86 もしも
「それじゃあ、私、帰るから。また、明日、会いましょう」
ホテルの最寄り駅までわざわざ俺達を送ってくれたアーデル。彼女は笑顔ではないものの、柔らかな表情を浮かべてそう言った。時刻は既に20時を回っている。
「ええ、さようなら。今日はとても有意義な一日を過ごせましたわ」
「本当に明日、会えるよな? 今生の別れにならないよな?」
「な訳ないでしょ......とも、言い切れないわね。もしかしたら、私が帰り際に交通事故に巻き込まれるかもしれないし。私と会えるのが今日限りだったら、貴方はどうする?」
俺を試すような口ぶりでそう問い掛けてくるアーデルに対し、俺は人目も気にせずに抱きついた。
「......愛情表現がチセツね」
アーデルは大きな溜息を吐き、呆れた様子でそう言った。『それしかないのか』という失望の感情がその声からはありありと感じられる。
「じゃあ、愛情表現のレパートリーが少ない俺にこれ以外の表現を教えて下さいよ、アーデルハイドさん」
「......そうね。教えてあげる。その前に一旦、抱きつくのやめて」
「はい」
「......私の目を見て」
俺の耳元で彼女は囁くようにそう言うと、俺の顔を静かに見つめ、可愛らしい笑みを浮かべた。無表情なアーデルの滅多に見せない笑みに見惚れていると、彼女はそのまま俺の背中に手を回し、俺を抱き寄せた。
「おおっ!?」
「......愛してる」
更にニコリと笑ってそう言ったかと思うと、彼女は俺に見惚れる暇を与えず、俺の唇に口付けをしてきた。
「ななななっ!? なあああっ!? 貴方達、友達の目の前で何をやっていますの!?」
「ごめんなさい。でも、このためにケイを連れてきてくれたんでしょう? ありがとうね、ヴィクトリア」
呆然とする俺を抱きしめながら、彼女は抗議するヴィクトリアにそう言い返し、彼女のことも抱きしめた。
「ひゃうっ、ちょ、アーデルハイド!?」
更に彼女は再び、俺の方を向いたかと思うと、俺の唇に人差し指を当ててウインクをした。
「前回も私が貴方を押し倒してキスをしたし、今回も仕掛けたのは私......貴方はいつになったら私に勝てるのかしらね」
「もうずっとこのままで良い......」
「それじゃあ、つまらないわ。頑張って。......電車来たから私、行くわね」
彼女は俺へのトドメとばかりにもう一度、ウインクをすると、足早に電車へと乗り込んでいった。
「あっ......ああっ......あははっ......」
「......ちょっと、五六、大丈夫ですの?」
「いや、ちょっと、動悸と息切れと目眩と頭痛が」
「大丈夫じゃないですわねこれ。私も急にアーデルハイドに抱き付かれてビックリしましたわ」
「何か、アーデル、ドイツに行ってる間に可愛くなり過ぎじゃないか」
「全く、今日は色々ありすぎて疲れましたわ......。もう寝ましょう、ううっ、寒いですわね」
「冬のドイツ、それも夜だからな。アーデルのことで頭がいっぱいだったせいで忘れてたけど、普通に肌が裂けるほど寒い」
ミュンヘンはドイツの中でも南部に位置する都市なのでさほど寒くないだろう、という俺の考えは非常に甘かった。実際のミュンヘンは余裕で最低気温-8℃を叩き出す極寒の地であったのだ。
「いや、マジでそれなですわ。アーデルハイドと別れてから急に寒さを思い出しましたわ......」
「イギリスはこんなに寒くないのか?」
「少なくともロンドンは神奈川とかと大して変わりませんわよ......ううっ、西岸海洋性気候ですし、ああ寒っ」
「暖かい飲み物でも買いたいところだが自動販売機があんまり無いし、スーパーも20時には閉まってるしで色々とキツイな」
「ホテルのセルフサービスの紅茶でも飲みますわ......」
⭐︎
その日は自室に帰ってからも夜遅くまでヴィクトリア、そして、アーデルと電話で話していた。
『にしてもドイツって、コンビニとか24時間営業の店がほぼないのですね。夜遅くにお菓子とか買いに行けないからダイエットに最適ですわ』
