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桜の偶像

作者: 犬彦

2017年作。日本画家の女性の話です。

 池袋の外れの小さな喫茶店だった。カウンターに八席と、四席付けのテーブルが二セットだけなので、十六人で満席になってしまう。それでも、落ち着いた雰囲気が損なわれるほど混み合っているところを、野村早智は一度も見たことがなかった。


 それなりに交通量の多い道路を挟んだ向かいの空き店舗には、ついこの間までエスニックレストランが入っていた。料理の味も店内の雰囲気も悪くなく、喫茶店の何倍も客を集めていたが、結局は経営不振で潰れてしまった。


 東京は不思議なところだ。


 早智はガラス扉近くのテーブル席に一人座り、だらしなく肘をつき、飲み慣れたカプチーノをすすった。一応、日本画家を名乗ってはいるが、今日もアトリエで一度も筆を握っていなかった。


 五月中旬。外の気温は空調の入っていない店内とほぼ同じで、ガラス扉が開いても、熱気も冷気も入ってこなかった。ひとりの男が遠慮がちに扉から顔だけ差し込んで店内を窺った。待ち合わせの相手、平川明規だった。早智と目が合うと、ほっとした表情を浮かべた。


「ごめん。結構遅れちゃった。ギャラリーをなかなか抜けられなくて」


 そう言うと早智の向かいに座った。


「気にしてないからいいよ。まあ、ちょうどいい時間じゃない?」


 早智は軽く言った。待ち合わせの時間は午後四時だったが、今は四時二十分。もっとも、早智自身が四時十分過ぎに来店していたので、遅刻を責められる立場でもない。


 明規はメニューの最初に記されているブレンドコーヒーを注文した。


 四谷で三十年以上営業を続けている『ギャラリーひらかわ』は、小さいながらも美術通からの評価が高い画廊だった。早智と同じ三十歳の明規は、その画廊の後継ぎとして、半年前からオーナーの父親の下で、画商のノウハウを学んでいた。しかし元々美術にあまり興味がなく、前職がまったく異なる分野だったので、勝手の違いに苦心しているようだった。


「で、今日は何の話?」


「素っ気ないなぁ、さっちゃん。久しぶりなんだから、もうちょっと再会を喜び合おうよ」


 この馴れ馴れしさが、早智が明規を好きになれない理由のひとつだった。さっちゃん、などと親にも呼ばれたことがない。


「せいぜい半月でしょ。そんなの久しぶりって言わない」


「最近はどう? 順調?」


「変わりなしよ。細々と、飢えない程度にね」


「ちゃんと食べないと駄目だよ。一人暮らしは生活が乱れやすいから」


 担当画家の生活をいちいち気にするのも画商の仕事だと、オーナーに教えられたのだろうか。


「あ、そうそう、雑貨店のポスター見たよ。あれ? 何て店だったかなぁ」


 雑貨店のポスターは、知り合いに頼まれてデザインしたのだが、もう二年も前だ。あのポスター、まだ使っていたのか。


「とにかく、凄くいいポスターだよね。今度、ウチのギャラリーのポスターも作ってもらおうかな」


「えっと、話ってのは、ギャラリーのポスターデザインでいいのかな」


「いや、そうじゃなくて」


「じゃあ、何?」


 苛立ってきた。


「まあ、そんな顔しないで。せっかちだなぁ。じゃあ、前置きはこれくらいにして、本題に入ろう。結構いい話だよ」


 マスターがブレンドコーヒーを運んできたが、明規は口をつけなかった。軽く咳払いをすると、気持ちが入れ替わったのか、顔つきが引き締まった。


「昨日なんだけど、ギャラリーに来たお客さんから、さっちゃんに絵を描いてほしい、という依頼を受けたんだ」


「えぇー」


 まったく予想していなかった。思わず声が出てしまった。


「本当に私?」


「間違いないよ。直々のご指名だ」


 『ギャラリーひらかわ』に託した作品が売れることは、たまにある。商業デザインを依頼されることも、たまにある。しかし特定の客からの依頼で新作を描いたことは、一度もない。


「……あれ、もうちょっと喜ぶと思ったんだけど」


「い、いや、もちろん嬉しいよ」


 早智は慌てて笑顔を作ってみせた。


「珍しいことだから、驚きの方が強かっただけ。依頼主の名前と連絡先、聞かせてくれる? 一度挨拶して、どんな絵を希望しているのか、打ち合わせておかないとね」


「あ、希望は聞いているよ。桜をモチーフにしてほしいって。サイズは縦長でも横長でもいいから、縦横共に一メートル以上。なかなかの大作になるね」


「桜……かぁ」


 早智は渋い顔をした。


 日本画家にとって、桜は最も厄介なモチーフだと言えるだろう。わざわざ芸術作品にする必要がないほどの、いわば日本美の代表なので、よほど上手く描かないと、ひどく見劣りする駄作が出来上がってしまう。


「依頼主の名前、インパクトあるから忘れようがないね。高橋夢子、って人」


 まさかの名前に、早智の顔が引きつった。


「背筋がピンと伸びていてね。ちょっと格好良かったな。あの気品は、ただの成金の奥様ではないな。……あれ、さっちゃん、どうしたの?」


「ひょっとして明規君、夢子奥様のこと、知らない?」


「知らない」


「オーナーから何も聞いていないの?」


「聞いてないよ。親父がいない時の来店だったし、親父に話していないし。高橋夢子って、さっちゃんの知り合い?」


 早智は少し息を吐いた。


「そうね。知り合いっていえば知り合いかな。ところで、『ギャラリーひらかわ』で一番高い絵って何?」


「そりゃあ、ダントツで高橋喬平画伯の大作、『桜の偶像』だね。親父が勝手に五億っていうメチャクチャな値段つけてるからね。でも実際には何億積まれても売らないだろうな。それほど親父は大事にしている。高橋画伯の桜シリーズ四点は、どれも百年後には重要文化財指定で間違いなし。その内の一点が、どうしてウチみたいな零細ギャラリーにあるんだろうね」


 高橋喬平は、日本画の革命児やら、色彩の魔術師やらと、マスコミにもてはやされたほどの高名な画家だった。残念ながら五年前、癌によって五十六歳でこの世を去っていた。


「夢子さんは、高橋喬平先生の奥様よ」


「……え?」


「オーナーと高橋先生は親友だったんだよ。オーナーは先生を無名だった頃から贔屓にしていて、積極的に絵を買い取ってきた。先生はそのことにずっと恩義を感じていたからこそ、『桜の偶像』をタダでオーナーに譲ったんだよ。それから夢子さんは先生のマネージャーも兼ねていた。それもかなりの敏腕だった。奥様がいなければ先生の成功はなかったかもしれない。今でも日本画壇にかなりの影響力があって、ちょっとした有名人ね。美術雑誌にコラムを書いているし、随分前だけどテレビの教育番組に出演したこともある」


