

「悪い・・・なんかにぶつけた。」

どうやら寝室に置いてあるパソコンデスクの椅子にぶつかったらしい。実里が眠そうに目をこすっている。大介は少し安堵して声を掛けた。

「具合は?大丈夫か?」

一瞬、実里が眉をひそめる。

「・・・・・・お酒、飲んだの?」

「え?ああ・・・・」

「・・・・酒臭いのは、嫌いだ・・・」

「あ、ごめん・・・・ちょっと、堀田と飲んだから・・・」

頭を掻きながら、何故自分が謝っているのか首をかしげる。

「風呂に入って来るから、寝てていいぞ。」

急いで立ち上がると、大介は脛をさすりながら風呂場へ向かった。


熱いシャワーを浴びると、酔いが覚めてくる。


_______早く彼を親元に返すか、警察に連れて行くこと。


まるで何かの交換条件のように志野は言った。

もちろん、そうするつもりだ。親の仕送りで生活している大学生に余裕はない。だが今の実里の状態だと、身体が耐えられないんじゃないかとも思った。

悪い奴ではないような気がする。シャワーを終えると、バスタオルで身体を拭きながら大介はキッチンのテーブルに座った。

堀田ほどではなかったが、久しぶりに深酒した。酔いが残っている頭を拭きながら流し台の明かりをぼんやり見ていると、寝室のドアが開いた。


_______「郁・・・・」


「誰のこと?」

その声にハッとする。実里がドアにもたれかかって立って居た。

「いや、何でもない。」

大介はバスタオルをテーブルに置くと、パジャマを着た。そういえば、年齢を聴いたことはなかったな。実里は郁也とあまり変わらないかもしれない。病的な細さと、郁也の神経質な細さが重なって見えた。

「酒、しょっちゅう飲むの?」

実里がドアにもたれかかったまま、言葉を投げかける。

「別に・・・・そんなには飲まないよ。弱くないけど・・・誘われた時だけだ」

「良く誘われるの?」

「そうでもない・・・もともとそんなに好きでもないから」

実里と目があった。真っすぐな瞳が大介を見つめている。

大介は妙な感じがして頭を掻いた。

「もう、寝ろよ。そんな薄着で突っ立ってたら風邪ひくぞ。」

「あんたは寝ないの?」

「俺は・・・・」

やっぱり変だ。実里はさっきから大介をジッと見つめていて、答えた先から質問を投げかけてくる。なんだか尋問されているようだ。

「あ・・・・そうか。」

「なに?・・・」

必死に実里が言葉を続ける。まるで会話が止まるのを恐れているようだ。大介は言葉を濁した。

「いや・・・・お前もコーヒー飲むか?」

「飲むと寝られない・・・・」

「じゃ、お茶にするか?」

実里は頷くと、大介と向かい合って座った。


____そうか・・・さっきから、実里が会話を続けようとしている。それに違和感があったんだ。


大介はお湯を沸かしてポットに移すと、実里にハーブティーを入れてやった。自分はドリップコーヒーを入れるための準備をする。

お茶は、大介が唯一こだわるものだ。美味しい茶葉やコーヒーは、心を穏やかにしてくれる。実際に口に入るまでに手間が掛かるのも好きだった。

カップにそそぐお湯から上がる湯気を見ていると、気持ちがほぐれる。実里は入れてもらったハーブティーをそっと口に含むと目を丸くした。初めて飲む味だ。少し苦いような・・・・けれど立ち上がる香りは好きだった。

「良い匂い・・・」

「そうか?カモミールっていうんだ。ちょっと癖がある味だけど、悪くないだろ?良く眠れるからちゃんと飲めよ。」

「あんたのは・・・?」

「俺はコーヒー。いつ飲んでもしっかり眠れる」

そう言って笑う。実里はその笑顔には答えず、カップに顔を埋めた。その様を見ながら、大介は再び志野の言葉を思い出していた。


______親元に戻すか、警察に・・・・

「おまえはさ・・・・どうしたい?」

実里が顔を上げる。大介の言葉を理解しようとしているようだ。

「家出してきたんだよな。荷物はどうしたんだ?財布とか・・・・盗られたのか?」

実里の手が震えている。カップを持って居られなくて手を離した。怖い想いをしたのかもしれない。大介は言葉を選びながらゆっくりと話そうとした。

「親も心配してるぞ、きっと。」

「・・・・・・・・」

「・・・・・警察に行くか?」

「俺は、ここに居たい!」

カップを置いて、実里が立ち上がった。蒼白な面立ちで、今にも倒れそうだ。びっくりして大介も立ち上がる。その大介の腕を実里が掴んだ。

「俺はここに居たい。家には帰らない。警察にも行きたくない。ここに・・・」

後は言葉にならない。ぶるぶると震える手で大介の腕を掴んで、懇願している。瞳に涙があふれて来た。

「ここに居たい・・・」

慌てて涙を手で拭うが、止まらない。抑えて来た感情が一気に流れ出したようだった。

「病気だろ?おまえ・・・」

実里が驚いたような顔で大介を見た。大介は自分の腕を掴んでいる実里の手を静かにはがすと、椅子に座らせた。震える手を包むように、カップを持たせる。

「ちょっと飲め。落ち着くから。」

実里は言われた通りに、カモミールを一口飲んだ。声も無く、涙だけが流れている。

何度も拭うが、とめどなく流れて来る。大介は黙って泣かせるままにしていた。どう声を掛けて良いかもわからない。

ひとしきり泣いたあと、実里がぽつりと言った。

「・・・・・病気なんかじゃない。」

「じゃ、なんだ。」

「心臓が・・・・壊れただけなんだ・・・」


__________心臓が・・・・壊れただけなの・・・・・大丈夫よ


遠い日の美しい笑顔を思い出しそうで、大介は一瞬目を瞑った。実里は続ける。

「いつもは、昨日みたいな大きな発作は起きないんだ。軽いものは薬を飲まなくても治まるよ。」

「ってことは、頻繁にあるんだな」

実里は黙った。もちろん家出には理由がある。それは大介にもわかっている。だが、この少年をここに置いておくのは双方に危険かもしれない。目の前で実里が発作を起こした時、なす術がなかったことを思い出す。大介は答えあぐねていた。

時計を見ると、深夜2時をとっくに回っている。

「とりあえずは寝ないとな。話はまた今度だ。」

立ち上がった大介に、実里は食い下がろうとした。

「俺はここに・・・」

「わかったから。寝ようぜ。」

「・・・・・・・」

キッチンに実里を残し、大介は流し台の手元明かりを消すと、先に寝室に入ってベッドに潜り込んだ。しばらくして、実里がベッド下に敷いてある布団に入って来る。枕元のスタンドが消され、寝室は暗闇になった。耳を澄ませていると、小さく寝息が聞こえてきた。実里が寝たのが分かった。


_______答えは直ぐに出さなくても良い。


実里の心のひだが何故こんなに揺れるのか、大介にはもちろんわからない。だが今は追い打ちをかける時じゃない。

実里の寝息に誘われるように、やがて大介も眠りに落ちていった。



Act.7

「で、結局?」

カウンター越しに大介を睨みながら志野が言った。

大介は咳ばらいをして、ニッコリと志野に笑いかける。

「ご注文は?」

実里の身体が本調子に戻るまで、という言い訳をして、大介はしばらく答えを出すことをやめた。だいたい、家に帰そうにも連絡先を言わないし、警察沙汰は大介も気が乗らなかった。

生活自体は困っていなかったので、実里分だけ、どこかでバイトをすれば賄えそうだった。そうこうしていたら、運よくパルモ珈琲店に空きが出たので、バイトに入れてもらったのだ。

志野のコーヒーをカウンターで淹れる。良い匂いに癒されるのも、この仕事の魅力だ。

マスターはコーヒーオタクで、色んな豆を焙煎している。コーヒー豆のマニア間では有名なお店でもあった。

「はい。美味しいよ。」

志野はコーヒーを一口飲んで、感嘆の声をあげた。

「美味しい。」

「でしょ?」

「でも、それとこれとは別。」

大介は笑いながら頭を掻いた。

「それ、大介の癖ね。頭を掻くの。」

「ああ・・・・。剥げないかな。」

志野が笑った。大介もつられて笑う。

「なんか事情がありそうだし、だからと言ってずっと一緒にいるわけでもないよ。その内落ち着いたら訳を聴いて、俺が連れて帰ってもいいし。警察は・・・」

「気が進まなかった?」

「うん。」

「捜索願が出てると思うわよ。問い合わせだけでもしてみれば?」

「うん・・・まあ・・・」

ドアが開いてお客が入って来る。話が切れてホッとしながら、大介は注文を取りにカウンターを出た。


________どうしようもないガキね。


冷静に考えれば家出少年を匿うなんてどうかしている。捜索願が出ているとすれば、下手したら誘拐犯だ。ファンタジーじゃあるまいし。志野はコーヒーを持って喫煙席に移動した。

「何かかけるか?」

マスターが声を掛けてくれる。

「任せるわ。渋いのが良い。」

バッグから煙草を取り出して火をつける。しばらくすると、レイ・チャールズのしゃがれた声が聴こえて来た。笑いながらカウンターに向かって手を振る。

「誰?この歌手。」

大介がお盆を手に、志野の前に座った。

「レイ・チャールズ。R&Bの大御所よ。」

「ふーん。あ、いらっしゃいませ・・・」

再びドアが開いて入って来たのは、実里だった。

「あら、久しぶりね。」

志野が声を掛けた。実里が声のした方を見て志野の姿を捉えると、軽く頭を下げた。

「良かったらこっちにいらっしゃいよ。」

「だめだよ志野、たばこ。」

大介が小声で言うと、立ち上がって実里の傍に行った。実里は買い物を頼まれていたらしく、大きな袋を二つ持ってカウンターへ入る。志野は肩をすくめて二人を見つめた。

実里がパルモ珈琲店に転がり込んでから、二週間ほど経ったろうか、彼は一日のほとんどを大介の部屋か店で過ごしていた。今時の若者にも関わらず、スマホも持っていない。荷物と一緒に失くしたのかもしれないが、詳しくは聴かないままだった。日中全く連絡が途絶えるのも心配だし、バイトをしている時はなるべく店にいられるように、大介がマスターに掛け合った。

「そりゃ構わないが、ただ座ってるだけなのもなんだろ?」

マスターのその一言で、実里も時々店を手伝うことになった。心臓のことはマスターにも話してある。特に何も言わないが、負担のない仕事を与えてくれていた。

買い物の荷物をマスターに渡すと、実里はカウンターに座って店に置いてある漫画を読んでいる。

志野は煙草を消すと、バッグからアロマのスプレーを取り出して軽く体に掛けた。禁煙、禁煙と謳っている昨今、喫煙者には住みづらい世の中になっていて、ため息が出る。

「座っても良い?」

言いながら、実里の横に座る。実里が漫画から顔を上げて志野を見た。

「もう、座ってる。」

「あら、確かにそうね。」

志野はニッコリと笑った。

少年はあの時と違って随分綺麗になっていた。確かに病的ではあるが、そこそこ顔色は悪くないし、伸びすぎた髪の毛が緩やかな天然で、ふわふわと顔に掛かるのが儚げに見える。

「具合はどう?」

「具合・・・」

「発作が起きたんでしょ?」

少年が一瞬大介を見た。それを志野が捉える。

「ああ、ごめんね。大介は私には何でも話すの。お姉さんだから。」

志野はまたニッコリと笑った。子供じみた意地悪は、時としてストレス解消になる。実里は黙ってうつむいた。


______君より先に、大介は私と会ったのよ。


つい、言葉にしたくなる。自分にこんな感情があるとは思わなかった。まるで大介を取り合いしているようだ。子供相手にらしくない。少し苛々してコーヒーをお替りしようとした時・・・・

「あなたは・・・大介の彼女なんですか?」

ふいに、思いもよらない質問を投げかけられた。志野は心から驚いて実里を見た。真っすぐな瞳が答えを待っている。

「彼女?」

志野は苦笑いして、こう答えた。

「彼女じゃないわ。お姉さんなの。」

「・・・・・お姉さん?・・・」

「なんの話?さっきから二人で仲いい感じだけど・・」

タイミングよく、大介の能天気な声が聴こえて来た。実里の表情が硬くなる。

「でしょ?そろそろ行くわ。またね、実里くん。」

志野の顔を見ずに、実里は黙って頭を下げる。不本意な感情が彼を不機嫌にしたのが、志野には解った。

「もう行くの?今は仕事も混んでないんでしょ?」

「次の取材があるから。そういえば、”Town”の読者モデル、そろそろ大介に声かけたいみたいよ。編集長。」

大介は頭を振った。

「もうそういうの、良いよ。金にはなったけど・・・面倒臭い。」

「モデルやってたの?大介が?」

実里の表情が明るくなった。志野が話題に乗ってやる。

「結構人気ものだったのよ。ファンクラブも出来てたくらい。」

「ファンクラブ?」

実里が笑う。大介が照れて頭を掻きながらカウンターから出て来た。

「外まで送るよ、志野。」

「結構よ。少年が笑い死にしそうだから。」

笑いをかみ殺している実里とそばで頭を掻きまくっている大介を残し、志野は外に出た。


11月の木枯らしが一瞬噴き上げる。志野はコートの襟を立てて前をしっかりと合わせた。


______なによ、この感情は・・・・


地下鉄の駅に向かいながら自問自答する。

志野と大介。一回りも年が離れた二人の関係は、一言では語れない。

出会いは編集者と読者モデルであったが、回を重ねるごとに、気難しい志野の性格をものともしない大介の大らかさに、志野が興味を持ったのだ。

「良くあたしと一緒にいられるわね。」

「どういう意味?」

撮影のお昼休憩時、二人で昼食を取りながら、感嘆したように志野が言ったことがある。

その日も抱えているスタッフの手際の悪さに志野が爆発して、一瞬現場が凍り付いたのだ。

「言葉通りよ。面倒臭い人間でしょ?私は。直ぐにイライラするし、怒るし・・ちょっと待って!」

大介が頭を掻こうとしたところを、志野が止める。髪がセットされているのだ。

「ごめん・・・。」

ニッコリと笑う大介の笑顔は憎めない。志野も呆れて笑うしかないのだ。

「それも不思議よね。」

「え?・・・」

「笑うからよ。」

大介がキョトンとして志野を見た。

「笑っちゃだめ?」

これには志野も噴き出すしかない。依然として大介は不思議そうに志野を見ている。

この天然のボケっぷりに志野は癒されているのだ。大介はカルボナーラを口いっぱいに頬張りながら言った。

「でもさ、喜怒哀楽が激しいってさ、人間っぽいよ。それに・・・」

「それに?」

「志野の作品は、誰かにとっては夢だったり、勇気だったりさ、そんなものかもしれないよ。」

「・・・・どうして?」

「だって良いもん。」

それから大介は、志野にとって唯一心を許せる存在となった。

もちろん、本人にそれを伝えたこともなければ、大介自身が自分をどう思っているかも聴いたことはない。だが、大介にとっても志野が唯一無二の存在であったことはわかっていた。