『ポジティブな捉え方ね......ドイツにいるときは何も感じなかったけれど、日本での暮らしに慣れると不便で仕方ないわよ。日曜日はほぼ全ての店が閉まってるし』
「何それ初耳なんだが。え、明日、店閉まってんの?」
『ええ、閉店法ってのがあってね。特にバイエルン州はそれが厳格なの』
『待ってください。私達、明日、何処でご飯食べれば良いんですの』
『飲食店とか薬局とかは普通に空いてるから安心して』
『ああ、そうなんですか。安心しましたわ』
『早く深夜のコンビニにチキンを買いに行きたいわ......』
スマホの向こうでアーデルは大きな溜息を吐いた。まだ、ドイツに来てから二日しか経っていないが、俺も既にホームシック気味になっている。ソ連のなのですを聞きたい。
『そういえば五六、アーデルハイドがドイツに残ると言って、貴方を拒絶したらどうするつもりでしたの?』
不意にヴィクトリアがそんな問いを俺に投げかけてくる。俺は一人、ベッドの上で心臓がキュッと締まる感覚を覚えた。
『それ、私も気になっていたのよね。どうする気だったの? ケイ』
アーデルも興味津々という風な感じで聞いてくる。
「......いやあ、ええっと」
決して有り得なくはなかったその可能性に俺は今日の今日まで目を背けてきた。考えたくなかったし、考えても答えが出ない気がしたから。だから、その問いに対する答えを俺は持ち合わせていない。
『因みに考えてなかったは無しよ。考えてなかったなら今、考えて。因みにここで何と答えるかで私の貴方への好感度が大きく増減する』
アーデルは俺が言葉に詰まっている様子から何かを察したのか、そんな風に牽制をしてきた。怖い。
『因みに無回答の場合、実際に私がドイツに残るから』
『え』
『アーデルハイドってケイには結構、理不尽なことを言いますわよね』
『愛ユエのことよ。早く答えて』
俺は『はーい......』と相槌を打つと、数十秒沈黙し、軽い溜息を吐いて口を開いた。
「勿論、アーデルの気持ちを最優先に考えるが......一回だけ、『戻ってきてくれないか』って頭を下げると思う。アーデルからすれば迷惑だろうけど、そうしないと俺の気が済まないと思う」
アーデルがどんな答えを欲しているのかを推測することはせず、ただ、素直に考えたことを言葉にした。
『ふぅん......面白味の欠片もない答えね。ケイらしいけど』
「因みにどうするのが最適解だったんだ?」
『強引にキスしてお前にキョヒケンねえよ、みたいなの』
「それ、俺にされて嬉しいか?」
『そこそこ』
「あ、嬉しいんだ......や、でも、やっぱり、俺には無理にアーデルを連れ帰ることは出来ないな。不満を抱えたアーデルを連れ帰っても仕方がないし」
『はああああ......』
『ふぇあ、ビックリした。何ですのそのデッカい溜息』
ヴィクトリアが変な声を出して驚いてしまうほどの大きな溜息をアーデルが吐いた。電話越しでも、アーデルがすこぶる不機嫌な表情をしていることがよく分かる。
『私はケイのこと、沢山知っているのにケイは私のことを何も理解していないのね。シツボウした』
アーデルは冷たい口調で俺を軽蔑するように言う。
「なあ、ヴィクトリア、俺何か変なこと言った? 無難なことしか言ってなくない?」
『知らんわ。巻き込むな』
『仮に私が本当にドイツに残りたいと思っていたとしても、貴方に無理矢理、日本に連れ戻されるのなら本望だった筈だわ』
「......それってどういう?」
『ケイって変なところ鈍感よね。本心からドイツに残ることを願っていても、貴方に連れ戻されるなら私は幸せだって言ってるのよ。だって、それって貴方が私を望んでいるってことでしょう? 自分の拘りよりも、貴方の愛の方が大切』
「......つまり、アーデルは俺のことが大好き?」
『そうよ。前々から言っているじゃない。貴方の為なら大抵の物は捨てられるわ』
やはり、彼女に俺が勝てる日はやってこない。そんなことを悟ってしまった。