「へぇー、そうだったんだ。知らなかったなぁ」


 明規が能天気な口調で言った。


「普通のオバサンと同じように接しちゃったよ。巨匠の奥様に失礼なことしなかったかなぁ。それにしてもさっちゃん、よく知ってるね」


「高橋先生は私の師匠だからね」


「そうなの?」


 明規は目を大きく見開いた。


「先生は私が卒業した美術大学の教授だったんだよ」


「へぇー。親父もさっちゃんも巨匠と知り合いだったのか。羨ましいな」


「明規君は半年前までギャラリーのこと無視して生きてきたからね」


 突き放すような早智の言い方に、明規は苦笑いを浮かべ、ようやくブレンドコーヒーに口をつけた。


「ところでこの依頼。せっかくだけど断っていいかな?」


「え、どうして?」


「今は桜の季節じゃないし。それに考えてみてよ。桜よりも桜らしい絵を描く、と謳われた高橋先生の奥様が、桜の大作を要求している。そんな高すぎるハードル、誰が飛べるの? 無理して飛んでも、大怪我するだけでしょ」


「……そういうものかなぁ」


 明規は腕を組んだ。


「画伯の弟子だったさっちゃんを応援するつもりで依頼したんじゃないのか。多少の難点は見逃してくれるんじゃない?」


 早智は首を横に振った。


「奥様、そんな甘い人じゃないよ。芸術へのこだわりが半端じゃないんだから、妥協なんか絶対にしない。それに本気で弟子を応援するつもりなら、桜の大作なんか絶対に要求しない」


「じゃあきっと、さっちゃんの画力を高く評価しているんだよ。さっちゃんの絵を見て、大丈夫だ、と思って依頼したんだよ」


 本当にそうなら光栄には違いないが、それ以前に正直なところ、早智は夢子に関わりたくなかった。高橋喬平の葬儀以来、二人は一度も顔を合わせていなかった。




 絵の売り上げだけでは、とても食べてゆけない。それは早智だけではなく、大抵の日本画家に当てはまることだった。プロ志望者の数に対して市場が圧倒的に小さい日本画の世界は、やはり厳しい。


 生活のためには、当然、副業を持たなければならない。アートスクールの講師は、最も理想的な副業と言えるだろう。金額はともかく、安定した報酬を毎月得られるのは、精神的にも大きい。そして何より、生徒に先生と呼ばれて敬意を払われることで、画家としてのプライドを維持できる。


 早智が講師をしているのは、渋谷の複合商業ビル内にある、富裕層向けアートスクールの日本画コースだった。子供、若者、大人、老人、レッスンには様々な年代が集まっているが、皆、品があって礼儀正しく、とても教えやすかった。報酬が高いこともあり、早智自身も熱心に取り組んでいた。一人一人の画力や性格に合わせて指導を工夫し、生徒にとって心地良いレッスンになるように、気配りを怠らなかった。その甲斐あって評判は上々で、アートスクールの看板講師になりつつあった。


 やりがいは確かにあった。売れない絵を描いている時よりも、はるかに充実しているくらいだった。今は週三日だが、週五日の専属契約でやってみないか、と経営陣から誘われており、まんざらでもなかった。いっそのこと、講師の方を本業にしてしまおうか、と冗談半分で思い始めていた。


 午前中のレッスンが終るとすぐ、受付スタッフのひとりが早智の教室に顔を見せた。来客がロビーで待っている、とのことだった。高橋夢子、という名前を聞いて顔が引きつった。逃げるわけにもいかないし、あまり待たせるのも失礼なので、片づけを途中のままにして、とにかくロビーに向かった。


 アールデコ調の天井灯の無機質的な光が空間に広がり、エリック・サティの環境音楽が漂っている。シンプルこそエレガントと言わんばかりのモダニズムが鼻につくロビーで、妙に背筋が真っ直ぐな婦人がソファに座る姿は、モディリアニの絵画のようだった。早智を見つけると、まるで天井から吊られた人形のように、すっと立ち上がった。


「お久しぶり、野村さん」


 夢子の微笑は相変わらずだった。温和と冷淡が入り混じっており、相手を妙に緊張させる。


「お、お久しぶりです」


 早智はうやうやしく頭を下げた。


 五年ぶりの再会でも、夢子の容姿はまったく変わっておらず、若々しい。今年で還暦のはずだが、四十代だと嘘をついても通用するだろう。


「今日は貴方にお話があって伺いました。お時間は大丈夫かしら」


「は、はい。大丈夫です」


「ではお座りになって」


 夢子はそう言うと、先にすっと座った。早智がロビーのソファに座るのは初めてだった。デザイン偏重かと思っていたが、座り心地は案外良かった。


「さて、改めて依頼いたします。野村早智さん、貴方に日本画の制作をお願いいたします。モチーフは桜。縦長でも横長でも構いませんが、サイズは縦横共一メートル以上でお願いします」


 夢子の言葉は一音一音がはっきりして、声量が小さくてもよく通る。それほど広くないロビーなので、受付カウンターのスタッフや通りすがりの生徒にも、間違いなく聞こえている。