あの日、一度だけ大介に抱かれたその時に。

手に持っていたスマホがいきなり振動する。画面をみると編集長からのメッセージだった。志野はホームに降りる前に、編集長に電話を掛けてこう言った。

「残念ながら、大介には振られました。今後読者モデルはしないって。」

それだけ伝えると、ホームへ駆け足で降りて行った。



Act.8

実里との生活は、大介にも変化を与えていた。

誰かと生活を共にするということを避けていた大介だったが、やむを得ず始まった共同生活は、思ったよりも日々に張りを産んだ。

決まった時間に起きて食事を作って食べさせ、洗濯や掃除も、実里の身体のためを思えば必然になった。ほこりが身体に良くないと思ったからだが、そんなに自分が人のことを考える人間だったことにも驚いている。

実里は実里で大介の生活圏を奪っていることに対しては謙虚になり良く手伝った。例えば大介が授業で不在の時は、実里が掃除や洗濯をやった。実際、無理をしなければ実里の心臓はおとなしかったのだ。時々夜中に息苦しくなることはあったが、少し静かにしていれば発作には至らなかった。

「なんかお前、顔色良くなってないか?」

講義の終わりに堀田が声を掛ける。

「病人と一緒に暮らしてるからな。健康的な毎日を目指している。」

大介が教材をリュックにしまいながら答える。今日はもう一つ講義がある。それが終わってからパルモに行く予定だった。

「良く続くな。そろそろひと月か?」

「そうかな?そうだな。」

実里とで会ったのは11月だった。いつの間にかジャケットがダウンコートになり、大学も冬休みに近づいている。生活に追われて時間が過ぎていくのを忘れていた。

あの時以来、志野もパルモに顔を見せていない。年の瀬が迫ってくると雑誌は忙しい。クリスマスから年末年始までは話題が盛りだくさんだ。きっと夜も寝ないで編集作業に追われているのだろう。そういう時は、志野からの連絡を待つしかない。

「講義が終わってからバイトか?」

「そうだけど・・・・」

さっきから堀田が大介の情報を探っているのが明らかにおかしい。

「なに企んでんだよ。俺の情報探ってなんかあんのか?」

「あるわけないだろ。単なる好奇心とかって思わないの?」

「思わない。怪しさしかない。」

堀田がニンマリと笑う。

「俺はこれで上がりだ。じゃな。」

手を振りながら堀田が階段を駆け下りて行く。それを見送りながら、大介は逆にもう一階階段を上がって講義室に入って行った。


志野がひと月もパルモ珈琲店に顔を出さないのは初めてだった。

会社が近いこともあって、編集社の社員も良く通っている。忙しいからこそ息抜きに来る店だった。最後にあった時の志野を思い出す。実里と何を話していたんだろう。

大介は志野が好きだ。

恋愛感情ではなく、かといって友情でもない。人として慕っていた。

それは偶然出会ったその時から始まって、今も変わらない。大介が唯一心を許している大人なのだ。

たった一度、大介は志野の身体を求めたことがある。

経緯は忘れた。

どうにも抑えられない負の感情に支配されて、気が付いたら志野の乳房に甘えていた。

志野は黙って大介を抱きしめると、大介が持て余していた悲しみも怒りも、全て受け止めてくれた。志野が自分の手を離すことなど、考えたこともない。

だけど今大介は、志野との間に出来た距離を受け入れようとしている。

それは、実里との生活が二人の間に在存し始めたからだと理解もしていた。そのこと自体、大介にも信じがたいことではあったが。

教授が講義室に入って来る。大介は講義に集中するためノートパソコンを開いた。


「ごめん!講義が伸びて!」

パルモ珈琲店のドアを開けたとたんに、言い訳をまくしたてる。実際講義も伸びたのは伸びたが、真実は講義中に熟睡し、授業が終わっても目が覚めなかったことだ。

急いでエプロンを付けながら、苦笑いで乗り切ろうとマスターを見ると、奥の席を親指で示しながら礼儀正しくマスターが言った。

「お客様がお待ちなので、怒鳴るわけにもいかないが・・・・・」

「お客様?」

その背中を一発どついてから、マスターが紅茶とクッキーを乗せたお盆を大介に渡した。

示されたテーブルを見ると、制服姿が見える。大介はため息をついて、その席に向かった。

「お待たせしました。」

「兄さん!」

郁也の頬がパッと蒸気した。大介は嬉しそうに微笑む弟の頭をクシャクシャと撫でてやる。

「元気だったか?これはマスターから」

目の前に紅茶とクッキーを置くと、郁也の向かい側に座る。郁也がカウンターのマスターに頭を下げた。マスターも目じりが下がっている。

本人には自覚がないが、郁也には無防備な無邪気さが備わっている。小さい頃から誰でも郁也を見て目じりを下げた。素直に可愛いと言われた。高校2年生になって少しは大人っぽい顔立ちになってきたが、天性のものは変わらない。あの厳格な父でさえも、郁也には惜しみなく愛情を注いでいた。

「この間の中間テスト、三位だったって?堀田が威張ってたぞ。俺の教え方が良いんだって。」

郁也が笑って頷いた。

「でも、一位は無理だった。頑張ったんだけど・・・」

「上には上がいるってことだろ?」

「兄さんはいつも一位だったのに・・・・」

「俺は文系。それにお前の高校の方が偏差値は高いよ。医学部なんて俺には無理だ。」

堀田に言われたそのままを投げると、郁也は真剣に大介を見て言った。

「そんなことない。兄さんがどれだけ勉強してたか僕は知ってるよ。そんな風に言うなんて・・・」

拗ねるように伏し目がちになる。大介は苦笑いをして紅茶のカップを郁也の前に押し出した。

「わかったよ。俺が一番。だろ?」

再び郁也の頭をクシャクシャにして笑う。郁也がつられて笑った。

この繊細な弟は、母親の面影を常に宿している。それが大介には辛かった。

小さい頃から自分を慕っていつも後をついてくる弟は、その無邪気さゆえに時々大介を無意識に責めた。

「ここへは堀田と一緒に来たのか?」

郁也が頷いた。やはり企んでいたか・・・・・堀田が最後にニンマリ笑った顔を思い出す。

「でも堀田さんは悪くないよ。僕がお願いしたんだ。兄さんに話したいことがあったから。」

「なんだ?」

「父さんのことなんだけど・・・・」

「うん。」

郁也は紅茶を一口飲んだ。父親と大介の関係に郁也が緊張するのはいつものことだ。こんなところまでも母親の繊細さを受け継いでいる。

「少し具合が悪そうなんだ。最近忙しいみたいで、いつも帰りが遅いし。この間、珍しく早く帰って来たと思ったら三橋先生を呼んでた。」

父親の主治医の名前だ。前に実里を診てもらったことを思い出した。実里のことも、父親の耳には入っているだろう。

「三橋先生はなんて?」

そのことには触れずに、大介は当たり前のことを聞く。

「僕は部屋には入れないから・・・」

「ああ、そうか。」

そうだった。簡単に自分の弱さを見せる父親ではない。

「その後少し良くなったみたいだけど・・・・心配なんだ。」

「父さんは?何か言ってた?」

郁也は少し間をおいてから、残念そうに言った。

「何も心配しなくて良いって。少し疲れただけだって。」

「そうか・・・・」

「父さん、大丈夫かな?」

郁也が大介を見る。大介は弟の顔を久しぶりにちゃんと見た。実里と同じくらいかもしれない。そういえば歳を聞いたことなかったな・・・・

「兄さん?」

「ああ、ごめん。お前の顔、少し大人っぽくなったよな。」

「そんなこと。」

郁也が顔を赤くして下を向く。大介は笑った。

「大丈夫だよ。父さんは無理はするけど、自分のことは自分でケアできる人だから、本人が心配するなって言ったんなら、心配ないよ。」

「本当にそう思う?」

「うん。そう思う。」

郁也が手を出した。大介はその手を両手で握ってやる。これは郁也の不安を取り除く方法だ。小さい頃からの約束みたいなもので、郁也が何か心細い時や不安を感じる時に、しばらく手を握ってやると落ち着いたのだ。郁也は大介の手に自分の手を預けながら言った。

「兄さんは、戻らないの?」

「うん。まだな。」

郁也は大介と逢うと、必ずこう聞く。それは会話の最後だったり、途中だったり、ふと不安に駆られて大介の手を握った時に、必ずなされる会話だった。

「どうして?」

「どうしても。クッキーは食べないのか?」

「いらない・・・・・。」

大介は笑って郁也の手をしっかりと握ってやる。

「いつも言ってるけど、これは俺の問題だから、ちゃんと解決させないといけないんだ。家を出る時に、父さんともそう約束した。」

「知ってる・・・・」

「だったら待てるだろ?いつでも会えるし、話せるし。メッセージも無視しないしな。」

郁也が頷く。

「本当は兄さんに勉強を見てもらいたいし、一緒にご飯も食べたい。もっと色々話したいのに・・・」

大介は笑って立ち上がると、クッキーを袋に入れて郁也に持たせた。

「そろそろ仕事しないとな。そこまで送るから。」

郁也がしぶしぶ立ち上がってコートを着る。マスターに挨拶して大介と一緒に店を出た。

外を歩きながらふと、郁也が言った。

「今、居候がいるんでしょ?」

おのれ、堀田め。口が軽すぎるぞ・・・・・

「うん、まあ、事情があって。」

「お金足りてる?僕のお小遣い回そうか?」

「高校生の言うことか?」

郁也の頭を軽く小突く。郁也が笑った。

「大丈夫。俺も十分もらってるから。」

タクシーを止めて郁也を乗せると、もう一度頭をクシャクシャにする。郁也がその手を握って言った。

「兄さん、僕、いつも待ってるよ。待ってるから。」

答える前に、タクシーのドアが閉まった。窓から大介を見る郁也の顔に母の顔が重なって、一瞬目を閉じる。大介はダウンジャケットの前を合わせると、小走りで店に戻って行った。


「あれ?・・・・」

実里はパルモに行く道すがら、目の前の見慣れた顔に足を止めた。

「大介?」

声を掛けようと走り出して、直ぐにやめる。大介が一人ではないとわかったからだ。彼は制服姿の少年と歩いていた。


_____高校生?


二人と距離を取りながら、そっと後をついて行く。少年が着ている制服を見たことがあった。確か有名な進学校だったような・・・・。その時、大介が笑いながら、少年の頭をクシャクシャにした。少年は抗いながらも嬉しそうに笑っている。


_______ 郁也・・・・


前に大介が、実里のことをそう呼んだことを思い出した。その名前はあの少年のものなのだろうか。

「誰だろう・・・。」

そうこうしていると、大介が手を上げてタクシーを拾った。二人が止まったので実里は街路樹の後ろに隠れる。車が止まると、少年が乗り込んだ。少し話しているようだったが、やがてタクシーは走り去った。

大介が一緒に乗らなかったことに、実里は安堵する。何故かそのまま大介が消えてしまうような気がしたのだ。

大介はタクシーの去った後を少し見送っていたが、直ぐに店に向かって走り出した。実里は大介の後ろ姿から目を離さずに、ゆっくりと後を追って歩き出した。



Act.9

気が付けば、鏡の部屋にいた。

周りも、足元も、天井も、どこを見ても大介が映っている。


______ああ・・・・またか・・・・


大介はヨロヨロと立ち上がると、鏡の壁に手を付けて歩き出した。狭いのか、広いのかもわからない。大介の歩みと共に壁が数を増やしていき、部屋の空間が広がっていく。


_______早くここから出ないと・・・・そうしないと浮かんでくる・・・・


一つ一つの鏡の壁を探る。しかし、出口がない。鏡に映る自分の顔が、ふと郁也の顔に変わる。


______兄さん、帰ってこないの?


その鏡を思いっきり拳で突き破ろうとする。鏡は割れて、新たな鏡の壁が生まれる。拳から血がながれ出て、大介の足跡を床に付けた。


_________早く出ないと・・・俺には耐えられない・・・・


振り向いて反対方向へ歩き出したその時、目の前の鏡に人影が浮かび上がった。大介の身体から力が抜けて、その場に座り込む。

長い髪が大介の頬に触れた。白い指先が、憐れむように大介の頭を撫でる。哀しい瞳は泣きもせず大介を見つめていた。


________母さん・・・・・


大介はその手を取って頬ずりをした。

抱きしめられているはずなのに・・・何も感じない。恋しくて恋しくて、涙が溢れる。もっとその身体からぬくもりを感じたくて、大介は母の身体を必死に抱きしめた。


________母さん・・・・・俺は・・・・


ふと、掌に何かを掴んでいることに気づいた。

ゆっくりと指を開こうとすると、いきなり目の前の鏡が崩れ落ちた。母の残像が無残にも粉々になっていく。悲鳴を上げて大介は、崩れていく鏡の破片を拾おうとした。

その時、自分が握っていたものが手からこぼれ、大介はそれが何かを知った。急いでそれを拾うと、鏡の中を探し回った。だが、次から次へ鏡は崩れていく。


________母さん!母さん!俺は・・・・


手の中から白い粉が零れ落ちて、大介は泣きながらその粉をかき集める。血だらけの手に粉が染まった。


_______俺は・・・・


「大介?・・・」

スタンドの明かりが眩しくて、大介は顔を手で覆った。幾筋も涙が流れている。しばらくそのまま嗚咽した。実里は泣いている大介を驚いて見つめている。

やがてすこしずつ嗚咽が小さくなってきた。顔を覆ったまま大介が呟く。

「スタンド・・・・消してくれ・・・・」

「うん・・・。」

実里は言われたままに、スタンドを消した。自分の顔が見えなくなったと感じると、大介はゆっくり体を起こした。

「大丈夫?」

小さく実里が声を掛ける。大介は頷いた。暗闇で実里に見えないかもしれないとは考えが及ばなかった。ふいに感情が込み上げて来て、再び嗚咽する。あの夢を観て、こんなにも心が揺さぶられたのは初めてだ。

