喪失とはじまり
白い壁を切り取ったような窓の外は、いつの間にか空が高い。季節が変わりつつあるのだと知る。
「秋の空は、どうしてこんなに遠いんだろうか…」
病院の中は一年中変化がない。夏も冬も適度に暖かく、涼しい。この大きな窓が外の季節をわずかに病室の中に伝える。
昨夜、紬の隣のベッドの友だち柚月が亡くなった。高校3年生だった。同じ病気だ。5歳下で友だちの少ない紬を柚月はいつも気にかけてくれた。表情の少ない紬と違い、柚月はいつもニコニコしていた。
悲しみと、寂しさと、後悔と、不安、恐怖。
感情で頭がいっぱいになる。
(ゆづ姉も、空も、届かない。…遠いな。)
目の奥が熱くなるのを感じる。泣いてはいけない。今日は病院スタッフがやたらとこちらの様子を伺っているのだ。気づかれたくない。私は大丈夫だ。
ふと、目の端で何かが動いたような気がした。
その先を追いかけてみたが、そこには自分の影があるだけだった。
(またか…。何もいない。)
幼い頃から、こういうことはよくあった。霊感ではない。気持ちが大きく動く時、視界の端で何が動くのだ。
「私の影も悲しんでる、か。」
紬はブラインドを下ろし、ベッドに登る。傍らのテレビ台に目を向けると、そこには結月に貰ったお守りがあった。送り主がいなくなったのに、お守りだけは変わらずにある。
(「毎年、初詣はこの神社に行くんだー!行くと小さなお願いなら叶うんだよ!今年はまだ行けてないけど、退院したらお願いをしに行くんだー」)
そう結月が言っていたのを思い出した。《小さな》願いと言うところに、本当に叶えたかった願いは叶わなかったのだろうかと頭をよぎったが、言葉にはできなかった。そんな時でも柚月はニコニコ楽しそうだった。
なぜかそこに行かなければいけないような、そんな気がした。
目の端でまた何かが揺らぐ。
紬は、その影を今度は目で追わなかった。
夕方、今日の夜勤担当看護師の中村さんが顔をだす。
「紬さーん、入りますね。今日は体調はどうかなー?」
「…普通です」と答えると、
「普通か、よかった。」と中村さんは微笑んだ。
紬はこの体調確認が苦手だった。元気な日なんかない。元気じゃないから入院しているのに、体調を聞かれると「元気です」と答えないといけないような気がする。普段は「生きてます」という事実を返答するが、今日はその言葉も口には出来なかった。
「何かあったらナースコールしてね」と優しく声をかけて中村さんは出ていった。
誰も居なくなると、点滴のカチカチカチ…という音が嫌に耳につく。
昨日まではこの音がカーテン越しに隣からも聞こえた。日によってちょっとずれていたり、重なったり、裏拍になったり…。眠れない夜はその音を追いかけていた。今はひとりカチカチカチカチカチカチ…。
(なぜ、死ぬのはゆづ姉じゃないといけなかったのか。なぜ、明るくて優しいゆづ姉が病気にならないといけなかったのか。もっと悪い人はいっぱいいるのに。私の方が必要とされていない人間なのに。)不毛な考えが頭を巡って眠れない。
ある時、柚月の叔母だという女が言っていた。柚月はいい子で強い子だから試練を与えられたんだと。乗り越えられる試練を神様が与えたんだと。馬鹿な話だと思った。神様はドSなのか?誰だって元気に生きられる方がいいに決まっている。
あの時の満足気な女の顔を思い出して考える。病気か健康か、事故に遭うか遭わないか、長生きできるかできないか。そんなものは全部、運命ではなくて、《運》だ。誰だってなる可能性はある。誰がなるかも「分からない」。自分がなるかも「分からない」。でも、「分からない」は怖いのだ。だから、「神様に試練を与えられた」「選ばれし者」だなどと理由を与えるのだ。自分が納得するために、安心するために。
(嫌なことを思い出した。)
ため息をついて寝返りをうつ。
どこか他の部屋から、点滴の異常を示すアラームが聞こえてきた。
(そうか、他にもみんな生きてるのか)そう思うと同時に眠気が襲ってきた。
眠りにつく前に(ゆづ姉!ゆづ姉の代わりに必ず神社に行くよ)と心に近い、眠りに落ちた。