「すみませんが、その話は先日、『ギャラリーひらかわ』を通してお断りしているはずですが」


「確かに聞いております。それを踏まえた上で、再度お願いしているのです」


「私にも事情がありまして、やはりお受けできません」


「私の依頼よりも重要な事情などあるのですか」


 傲慢な言葉だが、その通りだった。売れない日本画家が日本画壇の実力者の依頼を拒んでいることの方が、はるかに非常識だった。


「私は諦めません。今日が駄目なら、後日改めてお伺いさせていただきます。この依頼、受けていただけるまで、何度でもお伺いさせていただきます」


 早智は思い出した。高橋夢子は、一度決めたことは頑として曲げない、心に鉄の芯を持つ女性だった。


「どうしてですか」


 早智は嘆くように呟いた。


「どうして私なんですか。私じゃなくてもいいじゃないですか。他に優秀な画家はいくらでもいます」


「いいえ、貴方でなければ意味がありません。貴方は、我が夫、高橋喬平が唯一才能を認めた教え子であり、そして、我が夫、高橋喬平が最もかわいがった愛人だからです」


 ロビー内の時間が止まったかのようだった。


 早智はひどく慌てて、無意識的にロビー内をキョロキョロと見回した。受付スタッフや生徒が、すぐに視線を逸らした。


「お、奥様。……一体何をおっしゃっているのですか」


 声が震えたのは、成人になって初めてかもしれない。


「私は真実を言っただけです。貴方が常日頃から自分の行動に自覚と責任を持っていれば、慌てることなど何ひとつないはずです」


 その言葉は残酷なほど正しい。


 全身が歪に熱くなった。


 やはり奥様には見抜かれていたか。


 喬平と付き合っている時も、そして喬平の死後も、不倫のことが漏れないように、細心の注意を払ってきたつもりだった。しかし結局、無駄な努力だったことになる。


 絵画だけでなく、人の本質をも見抜くことに長けている奥様に、いつまでも隠し通せるわけがなかったのだ。遅かれ早かれ、こういう日が来るのは必然だったのだ。しかしせめて、誰もいないところで喋ってほしかった。


「野村さん、桜シリーズはご存知ですよね」


「もちろんです。先生の代表作ですから」


「『桜の告白』、『桜の巡礼』、『桜の改悛』、『桜の偶像』。実は桜シリーズ四点には共通した裏テーマがあります。それが何か、おわかりになりますか」


 なぜ急に桜シリーズの話題になったのだろうか。


「……宗教、でしょうか」


 早智は思いついたまま言った。


 夢子は、ほほほほほ、と笑った。上品さは失っていなかったが、これほどあからさまに声に出して笑う夢子を見るのは初めてだった。


「喬平は生まれてから死ぬまで、神仏を信じたことなど一度もありません。告白、巡礼、改悛、偶像、宗教的な言葉を題名に加えるだけで、神聖な作品のように大衆は感じてしまいます。夫はただ桜を描いただけですのに」


 夢子の声が心地良く弾んでいた。奥様の望んだ通りのバカを言ってしまったと、早智は恥ずかしくなって、うつむかずにいられなかった。


「喬平には四人の愛人がいました。大学病院の看護士さんに告白し、販売員さん目当てで百貨店を巡礼し、世田谷の有閑マダムの前で改悛し、そして美術大学の教え子を偶像として崇めていました。つまり四人の愛人こそが、桜シリーズの裏テーマなのです」


 衝撃の事実だった。


 自分の他に愛人がいた? しかも三人も?


 信じたくなかったが、夢子の明瞭すぎる言葉が、それを許さなかった。


 体の熱が急激に冷めてゆくのを感じた。脱力感に襲われ、その場に倒れ込みたいくらいだった。


「先日、『桜の改悛』が久しぶりに美術館で公開されましたので、私も鑑賞させていただきました。身内の贔屓ではありませんが、実に素晴らしかったです。繊細かつ大胆、ただ美しいだけでなく観る者の魂を揺さぶる大傑作です。桜よりも桜らしいと、多くの批評家から大絶賛されたのも納得です」


 夢子の口調に不自然さがないことが、早智にはかえって不自然に思えた。愛人が裏テーマになっている絵を、女としての嫉妬を完全に抑えて、ここまで軽やかに称賛できるものなのか。


「機会があれば、野村さんも是非ご覧になってください」


 絶対に嫌だ。


「しかし『桜の改悛』が喬平の最高傑作かと問われれば、明らかに違います。ではどれが最高傑作でしょうか。それは私だけでなく、日本中の批評家の意見が一致しています。『桜の偶像』、つまりは野村早智さん、貴方が裏テーマとなった絵です」


 言われたところで何も感じない。心がコチコチに凍ってしまっている。


「喬平の貴方への思い入れの強さは、『桜の偶像』を見ればわかります。あの花びらの美しさは官能的ですらあります。瑞々しく、しっとりとして、透き通るような色合い。まるで女性の肌のようだと思うのは私だけでしょうか。野村さんのような色白の肌が、好きな男性に愛撫されて、体の内側から滲み出るような桜色に染まる。喬平は何度も見ていたのでしょうね」


 このクソババアは、一体何を言っているのだろうか。


 受付スタッフが気にしていない振りをしながら、興味津々で聞き耳を立てているのはわかっている。もう好きにしてくれ。今日聞いたことを、親にでも友達にでも面白おかしく喋って、せいぜい笑い者にしてくれ。


「そしてあの筆致の独特の滑らかさは、素人にはわからないでしょうけど、他の作品にはありません。私からすれば、本当に喬平の作品かと疑ってしまうくらいです。喬平は野村さんの筆使いを研究していました。そしてその成果を『桜の偶像』に取り入れたのです」


 早智は自分の耳を疑った。


 喬平から絵を褒められたことなど、一度もなかった。美術大学入学から卒業まで、駄目な点を細かく指摘され続けた、という印象しかなかった。


 早智の知る喬平は、自分の画力こそが日本一、という揺るぎない自信を持っていた。教え子の未熟な筆致を取り入れようとしていたなど、にわかに信じられなかった。


「喬平は貴方の若い肉体だけではなく、貴方の才能も心底愛していたのです。だからこそ貴方に依頼するのです」


 夢子は早智を鋭く突き刺すように見つめた。


「野村さん、実を言うと、私の命はもう長くないのです。私の体は末期の癌に侵されています。これが私の最後のお願いだと思って、どうか聞いてください。私も美しい桜の絵が欲しいのです。だって、ずるいではないですか」


 夢子の口調が変わった。気持ちが高ぶっているのはわかるが、早智は違和感を覚えた。


「我が夫、高橋喬平は、四人の愛人にはあれほど素晴らしい傑作を残しておいて、私には何の絵も残してくれませんでした。私だって欲しいのです。もちろん、私のようなオバサンを裏テーマにしろ、なんて言いません。ただ、これまでの人生に報いるような、美しい桜の絵を眺めながら、私は死にたいのです」


 杭で固定されたような気分だった。逃げることも、かわすことも、できなかった。




 幼い頃から絵を描くのが好きだった。


 美しい色を見つけて、紙の上で表現するのが、単純に楽しかった。クレヨンに始まり、色鉛筆、水彩絵具と移り、小学四年生で油絵教室に通うようになった。しかし油絵の重厚さにどうしても馴染めなかった。