暗闇に慣れた目でそれを見ていた実里は、そっと立ち上がると静かに寝室を出て行った。

夢の中の女は何も問わない。

いつも、ただ大介を抱きしめるだけだ。責めもしないし、哀れみもしない。それが大介を余計に苦しめると言うことがわかっているかのように。

「・・・・・・俺は・・・あなたが可哀そうだったんだ・・・・。」

大介は消え入るような小さな声で、言葉を紡いだ。

ふと、温かいものが頬に当たる。

ビクッとして顔を上げると、実里が温めたタオルで大介の涙を拭おうとしていた。

「ごめん・・・熱かった?」

「・・・・・・・」

大介が答えないので、実里はそのまま大介の頬にタオルを当てる。

「発作が酷い時、汗と涙が沢山出るから・・・いつもこうやって拭いもらってたんだ」

親のこととは言わないが、その気持ちが分かった。

「そうか・・・・」

「うなされてたよ。酷く・・・・」

「うん・・・・」

「夢、見たの?」

「・・・・・・まあな。」

大介は実里からタオルを引き取って、スタンドを付けた。顔をゴシゴシと拭いてから、身体の汗も取る。

「お茶、入れようか?」

大介は実里を見た。不安そうに瞳が陰っている。大介は素直に実里の気遣いに従った。

「そうだな。飲もうか・・・ちゃんとジャケットを羽織ってキッチンへ行けよ。」

実里はホッとして、枕元のダウンジャケットを持って立ち上がった。

大介はしばらくその後ろ姿を見ていたが、やがて汗にまみれた寝巻を脱ぐとと立ち上がった。


実里は大介との生活の中で、いつの間にかお茶を淹れることを覚えた。

大介が趣味で取り揃えている様々なお茶を少しずつ飲んで、味を楽しむことも好きになった。大介はほとんどがコーヒーだったが、それでも一日に一回はお茶を楽しんだ。特に朝や寝る前に。

実里はどのお茶にするか少し迷ったが、最初に大介が淹れてくれたカモミールにした。気持ちを落ち着かせてくれると教わったからだ。

大介はテーブルに着くと、目の前のカップを手に取り匂いを嗅ぐ。それから一口お茶を飲んだ。温かい液体が身体の芯を通っていく。その温かみに救われるような気がした。

実里も黙ってお茶を飲んでいる。二人でいる時は、特に会話をしないことも多く、それが実里には心地よかった。

「今日さ・・・・」

ふと、夕方のことを思い出して実里が口を切った。大介はじっとカップを見ている。話を止めようかと思ったが、知りたい思いが勝って、実里は続けた。

「パルモへ行く時に、あんたを見たんだ。」

カップを見ている大介の瞳が少し開いたような気がしたが、実里は無視した。

「誰かと一緒だったよ。」

「ああ・・・・・」

大介は郁也の顔を思い出した。まだ少年のあどけなさを残した整った顔立ち。柔らかな髪の毛が風に舞っていた。茶色がかった瞳は大きくて、見た感じの雰囲気とは違って意志をはっきり告げている。それが郁也を強くしていた。

「それ、弟だよ。俺に会いに来たんだ。」

「弟・・・。」

「うん・・・4つ違いで今年17だ。・・・おまえは?」

「え?・・・・」

「お前の歳だよ。聴いたことなかっただろ?」

急に自分に矛先を向けられて実里は戸惑う。だが、いつもの大介の口調に少しホッとした。

「・・・・同い年。」

「17か?」

「うん・・・・」

「そうか・・・」

大介はカモミールを一口飲んで、目の前の実里を見た。同じ歳なのに、送っている人生は全く違うんだな・・・・。

「郁也は・・・・母親によく似てる。」

「母親・・・・・」

「俺の母親は・・・・俺が8歳の時に死んだんだ。心臓が悪くて・・・・」

ドキッとして実里が大介を凝視した。大介はカップに目を落としたままだ。もしかしたら、この話は聞かない方が良いのかもしれない。

「お茶は?おかわりする?」

大介は首を横に振った。

「じゃあ、俺は寝るから・・・」

急いで立ち上がり、カップを流しに置く。

「おやす・・・・・」

「お前の発作が起きるまで、ニトログリセリンがどういう薬か知らなかった。」

大介が立ち上がって、自分のカップを流しに置く。そのまま水を出してカップを洗い始めた。

「母親の心臓は先天性のもので、小さい頃から弱かったらしいんだ。それを父が引き取るようにして結婚した。馴れ初めは知らないけど、愛しあっていたみたいだ。母と一緒に付いてきた乳母・・・艶っていうんだけど、艶さんが教えてくれた。」

「お金持ちだったんだ・・・・乳母なんて、初めて聞いた。」

大介の口元が緩んだ。実里も少しホッとして大介と並んで流し台にもたれかかる。

「俺が物心ついた時には、母は一日の大半を寝ていた。もう長くなかったんだと思う。俺と、郁也まで産んで、ギリギリの体力だったんだよな。今、思えば・・・・」

「・・・・・・・」

「それでも毎日、決まった時間に母に会うことが許されていて、その間は絵本を読んでくれたり、歌を歌ってくれたり、調子がいい時は車椅子に乗って庭にも出て、ボール遊びもした。俺は・・・母さんが大好きだったんだ・・・」

大介は目を瞑り、8歳の自分と美しくて儚い母の笑顔を思い出す。どんなにか、あの笑顔を護りたかったか・・・・・・でも、護れなかった・・・・。

大介は深く息を吸った。

「ある日・・・母の部屋にいつものように行ったんだ。珍しく艶さんもいなくて、母は横になっていた。少し呼吸が苦しそうだったけど、俺の顔を見ると笑ってくれた。その顔が・・・」

流し台の明かりに照らされた大介の顔が、真っ青に見える。実里は思わず大介の手を握った。

「もう、やめようよ・・・・大介、苦しそうだよ・・・」


_____苦しそうだよ、お母さん・・・・


ついさっきまで、横たわって大介を撫でていた母が、急に苦しみだしたのだ。顔色が雪よりも白くなって、呼吸が荒くなる。池の鯉のように口をパクパクさせて、手を差し出した。

大介は思わずその手を取って、母の口元に耳を当てると、母は言った。

「薬・・・・薬をちょうだい・・・・」

大介が周りを見回すと、枕元に薬の袋があった。大介はその袋を母に見せる。

「お母さん!これが薬?これを飲むの?」

母が頷く。顔が真っ青だ。大介は袋から薬を出すと母に差し出した。母はひったくるようにして大介の手から薬袋を奪った。だが・・・・・うまく開けられない。目の前で必死に薬袋を破ろうとしている母の顔に怯えた。まるで、鬼のようだ・・・・優しい母の姿が豹変していた。

母は開かない薬の袋を床に投げ捨て、もがき始め、声にならない声を上げて空気を求めた。大介は、ぶるぶると震えながら、投げ捨てられた薬を凝視した。そして袋を拾うと、ギュッと握りしめたまま目を瞑った。


「その時、何を考えてたと思う?」

痺れるほど強く実里の手は握られていた。実里は黙って耐えていた。それしか出来なかったからだ。

「このまま・・・死ねばいいって・・・」

大介の身体が床に沈んだ。実里も一緒にしゃがみ込む。

「俺はただ怖くて、ぶるぶる震えてた。間一髪で艶さんが戻ってきて、母に薬を飲ませたんだ。でもその一週間後・・・母は死んだ・・・・」

実里は次の言葉を聞きたくなかった。そんなことはあり得ないことだ。

「俺が・・・」

「違うよ。」

大介は救いを求めるように実里を見た。

「俺が・・・・殺した。」

「違うってば!」

実里は大介の身体を掻き抱いた。涙が止まらない。大介の心が乗り移ったみたいに、実里は号泣した。大介は自分の代わりに泣いている実里の背中を静かにさすりながら言った。

「そうやって、父も・・・・艶さんも・・・、誰も俺を責めなかった。俺は幼くて状況が良くわかってなかったんだと言われたよ・・・・。でも、わかってたんだ・・・・。あの鬼のようになった母を見て・・・。」

「だめだよ・・・・そんな風に考えちゃだめなんだ・・・」

実里の身体が温かい。凍っている大介の心も溶けるような・・・・。大介はしっかりと実里を抱きしめた。抱きしめている間は、生きているような気がしたからだ。

「それから俺は夢を観るようになった。」

「・・・・・・・」

「俺は鏡の部屋に居て、出口を探してる。その内、その鏡に・・・・・」

実里が顔を上げた。涙でグシャグシャになっている。大介は寝間着の袖口で、実里の涙を拭いてやった。

「母が浮かぶんだ。何も言わず・・・ただ笑ってる顔が・・・・」

大介は目を瞑った。実里は大介の目が二度と開かないような気がして、大介の顔に触れる。その指先に誘われるように大介は目を開けて、実里の指に手を重ねた。

「俺は嬉しくて、その笑顔を触ってみたくなって手を出すと、その手に・・・・薬袋を握ってるんだ。薬は・・・・」

「もう、良いよ・・・・。」

実里の声は懇願している。大介は実里の肩を抱いてさすってやる。

「薬は手から落ちて、鏡は全部崩れ落ちるんだ・・・・。」

「良いってば・・・・」

「お前の薬も・・・握ってしまうかもしれない・・・・」

「そんなこと、するわけないだろ!」

「俺は・・・・母さんが可哀そうだったんだ・・・・」

「・・・・・・・・」

「綺麗な母さんが、あんなに苦しんで・・・鬼のような顔をして・・・のたうち回って欲しくなかったんだ・・・・」

「大介・・・」

「俺は・・・・」

大介の瞳に涙が溢れて来た。母を亡くしてから涙は枯れたと思っていたのに・・・・大介は信じられないという顔をして、実里を見た。実里はもう一度大介をしっかりと抱きしめた。

「母さんを・・・・愛してたんだ・・・・」

そうやって実里の肩に顔を埋めると、生まれて初めて、大介は慟哭した。

身をよじり、声を上げてただ泣いた。

実里は黙って大介の涙をただ受け止めた。この瞬間、17年生きて来て、初めて人のために自分を差し出した。それは大介だったから。真実そうだった。


Act.10

「志野、ちょっと・・・・」

撮影から戻って来た志野に編集長が声を掛けた。志野は少し怪訝そうな顔をして編集長が向かった会議室へ目をやる。彼が特に目的を言わない時は、何かの問題が起こっているのが常だ。志野はため息をついてバッグを机に置くと、会議室へ向かった。

「問題でも?」

椅子に座りながら話を切り出す。さっさと終えて編集作業に向かいたかった。どうせ、パワハラとかモラハラとか、若い社員からのクレームだ。さっきも現場でかなり苛々していた。

「わかってんだろ?」

編集長が志野の機嫌を見ながら、単刀直入に切り出す。

「最近、かなり苛々してるって聞いたぞ。」

今も苛々している。ついさっき、もたついていたカメラマンからカメラをひったくって、自分がモデルを撮影した。プライドが傷つく顔には慣れている。

「だから?」

「おい・・・」

さすがに編集長も真顔になる。

「すみません。」

志野は素直に謝った。どうしても感情的になってしまう。

「なんかあったのか?イライラはいつものことだけど、仕事に関してだけだったろ?ところがここ最近、社内に居てもそうだ。みんなが緊張してるのもわかってんだよな。」

「・・・・すみません。」

謝るのも頑なでは話の繋げようがない。編集長がため息をついた。

「とにかく、もう少し人の輪を大切にしてくれよ。」

「その言葉、大嫌いだわ。」

「嫌いでもだ。」

「・・・・・・・」

「それとも、ここを辞めるか?」

「編集長!」

彼は、それまで手に持っていたA4の封筒を志野の前に置いた。

「・・・・・・なんですか?これ。」

「この会社に行ってみる気はないか?」

思わぬ提案に、志野は戸惑いながら書類を出した。英字が目に入った。

「海外ですか?」

「ロンドンだ。これから立ち上げるスタートアップ企業で、雑誌企画の部署がある。俺の後輩がメインで入っているんだが、雑誌編集者を探しているらしい。」

志野は書類に目を通した。

ロンドンと日本でライフスタイル全般の会社を立ち上げようとしている企業で、生活用品やファッションなどを販売する他、新たに書籍や雑誌も創刊するようだ。

「日本じゃなく?」

「どっちにも販売経路は置くつもりらしいが、撮影に関してはほぼロンドンでやるつもりらしい。雑誌も英語版、日本語版と作る。VogueやCosmopolitanが海外版をその国の言語で出すのと同じだ。」

志野は改めて書類に目を落とした。

規模が大きい。今までに経験したことがない海外の枠の中で、何もかもを最初から起こしていこうとしている強いエネルギーを感じる。

「志野・・・」

志野が顔を上げる。高揚して頬が赤く染まっていた。編集長は少し笑って言った。

「お前にはここは狭い。おまえの苛々に対処できる若い奴も、まだ育っていない。それを待っている間にお前は枯れていくぞ。もったいないだろ?」

「・・・・・・・・海外で、通用すると?」

「それはわからん。いかなお前でも、やってみないとな。」

志野は頷いた。確かにそうだ。

これは、30代に入った志野には最後のチャンスかもしれなかった。今のキャリアをベースに新しいキャリアを積んでいくエネルギーが、自分にはまだある。逃してはいけないと思う。だが・・・・

