先輩は、たとえ地獄の底に堕ちようと
俺の後輩は、天才だった。
初めて後輩に野球を教えたのは、俺が小学三年生で、アイツが小学一年生だった時。物の試しでキャッチボールに誘ってみたら、アイツ、ドハマりしちまった。
それからアイツは一週間も経たないうちに、俺も入っていた地元の野球チームに入部してきた。
まだ一年生なのに、上級生のボールもバカスカ打ち返してた。
アイツには野球の才能があったんだ。
俺もそれが嬉しくて、アイツが活躍するたびに喜んだ。
当時の俺は、本当に素直だったんだなって思うよ。
俺は、プロ野球選手になるのが夢だった。
子供たちが憧れてくれるような、ヒーローみたいな投手になるのが夢だった。
だから、俺が中学生になって選んだ部活も、もちろん野球部。
けれど俺は、そこで現実を知った。
俺が少し気を抜けば、他の部員たちはどんどん上達していく。将来は俺と同じく野球選手になるのが夢って連中が、レギュラーの枠を奪おうと、いつも躍起になっている。
俺も皆に置いて行かれるのが、そして夢が潰えるのが怖くて、死に物狂いで練習した。朝から晩まで、来る日も、来る日も、練習に明け暮れたよ。
その時、思ったんだ。
俺たちの夢、プロ野球選手への道の争奪戦は、この時からすでに始まっていたんだなって。
中体連優勝を阻む相手チームは当然、俺の夢を潰そうとする敵。
そして、俺からレギュラーの枠を奪おうとするチームメイトたちも敵。
味方なんていない。
俺たちは将来の夢のため、この時からすでに潰し合いを始めているんだ。
俺が中学三年生になった時、アイツが……後輩がウチの部活に入部してきた。
アイツは、すごく楽しそうに野球をやっていた。
楽しむたびに、ますます強くなっていった。
楽しんで野球なんて、俺はもうとっくに忘れてたよ。そりゃあ俺も周りから天才ピッチャーなんて呼ばれたこともあったけれど、あれは努力しまくった末に身に着けた実力だ、俺はアイツみたいな、楽しみながら上達できるような、真の天才じゃなかった。
だから俺は、次第にアイツが憎くなったんだ。
俺はこんなに努力して苦労してるのに、お前はただ楽しんでいるだけで上達していく。なんでなんだよ、なんでそんなに不公平なんだよ、って感じでさ。
そんな俺の気持ちにアイツは気付かず、昔みたいに子犬のように接してきた。正直言って、ウザかったよ。
そんな風に思っていた俺に、罰が当たったのかな。
中学三年生の夏の大会で、偶然飛んできたピッチャー返しに反応し切れず、その打球が俺の右肩を破壊した。
医者からは、回復の見込み無しって言われた。
推薦の声をかけられていた高校からも、この話はなかったことにされた。
絶望した。
俺の夢、こんなにあっさりと終わるんだなって。
野球ばっかりで勉強もロクにしてなかった俺は、地元の低偏差値高校に通うことになった。
後輩は俺が去った後もバリバリ野球部で活躍して、神童とか呼ばれるようになっていた。二年生の時点でレギュラーに選ばれたらしい。
そんなアイツの輝かしい活躍を耳にした俺は、その耳を引きちぎりたくなるくらい苛立ったよ。どうして俺とアイツ、こんなにも違うんだよ、ってさ。
行きたくもない高校に通いながら。
ムカつく奴の活躍劇を聞きつつ。
将来に全く希望が持てず生きていく。
ああ、まさに地獄だ。
絵に描いたような負け組人生だったよ。
けど、人生って何が起こるか分からないモンだな。
俺が入った地元の高校は、なんか今年はやたらと野球部が気合いを入れているらしい。というか、もともと野球部は無かったのに、俺と同じ新一年生たちが野球部を創設し、甲子園優勝まで目指すとか言い出してるとかなんとか。
この新一年生ども、どこで噂を聞き付けたのか、中学時代に野球部で活躍していた俺のことも、そいつらの野球部にスカウトしようとしてきた。
俺は当然、断った。
当たり前だろ、右肩が壊れてるんだよ。
もう昔みたいな投球はできない。
できるならこんな高校なんか来てねぇんだよ。
そう言ってやると、新一年生どもは残念そうに、そして仕方なさそうに、俺のことを諦めた。
けど……ソイツらからその話を聞かされてからというもの、俺の胸の中がなんかモヤモヤするようになった。
ムカつくモヤモヤだった。
どうにかして解消したかった。
試しに野球ボールを持って外に出て、左手でボールを壁に向かって投げつけてみた。すると少しだけ、心がすっきりした。