 日本画に目覚めたのは、中学一年生の時。きっかけは、学校の図書室で見つけた高橋喬平の画集だった。岩絵具の透き通るような色合いに魅了され、これこそが私が求めていたものだと確信した。あっさりと油絵を捨て、父親に頼んで日本画材一式を揃えてもらった。日本画教室が実家の近くになかったので、様々な日本画家の画集を図書室で借りて、それを模写することで腕を磨いた。


 高校入学の時点で、すでに高校卒業後の進路を心に決めていた。憧れの高橋喬平が日本画科の教授をしている美術大学に入ることしか考えられなかった。難易度は決して低くなかったが、三年間の周到な受験対策のおかげで、現役で合格することができた。


 大学内での高橋喬平は、学生の絵を絶対に褒めないことで有名だった。その辛口指導を大抵の学生が嫌っていたが、早智は、気に掛けてくれている、とむしろ喜んだ。若者らしい余計な反発心は、憧れの巨匠の前では自然と抑えられた。


 誘ったのは喬平の方だった。


 その時、早智は二回生で十九歳、喬平は五十歳。倍以上の年の差だったが、早智にとって拒絶する理由にならなかった。憧れのままに慕い、当たり前のように身を任せた。


 君は本当に美しい。


 早智の絵を絶対に褒めなかった喬平が、二人きりになると早智をとにかく褒めまくった。


 君の姿をそのまま、僕の芸術に取り込んでしまいたい。


 耳元で何度囁かれたことか。しかし飽きることはなく、囁かれる度に深い陶酔の中に落ちていったものだった。


 愛人関係は喬平が死ぬまで六年間も続いた。喬平の他にも、何人かの男性と交際したことがあるが、誰とも長続きしなかった。喬平と比べてしまうと、どの男性もつまらなかった。その経験から、喬平を超える男性はこの世に存在しない、という結論に至った。


 それでも、喬平を本気で愛していたとは、とても言えなかった。


 異性の温もりや性的な快楽、年配者の包容力を喬平に求めていたのは確かだが、夢子から妻の座を奪い取りたいという欲望は、まったくなかった。


 喬平にとって最も重要な女性は、早智ではなく夢子だった。それは早智もよく理解していた。夢子は夫を生活面で献身的に支えただけでなく、その卓越した手腕で日本屈指の画家にまで押し上げたのだ。喬平もそれを重々承知しており、感謝の念を忘れたことはなかった。


 ただし、少なくとも早智と付き合っていた頃には、夢子を性的対象として見ていなかった。


 それならば、妻やビジネスパートナーという面倒な役割は夢子に押しつけていればいい。そして自分は愛人として、喬平の肉欲だけを独占していればいい。


 身勝手な女だと、自分でも思う。


 喬平の死後、早智は夢子というより高橋家そのものと断絶しようとした。自分の存在を夢子の前から消し去る。それがせめてもの償いだと、都合良く思い込もうとした。本当は罪悪感から逃れたかっただけなのだが。




「凄い絵だねぇ。素人の僕でもわかるよ」


 明規が早智の隣で、勝手に感動している。支える側の画商が自分のことを、素人、と軽々しく言ってしまうのは、支えられる側の画家として不愉快だった。


 『ギャラリーひらかわ』の展示スペースの最も奥まった場所に、縦220センチ、横170センチの大作、『桜の偶像』が掛けられていた。


 早智にとって『桜の偶像』との対面は二回目だった。一回目は、完成したばかりの時に、愛人の特権で、喬平のアトリエで見せてもらった。前回も今回も、喬平の超絶技巧に、ただ圧倒されるだけだった。構図、筆致、色合い、すべてが完璧だった。


 喬平が取り入れたという早智の筆致を探してみたが、さっぱりわからなかった。他の作品と変わらない、いかにも喬平らしい筆致にしか見えなかった。


「綺麗なのはもちろんだけど、迫力があるね。ギャラリーのパンフレットの表紙になっているけど、実は本物見るの、僕初めてなんだよ。親父、絶対見せてくれなかったからなぁ」


 『ギャラリーひらかわ』では、『桜の偶像』を非公開にしていた。劣化を少しでも避けるために、普段は保管庫の中だった。


「さっちゃんが頼めば、親父、こんなにもあっさり出すんだね。びっくりしたよ」


「これは私の絵だからね」


 早智は呟いた。本当に私は、先生の芸術に取り込まれていたわけだ。


「そのこと、オーナーも知ってたんだね。さすがは先生の大親友ってところね」


「さっちゃんが高橋画伯の愛人だったなんてなぁ」


 明規が嘆くように呟いた。


 オーナーが『桜の偶像』の展示の準備をしている間に、早智は明規に喬平との不倫関係を、あっけらかんと話していた。夢子が知っているのなら、隠していても意味がなかった。


 平静を装っている明規だが、ショックを受けているのは明らかだった。恋愛慣れしていないからなのか、それとも男性は元々こういう話に弱いのか。


「アートスクール、凄く行きづらいよ。もう辞めたいくらい」


 早智は努めて明るく言った。


「受付スタッフや生徒に聞かれてしまったから?」


「まあね」


 頭の後ろで手を組んだ。


「いくら五年以上前の話っていっても、ああいう風に暴露されてしまったら、さすがに恥ずかしいよ。きっとこの話、すぐに面白おかしくスクール中に広まるんだろうな。その内、不倫講師に教わりたくないという女性生徒や、不倫講師に子供を預けられないという親が出てくるかもしれない」


「もし良ければ、親父に頼んでみようか」


「何を?」


「ウチのギャラリーで、さっちゃんを働かせられないかって」


 早智は首を横に振った。


「アートスクールみたいな給料、このギャラリーは出せないでしょ?」


「うーん……、厳しいな」


 明規は眉間に皺を寄せた。


「それにギャラリーに絵を買ってもらう側の画家が、ギャラリーで絵を売ってたら、おかしいでしょ?」


「……それもそうか」


 二人は少し笑ったが、ぎこちなかった。


「夢子奥様の依頼、本当に受けるつもり?」


「もちろん。そりゃあ、乗り気じゃないけど、仕方ないじゃない。末期癌患者の最後の願いを無視できないよ」


 早智の周囲には癌を患う者が多かった。喬平だけでなく、自分の母親までも癌で失っている。自分も将来癌にかかって死ぬだろう、と根拠はないが当然のように思っていた。


「しかし厄介にも程があるよ。この前、喫茶店でさっちゃんが言ってたこと、今は凄くよくわかる。こんな途轍もない桜の絵を見せられて、桜の絵なんか描けないよ。ひょっとして、これって復讐じゃないか。死ぬ前に、夫の不倫相手に無理難題を吹っかけて、いじめることで恨みを晴らそうとしているんじゃないのか」