「いつまでに・・・・お返事を?」

「即答しないのか?」

意外だという風に編集長が目を開いた。志野は自分の返答に苦々しさを感じながら頭を下げる。

「少し、考えたいので。」

「解った。」

「すみません。」

「急に殊勝になると、調子が狂うな。」

編集長が高笑いする。

「とにかく、しばらくは”人の輪”を考えてくれよ。これ以上文句を言われるのも面倒なんだ」

志野は部屋を出て行く編集長に頭を下げて、もう一度書類を手に取った。


「大丈夫?なんか食べる?」

アイス枕を頭に乗っけながら、大介は首を振った。実里が心配そうに顔を覗く。

今朝、珍しく大介は熱を出した。体温計は38度。悪寒がするのに顔は熱い。食欲も全くない。

さっきから健康飲料をがぶ飲みして、とにかく汗をかいている。

「悪い・・・着替え・・・・」

半身起き上がって湿ったシャツを脱ぐと、タオルで汗を拭いて実里が持ってきた新しいシャツに着替える。直ぐに悪寒がして布団に潜り込むと大介は目を瞑る。

実里はたまって来たシャツを洗濯機に投げ入れると、洗剤を入れた。

昨日の大介の言葉を憶えている。


_______母さんを、愛してたんだ・・・


まるで自分の言葉のように、胸が詰まった。8歳から昨日までの間、どんな想いで生きてきたのだろう・・・・。大介の苦しみと思慕は、想像も出来なかった。

洗濯機のスイッチを入れてキッチンへ向かうとお茶を淹れる。今日はさっぱりした味が良いかもしれない。ローズヒップの葉を淹れた。

「大介・・・・お茶いれたよ。」

大介がうっすらと目を開ける。

「温かいお茶も飲んだ方が良いよ。健康飲料ばっかりじゃ・・・」

ローズヒップが香る。大介はゆっくり体を起こした。

「ハーブティー・・・・良いだろ?」

そう言うとお茶を口に含み飲み込む。一気には飲めなかった。

「うん。薬みたいだよね・・・」

実里が微笑む。つられて大介も微笑んだ。ふと外を見ると、ちらちらと雪が舞っていた。12月に入ってからぐっと気温が下がった気がする。どうりで寒いと思った。

「お前、大丈夫か?寒くない?」

「こんな時まで人の心配?」

大介は笑った。実里はカーディガンを大介の肩に掛けてやった。クローゼットから持ってきたのだ。

「こんなの持ってたか?」

「憶えてないの?」

「あんまり興味ないからな・・・カッコ良いのに・・・・」

「自分で言う?」

また二人で笑った。

不思議だ。今日は実里の声が心地よい。

昨日、何もかもを実里の小さな胸に吐き出したからだろうか・・・・。その存在が大きくなって、この部屋を満たしていることに大介は気づいていた。

実里が立ち上がってカーテン越しに窓の外を見る。

「積もらないね、これくらいじゃ・・・」

「うん・・・・。」

熱でガードが外れているからか、大介はふと好奇心に駆られた。

「お前、高校生だよな?」

「え?・・・」

「どこの学校だ?」

実里は少し考えてから答えた。

「M高校。」

「M・・・・」

大介は自分の頭の中にある情報を拾った。

「確か、スポーツ枠があったよな」

「うん。陸上で入った。」

それきり実里は窓を見て口を継ぐんだ。


____そうだったか・・・・


窓を見ている実里の背中にグラウンドが見えたような気がした。恐らく二度と走ることはない。

17歳。

これから夢が膨らむ年代だ。スポーツ枠で進学したならば実力があったと想像できる。余計に無念だったろう。大介はその辛さを推し量った。


______もっと、走りたかったのに・・・・・


ふと実里がこちらを見て、不思議そうな顔をしている。

「何見てんの?」

「あ?ああ・・・・いや・・・・」

大介は実里を見たまま、その想いを口に出した。

「もっと、走りたかったよな・・・・」

「え?・・・・」

「いや、お前さ・・・・もっと走りたかっただろうと思ってさ・・・」

実里の瞳が大きく開かれた。大介はその瞳を受け止めて、実里を見た。

しばらく見つめ合った後、実里は小さな声で言った。

「うん・・・・走りたかった・・・・」

そのまま窓の外を見る。雪はもうやんでいた。

大介はゆっくりと立ち上がると、フラフラと熱に浮かされたまま、実里の隣に立った。実里が大介を見る。

「おまえ、よく泣くな・・・」

「うるさい・・・」

笑いながら大介は、泣いている実里の背中をさすってやりながら、しゃがれた声で言った。

「これでお互い様だな・・・・」

「何それ?・・・」

鼻をすすりながら、実里も笑った。


Act.11

「久しぶりだな。忙しかったか?」

マスターが嬉しそうにコーヒーを持ってくる。志野はにっこりと笑ってそれに答えた。

ほぼひと月半ぶりにパルマ珈琲店のテーブルに座っている。だが今日は一人ではなかった。

「わざわざご足労頂き、感謝しています。」

向かいに座っている男性が頭を下げる。志野よりも少し若い。だがこれから起こしていく事業に対して、エネルギーと期待を持っていることが解った。

志野も頭を下げて、相手を真っすぐに見て言った。

「こちらこそ、書類審査だけかと思っていたのですが、こうして会いにきてくださって、感謝しています。」

先ほど交換した名刺には『壱岐 徹』、と、名前が入っていた。

「急な提案だったので、驚かれたかと思います。ですが、こちらとしては依然からお名前とお仕事は存じていまして、必然な流れでした。」

「私の仕事を?」

壱岐はうなずいた。

「編集長と懇意だったこともありますが、実は一度時にお会いしたことがあるんです。」

「え?・・・・どこで・・・・」

言われてマジマジと彼を見る。壱岐は照れて顔をそむけた。

「え~っと、実は就職説明会で御社に伺ったことがあります。大学卒業の時に。そこで撮影のパフォーマンスを・・・・」

「ああ!・・・・あの時?・・・・じゃあ、お若いのね。」

「そうでもないですが・・・30になりました。」

そう言って微笑んだ。

そういえば、まだ志野が会社に入りたての時に、就職説明会では毎回撮影を実際にやったりやらせたりしていた。それが恒例になっていて、結構評判がよかったのだ。

「あの時、どういう理由かわかりませんが、途中でカメラマンさんがいなくなって、急に高木さんが・・・・」

久しぶりに苗字で呼ばれた。

そいういえば、あの時、説明会だからと適当に写真を撮るスタッフに頭に来て、途中からカメラを取り上げたんだった。

「あの気迫と、後で見た写真の仕上がりが印象的でした。それで今回の話が出たときに、一度はトライしてみようと・・・」

「編集長と懇意だったと・・・」

「ああ・・・・」

壱岐が笑った。

「従弟なんです。」

「ええ?」

壹岐が再び、にっこりと笑った。


「志野にお客さん?」

珍しくドアを蹴らずに大介が入ってきた。後ろに実里の姿もある。

「打合せだろ。お前も久しぶりだな。元気だったか?」

実里が頭を下げる。少し顔が蒼い。

このところ寒かったからか、大介からうつったのか、実里は風邪をこじらせて一週間ほど寝込んでしまった。その間、大介もバイトの時間を短縮してもらい、出来るだけ実里のそばにいた。心配していた心臓にはあまり負担はなかったようだが、なかなか治らないのはやはり何かが弱いからかもしれない。一度は病院へ連れていくべきだと思っているのだが・・・・・。以前として実里が首を縦にしなかった。

いつものようにカウンターに座って、実里は漫画を手に取る。大介はカウンターの中に入ってエプロンをつけ、バイトの準備にはいった。ふと、視線を感じてその方に目をやると、志野がテーブルから小さく手を振っている。大介も笑顔で答えた。

「とりあえず、頂いた書類をロンドンへ送ります。条件等も加味して、少なくとも2週間後には返答をします。僕はその返答をもらうまでは東京にいますので、何かあればいつでも連絡をしてください。」

「わかりました。」

「それと・・・・・・」

壱岐は少し考えてから、言った。

「もし、一緒に働くことが叶わなくても、僕は高木さんと縁を作りたいです。」

「・・・・・・・え?」

「もちろん、今回のヘッドハンティングとは別です。僕自身はずっと高木さんが作った雑誌を見ていました。」

「あ・・・・ええ・・・ありがとうございます。」

志野は微笑んだ。壱岐はその微笑みを複雑な表情で見つめていたが、やがて立ち上がると頭を下げた。

「これからも、僕と縁を繋いでください。期待しています。今日はありがとうございました。」

そういって、握手を求める。志野も立ち上がってそれに答えた。

「また。」

彼はそういうと、パルマ珈琲店を後にした。

志野は再びテーブルに座ると、タバコを口にくわえる。そういえば、彼は吸っていなかった。志野が嗜むと知っているのだろうか、喫煙席を指定していた。煙草に火を付けると、煙をくゆらす。その時、カウンターが少しざわついた。

「大丈夫か?」

実里に発作が起きたようだ。客に気づかれないように、大介が実里の身体を抱えて奥の部屋へ消える。志野は煙草を消して、バッグを持つとその部屋へ向かった。


大介は身を屈めて我慢している実里の口に薬を入れると、手を握ってやった。しばらく発作らしい発作は起きてなかったが、やはり風邪は前兆だったのかもしれない。実里は真っ青な顔をして目を瞑っている。もしや歯を食いしばってないか、そっと口元に手を当てたが大丈夫のようだ。

「どうしたの?発作?」

その声に振り向くと、志野が入口に立っていた。

「ああ、大丈夫だと思う。薬を飲んだから。」

少しずつ実里の呼吸が戻ってくる。目は瞑ったままだが、大介の手を握っている力が弱くなった。店の方がざわついているのが聴こえて来た。客が増えてきたのだ。そろそろ昼食時だった。

「あたしが見てるからお店に戻りなさいよ。もう大丈夫でしょ?」

実里がうっすらと目を開ける。大介の手を握る力がもう一度入った。一瞬迷ったが、バイトとはいえ金をもらっている身分だ。そっと実里の手を離すと布団を整えやる。

「苦しかったら志野に言うんだ。俺は店に戻るから。ちょっと早めに終わらせてもらうよ。」

そして、部屋にあがって来た志野に言った。

「申し訳ないけど・・・」

志野は大介の肩を叩いて、実里の枕元に座った。実里は目を瞑ったままだ。

大介が部屋を出ていくと、部屋は静寂に包まれた。志野は鞄から読みかけの本を出して、ページを捲る。実里の息苦しそうな呼吸の音が志野の耳を支配していた。


_____ あなたと縁を繋ぎたい


と、壹岐徹は言った。明らかに志野に好意を持っている。澄んだ瞳がしっかりとした意志を持って、志野をとらえていた。彼が言うように、このまま素直に縁を繋げていくことに未来があるように感じた。だが、志野の心を動かすのは彼の瞳ではない。

本越しに実里を見ると、志野に背を向けてはいるが呼吸は少しずつ落ち着いてきているようだった。志野は本を置いて実里に声を掛けた。

「少し楽になってきた?」

実里が背を向けたまま、うなずいた。

「お水、飲む?」

答えがないまま、水差しを持って部屋を出た。店は昼食を食べる人たちであふれかえっている。大介も忙しくサーブしていた。声は掛けないまま水を汲むと、奥の部屋へ戻った。

コップに水を移して、実里の元へ行き、身体に手を掛ける。

「起き上がれる?」

実里はゆっくりと身体を起こし、志野の手からコップをもらった。そのままゆっくりと水を飲んでいく。

青白い顔がむしろ壮絶さをにじませて、実里の顔は美しかった。少年から青年へと変化していく危うさもある。志野は実里の顔から目が離せなくなった。それに気づいた実里はコップを置いて布団を頭からかぶった。

「もう大丈夫だから・・・」

それだけ言うと、目を瞑る。

いきなり激しい嫉妬に駆られて志野は動揺した。実里が自分に何かをしたわけではない・・・いや、これからするのかもしれない。私から大介を・・・

「私ね・・・」

何故喋りだしたのか、理解できなかった。だが突きあがって来た想いを我慢できなかった。

「大介が好きなの。」

実里の背中がピクリと動く。当然、答えはない。それにも苛ついて、志野は続けた。

「大介がモデルをしてた話をしたわよね。読者モデルのページだったんだけど、急に代役が必要で・・・」

その時の情景が目に浮かんでくる。志野の強引さに戸惑いながらも、カメラ越しに見える初々しさと、どこか苛々したような荒っぽさが同居していた19歳の大介に、志野は魅了された。

実里は無言で背中を向けている。

「モデルとしては中ぐらいだったけど、真面目だし、誰とでも仲良くできるオープンさもあったから、うちでは可愛がられて長く仕事は続いたわ。」

大介は身なりも良く、お金が必要そうには思えなかった。なぜモデルをやり続けたのか詳しいことは聞かなかった。が、考えてみるとそんなことより、大介と言う人間に自然と惹かれて付き合いを続けたような気がする。

「いつだったか忘れちゃったけど・・・・」

志野はぼんやりと口にした。次に続く言葉が何かは解っていた。だが、理性はそれを止めなかった。実里も知っておくのが志野に対する礼儀だと思ったのだ。

「飲み会に参加したの。普段は忙しいし、若い子たちの騒ぎが煩わしくて早めに帰るんだけど大介が酷く酔っぱらっちゃって・・・・・結局あたしの家に連れ帰ったの。・・・その時・・・」

急に実里の後ろ頭を撫でたくなった。潜り込んでいる布団の膨らみが可哀そうに見えたのだ。実里が自分の想いを受け止める理由は、何一つない。だが・・・・


______ごめんね・・・・でも言うわ・・・すごく頑張ったあたしのために・・・


「大介はあたしを抱いたの。」

実里が起き上がって志野に訴えた。

「あんたは・・・」

我慢できずに吐き捨てる。

「どうしてそんなことを俺に・・・」

「最後まで聞いてくれる?悪いけど・・・」

「なんで俺が・・・」

「身体を重ねたのはその日だけよ。彼は恐らく何も覚えていないかもしれない。それくらい酔っていたから。でも、あたしは忘れていない。あたしは大介を・・・」

「なんで・・・・」

泣き出しそうな実里の顔をみながら、どこか達成感さえ感じながら志野は言った。

「愛していたから。」

その言葉がまるで外国語のように実里には聞こえた。理解できない問題を先生に質問するみたいに口にする。

「なんで俺に言うんだ・・・」

志野は正解を返してやった。

「あなたが変わったからよ。」


ひと段落ついて、実里の様子を見に大介が休憩室に入ろうとすると、丁度出てきた志野と出くわした。

「あ、ありがとう。奴は?」

志野は向かい合っている大介の笑顔を吸い込まれるように見つめた。この笑顔がいつまでも志野の側にあると思っていたのに・・・。

「志野?」

「ああ・・・・」

見慣れた笑顔が今日は辛い。

「大丈夫よ。もう起き上がってるわ。帰るわね。」

「うん、ありがとう。またな。」

急いで部屋に消えて行く大介の背中に、抱き着きたくなる衝動を感じた。志野が一歩踏み出す前に、もう姿は消えていたが・・・・

「帰るのか?」

マスターの優しい声に慰められる。今日は本当に心が弱い。

「また来るわ。」

「おう、寒いから暖かくして帰れよ。」

マスターに笑顔で返すと、志野は重い扉を開けて冬の街へ彷徨い出て行った。


Act.12

実里の体調もあり、バイトを早めに切り上げさせてもらって二人はマンションへ戻った。

実里は始終黙ったまま不機嫌そうにしている。こういう時は放っておくに限るが、さっき店ですれ違った志野もいつもと雰囲気が違っていた。それが気になった。二人で何か話したんだろうか・・・・

大介は食事を終えた後の食器を洗いながら、横で拭いている実里に話しかけた。

「今日さ、志野と何を話したんだ?」

ぴくんと実里の肩が震えた。大介はそれを見逃さなかった。

「・・・なんか、志野がおかしかったから・・・」

それ以上は言えない。実里は少し考えていたが、やがて食器を棚にしまうと大介の横に立った。

「あんたとSEXしたって。」

思わず手に持っていた食器を落としそうになった。

「え?なに?SE・・・」

「あんたを愛しているってさ。」

「・・・・・え?・・・」

実里はそれ以上何も言わずに大介を見ている。心の中の何かが静かに崩れていくのを感じながら、大介は食器を洗い、実里に渡しながら言った。

「今日は、何飲む?」

実里は食器を片すと、黙ってアールグレイの紅茶を選び、ポットに葉を入れた。ゆっくりお湯を注ぐ。良い香りに少し心がほぐれてくる。二人はしばらく向かい合って静かにお茶を楽しんだ。

「あの人・・・恋人なの?」

「志野?」

「うん・・・」

答えが聴きたいわけじゃない。だが、状況に納得がいかなかった。痴話げんかなら当事者がすればいいだけで、自分を巻き込んだ志野の意図が理解出来ずに、実里は苛ついていた。

「別に・・・そんな関係じゃない。」

「じゃ、なんで寝たの?」

「なんで・・・・」

その理由は大介にも解らなかった。


あの日・・・志野の身体に覆いかぶさるようにして、大介は泣いた。そのことは覚えている。その顔を上げさせて、大介の唇を志野の細い指先がなぞる。その指先を吸いたかった。赤ん坊のように・・・

