普通が羨ましくて
人生の半分以上をこの訳の分からない病気と過ごしている。転職したら?結婚したら?出産したら?人生の転機ごとにこの病気がもしかしたら治るかもしれないと期待し、常に裏切られてきた。
「書く」ことができないと心まで感染して思考が異常になってくる。もし車の運転中に事故でも起こしたら?事故に相手がいる場合、自分の連絡先を書いて渡さないといけないときもあるだろう。そのとき字が書けないと困るので安全運転に心掛けるようになった。万が一、家が火事にでもなったら?警察からの事情聴取で字を書くことがあるかもしれない。出掛けるときはガスの元栓や各コンセント部分まで納得がいくまで何度も何度も確認する。一体家を何度ぐるぐる回るのか。調べるとこれは強迫性障害というらしいが、元々私の性格で心の病気はあり得ない。すべて「書痙」が根本にあるから、枝分かれして出てきた心の病。止めたくても止められない思考と奇行がどんどん湧き上がってきた。もちろん新しいことになど何も挑戦できない。だって書けないんだから。やりたいことがあっても普通のことができない人間に挑戦など程遠い。いつもいつも書痙のせいにして諦めてきた。
冷静に考えると笑える。「書く」ことは特別なことじゃないのに、誰にでもできることなのにそれができないんだから。
緊張する場面や急かされる場面には特に脆い。
結婚式の宣誓書にサインをするときはもちろん書けるわけがないので、事前に書かせてもらって、本番は書いたふりをした。書いたふりなのに手が震えていた。そのときのペンが大きな白い羽でできた結婚式用のペンなので、まぁ震えてるのが目立つ目立つ。
旅行時、宿泊先にチェックインするときに名前やら住所を書かなければならない。フロントの前に立つと冷や汗が出ていた。だから旅行を心から楽しめたことがない。今はないトラベラーズチェックのサインさえ出来なかった。
友人の結婚式も記帳が恐くて参加できず。とっさに頭で憶えられずメモりたいのにできず。道が分からない人の前で地図を書いて教えることもできず。署名運動に協力することもできず。まさに、何もできずできず人生だ。
子供が生まれて保育園に通わせていた頃、よく写真販売があった。廊下にずらりと飾られた写真を見て、我が子の写る写真の番号を申込書に書くだけなのに。これから出社しなければならない焦りからか番号すら書けず。だから必要以上に朝早く出掛ける癖がついた。
なんなのだろう?私の人生って。「書痙」が人生すべてだった。いつもモノクロ。普通の人が羨ましくてたまらなかった。なんで普通に書ける人が悩みを持っているのかさえ不思議でならなかった。被害妄想などではない。これはまさに被害だった。