「そうかもね」


 早智は深く溜息をついた。


「復讐なら、それはそれで向き合わないといけない。罪を犯したら、罰はちゃんと受けないと」


「ずるいかもしれないけど、適当な理由をつけて、制作をわざと遅らせて、奥様が息絶えるのを待つというのはどうかな」


「それ、本気で言ってる?」


 不快感をそのまま顔に表した。


「……もちろん冗談だよ」


「ひどい冗談ね。ずるいなんかじゃ済まないよ」


 早智の強い非難に、明規は気まずそうにうつむいた。


「もしそんなこと、本当にしたら、私、もう画家でいられないよ」


 画家でいられない。自分の言葉が、妙に引っ掛かった。画家でいられない。頭の中で何度か反芻してみた。


 そもそも私は、本当に画家なのだろうか。




「お父さん、おはよう」


 早智は少し甘えた声で言った。


 仕事が休みで、のんびりと起きてきて、ダイニングキッチンに入った早智の父、淳平は、別のところで暮らしているはずの娘がなぜここにいるのか、というような顔をした。


 早智が実家に着いたのは深夜だった。寝ている淳平を起こさないように、合鍵でこっそり入った。


「何か……、急にお父さんの顔が見たくなってね」


 早智が言った直後、チーン、とタイミング良く旧式のオーブントースターが鳴った。


 実家に帰ってきた、というよりは、東京から逃げてしまった。もっとも実家は立川市なので、厳密には東京都内を一時間ほど移動しただけなのだが。


 アートスクールで夢子と会ったのは一週間前。桜の絵の制作は、初期段階で行き詰った。いくら意気込んでも、大まかな構図すら思い浮かばなかった。


 描かなければいけない。何度も自分に発破をかけた。今はまだ健康そうな奥様だが、容態が急変することもある。奥様の命が尽きる前に、いや、奥様の意識が正常な内に、絵を完成させなければいけない。


 いたずらに焦りが募った。


 描かなければいけない。私は画家だ。絵を描かなければ、私に何の価値があるのか。


 追い込まれていった。


 絵なんか、もう描きたくない。


 ふとそう思ってしまった。自分の中で、何かが崩れたようだった。衝動的にアトリエを飛び出し、立川行きの電車に乗り込んでいた。


 早智が実家に帰ってくるのは、正月か、何かあった時だけだった。何があったのか、いつも早智は話さないし、淳平も訊かない。それが暗黙のルールだった。


 早智はオーブントースターからパンを取り出し皿に乗せて、淳平に差し出した。淳平は黙って受け取り、テーブルの自分の席に着いた。


「目玉焼きも作ったんだ。食べてね」


 早智はパンをもう一枚、オーブントースターに入れてから、目玉焼きが乗った皿と箸を淳平に渡した。


「白身が焦げてるじゃないか」


 淳平は目玉焼きの端を箸で摘み上げた。


「ちょっとだけじゃない。細かいこと気にしてたら、女性にもてないよ」


「この年になって、もてたいなんか思ってないよ」


 淳平が妻を癌で失ったのは、早智がまだ六歳の時だった。二十四年が経っているわけだが、淳平はずっと一人身を通している。


 淳平の再婚に対して早智は、小学生までは、絶対に嫌だ、と頑なに拒んでいた。中学生になると、そうなってしまえば仕方がない、とかなり軟化した。高校生の頃には、どうして早く相手を見つけないのか、と逆に苛立つようになった。今は、お父さんの気が済むようにすればいい、と静観している。


「料理の腕は相変わらずだな。そんなことじゃあ、男心を掴めないぞ。もう三十路だろ。そろそろいい人連れてきてほしいんだがなぁ」


 早智はオーブントースターのダイヤルを強引に戻し、チーン、とわざと鳴らした。


 喬平との不倫のことを、淳平は知らない。


 一生話すつもりはなかった。男手ひとつで大切に育ててもらったのに、体を汚してしまった、という後ろめたい気持ちは、どうやっても消えないだろう。


 娘の恋愛遍歴を、淳平は知らない。


 早智は話さないどころか、父親に恋人の気配さえ感じさせたことがなかった。娘はまだ処女だ、と勘違いしていても、決しておかしくはない。


 そして娘が恋愛する意志をなくしてしまったことを、淳平は知らない。


「なあ、早智。後で散歩でもしないか」


 淳平は口の中でパンをモゴモゴさせながら言った。


「散歩? お父さん、散歩なんか年寄り臭いって、前に言ったよね」


 早智は生焼けのパンと、自分の目玉焼きの乗った皿と箸を持って適当な席に着き、すぐに目玉焼きの白身を口に入れた。コゲが苦い。


「若い頃はな。でも今は立派な年寄りだ。娘なら介護してくれ」


「何が介護よ。まだまだ現役じゃない」


 淳平は今年で五十六歳。高橋喬平の死んだ年齢に追いついたわけだ。


「そうねぇ……。介護は嫌だけど」


 顔を淳平に近づけた。


「デートならしてあげる」


 ウインクした。淳平はパンをゴクリと呑み込んだ。


「父親をからかうな」




 実家は4LDKの二階建て住宅だった。隅々まで行き届いているわけではないが、それなりに掃除されており、男の一人暮らしの割には綺麗だった。


 朝食後、早智は一人で一階の居間にこもった。画材道具がたくさんある自分の部屋には入りたくなかった。淳平の前では何とか明るく振舞っていたが、一人きりになると自己嫌悪で気分が沈んだ。


 夢子の発するプレッシャーが強烈なのは確かだが、たった一週間で音を上げてしまった。制作をわざと遅らせて奥様が息絶えるのを待つ、という昭規の言葉を心の底から嫌悪したはずなのに、今ではそれを密かに望んでいる。


 どれだけ根性がないのか。どれほど甘ったれなのか。


 なぜ日本画家になったのか。それは美術大学の日本画科を卒業したから。なぜ美術大学の日本画科に入ったのか。それは高橋喬平に憧れていたから。ただそれだけでしかなかった。日本画家として生きる覚悟など、そもそもなかった。


 何と薄っぺらい人間なのか。そのような人間の絵を、誰が買い求めるのか。


 居間の中で、ひたすら自分を責め続けて、淳平に気づかれないように声を殺して泣いた。自分を追いつめすぎて、その内苦しくなってきた。このまま続ければ、気が狂ってしまうのでは、と自分で心配になるくらいだった。