「ごめん・・・・」

志野の唇が大介の額や、頬や、首筋を這うたびに、大介は謝った。自分は悪い子供なんだ。誰にも許されない。・・・そのことを忘れてはいけない・・・自分は・・・

思わず自分の顔を覆う。激しい後悔が襲ってきて息が苦しくなった。その手を包むようにして、志野はゆっくりと顔を開けさせた。大介は震えていた。

「謝らないで・・・。あなたは悪くないから。」

その瞬間、大介の瞳が大きく見開いた。見上げると、志野の黒い瞳が自分を見ている。

「俺は・・・」

「何があったとしても、今のあたしたちには関係ないわ。そうじゃない?」

志野は大介の顔を包むと、そっと口づけをした。

「一度謝ったなら、それで終わりよ。あなたは悪くない。忘れないで。」

その言葉を放つ唇が欲しくて、大介は何度も口づけを繰り返した。志野は全てを受け入れ、大介を包み込んだのだ。


どれくらい黙っていたのか解らなかったが、ずっと二人はキッチンに座っていた。

「そうだな・・・・」

やっと大介が言葉を発した時、正直実里は安心した。このまま何の答えも得られないことが嫌だったのだ。

「ただ抱かれたかったのかな・・・赤ん坊みたいに・・・」

「赤ん坊?・・・」

大介は照れて頭を掻いた。ふと時計を見る。

「おい、もうこんな時間だ。風呂用意してくる。今日は発作も出てるから、良くあったまって早く寝た方が良いぞ。」

あたふたとバスルームへ駆け込む大介を見ながら、実里はため息をついた。

「言いたくなかったのかな・・・」

珍しく強情を張った自分に驚いていたし、後悔もしていた。

志野の行動に不信感があったことよりも、大介が志野をどう思っているかが知りたかったのだ。

他人にそういう想いを抱いたことも想定外だった。大介と出会って、ここで暮らすようになってから自分がどれだけ大介に頼っているか、思い知らされた瞬間でもあった。

大介が自分を否定したら、自分はどこへ行けば良いんだろう・・・育った家に戻って、優しい母親と静かだが威厳を持った父親に手厚く庇護されて、危うい心臓のまま一生を暮らすことは地獄のようだった。

だが・・・このまま大介と暮らしていても限界が来る。手持ちのニトログリセリンもいつかは無くなる。しかも薬が無くては怖くて生活ができない。大介は、初めて壊れた自分を受け入れてくれた人なのに・・・。

「おい、入れるぞ。」

「あ・・うん・・・」

実里は立ち上がると自分のカップを流しにおいて、バスルームへ向かった。


Act.13

ロンドン行きが決まってから、志野の周辺はにわかにあわただしくなっていた。

会社の引継ぎ、残した号の編集と撮影、それにともなうモデルの手配や撮影場所などの細かい打合せなど、文字通り息つく暇もない。

「決定したぞ。」

壹岐と会ってからきっちり2週間後に編集長から告げられた。彼がどれだけの力を注いだかはわからなかったが、ともかく志野は年末にロンドンへ飛ぶことになったのだ。出来るだけ仕事は遺していきたくない。それに忙しくしていれば何も考えなくて済んだ。

大介にはメッセージで簡単に告げただけだ。返信は直ぐに来た。

≪すごい!おめでとう!志野ならきっと成功するよ。祈ってる。≫


___何を祈るというのよ・・・


イラついてメッセージを消してしまったことを、今では後悔している。貴重な大介の言葉を消してしまったからだ。お互いに文字のやりとりは苦手で必要なことしか返信しない。そんな小さなことで乱れる自分の心が嫌だった。

実里はあの時自分が話したことを、大介に伝えたのだろうか。確かめようのないことだ。自分で言いだしたのに、今さら・・・・

ふと目を上げると、会議室から夫婦らしき人たちが編集長と一緒に出てきた。挨拶をしていた様を何となく見つめていた志野の目に、婦人の顔が入った。どこかで見たことがあるような・・・・

二人を見送った編集長がデスクに戻ると、目の前に志野が立ちはだかった。

「なんだ~いったい・・・」

「今のお二人、要件は?」

「今の?・・・ああ・・・」

志野の勢いに押されて、若干引き気味に編集長が答える。

「40代ターゲットの雑誌があるだろ?≪椿の庭≫。あれの尋ね人のコーナーに出す記事の依頼だ。」

「尋ね人?そんなクラシックな記事があった?」

「興味がないだけだろ?ワラをも掴みたい読者から結構依頼があるんだ。」

「それで?・・・」

編集長は写真を見せて言った。

「コンプライアンスは守れよ。息子さんを探している。17歳だ。心臓の疾患があって・・・」

後は聞こえなかった。聞かなくても知っている情報だったからだ。

「編集長、さっきのご夫妻の連絡先を教えてください。」

「連絡先?・・・」

志野は頷いた。

「お役に立てそうなので。」


部屋の中には鏡が張り巡らされていた。

壁だけでなく、天井にも、足元にも、自分の姿が映し出されていた。


____ああ・・・久しぶりだな・・・


大介はゆっくりと立ち上がって、鏡に映る自分に問いかける。


____まだ、怯えているんだな・・・


鏡の中の自分が指をさして笑う。思わずその鏡をこぶしで殴る。鏡は粉々に割れた。

そうか・・・割って行けば良いんだ・・・

大介は手当たり次第に、鏡をこぶしで割っていく。どんどん割れていくのが面白くなって、夢中になった。もう怖がらなくて良い。


_____一度謝ったらそれで終わりよ・・・あなたは悪くない。・・・


うん、今ならそれを信じることが出来る。


_____あんたはそんなことしない。


うん。俺はしない。もう大人になったんだ。


割られた鏡は黒い壁となって、大介の空間を作っていく。最後の鏡を見た時、そこに映っていたのは志野だった。

「志野・・・・そこにいちゃだめだ・・・」

だが志野は黙って微笑んでいる。大介の意思とは関係なく、拳が持ち上がってきた。大介は青くなって叫んだ。

「逃げろ!こぶしが・・・!」


______あたしは、大介を愛しているの・・


「志野!」

こぶしは思いっきり振り上げられ、鏡に打ち降ろされた。


「ひっ!」

息とも叫び声ともつかない音が大介の口から発されて飛び起きる。すぐに口を手で塞ぐと、布団で寝ている実里を見た。起こしてはいないようだ。静かに息を吐いて大介はベッドから出た。

キッチンの浄水器からコップに水を注ぎ、一気に飲み干す。しばらく夢は見ていなかったのに・・・

暗闇の中、大介は食卓に座った。


_____あんたを愛してるって言ってたよ。


夢の中の志野もそう言った。一方的な告白には答えようがないものだ。大介の想いも答えがないまま宙に浮いていた。なぜ志野が実里に想いを告げたのかも理解不能だ。それとも、女はそういうものだとでも言うのだろうか・・・

「鏡の部屋は・・・俺の心なのかな・・・」

浮かんでくる女は、母であっても志野であっても、大介を癒しては殺す。再び罪悪感に心が掴まれ痛くなった。一瞬、実里を起こそうかと言う邪念が浮かぶ。そうだ、邪念だ。実里には関係のない話だ。だが・・・・

大介は明かりをつけずに寝室のドアを開けて、暗闇に慣れた目で布団を見つめた。実里はいつも布団に潜り込んで顔を出さない。大介はそのまま座り込んで実里の布団を見続ける。

最初は、体調が良くなったら警察に連れて行く気だった。もとより他人に思い入れなどない。十字架を背負っていると思っていた自分には、他人どころか、郁也や父も、ただの足かせだった。

なのに。実里はここにいる。母と同じく心臓を病み、夢を立たれた人生を背負って生きようとしている。そのことが大介に共感を呼び起こしていた。母を助けられなかった8歳の自分とは違って、今の自分なら、実里の壊れた心臓を支えるてやることが出来る。実里は生きているのだ。

大介はじっと自分の掌を見つめた。8歳の時、握りしめていた薬袋の角が当たって、小さな掌に跡が付いた。いつまでもその痛みが忘れられない。

父は大介を責めなかった。母の葬儀の時も黙って大介の手を引いて棺の後ろを歩いた。母方の祖父も祖母も親戚たちも、粛々と葬儀に参列し、遺児となった大介に優しい言葉を掛けてくれた。それが刻印となって、大介に消えない跡を残した。


_____幼い子供がしたことだから・・・・


自分の手が母の命を止めたことを、8歳の大介は理解していたのに。

小さなうめき声と一緒に、実里の身体が寝返りを打った。布団から顔が半分見えてきた。暗闇に慣れた目に実里の顔がわかる。

この先、この少年をどうすればいいのだろうか。いずれにしても、このまま引き留めてはおけない。心臓のことを考えたら、家族はあらゆる手を尽くして探しているだろう。両親のもとへ帰すのが道理だ。それでも納得していない気持ちにあきれる。

一緒に暮らさなくても、いつでも会える。インターネットが普及している現代で、行方をくらます方が無理だ。なのに、何故実里を帰したくないのか・・・。


_____このままだと誘拐犯になるぞ・・・


大介はため息をついて静かにベッドへ戻った。横たわってもう一度実里を見る。

明日、ちゃんと実里と話し合おう。何でも相談にのってやれる兄貴として、実里を支えてやればいい。郁也にも紹介して家族ぐるみでつきあうのも良いだろう。それが正しい。

大介は布団を被ると目を瞑った。寝られるとは思えないが、努力をしなければ。そうだ、努力をするんだ。

大介は一晩掛けて眠るための努力をし、やっと明け方、眠りについた。一日は直ぐに始まる。それでも少しは眠らなければ・・・・さすがに夢は見ないだろう・・・。大介は目を閉じた。



Act.13

「しけた面してるな。なんかあったか?」

食堂へ向かいながら堀田が大介を突く。大介は答えに窮してそっぽを向いた。

「あったのか・・・。まずは飯だな。」

こういう時、堀田は曖昧に逃がしてくれる。飯を食いながら言いたければ言え、と言うことだ。二人はトレーに好みのオカズを盛ると席を探して座った。

「郁也は?試験も終わったし・・・・」

「”どうしてる?”まできちんと質問しろよ。弟のことだろ?」

「良いだろ、別に・・・・」

機嫌が悪いことは、堀田には隠さない。隠してもどうせ見破られるし、取り繕う必要もない相手だ。特に気にすることなく堀田は言った。

「変わりなし。いつものように真面目に学校へ行って、予習復習もきちんとやってる。わからないことはLINEで丁寧に質問してくるし、俺の育て方は完璧だな。」

口の端で笑うと上手そうに食事を続ける。大介はなんとなくホッとした。

時々郁也の話が聞きたくなる。いつも気に掛けている訳でもないのに、ほったらかしにしている負い目もあるのかもしれない。苛々している時は特にそうだった。自分の日常からかけ離れているところで生活しているからか・・・・。時々郁也の存在が小説の登場人物のように感じられて、その姿を追いたくなった。

「だったらいい・・・」

また黙って食事を続ける。

実里をいつ実家へ戻すか、いや、先にその話をしなければいけないが、それをいつにするか・・・

このところ毎日そのことを考えていた。

実里の身体は思ったより風邪を引っ張らず、普通通りの生活に戻っている。

「そろそろ年末だな。」

堀田がボソッと言った。

「今年も帰らないのか?」

「え?・・・ああ。」

家を出てから、盆暮れ正月も実家に戻ることはなかった。毎年母の乳母だった艶がおせちを持ってきてくれたが、艶も年を取って今は郁也が運んでくる。

「それでも、今年は一人じゃないな。」

予想外の言葉に大介が顔を上げる。堀田が真顔で観ていた。

「だろ?このままだと。そのこと考えてんじゃねえの?」

「・・・・・・」

答えが見つからない。吐き捨てる言葉もなかった。堀田は呆れて大介を見たまま言った。

「マジか?まいったな・・・」

「いっとくが、俺はゲイじゃない。」

「そういう話じゃないだろ?全く・・・」

冗談にもならずに、大介は苦笑いをした。堀田だけじゃない、パルモのマスターも同じことを考えていることはわかっていた。志野は・・・・もう少し直接的だった。向かった相手が実里ではあったが。

「ちゃんとするよ。」

それには答えず堀田はお盆を持って立ち上がった。大介もそれに続こうとした時、スマホが振動した。堀田に先に行けと合図を送ってスマホを見る。

「・・・・志野?」

「これから授業?」

久しぶりの志野の声は、以前にもまして凛として聴こえる。ほっとして大介が答える。

「そうだけど・・・パルモにいるの?」

「何時に来れる?あなたに合わせる。」

「え?・・・」

「会わせたい人がいるの。」

「・・・・・・・」

直観は、”行かない方が良い”、だが、理性では行くべきだった。いつの間にか、堀田が傍に立って居る。大介は堀田の顔を見ながら言った。

「一コマ授業を受けて行くから、15時くらいだ。」

「15時ね。わかった。待ってるから。」

通話は切れる。

「俺も行く。」

珍しく怒ったように堀田が言う。大介は食器を洗い場に持って行く。

「何もないかもしれないぜ。」

「何かあるかもしれないだろ?」

笑いながら堀田が大介の肩を叩く。二人は食堂を後にした。


洗面所で顔を洗うと、実里は鏡に映った自分の顔を見た。

少し頬がこけているような気がする。風邪はもう治っているのだが、食欲が落ちているからだ。

大介は心配して、ちゃんと朝昼晩と食べられるようにしてくれているが、残すことが多かった。そろそろ病院へ行く時なのだ。だがそれには保険証や金がいる。鞄ごと財布もスマホも取られてしまったからどうしようもない。ひったくりに合うのは初めてだったし、誰しもが経験することでもないだろう。行ってしまえば両親の庇護の元、大切に育てられた実里には怖い経験だった。そのショックが実里の感覚を鈍らせた。

病院に行く道すがらの狭い路地で、実里はうずくまって恐怖に怯えていた。心臓がどくんどくんと鼓動を打って発作が起きそうだ。急いで薬を口に含む。薬だけはいつも鞄ではなくポケットに入れておくのだ。舌で薬を溶かしながら、不意に実里は泣きだした。怖くて、どうして良いかわからなかったからだ。電話をしようにも、スマホも財布もない。警察に行こうとは思わなかった。さっきの犯人が見ていたら、と思うと怖かった。

もし、心臓が壊れていなかったら、実里は走って犯人を追いかけただろうか。しばらく座り込んで泣きじゃくっていたが、鼓動が収まって来ると冷静になってきた。


_____死のう・・・


自然とそう決めた。そうだ・・・・死んでしまおう。

今の自分は、自分を護ることさえ出来ない。このまま両親の庇護のもと、ただの病人として生きていくには辛すぎる。フラフラと立ち上がると、実里は病院とは反対方向へ歩き出した。

後は覚えていない。おばさんから鞄をひったくったのも、仕返しのような気持ちだったのだ。


_____俺から鞄を取り上げた奴だって笑ってる。俺が馬鹿だったから。だから、おば

さんが馬鹿なんだよ!