もっと投げれば、そのぶん胸のモヤモヤが晴れていく。
もっと上手く投げようとすれば、さらにモヤモヤが晴れていく。
それで思ったんだよ。
俺は、まだ野球を続けたいと思ってるのかなって。
けれど今さら、改めて野球を始めたところで、できることなんてタカが知れている。ウチの高校の野球部には、あんなことを言ってしまったばかりだし。
だから俺は、野球がやりたいと思って胸がムカムカし始めたら、壁にボールを投げて解消するようになっていった。
そして、その場面を、よりにもよってあの野球部の新一年生たちに見られた。
「やっぱり野球やりたいんだろー?」
「壁当てなんてしちゃってー。やっぱり野球やりたいんだろー?」
「やっぱり野球やりたいんだろー? 略してややや」
連中から、口々にそんなことを言われた。
認めるのは癪だったけど、認めざるを得なかった。
それならウチに来ればいい、と新一年生たちは言った。
けど俺は、もう右肩じゃ投げれない。迷惑をかけるだけだ。
そう言ったんだが……。
そしたらソイツら、今みたいに左で投げればいい、なんて言いやがった。
俺が上手くなるまで待つから、なんて言って。
そこまで言われたら、俺も、もう逃げるワケにはいかなくなった。
必死になって左投げの練習をした。けれど左投げじゃ、どうしても右で投げていた時みたいな球速は出なかった。俺は中学時代、剛速球でのし上がったピッチャーだったんだけどな……。
けれど、諦めなかった。
左じゃ球速は出なかったけれど、指はそれなりに器用に動いてくれた。手首も割と柔軟だった。だから、変化球で戦うピッチャーを目指したんだ。
一年生、初めての地方大会は、コテンパンに負けた。
二年生の時もボロ負けだった。
それでも俺たちは、その敗北を糧に、どんどん強くなっていった。
皆が一丸となって、反省点をまとめ上げ、弱点克服に努めた。
三年生が本当の勝負だと励まし合いながら。
時に笑い合って。時に泣き合って。
いつの間にか、俺の、野球に対する暗い感情……夢を奪って潰し合うだとか、楽しそうに野球やってる奴が憎いとか、そんな感情は消えていた。俺もこの時は、心から野球を楽しむことができていた。だからだと思う。
そして、最後の夏が来た。
俺たち野球部は、最初とは比べ物にならないくらい強くなった。俺もたくさん変化球を覚えたぞ。フォーク、カーブ、スライダー、シンカー、そして必殺のSFF。この七色の変化球で、二年前、そして一年前に俺たちを負かした高校を、逆にコテンパンにしてやった。
俺たちは、とうとう甲子園出場まで行ってしまったんだ。
俺たちの甲子園、第一試合。
俺が投げたボールが、いきなり打たれちまった。
打線は、ピッチャー返し。
俺に何か恨みでもあるのか、俺の左肩に向かって真っ直ぐ飛んできた。
パシュッ、という音と共に、俺はそのピッチャー返しをキャッチしてアウトにしてやった。もう中学の時と同じ目には合わない。ピッチャー返しへの反応は特に鍛えまくったよ。
それから俺たちは、並み居る強豪校を打ち倒して、甲子園を勝ち進んでいった。無名だったはずの弱小高校がまさかの快進撃。観客たちのおったまげた顔は見ものだった。
そして、とうとう。
俺たちの高校は、決勝戦まで来ちまった。
しかも、何の因果か。
相手高校は、俺が進学するはずだったスポーツ強豪高校。
そして一番バッターは、あの時の後輩。
アイツは、とんでもない怪物バッターになっていた。
この甲子園での現時点での打率成績は、驚異の七割。
しかも、うち三割はホームラン。
アイツは、相変わらず楽しそうだった。
輝くような笑顔でバットを構え、俺の投球を待ち構えていた。
本当に、今でもお前には腹が立つよ。
俺はこんなにも苦労して、ここまで来た。
けどお前は、ここに来るまで、一度だって辛いと思ったことはあったか?
そこまで思って、俺は一回、深呼吸。
暗い感情を、息と共に吐き出した。
これは俺だけの戦いじゃない。ここまで一緒に来た皆がいる。
俺だけの勝手な感情、勝手な都合で投げるワケにはいかないからな。
けれど、それはそれとして、決着は付けよう。
お前は俺にとって、最愛の後輩で、最大の宿敵だから。
さぁ、試合開始だ。
才能が勝つか。意地が勝つか。
俺の投球、打てるものなら打ってみろぉッ!!