 涙を拭いて、数回深呼吸をして、気分を無理に整えて、居間を出た。そして淳平を捕まえて、早く散歩に行こうとせかした。淳平は娘のやつれた顔を見て、すぐに了解した。


 二人が玄関を出たのは昼前だった。早智が子供の頃から慣れ親しんだ、近くを流れる川沿いの緑道に入った。並木のほぼすべてがソメイヨシノで、立川では有名な花見スポットだった。しかし緑の葉が茂っているだけの現状からは、有難味は微塵も感じられない。今の早智には、それがむしろ幸いしていた。


 早智は無言で緑道を歩いた。淳平も黙って娘に寄り添っていた。


 五月にしては日差しが強く、暑い。早智は無意識的に長袖を捲り上げていた。


 画家をやめるのか。やはり考えてしまう。筆を握りたくない。しかし筆を捨てる踏ん切りもつかない。絵を描かないのなら、東京にはもう戻れない。夢子を裏切ったまま、この立川で暮らすのか。こんな中途半端な人間を受け入れてくれるほど、立川は寛容なのか。


 客が来なくても潰れない喫茶店が、立川のどこにあるのか。


「アタッ」


 低い枝が早智の額を直撃した。


「ぼんやりしてるからだよ」


 淳平が呆れて言った。


「市役所がちゃんと剪定してないから、いけないんだよ」


 咎めるように枝を乱暴に引っ張った。


「あれ? これって、さくらんぼ?」


 淳平に見せた。


「そうだよ」


 淳平は当たり前のように答えた。


「ソメイヨシノって、さくらんぼができるの?」


「知らなかったか」


 早智は頷いた。


「ソメイヨシノだって、実くらいはつけるよ。植物だから」


 店で売られているさくらんぼと比べれば、かなり小さい。気にしなければ、気づかないのも無理はない。


 早智は一粒もぎ取って、強い日差しに照らしてみた。果実全体に広がる薄紅色は鮮明ながらも、中身が透けているかのような淡さも感じられた。


「綺麗……」


 思わず声が漏れた。色彩に心が動かされた。無邪気な感覚が自分の中に残っていたことに、素直に驚いた。


「ねぇ。これ、食べれるの?」


 まるで少女のように淳平に訊いた。気持ちが高ぶっている。


「どうかな。毒は入ってないだろう。見た目は、……まあまあうまそうだな」


「食べてみてよ」


 早智はさくらんぼを淳平に差し出した。


「えっ、俺が?」


「うまそうって言ったじゃない」


 淳平はすんなりとさくらんぼを受け取った。どうやら淳平も味に興味があったようだ。長袖で擦って埃を落とし、少しためらってから口に入れた。


「あ、うまい」


「本当に?」


 淳平はウンウンと頷いた。


「普通にさくらんぼの味がする。店で売ってるのと変わらない」


 早智はもう一粒もぎ取り、ポケットティッシュで丁寧に拭いてから、自分の口に入れた。異様な酸味と苦味が口の中に広がった。慌ててポケットティッシュに吐き出した。


「うわぁ、まずい。お父さん、ひどい。嘘ついたでしょ」


「えっ……、いやいや、嘘ついてないよ。確かにうまかったんだから」


 淳平は慌てて弁明して、自分でさくらんぼをもぎ取って、そのまま口に入れた。すぐに娘からティッシュをもらい、吐き出した。


「うわぁ、まずい」


 娘とまったく同じ言い方だった。それが妙におかしくて、早智はクスクスと笑った。


「そりゃそうだよな。ソメイヨシノがうまかったら、みんなで取り合ってるよな」


 娘につられて、淳平も顔を綻ばせた。


 早智はまた一粒もぎ取って、長袖で軽く拭いて口に入れて、すぐに吐き出した。


「まずい。あははははは。やっぱり、まずい」


 声に出して笑った。


「まずいのに、そんなにおかしいのか」


「うん。おかしい。凄くおかしい」


 先ほどまでの鬱の反動なのか、笑いがとどめなく湧き上がってきた。さらにまた一粒もぎ取って、淳平に渡した。


「えっ、食べろってこと?」


 早智は頷いた。淳平はキャンディーのように口に放り込んだ。


「うっ……」


 すぐに顔をしかめた。


 早智はさらに笑った。腹筋がちぎれるかと思うほど笑った。まずいものを食べて嬉しくなったのは、人生で初めてだった。




 緑道の散歩から戻り、淳平が昼食を作っている間に、早智は二階の自分の部屋に入った。すぐに押入れから一箱のダンボールを取り出した。中身は中学高校時代に描いた日本画の習作の数々だった。ベッドに座り、一枚一枚めくってゆく。


「へたくそだね」


 ぼそりと呟くと、気持ちが安らいできた。


 どれも未熟としか言い様のないくらいの荒い筆致だったが、眩しいほどの躍動感に溢れていた。


 思い返せば、あの頃は理屈なしに楽しかった。筆を持って、色を塗れさえすれば、幸せな気持ちになれた。上手く描くことは二の次だった。


 急に眠気に襲われて、ダンボールはそのままにして、ベッドの上に寝転んだ。


 大人になれば、そうはいかない。描きたいものを描きたいように描いて、それで生きてゆける画家などまずいない。理解していたつもりだった。しかし気づかない内に、心を消耗していたのかもしれない。いつからか、絵を描くことに何の感情も湧かなくなっていた。


 瞼を閉じると、高橋喬平の「桜」が目の前に広がった。渦を巻くように舞い上がる桜吹雪が、死ぬまで衰えなかった日本画への情熱が、早智を包み込んだ。


 先生は、やっぱり、凄いな。




 一時間の転寝から目覚めると、すっかり冷めた昼食を急いでたいらげ、それからまた一人で緑道に向かった。そして桜のスケッチを始めた。細筆と顔彩を使うのが早智流スケッチだった。線の太さや色の濃さを巧みに変えながら、対象の形や質を感覚的に掴み、自分のものにする。


 初夏の桜を、まずは遠目から眺めて、全体を大まかに把握する。それから幹、枝、葉、そしてさくらんぼと、細部を観察する。何も考えず、自分の描写力に任せて、素早く何枚もスケッチしてゆく。


 その内、描くべき作品の構図が、ぼんやりと頭に浮かんできた。さらにスケッチを続けていると、徐々に輪郭と色合いが鮮明になってきて、遂にはまるで目の前に作品があるかのように感じられるまでになった。