そういえば、あの時は良く走った・・・・。発作も起きずに走り続けることが出来た。

途中で笑っていたような気もする。風が頬を抜けて、いつまでも走り続けていられそうだった。


___治ったかもしれない!


だが、しばらく走っていなかったことと、腹に何も入っていなかったために、直ぐに体力は尽きた。そして、何も考えずに目に入った重いドアを押し開けたのだ。今考えれば、それは未来への扉だったのかもしれない。

「腹が減ったな・・・」

一人で食べる食事はつまらなかった。

実里は大介が作ってくれたおにぎりをラップに包むと、鞄に入れた。大介はとっくに昼食を終えているだろうが、顔を見て食べた方が美味しいと思う。

そして大介が買ってくれたセーターとジャケットを着て、鞄を担ぐと玄関へ向かった。ずっと履いている靴は大介が洗ってくれた。真っ白とは言えないが、汚れていない。


______自分が息をしていく人生に、大介が居て欲しい・・・。


実里はたった今、そう思った。正直に心が頷いたのだ。

急いで靴を履くと、部屋の外に出た。走ることにはためらいがあったが、出来るだけ早く歩こう。大介に在って、ちゃんと話したかった。

外は少し雪がちらついていたが、実里の心は暖かい。新しい人生は、今から始まると確信していたのだ。



Act.14

パルモ珈琲店は昼時を過ぎて客足も途絶えていた。

「お寒い中、ありがとうございました。」

志野は立ち上がって目の前の婦人に頭を下げてニッコリと笑った。婦人はコートと手袋を脱いでハンガーに掛けると、椅子に座る。

「何になさいますか?」

「お紅茶を頂きます。」

メニューは見ずに言う。静かな声で品があった。マスターに注文を伝えると、志野はテーブルに戻る。目の前の顔は何度見ても実里に似ていた。恐らく元は少しふっくらとしているのであろうが、今は頬がこけているように見えた。

「本日は主人が仕事を休めず、私一人で来ました。申し訳ありません。」

少し頭を下げる。

「大丈夫です。私も出来るだけお手伝いしますので。」

志野も頭を下げた。

婦人の顔を見た時、直ぐにわかった。勘が働いたこともそうだが、実里にそっくりだったからだ。編集長の言う、”藁をもすがる顧客”として会社に訪れたのは神様の采配か、志野は本気でそう思っていた。このまま大介と実里が二人で暮らせるわけがない。きちんと筋を通すのが道理だ。自分がイギリスに行く前に、片を付けさせたかった。それが、自分への礼儀だとも思ったのだ。

「あの子は・・・・大丈夫でしょうか?」

紅茶を持つ手が震えている。何に対しての”大丈夫”と言う言葉なのか良くわからなかったが、志野は頷いた。そうしている内にドアが開く音がした。志野は立ち上がると、手を上げて大介を呼び寄せた。


「実里の母でございます。」

婦人は静かに頭を下げた。大介もまた頭を下げる。だが、志野がことの経緯を説明しているが、耳には入らない。ここに居るのが実里の母親だということを理解するのに時間が掛かっている。カウンターに目をやると、堀田が自分を見ているのがわかった。曖昧な笑顔で頷くと、堀田が手を上げる。とりあえず頑張れ、と言われているようだ。

「実里を助けてくださって、今まで世話をしてくださったとお聞きしています。本当にありがとうございました。」

そう言いながら、バッグから封筒を取り出して大介の前に置く。

「これは、お世話になった間の実里の生活費と謝礼です。些少ですが・・・・お納めください。」

「あ・・・・いえ・・・これは必要ないです。」

大介が思わず封筒を押し返す。

「そんなつもりじゃないので。」

「でも、掛かったものがおありでしょうから。受け取っていただけないでしょうか?」

間髪入れずに婦人が言う。大きな声ではないが威圧的でもあった。連絡もしなかった大介に恨みがあるのだろうか。受け入れていないことがわかった。

「わかりました。」

封筒を鞄に収めた。

「今日、このまま連れて帰ります。」

大介が謝礼を受け取ったことで婦人は強くなっている。学生のやることはこんなもんだ、とでも言いたげだった。直ぐにでも立ち上がって動き出しそうだ。だが、大介が止めた。

「その・・・少し、待ってもらえませんか?」

「え?」

志野も驚いて大介を見ている。

「待つって?」

「大介・・・」

志野が大介の腕を突く。

「何言ってるの?親御さんに・・・・」

大介が頷く。

「わかってる。でも多分急には無理なんだ。」

「無理って、どういうこと?!」

婦人の声が強くなった。怒りで手がブルブル震えている。

「なぜ息子を渡さないの?誘拐犯だと言って警察に突き出すことも出来るのよ!さっきお金を取ったのは・・・」

「お母さん、落ち着いて・・・」

他の客がいない訳では無い。志野が婦人の手をさすってなだめた。瞬時に我に返って婦人が唇を噛み締める。責める相手がいなければ、恐らく自分を責め殺しているかもしれない。その気持ちは理解できた。

「ご連絡しなかったことは、申し訳ありませんでした。でも、実里が・・・」

母親が大介を睨む。大介は言い直した。

「実里君が望んでいなかったので、彼が心を開くまで待っていました。」

「そんなことをする必要が・・・・」

「ありました。」

マスターが紅茶と、大介と志野のためのコーヒーを運んでくれる。そして、他の客たちにそっと早めに閉店することを告げた。常連は何となく雰囲気を察して静かに店を出てくれる。

「連絡先はわかりませんでした。彼が鞄をなくしていたので。薬だけポケットに持っていましたから、発作が起きた時も大丈夫でした。」

「発作が起きたの?!ああ・・・もう・・・・」

婦人が頭を抱える。泣きたいよりも怒りが収まらないようだった。大介は続けた。

「警察は・・・・実里君が行きたがらなかったので、時期を待っていました。すみません。」

頭を下げた。

「無理に連れて行くのは俺も嫌でしたから。本当にすみません。」

もう一度頭を下げる。それは嘘ではない。志野が隣でじっと大介を見ていた。

こんな大介は初めてだ。いつも、どこか曖昧なことだけで会話をしていた大介が、”理由”を話している。それが実里のためだと解っていて、志野は嫉妬していた。

「お母さんの、今すぐ実里君を連れて帰りたい気持ちはわかります。ただ、彼の気持ちを先に考えて頂けたら・・・・・」

「いつだって考えてるわよ!」

婦人が頭を抱えたまま怒鳴る。大介は辛抱強く言葉を続けた。

「・・・・・そうだと思います。けど・・・」

婦人が小さな唸り声をあげて言葉を切った。

「大介、ちょっと・・・」

思い余って志野が話を止めた。そのまま大介を抱えるようにして立たせるとカウンターへ連れて行く。堀田が庇うように大介の背越しに立った。

「勘弁してよ。何を頑固に引っ張ってんの?」

「そうじゃない。待って欲しいんだ。」

「同じことでしょ?一旦返すのが道理だって・・・・」

「だめだ。俺が決めることじゃない。」

「いい加減に・・・」

「志野さん、少し落ち着いて・・・」

堀田が前に出ようとしたその時、ドアが開いた。

そして店に居た全員が、そこに立って居る実里を見た。実里は急に注目されて目を丸くしている。

「どうしたの?何かあった・・・・・?」

大介が実里の傍に行くより先に、婦人の絞り出すような声が店に響いた。

「実里ぃぃ!」

一瞬、時間が止まったかのように感じた。目の前の光景が映画を見ているようで実感がわかない。実里は自分に手を差し出している母親の顔をマジマジと見ていたが、やがて大介を見つけると、ゆっくりと後ずさった。

「だめだ、行くな!とりあえず・・・!」

最後までは言えなかった。ドアが閉まって、実里の姿が消えていたからだ。


Act.15

直ぐに追いかけたつもりだったのに、見当たらなかった。あの心臓で走るわけはないと思いながらも、元陸上選手だ。追いつけないかもしれない。大介はとにかく走り始めた。少しは金を持たせているから、タクシーに乗ったりバスに乗ったりするかもしれない。そしたら・・・・

何歩か走り出した足を止めて、途方にくれた。そこへ堀田が追いついてきた。

「とりあえず警察に捜索願いを・・・」

「だめだ。」

「そんなこと言ってる場合かよ!当てがあるのか?」

当てなどない。大介と暮らし始めてからの実里の行動範囲は、マンションとパルモ珈琲店の間だけだ。

「とにかく、もう少し辺りを探すよ。マンションへも帰ってみるから、おまえは・・・」

「なあ、なんだって意地張ってんだよ!」

「意地・・・」

「どうしてお前は何でも一人で抱えるんだって言ってんの!」

「堀田・・・」

「俺にも出来ることはあるだろ?出来ないことが多かったとしても!ほんと、頭に来るな、おまえって!」

「・・・・・・・」

「俺には理解はできない、お前と少年の関係は・・・・・。それでも今は一緒に居たいんだよな。」

「・・・・・・うん・・・。」

「それを言わなきゃダメだろ?志野さんにも、母親にも!」

「おれは・・・・」

「ゲイじゃなくても、そういう関係はあるって言えばいいの!ああ、もう何言わせんだよ!」

堀田が苛々して大介の背中を殴る。ありがたい痛みで頭がすっきりする。

「とりあえず、俺は地下鉄の方へ行ってみる。ここは中継地だから範囲が広がる危険があるけど・・・、バス乗り場も探せよ!」

大介が頷くと、二人は反対方向へ別れて走り出した。


「そう、わかった。」

答えると共に通話が切れた。志野はさっきからテーブルにうっぷしている実里の母親に向かって言った。

「まだ見つからないそうです。ただ、ここも閉店しなくてはいけないので、一旦ご自宅でお待ちいただいても?おそらく・・・・」

顔を上げた母親に言った。

「ここへは戻らないかと思いますし・・・」

婦人は妙な顔をした。

「戻らない・・・?」

「ええ、お店ですから。」

そう言われると、観念したように婦人は立ち上がってコートを着た。志野はマスターに二人分のお茶の代金を払った。マスターも困ったような顔で黙って清算してレシートを渡す。

「大丈夫か?」

「誰が?・・・」

マスターが自分を見ている。

「私?当たり前でしょ?」

そう言い切ると、タクシーを呼ぶため再びスマホを耳に当てる。

自分でも不思議なくらいスッキリしている。出来ることは全てやったのだ。例えどんな結果になろうと、受け入れる準備は出来ていた。


_____これでイギリスへ飛べる。


志野が今感じていること。それは紛れもなく敗北感だった。

大介が想っている実里、実里が想っている大介。二つの絵が完璧に出来上がった瞬間に、負けたのだ。自分が”実里の母親”と言う盾を使ってでも阻止したかった二人の絆は、とっくに出来上がっていた。馬鹿みたいに大騒ぎしたのは自分だけだ。

「まもなくタクシーが来ますから・・・・」

準備を整えた婦人に志野は言った。婦人は静かに言った。

「あの子は・・・・戻りたくないんですね。」

答えようがない。否定も肯定になった。

「もう一度、ご主人も交えてちゃんとお話しをするのが良いかと思います。今は、急なことで驚いただけかと・・・」

「・・・・・・」

「私も・・・早急過ぎました。」

志野は頭を下げた。誰も悪くはないのだ。特に子を思う母の気持ちは。

スマホが鳴った。タクシーだ。婦人を促すと、二人は黙って店の外に出た。

「何が悪かったのかしら・・・・」

タクシーに乗りながら婦人が呟いた言葉は、そのまま志野の胸にしまった。


_____本当に、何が悪かったんだろう・・・・


外は雨になっていた。志野はタクシーの扉を閉めると雨に濡れながら店に戻っていった。


急に振り出した雨の中、人々が小走りに通り過ぎて行く。そうかと思えば、ビルや店の軒先で雨宿りをしてどこかへ電話をしている人もいた。きっと迎えを頼むのだろう。

「しばらく待ったら止むかもな」

そう言いながらコンビニに入ろうとするカップルもいた。

実里は黙って、ただ歩いていた。

ふた月まえ、あの病院の路地を飛び出してから、どれくらい彷徨っていたか定かではない。二、三日だろうか。夜になるとベンチやビルの隙間でうずくまって寝た。寒くてコンビニに入って凌いだりもしたが、店員の目が怖くて長居は出来なかった。


____お腹が空いて、目の前を歩いているおばさんのバッグをひったくったんだっ

け・・・・


自分にそんなことが出来るとは思わなかった。だが悪いことをしているとも思わなかった。腹が減っていたし、自分のバックをひったくった奴に倣っただけだ。馬鹿が痛い目を見る・・・・。あの時の自分は人じゃなかったかもしれない。

そのことを母が知ったらどうするだろう。警察へ連れて行かれるのだろうか・・・実里は笑った。お金はあの時、大介がおばさんに返してくれた。

本格的に振り出した雨は冷たく、実里の身体を凍えさせた。しっかりと自分を抱きしめて歩く。

これからどうすれば良いんだろう・・・・どこへ行けば?・・・・

歩いている先に、大きな建物が見えた。

「久しぶり・・・・」

実里は自分が逃げ出した病院の前に立って居た。最初にゆく道を決めた路地を探す。

そこはビルの間にあり、ちょうど軒があるためか、雨がしのげた。迷うことなく路地に入りこむと、ゆっくりと腰を下ろす。雨が当たらなくなると、余計に寒い気がした。吐く息が白く、実里は冷えた手をさすった。

飯代や交通費くらいにはなるように、大介はいくらかのお金を持たせてくれていた。考えてみると、赤の他人の自分になぜそこまでするのか、理解できない。ただのお人よしなのだろうか。今更ながら自分が置かれている状況を顧みる。実里は立ち上がると、目の前の病院を覗き見た。パルモ珈琲店を飛び出した瞬間、道路を走っているバスが見えた。行き先を見ると、自分が逃げ出した病院の方向に向かっている。少し先にバス停を見つけて走った。その時運命のように次のバスが来て、迷わずそのバスに飛び乗ったのだ。窓から後ろを見ると、走って来る大介が見えた。実里はその姿が消えるまでじっと見ていたが、やがて後悔に胸が苦しくなってうつむいた。

さっきパルモ珈琲店で見た母の顔は、最初識別が出来なかった。老婆が座っているように見えて・・・・。


______すっかり老け込んでた・・・


それが実里を失った絶望だったことは直ぐに解った。おそらく父も同じだろう。

自分のことだけに気を取られていたことにも後悔した。だが、何もかもから逃げ出したかったことも事実だ。

病院は山のようにそびえ立って居る。

母親は大きな病院に入院させたがった。大きければ大きいほど、名医が存在しているとでも言うように。その山のような病院の広い個室で、実里は羽根をもがれた小鳥のように、ただじっと寝ているしかなかった。母親の過度な献身、父親の喪失感、何もかも自分が引き起こしたようで居た堪れなく、罪悪感ばかりが育って辛かった。なのに、誰一人、走ることを禁じられた残酷な事実には、目を向けてはくれなかったのだ。走ることが大好きだったのに・・・。