 日が沈んできて、色彩がわからなくなってきたところでスケッチを終えた。もう十分だった。実家に戻ると、淳平が待っていた。


「すっきりしたか」


 淳平が訊いた。


「まあ、ましにはなったかな」


「で、もう帰るのか」


「着替え、持ってないしね」


「今度来る時は、前もって電話くらいしてくれよな」


「どうして? 実家は旅館じゃないのに、予約がいるの?」


 娘の生意気な言葉に、淳平は後頭部を掻いた。


「やれやれ。まったく、一体、誰に似たのやら」


 その嘆きには深い安堵が滲んでいた。




 夜の電車で東京に引き返してきた。最寄駅の中板橋に着くと、まず閉店真際のスーパーに入り、食材を大量に買い込んだ。


 早智の住まいは、安アパートの二階だった。和式二間の内、玄関側の四帖半を寝室に、奥側の六帖をアトリエにしていた。つまり寝室を通らなければアトリエに入れなかった。


 制作は、翌日から取り掛かった。


 作品イメージは頭の中で完成していたが、それでも順調にはいかなかった。イメージ通りにいかない部分、イメージ通りではおかしくなる部分が少なくなく、修正を繰り返さなければならなかった。下図の段階で満足できるまで何度も描き直し、最高の色彩を見つけるために何度も試し描きもした。ひとつひとつのプロセスを丁寧に、我慢強くこなしていけば、必ず絵の完成に辿り着ける。不安な気持ちを抑えるために、そう自分に言い聞かせ続けた。


 外出は食材の買い足しに行く時だけだった。目が覚めたら描き始め、昼夜も天気も気にせず、眠くなったら寝室に入る。そういう生活を黙々と続けた。


 そうして、遂に初夏の桜を描き切った。


 制作中は一度も開けなかったカーテンを開けて、さらに窓も開けて、外の空気を胸一杯に吸い込んだ。日本画に日光は大敵だが、少しだけでも日光に照らして鑑賞したくなった。そうしなければ、この絵の本質がわからないような気がした。


 引き寄せられるように絵に顔を近づけた。強い日光のおかげで細かい筆致も手に取るようにはっきりとわかった。幹、枝、葉、そしてさくらんぼの中に発見したのは、『桜の偶像』の筆致だった。


 なるほど。


 すぐに窓を閉めて、カーテンも閉めた。先生が私から取り入れたのは、これだったのか。背中を壁につけて、その場であぐらを掻いた。


「へぇー、やるじゃない」


 ぼそりと呟き、満足そうに微笑んだ。


 会いたかった人とようやく会えたかのような安らぎだった。ほんのりと、青葉の爽やかな香りと、さくらんぼの甘い匂いを感じたような気がした。




 玄関のベルが鳴るのが聞こえた。肩がビクリと震えた。知らない内に、壁にもたれたまま眠り込んでいた。自分の感覚以上に疲れが溜まっていたようだ。


 せかすように再びベルが鳴り、ドアを叩く音まで響いた。早智はそれなりに慌てて立ち上がり、玄関に向かった。体が重い。


「どなたですかぁ」


 思ったより声が出ない。喉が痛い。


「さっちゃん、いるの?」


 明規だ。ドアを半分開けた。


「いるに決まってるでしょ。ここは私のアトリエなんだから」


「何だよ、その言い方は。こっちは心配しているのに」


 明規が怒鳴った。


「電話に出ないし、メールも返さない。どういうつもりだ」


 固定電話は持っていなかったし、携帯電話は鞄の中に入れっ放しだった。日本画の制作に没頭していたせいで、着信音にまったく気づかなかった。


 今日の日付がわからない。どれくらいの間、音信不通を続けていたのだろうか。


「ご、ごめんなさい」


 さすがに悪いことをしたと思った。


「さっちゃん、何があったんだよ」


「いや、何も……」


「何もないことはないだろう」


 早智は肩をすくめた。強そうには見えない明規だが、怒っている男性は、やはり怖い。


「女性に声を荒げるのは良くないわ」


 ドアの裏側から顔を出したのは、高橋夢子だった。宥めるように明規の肩に手を乗せた。


「野村さん、随分具合が悪そうね」


「い、いえ、大丈夫です」


 元気をアピールするつもりはなかったが、自然に背筋が伸びた。


「画商の連絡を無視するというのは、画家として褒められる行為ではありません。どうして連絡を返さなかったのか、貴方には説明する責任があります」


「本当に申し訳ないのですが、説明するにも、……ただ絵を描いていただけです」


「絵を描いていただけ?」


 昭規が不思議そうな顔をした。


「う、うん。絵を描いていたら、他のこと、全部忘れちゃって。本当にごめんなさい」


 早智は深く頭を下げた。


「そうですか。それは仕方ありませんね」


 夢子は温和と冷淡が入り混じった微笑を浮かべた。


「仕方ないんですか」


 昭規が困惑気味に言った。


「ええ、仕方ありません」


 夢子は毅然と言った。


「平川さん、これから画商として生きてゆくつもりでしたら、芸術家の気質をもっと理解するべきです。すべてを忘れて芸術に没頭できるのも、ひとつの才能なのです」


「はあ……、そういうものですか」


 どうも理解し切れないようだ。


「野村さん、私の期待に精一杯応えようとしてくれたのですね。嬉しいです。でも無理はいけません。健康第一です。不摂生で人生を駄目にした芸術家も少なくありません」


 早智は気まずくなった。完成したばかりの日本画は、夢子のために描いたものではなかった。確かに桜の絵には違いないが、青葉とさくらんぼばかりで、花びらは一枚も描いていない。


 頭が痛くなってきた。


「せっかく、ここまで来ましたから、その渾身の力作を鑑賞させて頂きましょう」


「ちょ、ちょっと待ってください」


 慌てて止めた。軽い吐き気まで感じる。


「部屋の中、汚いですし」


「そんなことは気にしません。ひとつのことに真剣に取り組めば、片づけなんかしていられないものです」


「あ、まだ、完成していないですし」


 咄嗟に嘘をつく。


「……途中ですから。見てもつまらないですよ」


「私を誰だと思っているのですか。私は高橋喬平の妻、夢子ですよ」


 知っている。夢子の顔と名前だけは、たとえ脳が壊れても忘れないだろう。


 背中に嫌な汗が滲んでいる。


「私も見くびられたものですね。真に価値のある絵画からは、制作途中でも素晴らしさが伝わってくるものです。それを見極める審美眼が私にないとでも?」


「いえ、いえ、違います。そういうことではありません。ごめんなさい。すいません」


 ああ、もう、このまま倒れてしまいたい。


「とにかく上がらせてもらいます」


 夢子が強引に早智を押し退け、中に入っていった。体を掴んで止めたかったが、夢子にそこまで失礼なことはできない。


 眼中にないと言わんばかりに、夢子は布団や下着が散らかる寝室を素通りし、アトリエに入った。そして畳に広がる花のない桜の絵を、しばらくじっと眺めていた。


「これで制作途中なんですか」


「……いえ、これで完成です。……先ほどは嘘をつきました。すいません」


「いえ、ほっとしました。これ以上筆を重ねると、質が落ちるだけでしょうから。しかしさくらんぼですか。確かに桜の花を描けとは言いませんでしたが、これは予想外でした。なるほど、これが貴方の導き出した答えというわけですね」


「すみません、奥様」


 早智は頭を下げた。


「未熟な私では、まだ桜の花は描けません。奥様の期待に応えることはできません」


「いえ、これで正解ですよ。期待に応えるどころか、期待以上でした。素晴らしい作品です」


 夢子の微笑から冷淡さが消えた。


「野村さん。私は貴方に謝らなければいけません。貴方に依頼する時、末期の癌を患っている、と言いましたが、嘘です」


「えっ?」


 早智より先に、昭規が驚きの声を上げた。いつの間にかアトリエにいた。


「どうして明規君まで勝手に入ってきてるのよ」


 早智は小声で言った。


「何となく……、自然の流れで」


「何が自然の流れよ」


 好意のない男性に、寝室に散らかる下着を見られてしまった。しかし相手は曲がりなりにも担当画商で、わざとではなかったが連絡を無視し続けた負い目もあるので、出ていけとは言えない。


「癌のことは咄嗟に思いついた、いわゆる口からでまかせです。ちょっと無理があるかと思いましたが、案外簡単に騙せるものなのですね。嘘をついたことは素直に謝ります。しかしその甲斐はありました。ようやく貴方が目覚めたようですから」


「……どういうことですか」


「野村さん。貴方は我が夫、高橋喬平が唯一才能を認めた弟子です。ということは、貴方が日本画家として大成しなければ、喬平には弟子の才能を見極める眼力がなかったと思われてしまいます。貴方次第で、喬平の威信にも傷がついてしまうのです。しかし貴方はいつまでも前に進もうとしない。日本画の精進に気持ちが入らず、アートスクールの講師などにうつつを抜かしている。ですから難題を吹っかけて、慌てさせて、貴方の本気を引き出そうとしたのです」


 早智は妙に納得した。独特だが、いかにも夢子らしい発想だと思った。


 夫のことを第一に考えて行動する。昔も今も夢子はそういう女性だった。たとえどれだけ浮気をされても、それはまったく揺らがなかった。そして喬平の方も、たとえどれだけ浮気をしても、夢子への信頼は絶対的だった。ある意味、完璧な夫婦だったのかもしれない。


 早智は初めて、ほんの少しだけ夢子に嫉妬した。


「まともな桜の絵なんか、正直なところ期待していませんでした。それどころか、どれほどの駄作を晒してくれるのか、ちょっと楽しみにしていました。それを散々に酷評して、貴方の鼻っ柱を折ってやろうと思っていました。しかし返り討ちに遭いましたね。貴方を見くびりすぎていました。野村さん、貴方は慢心せず、自分の画力を謙虚に受け止め、その上で自分のできることを最大限に発揮して、この素晴らしい作品を描き上げました」


 複雑な気分だった。褒められたのは嬉しいが、実際のところは、夢子のプレッシャーに追いつめられた挙句に逃げてしまい、実家近くでたまたま目に入ったさくらんぼに心惹かれて、ただ描きたくなっただけだった。


「ひとつ問題を出しましょう。桜の花が咲く季節はいつですか」


「……春です」


「違います」


 夢子の返答が速かった。


「まあ、間違えて当然でしょう。大抵の人間がそう答えるでしょうから。春はあらゆる生命が芽吹く、始まりの季節。ならば、桜の花が咲くのは春、というのは矛盾しています。どうしてあれほど儚いのですか。どうしてあんなに早く散ってしまうのですか」


 迫るように問いかけてくる夢子に、早智は戸惑うしかなかった。


「つまり桜の花は春の始まりではなく、冬の終りを告げているのです。いわば有終の美です。そして美しい花が儚く散った後、瑞々しい若葉が開く。その時こそ桜にとっての春が、一年が始まるのです」


 夢子の目がうっとりとしている。自分の言葉に酔っている。


「画家にとっての桜の花も同じことです。年齢と経験を重ねて、画家としても人間としても十分に円熟してこそ、ようやく描くことを許されるモチーフなのです。今の野村さんには、まだ早すぎます。青葉とさくらんぼがちょうどいい時期です。青葉が太陽の光を大いに吸収し、さくらんぼが栄養をたっぷり蓄えるように、貴方はもっと多くの経験を積まなければいけません」


 夢子は早智の肩にやさしく手を乗せた。


「少しずつでも、着実に進むことだけは忘れないでください。慌てる必要はありませんから」


 早智はしっかりと頷いた。神妙な気持ちになっていた。


「ところで、この絵の題名は決まっているのですか」


「いえ、まだです」


「そうですか。もし私が題名をつけるとしたら」


 夢子は早智を真っ直ぐに見つめる。


「やっぱり、『桜の偶像』以外にはありえませんね」


 夢子はいたずらっぽく笑った。早智の全身に染み渡る温かい笑みだった。思わず、お母さん、と言って抱きつきたくなった。


 夢子に母親の面影を重ねるのは、さすがに無理があった。そもそも六歳で死別した母親の記憶など、ほとんど残っていない。しかし夢子に母性を見いだしていたことは確かだった。それはずっと以前から、喬平と不倫している頃からだった。まるで母親を裏切っているような気持ちが、罪悪感をより強くしたのは間違いなかった。


 日本画家として頑張ってみよう。


 夢子の笑顔の前で早智は密かに決意した。今回は都合良く解釈してもらえたが、いつか奥様の期待に真に応えられるようになりたい。


 画家としても人間としても未熟なのはわかっている。高い壁にぶつかって、挫折しそうになることは、これから何度もあるだろう。しかし初夏の桜を描きながら、自分の目標も見つけられたような気がする。


 それなりに長く東京に住んできたが、画家として東京と向き合ってこなかった。東京を描きたい。東京の甘さも辛さもひっくるめて、芸術へと昇華させたい。


 そして年齢と経験を重ねて、いつの日か、東京に咲く満開の桜を描きたい。

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