______走りたかったよな・・・おまえ・・・・


大介は、唯一実里の真実を理解してくれた。

その瞬間、実里の翼は大きく羽ばたくことを赦され、もう一度、人生を生き直したいと思った。


____それには大介が必要だ。


大介となら、自分が自分でいられる。実里は、両親の子供ではなく、自分自身で生きたいと心から切望しているのだ。


_____どうすれば、理解してもらえるのか・・・


唇を噛む。きっと母親は言うだろう。

家に戻っても友達として会えばいい。家庭教師をしてもらったり、一人っ子の自分の兄貴分として、大介に金を払って納得してもらおうとするだろう。父親は・・・・反対するかもしれない。

赤の他人が家族に関わることを許さないかもしれない。実里と父親には距離があった。

実里はじっと病院を見つめていたが、やがて決心して歩き出した。

ふた月前、死のうと思ってここを歩き出した時と同じく、今度は生きるために、自分の意志で歩き出す。

病院のロビーに入ると小銭を確かめ、公衆電話を探した。覚えているダイアルを回す。

”おかけになった電話は只今通話中か電波が・・・・”

メッセージを促すアナウンスを我慢強く聴くと、実里は喋りだした。


Act.16

湯船に首まで浸かると、身体の芯がじんじんとした。

実里はゆっくりと息を吐いて、目を瞑った。

留守電を聴いて駆け付けた大介は、病院のロビーに座っている実里を見つけると、何も言わずに手を掴んで外に出た。持ってきた傘をさして持たせ、自分は雨に打たれて歩き出す。実里も何も言わずに大介の後に続いた。

正直に、嬉しかった。

大介はちゃんと迎えに来てくれたのだ。

一緒にバスを待っている間も、乗っている間も、二人は何も話さなかったけれど、満たされていた。

部屋に戻ると大介は志野と母親に連絡を入れ、とりあえず明日二人で両親に会いに行くことを約束した。電話口で母親が感情的になっている声が聞こえたが、大介は黙って頭を下げながら許しを乞うている。

「すみません。今日だけ、お願いします。」

何度も頭を下げながら大介は母親の気持ちが収まるまで待っている。実里はバスタオルで頭を拭きながら、大介の手からスマホを取ると、母親が大介を罵倒している声に向かって言った。

「明日、ちゃんと話すから。」

そういうと、通話を切る。大介にスマホを渡しながら実里は笑った。

「腹が減った」


「あり合わせのもんしかないけど・・・・」

そう言いながら、チャーハンと味噌汁がテーブルに並んだ。

「美味そう。」

実里がふーふーと味噌汁を覚ましながら、口に入れる。大介はその様を見ながら自分も料理に箸をつけ、二人は黙々と食事をする。

今までの何と言うことも無い日常に現実が折り重なって、二人の口を重くしていた。沈黙のまま食べ終わると、実里が食器を流しに運び、大介がお茶を用意する。

「何飲む?」

「任せる」

大介はお茶を選びながら、こんな会話をしていたんだと今更気づく。短くても二人で過ごして来た時間は小さな歴史となっていた。心地よく、安心する時間。

「迎えに来てもらった病院・・・」

「うん・・・」

「入院してたんだ。最初に倒れた時に・・・」

「そうか・・・」

淡々と話は続く。今日はオレンジペコを淹れた。甘い果実の香りが心地よかった。

「退院して診察に行く時に、その手前の路地でひったくりにあって・・・それで荷物を全部取られたんだ。」

「・・・・・・・」

「病院の前のビルとその隣のビルの間に隙間があって、しばらくそこで(うずくま)ってた。怖くて・・・・。走って逃げようにも、発作が出そうで立てなかったんだ。その時思った。死のうって・・・・」

大介は黙って耳を傾けている。

「でも、死ななくて良かったよ。怖くて死ねなかっただけだけど・・・・」

少し笑って紅茶を飲む。こうやって大介とお茶を選んで飲むことが、実里は好きだ。

「俺、大介と出会って良かった。」

「・・・・・・・」

「大介じゃなかったら、また生きたいって思わなかった。」

「・・・・・・・」

「だから、これからもここで一緒に暮らしたい。」

カップを見つめていた大介が顔を上げた。実里の真っ直ぐな瞳が自分を見ている。清らかな瞳・・・・大介は急に自分が汚れているような気がした。

「俺は、人殺しだ・・・・」

「違う。まだ小さかった・・・」

「それでも、殺した・・・・」

二人はしばらく黙っていた。どちらにも答えはなかった。

「誰もそのことを認めなかった。だから家族を捨てるしかなかった。俺を許そうとしたから。俺は・・・・」

大介が少し笑った。変なことを言うと、自分でも思ったからだ。

「自分だけは殺人者でいようと、頑張ったんだ。」

大介の淡々とした言葉の裏に血が滲んでいるのが見えて、実里は辛くなった。

「大介だけが・・・・自分を許さないんだね・・・」

「うん。許せない・・・」

真実だった。

それが原因では無かったと、既に母の命には限りがあったと、誰しもが解っていた。大人になった大介にもそれは理解できている。だが、それを認めてしまったら、幼い自分の母親への愛情を否定することになる。自分が殺した方がまだマシだ。母が勝手に死んでいったとは思いたくなかったのだ。

「お前の薬・・・・」

「良いよ。取り上げても。」

大介が顔を上げた。実里の瞳が自分を捉えていた。

「良いよ。俺を殺しても。」

「・・・・・」

「でも、殺さない。だろ?」

「・・・・・・」

「だって、今の大介には殺すって言葉の意味が解るから。」

「・・・・・・」

「もう8歳の子供じゃない。21歳の大人だよ。何でも解る大人なんだ。だから薬袋を握り潰すなんてやるわけないよ。」

実里は一生懸命つたない言葉を繋いでいる。大介の悲しみを、苦しみを慰めたくて、思いつくままに言葉にしていった。大介は、ただ黙っていた。

大介のために、何をどう言えば良いのか・・・それでも正直に、心のままに言葉を続けた。

「俺は生きたい。大介は生きたくないの?」


______生きたくないのか・・・俺は?


大介は言葉の意味を噛み締めた。こんな風に自分のことを考えたことはなかった。いや、考えてはいけないと思い込んでいた。考えても良いのか、と、問うてみたくなった。

「このまま・・・・生きて良いのか?」

「俺と生きれば良いだろ?」

「おまえ・・・?」

実里は大きく頷いた。

「俺は大介となら生きる意味があるんだ。だから・・・・くそっ!」

苛ついて唇を噛む。自分の語彙がもどかしい。17年分の人生って、こんなにも言葉を知らないのか。だがひるんでいる場合ではない。実里は続けた。

「俺を生かしてくれよ。そしたら・・・・」

「そしたら・・・・?」

大介が馬鹿みたいに実里の言葉を繰り返す。

「大介は人殺しじゃなくなる。そうじゃない?」

「・・・・・・」

大介はカップを持ち上げ、冷めた紅茶を飲み込んだ。心の中に今まで感じたことがない感情が起こって来る。


_____・・・・・・期待・・・・・・。


自分は実里に期待したがっている。実里が自分と一緒に生きてくれることに、期待したがっている。そうすれば・・・・

「俺は・・・」

大介は目を閉じた。瞼の裏に母の姿が浮かんできた。大介が最後に覚えている姿のまま、いつまでも変わらない母は、想い出の中に生きている。だが・・・・

大介は目を開けた。実里の不安気な瞳が自分を見ていた。話すことに力が入ったのか、頬が紅潮している。この少年は、壊れた心臓を抱えてさえも、生きることに希望を持っているのだ。それを、自分が支えることが出来るのか・・・・

「俺は・・・お前を生かすことなんて出来ない・・・・」

実里の瞳が一瞬ひるんだ。これ以上言葉を繋げることが出来なくなった。言いたいことは全部言ってしまったのだ。ギュッと拳を握る。これ以上どうやって大介を・・・・

「だけど・・・」

大介は言った。

「それでも、お前がそうしたいなら・・・」

実里は大介をじっと見た。聴きたい言葉がある。

「そうしたら、お前と俺が生きることが出来るなら・・・」

二人の瞳がお互いを捉えた。

「一緒に生きるよ。」

二人は長い間、見つめ合ったまま黙っていた。その内、実里の瞳に少しずつ涙がたまって、宝石のようにキラキラと光ってから、やがて流れて落ちた。

大介はバスタオルを持ってきて、声を出して泣ている実里の頭に被せると、新しいお茶を淹れるために流しに向かった。これから毎日こうやってお茶を選ぶことにも、期待して。


Act.17

次の日の午後、二人は日差しが温かい居間のソファーに座っていた。

自宅待機していた実里の母親から、家で会うと連絡があったのだ。

「自分の家があるのに、何故違う場所で会うの?」

「そうだね。」

素直な実里の返事に戸惑いながらも、強い姿勢を崩してはいけないと感じているのか、頑なな態度はそのままで、母親は一言付け加えた。

「お父さんにも一緒に居てもらうから。」


郊外にある実里の家は、住宅地の中でひときわ目立っていた。裕福な家庭だとわかる。

庭は整理されており、冬に咲く花や木々が色どりを添えている。きっと季節ごとに楽しめるのだろう。ベンチやテーブルも置いてあった。見ているだけで心が落ち着いてくる綺麗な庭だった。

「珍しい?手入れは全部父さんがやるんだ。」

「お父さん?」

「うん。後で俺の部屋も案内するよ。」

庭が趣味の男性がいても不思議ではないが、自分の父親と重ねて一瞬戸惑った。父は家のことは何もやらない。

実里は久しぶりの実家だからか、大介がそこにいるからか、始終機嫌がよかった。母親がお茶を淹れると二人でソファに落ち着いた。

「お父さん、お願いします。」

それまで自分の部屋にいた父親に声を掛ける。隣で実里が緊張しているのがわかった。

少しすると、ドアが開いて実里の父親が出て来た。大介は立ち上がって一礼する。顔を上げると神経質そうな初老の男性が居た。実里の年齢を考えると、年を重ねてから授かったのかもしれない。

「立ちっぱなしじゃ話せないでしょ。座って。」

母親がせかせかと場を仕切る。

「それで、帰るのよね?」

嫌がりもせずに自分の家に足を踏み入れたのだ。当然このまま実家に戻ると母親は思っている。と、言うよりも、この家から出さないと言う気概さえ感じる。実里は黙って時を待っているようだ。母親は続けた。

「今なら来学期から復学も可能だし、もし、身体が辛いなら1年は休んでも良いわよね。病院にもちゃんと通って、まず人並の生活にもどして行かなきゃ・・・・」

人並の生活・・・・それはどんなことを指しているのだろうか・・・・。大介はカバンから白い封筒を出してテーブルに置いた。

「また・・・!いい加減にしなさい。」

「いえ、これは頂くつもりが無かったものなので。」

「あのね。あと腐れないようにしたいの。後から請求されても嫌なのよ。第一、学生なんでしょ?お金、いるんじゃないの?」

「母さん、そういう言い方・・・・」

その時、すっと手が出てその封筒を父親が掴んだ。

「落ち着きなさい。話が出来ないじゃないか。」

自分の妻のせっかちさには慣れているようで、静かに諫める。母親はそれ以上何も言えなくなった。

「実里の世話をしてくれたそうだね。大変だったろう。本当に感謝している。」

「あ・・・いえ・・・」

大介は頭を下げた。実里は少し驚いて父親を見ている。父親はその実里に向き直って問うた。

「何故、彼と暮らしたいんだ?」

「え?・・・・ああ、その・・・」

以前少しだけ、父親と距離があるという話をしていたっけ。自分と父親の関係を考えても理解は出来る。実里は自分の手を揉みながら、少し考えていたが顔を上げた。

「大介と居ると、自分として生きられるんだ。」

「何?それ?」

母親がつい口を挟む。言いたいことが山ほどあるのだろう。忍耐は苦手そうだった。

「母さんは、俺を病人としてしか見ないじゃん。でも大介は・・・」

「病人って・・・・当たり前でしょ?病気じゃないの。」

「そうだけど、そうじゃないんだ。俺は、病人として生きたい訳じゃないから。」

「だから薬を持って、無理な運動しなければ普通に・・・」

「そうじゃないんだ!」

実里が立ち上がった。驚いて大介が腕を掴むが、それを振り払って叫ぶように言う。

「俺は陸上が好きだったし、ずっと走れるんだと思ってた。大会だって良い成績だったし、大学も陸上で行く気だっただろ?そしたら、急に心臓が壊れちゃって・・・そしたら・・・・」

実里は苦しそうに唇を噛む。

「周りは急に俺を病人扱いし始めた。病院や薬や、今みたいに、無理な運動をしなければ生きられるって・・・・」

段々言葉が続かなくなる。実里の思いは痛いほどわかった。大介はそっと実里の腕を引っ張って座らせた。実里は悔しそうに大介を見る。大介は頷いた。それに安心したのか、実里は再び話し始めた。

「確かに俺の心臓は壊れてしまって、今は薬を飲まないと発作が収まらない。なら、それが今の俺でしょ?ね、母さん。」

実里が母親を直視する。普段自分をこんな風に観たりしない息子に言葉が出ない。実里は今度は父親に向き直った。

「父さん、俺は走りたかったのに、なのにみんな俺に心臓のことばかり言って、一度も、誰も、“辛かったな”って、言ってくれなかった。そんなに軽い気持ちだと思ってたの?」

実里は立ち上がると、父親の目の前に跪いた。そして静かにその膝に手を掛けた。母親が驚いて小さな声を出した。

「大介が言ってくれたんだ。」

「・・・・・・」

「走りたかったなって・・・・」

大介は実里から目が離せなかった。実里が話していることは、大介の知らないことだ。そんな風に実里に何かを与えたかった訳じゃない。与えてもらったのは、自分の方だ。

「そしたら俺、急に自由になったんだ。まるで心臓なんて最初から何でもなかったみたいに・・・・ちゃんと生きていける。そう思えたんだ。俺は大介と居たい。大介と居ると、自分でいられるんだ。」

17年生きてきた中で、実里がこんなに真っすぐ、自分と向き合ったのは初めてだった。父親は動揺し、呆けたように実里の顔をじっと見つめた。

「なに訳のわからないことを言ってるの!病人だなんて一度も思ったことなんか・・・」

「いや、確かにお前を病人だと思っていた。」

「お父さん!」

母親の声はヒステリックになっている。このままでは良くない。大介は立ち上がった。

「すみません。俺がちゃんと話します。」

「良いんだ。座って。」

落ち着いた父親の瞳に促されて、大介は言われた通りにソファに座り直した。

居間は、しばしの沈黙に包まれた。

実里は思わず触ってしまった父親の膝をどうすれば良いのか考えあぐねて、とうとうその場に座り込んだ。自分でもこんな行動をするとは思わなかったのだ。所在投げに大介を見る。大介はその困惑した実里の顔が可笑しくて、少し笑った。その大介の笑顔につられて、実里も笑い始める。そうなると急に緊張が解けたのか、二人とも我慢できなくなって吹き出してしまった。笑いだすと中々止まらない。しばらく居間は二人の笑い声で満たされていた。

「あ~すっきりした。」

そこそこ笑った後に、実里が言った。さすがに疲れて来たのか、母親は黙って実里を睨んでいる。

その時父親が立ち上がって二人に言った。

「温かい恰好をして来なさい。庭に行こう。」

二人は顔を見合わせると、黙って立ちあがった。


「冬は枯れ木も多いから、庭も閑散とするが、それでも咲いてくれる花があるんだ。」

庭に出ると、父親はゆっくりと歩き始めた。確かに冬空の中でも、ボケの花やマンサクなど、小さな花をつけている木々が、庭に彩を与えてくれていた。大介は彼と並んで歩きながら、言われるままに木々を眺めてた。自分の父親とは交わしたこともない会話。それは自分が拒否してきた時間なのかもしれないと気づかされて戸惑った。後ろを見ると、実里が静かに父親の背中を見ながら、不思議そうに後をついて歩いてくる。ふと、これが郁也なら、同じように黙ってあとを付いてくるのだろうかと、心配になった。自分を見ている大介に気づき、実里がにこりと笑った。曖昧な笑顔を返して、大介はまた前を向く。

「実家は地方かね?」

ふいに質問されて、戸惑った。今まで大介自身のことを誰かに話す習慣がなかったからだ。

「いえ、都内です。」

「なのに独り暮らしを?家が遠いのかね?」

「いえ・・・・」

実里が心配そうに大介の隣に立った。父親が大介に何を言うのかが気になっているのだ。

「わがままを聞いてもらっています。」

「そうか。裕福なんだね。」

父親はまたゆっくり歩き出した。大介と実里が後から付いていく。

「実里・・・」

「あ、はい。」

実里が慌てて前に出てきた。父親は実里と向き合うと、しばらく顔を見ていたが、その頭に静かに手を置いた。

実里がびっくりして固まっている。父親が自分に触れた記憶がないからだ。

「やはりお前は、一度帰ってきなさい。」

「父さん・・・・」

「言いたいことは解っている。ちょっと座ろうか・・・」

父親はガーデンテーブルに二人を誘った。実里は不安げに座って大介を見る。大介も大人しくついていった。

「おまえの気持ちをちゃんと考えられなかったことは、申し訳ないと思っている。だが、私にも母さんにも、大事な息子の大病は初めての事件だったんだ。」

ハッとして実里がうつむいた。自分のことだけで精一杯だったのだ。両親の気持ちは考えたことがなかった。

「だから、これからでも、ちゃんと親の責任を果たしたい。おまえのためにも、私たちのためにも・・・」

父親の声は静かで暖かだった。ふと大介は、こんな時間に憧れていたのだと思った。父親との会話に。

「一度、戻ってきなさい。」

「父さん、でも・・・・」

「大介君は、どう思うかね?」

急に矛先が自分に向いて、かなり感傷的になっていたことに気づく。まるでドラマのようだと思って聞いていたのだ。実里を見ると、すがるような瞳をしている。これもドラマのように思えた。

「もちろん、実里がこれからお世話になるのなら、今までのことも含めて、実里にかかる経済的な負担は無くします。ただ、お金の問題ではないことなので。」

きちんと敬語で話してくれる。本当に正しい人なのだと思う。相手が学生だろうが、この人はちゃんと向き合ってくれる人なのだ。大介も自分の甘さを認識した。

「おっしゃる通りだと思います。こちらも軽率でした。すみませんでした。」

正直に頭を下げた。実里ががっかりしているのが解る。だが、同じ親の管理下にある自分にも、出来ることは限られている。実里の身体のことを考えたら親元に帰ることは正しい判断だった。

「ありがとう。」

父親は静かにそういうと、実里を見た。

しばらく静かな時間が流れた。父親は実里の言葉を待っているようだったが、真意はわからない。そろそろ身体が冷えて来るだろうと、大介が言葉を掛けようとした時、実里が言った。

「じゃあ、お願いがある。」

「うん?・・・・」

予期せぬ言葉に、父親の瞳が見開いた。

「言ってみなさい。」

実里は頷くと、大介の顔を見た。何か覚悟が決まったような、清々しい顔だ。思わず声を掛けた。

「実里・・・」

「転校したい。」

「転校?」

「うん。今の学校はスポーツ枠で入った学校だし、やりたいことが出来たんだ。」

「やりたいこと・・・・」

「医者になりたい。」

「医者?」

聞き返したのは大介だった。目が丸くなっている。その顔を見て、父親が思わず笑った。その笑顔に安心して、実里は続けた。

「うん。スポーツ医学を専門にするんだ。」

「スポーツ医学か・・・・」

父親が呟く。実里も頷いた。

「まだそんなに経験してないけど・・・俺は陸上やってたし、心臓病も患ってる。でもこの二つの経験で何が出来るんだろうって考えたんだ。もっと言えば、大好きなスポーツに関われること。それで見つけた。あんまり勉強しなかったし、出来るだけ頑張るけど・・・・」

「すごいな・・・おまえ・・・」

大介は心から感嘆して言った。実里が照れて頭を掻く。

「すごいのは大介だよ。俺の気持ちを変えたし・・・」

そして父親に嬉しそうに言う。

「大介に勉強を見てもらうから。大介、T大なんだ。すごいでしょ?」

「ほう・・・」

「そこ、関係ないだろ?俺は文系だぞ!そういうのは・・・」

「良いよね?志望校は決めてるんだ。家から通うから・・・」

「どこだよ、志望校って」

「M校の理系」

「・・・・・本気か?・・・」

明るく頷く実里を見ながら、父親と大介が顔を見合わせた。郁也が通っている進学校だ。実里の現学校も偏差値は悪くないが、スポーツ枠での進学率の方が圧倒的に高い。アスリートを育てる学校だった。確かにそれ以外で目標があるなら、適した学校を見つけた方が良いが・・・・

「・・・本気か?」

「うん。勉強するし。」

あっけらかんと返事をする実里を、大介は口を開けて見つめた。

「あのさ、おまえ・・・」

ぶーっと吹き出す音がして、父親が体を折って笑い始めた。

「お父さん!」

心配で少し遠いところから見ていた母親が駆け込んでくる。

「大丈夫ですか?お父さ・・・・」

涙を流しながら大笑いしている夫を、母親がびっくりしてマジマジと見た。こんなに笑う夫を見たのは初めてかもしれない。

「いや・・・・いや・・・」

皆に見られながらも笑いが止まらないようで、ひとしきり笑った後に、彼はようやく言葉を発した。

「いや、すまない・・・私の息子がこんなに成長しているとは・・・」

まだ笑いながら父親が母親に向かって言った。

「実里はスポーツ医学を学びたいんだそうだ。私たちの息子が医者になるぞ。どうだ?」

実里は少し心配そうに母親を見た。母親は腕組みをしてため息をついている。が、口元が笑っていた。

「そりゃ・・・実里が望むなら、そうさせましょうよ。勉強するんでしょ?」

実里は頷く。

「大介に見てもらうから。良いでしょ?」

「あのなあ・・・俺は・・・」

「お願いするよ。もちろん受験に近くなれば、専門科の学生に頼むが、まずは編入試験に受からないと・・・どうだね?」

「いや・・・あの・・・・」

「大介のところにも通うから。病院と意外と近いんだ。泊っても良いでしょ?うちに来ても泊まったらいいし・・・」

「いや・・・だから・・・」

「そこまで言うならしょうがないわね。大介さん、お食事何がお好き?」

「いや・・・・」

実里の性格は、親譲りだと、たった今理解する。

「わかりました・・・・・。」

「決まった!家に入ろうよ、寒いし、ごはん食べよう!」

何故か意気投合して実里と母親が肩を組みながら部屋に戻っていく。大介は頭を掻きながら、その後に続こうとした。その背中にそっと父親の手が添えられた。

「どうもありがとう。君のおかげだ。」

改めて並んでみると、大介よりは頭一つくらいは背が低い。肩が細く感じた。

「いえ、お役に立てるかどうかわかりませんが・・・あの・・・」

父親は黙って一緒に歩いている。

「本当は、俺が実里君に助けてもらったんです。」

大介は、初めて自分の家族のことを想いながら言った。

「お父さん・・・」

「うん?・・・」

「今日、俺にも向き合うべき家族がいるって、思い出しました。」

「そうかね?」

大介は頷いた。

「そのことも・・・・ありがとうございました。」

部屋の中から実里が大きく手を振って、二人を迎えてくれる。その笑顔を見ながら、この正月は実家に戻ろうと心に決めて、大介は手を振り返した。


Act.18

成田空港はいつでも人でごった返している。

日本人も外国人も混ざっていて、人の通りを見ているだけで必然的にエネルギーをもらっていた。

「わざわざ見送りに来なくて良かったのに・・・」

志野は喫煙所でカップコーヒーをすすりながら、煙草に火をつける。

「随分手荷物が少ないね。これから2年もロンドンへ行く人には見えないけど・・・。」

横で大介が笑いながら、もうもうと立ち合あがる煙を払う。

「出たら?」

「意味ないでしょ?見送りに来てるのに。」

「そりゃそうね。」

ふふっと志野が笑う。

年末までに仕事を全て終わらせて引継ぎを終え、志野はその足でロンドンへと向かおうとしていた。少しは休めば良いのに、と言う提案は無下に断られると大介は知っている。

「向こうのアパートは決まってるの?」

「うん。一応用意してくれた。すごいわよね。二週間しかなかったのに。」

「じゃあ、少しはゆっくりできるね。どうせお正月だし。」

「あなたは?・・」

「ん?俺?・・・」

志野は煙草の煙を吸い込んで、ゆっくりと吐いた。

「ううん。なんでもない。」

大介と実里のことは、もちろん知っている。

結局実里は家に戻り、今は自宅と大介の部屋を行き来するという生活パターンを始めていた。

既に嫉妬はなくなっている。

「お正月は?相変わらずマンションで過ごすの?」

なんでもない会話で終わらせようと思っていた。

「今年は・・・帰ろうと思うんだ・・」

煙草を咥えようとした志野の手が止まった。

「え?・・・」

その志野の瞳に答えるように大介が照れ笑いをする。

「久しぶりに・・・・家族に会おうと思って・・・」

「そう・・・良かったわね・・・」

「良かった?・・・」

大介が少し不安げに問い直した。

「そうでしょ?」

志野の瞳と大介の瞳が向き合う。

ずっとこの瞳が拠り所だった。どこへ向かっていいか、長い間彷徨っていた自分の錨になってくれていた。大介は、ゆっくりと志野の後ろへ移動すると、その背中を抱きしめた。

「ありがとう・・・大好きだよ。」

隣で煙草を吸っている外国人が小さな口笛を吹く。

志野は大介がやっと港へと舵を向けたことを理解した。そしてそれが、大介が実里と出会ったからこそ起こったと言うことも。


____完敗だったわね・・・


口の端で笑って大介の腕をほどくと煙草を消した。そして、改めて大介の身体を抱きしめる。大介も再び志野を抱きしめた。これが最後の別れのように。

「メール、入れるよ。」

「返信しないわよ。」

「それが元気な証拠でしょ?」

二人は笑って身体を離した。

「ここで良いわ。見送りは性に合わないの。」

「わかってる。」

志野は頷くと、手を振って喫煙所を出て行った。大介はその後を追ったが、志野の姿はすぐに人ごみにの中に紛れて行った。自分の身体に染み付いた煙草の匂いが、まだ志野を感じさせる。しばらくそのまま立ち尽くしていたが、やがて匂いが薄れてくると、大介はゆっくりと空港を後にした。


「大介!」

久しぶりにパルモ珈琲店のカウンター席に陣取っていた実里が手を振った。コーヒー豆を挽いていたマスターが手を止める。

「おう、行ったか?」

「うん。」

実里の隣に座りながら大介が頷く。

「そうか・・・寂しくなるな・・・おまえはバイトを辞めるし・・」

珍しくしんみりとマスターが言う。

「でも、堀田さんがバイトするんでしょ?俺たちもしょっちゅう来るし・・・」

実里がオレンジジュースを飲みながらニコニコ笑っている。マスターがその顔を見ながら首を傾げた。

「なんか、おまえ変わったな・・・そんなにベラベラ喋ったか?」

実里が肩をすぼめて大介を見た。

「これが本来の性格らしいよ。」

へへっと笑った実里の顔は、出会った時よりはるかに顔色も良く、健康的になっている。いつもと変わらない日々は、少し明るく変化した。

「ちわっす!」

どーんとドアが蹴られて堀田が入って来た。が、意外とドアがすんなり開いて面食らう。

「あれ?」

肩透かしを食らったような顔でマスターを見ると、マスターは咳払いして堀田の肩を抱いた。

「ドアね、修理したのね。軽くなったでしょ?」

「あ・・・・・そうなんだ・・・ははは・・・」

マスターの怒鳴り声は永遠に変わらない。大介と実里は顔を見合わせて笑った。


「俺も行くの?」

パルモ珈琲店を出て大介のマンションへ向かう途中で、実里の足が止まった。大介はそれを促すように、実里の背中を少し押してやる。

「止まると寒いだろ。」

「なんで?大介の家でやるんでしょ?」

「当たり前だ。正月だからな。別に元旦でなくても良い。三が日のどこか、実里の大丈夫な時で。」

「そうなんだ・・・・良いけど・・・・」

大介の事情を知っているだけに、その家に足を踏み入れることは少し怖かった。

「嫌なら・・・」

大介が申し訳なさそうに言う。実里は慌ててかぶりを振った。

「嫌じゃないよ。わかった。親に話してみる。俺んちにも来るよね?その後でも・・・」

「悪いな。」

実里は笑顔で頷いた。

「良いんだ。」

大介が自分と家族の仲を取り持ってくれたことを感謝している。今度は自分が役に立つ番だと実里は考えた。

二人は並んでマンションまでの道を歩いていた。最初は見知らぬ人だったのに、今は無くてはならない人になって大介は隣にいる。実里はそっと大介の手に自分の手を添えた。すると、自然に大介がその手を握り返してくれた。幼い子供のように、二人は手を握って歩く。

「あ、雪だ・・・」

「雨じゃないか?」

「雪だよ・・・」

二人で空を見上げる。

「寒い?」

実里は首を振った。

「俺、ちゃんと医者になれるかな・・・」

「そのために勉強すんだろ?」

「うん・・・」

「やっぱ、今からでも理系の・・・」

「大介が良いって言ってんじゃん!」

「いや、そうだけど・・・俺の自信が・・・」

「あ~、なんでいつもフラフラするんだよ!だいたい・・・!」

小言を言い合いながら、笑い合いながら、二人はいつかの道に足跡を付けていく。

今始まったばかりのこれからの道を見失わないように、例え見失ってもまた、どこかで戻ってこれるように・・・。二人はしっかりと手を握り、向かい風に頬を染めながら、二人だけの道を、ただ真っすぐに歩いて行った。




































































































































































































































































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